トウメイノチカク
§4 ユクムスナ③「七海」
彼の真っ直ぐな視線に七海は居住まいを正した。ベッドに並んで座る七海と向き合うように彼は躰を僅かにひねる。あまりに真剣な彼の目を見て、七海も同じようにできるだけ彼と向かい合うよう躰の向きを変えた。
その時、何気なく見下ろした自分の姿を見て、七海は急に情けなくなった。動きやすさを優先したカーゴパンツとワークブーツ、シンプルすぎる長袖のカットソー。全身黒尽くめ。着替えも全て似たような服ばかり。髪は後ろで一つに結んだだけ。しかも黒のヘアゴムのみ。
彼に会うとわかっていたらもっと女らしい服も持ってきたのに……せめてもう少し色を……考え始めると泥沼に沈み込んでいくようで、カットソーの袖口を軽く引っ張りながら七海は俯いた。
「少しじっとして僕のやることを見ていて」
顔を上げた七海の首元に彼は素早くほんの一瞬のキスをした。
それだけのことだった。
それだけのことなのに、七海は凍り付いた。全身から血の気が引き、小刻みに震える。悪寒とともに総毛立つような強い恐怖が七海の目を見開かせて息を詰めさせる。
「七海、大丈夫、ゆっくり息をして」
彼の声がやけにゆっくりと聞こえた。わけもわからず恐怖に震える七海が助けを求めるように手を伸ばしたのは、たった今七海の首元にキスを落とし、七海を恐怖に凍り付かせた張本人だ。
そっと、ゆっくり、彼は七海の反応を確かめながら、時間をかけて壊れ物のように丁寧に七海を抱き寄せた。
「なん、で……」
「これが平気になるまで、記憶は戻せないかな」
彼の腕の中には何ものにも代え難い安堵がある。それなのに、彼に触れられた首元は今も凍えたままだ。恐怖を浴びた躰は一向に震えを止めない。
「何が、あったの?」
「七海の血を抜かれたって言っただろう?」
薄い青に紫が透ける彼の目は、痛みを堪えるように七海を見下ろしていた。
「僕の油断から、首をね、噛まれたんだ」
彼の手がキスを落とした七海の首元をそっと押さえる。触れられることには恐怖どころかなんの抵抗もない。彼の体温が恐怖をゆっくりと解かしていく。
「七海の血はほんの一滴で僕たちのマニ、つまり力を一時的に底上げする。でも、それ以上を一度に摂取すると、」そこで一旦止めた彼は、軽く息を吐き、思い切るように言った。「狂うんだ。七海は目の前でそれを見てしまった。そのうえ、僕が、そいつを消してしまったから……」
自分に起こったことを話されているのに、七海には他人事のように聞こえた。何かの感覚が蘇ることもない。話の内容に驚きはするし、痛そうだとも、そんなことが、とも思うのに、それが自分の中にあるはずの感覚と合致しない。余程厳重に記憶が保護されているのか。確かユカもそんなことを言っていたような……。
彼についての感覚は些細なことで蘇るのに、今の話からは何も感じない。おそらく彼もそれがわかっているから七海に話したのだろう。
「人を消して、あなたは平気なの?」
七海が最初に気にしたのは消された人よりも消した彼の方だった。
「平気。僕たちは……おそらく七海が思うよりも命に対する感覚が希薄なんだ。いわゆる社会的にも僕の方が等級が上だったから、なんの問題もない」
「等級が高いと、人を、その、消しても罪にはならないの?」
「罪にはならない。そもそも、人が人を裁くことはない。裁くのはコアであって、人ではないんだ。僕のしたことがモラルに反していたなら、その時点で僕も消えている」
「コアって……あの、ユカのこと?」
「いや、彼女はコアの外部器官というか……。コアは、僕たちの中に流れるマニの源というか、マトリクスというか……なんだろう、何度訊かれても上手く答えられないな」
彼自身もよくわかっていないのか、説明が覚束ない。七海にとってはコアが何かもわからない。
「ねえ、あなたは何者なの?」
「ああ、そうか、そこからか。僕たちは君たちがいうところの地底人だ」
到底信じられないことなのに、ああそうだった、という納得に近い感覚が七海の中にあった。
「私たちが地上に住んでいるのと同じで、あなたたちは地下に住んでいる、それだけの違い?」
「そう。同じ人間であり、地上人はある意味僕たちの亜種なんだ」
「人の起源はあなたたちの方が先ってこと?」
「そうなるね。僕たちは初めから地下にいたし、どれほどの歳月をかけても地上に知的生命体は生まれなかった」
「待って、それって私が聞いてもいいこと?」
人類の起源は未だ諸説あり解明されていない。それをごく当たり前のように説明され、七海はまるでタブーを犯している気になった。
「別にいいんじゃないかな。僕たちにとっては当たり前の事実だから」
平然と彼は言う。
「私たちにとっては当たり前じゃない」
七海の喘ぐような訴えは彼から薄い笑みを引き出した。
「ああ、まあね。君たちは自分たちより上位の存在を神と思い込むことで自分たちの優位性を保とうと必死だから」
彼の嘲るような言い方には、それ以上に強い哀れみがこもっていた。
「あなたたちにとって私たち地上に住む人間ってどんな存在?」
「そうだな、正直に言えば大部分は取るに足らない存在ではあるかな。僕のように地上の人間としかマニの交換ができない者にとっては、その相手と周辺の人間以外は、やっぱりどうでもいい存在、かな」
同じ人間だと彼は言った。ただし私たちは亜種であるとも彼は言った。言葉にはしない部分で、自分たちと同じ存在ではないと言っているようなものだ。それはまるで人種差別と同じような響きがあった。
「僕たちは君たちに対して絶対的な力を持つ。そのせいもあって君たちに干渉することは基本的に避ける傾向にある。無意味に干渉することは禁止されてもいる」
「簡単に消せるから?」
彼は曖昧な笑みを作った。
「邪魔になったら消す、邪魔にならない限りは干渉しない。それだけのことだよ」
窓の外はいつの間にか夕闇が押し寄せていた。
見慣れているはずの夕日はいつも以上に黄色から朱にかけてのグラデーションが映え、七海の心情とは裏腹に清々しさすら感じる美しさだった。
ドアの向こうから美帆の「七海ー、ご飯きたよー」の声がノックとともに聞こえてくる。
「一緒にご飯食べる?」
「僕の分もあるの?」
「ないけど……私の分を一緒に食べよ」
「そういえば、七海は小食だったね」
見透かされているだろうことはわかっていた。自分勝手な願いだとわかっていても、あの二人を彼に紹介したかった。七海を大切に思ってくれるなら、七海が大切にしているあの二人も同じように大切に思ってほしかった。
「少なくとも増田 美帆さんは七海の親近者として登録してある」
彼の口から見透かしたような回答が苦笑いとともにもたらされた。
「コマくんは?」
「現状では何も。彼女と婚姻関係になれば保護対象となる」
「保護って?」
「勝手に消してはいけません、ってことかな」
私たちはそこまで簡単に消してしまえる存在なのか。
「どうやって判別するの?」
「僕たちにしかわからない色が付く」
「どこに?」
「どこにって……そうだな、その人が持つ、なんだろう、存在感みたいかものかな。単純に僕たちと間近で接している人にはその色が移りやすいんだ。そのままにしていれば自然と保護対象になる。ああ、色って言うからわからなくなるのかな、うーん、その人が持つ揺らぎとか雰囲気とか匂いみたいなもの?」
ドアの向こうから「七海ー、寝てるの?」と聞こえてきた。
「今行くー」
声を張り上げながら七海は彼を見た。
「七海が心配するようなことにはならないよ。基本的に僕たちはこちらに害がない限り干渉しないから」
裏を返せば何かしようものなら消されるということだ。死体なき殺人。ミステリーの中に迷い込んだみたいだ。
「いずれにしても増田さんには近いうちに挨拶するよ。七海はご飯食べておいで」
「あなたは?」
「僕は……なんとでもなるから」
子供じゃないんだから大の大人に食事の心配は不要だろう。そう思いつつも七海は眉を寄せた。
「ちゃんと食事らしいを食事してね」
「七海は……いつも同じことを言うね」
情けない顔の彼が笑う。なんとなくそんな気がした七海の指摘は、彼にとっては耳が痛いことだったらしい。
和室の大きな座卓にずらりと並ぶのは海鮮会席だ。刺身に焼き物、煮物に粗汁、炊き込みご飯まで全てが海鮮尽くしだ。
「ねえ、この料理込みでこの部屋が二万?」
美帆のあからさまな不審の声に七海は誤魔化せないことを悟った。
「本当は部屋だけで一人二万。レストランじゃなく部屋でご飯食べたいって言ったら一人二万の会席コースしかないって言われて……」
事前予約が必要なところを無理を言ってお願いしたのだ。給仕もできるだけ断り、全てを一度に持ってきてくれるようお願いもした。我が儘な客だと七海自身も思う。
「会わせて四万?」
大志の驚愕の声に七海が決まり悪く頷く。
「二人には心配もかけたし、ちょっとくらい贅沢してもいいかなって」
「ここで一気に十二万の出費は痛いよ」会計係の美帆が渋面で呟く。
「でもほら、お金はあるし……」
「あれは七海に対する賠償でしょ。こんなところで贅沢してないで将来のためにとっておきなよ。あっという間になくなっちゃうよ」
「そうだけど……」
「あぶく銭は身に付かないっていうからなあ」
大志が、まあまあ、と二人の間を取り持つ。
「賠償金なんだからあぶく銭じゃないでしょ」
「でもほら、私ぴんぴんしてるし……」
「それは結果論!」
「美帆やコマくんに心配かけた賠償でもあるし……」
そうかもしれないけど、と美帆は渋面のまま七海をきつく睨め付けた。
「ほら、返品できるわけじゃないんだから、とりあえず食べようよ。刺身の鮮度が落ちる。深津屋、ゴチになります」
大志が手を合わせ、早速とばかりに刺身に箸をつける。それを呆れながら見ていた美帆も、大志の言うことに納得したのか「いただきます」と七海に向かって手を合わせた。
食事を終え、お風呂に入ってくると七海は席を立った。想像以上においしい食事と予想外においしい地酒はともに二十歳にしてすでに酒豪である美帆と大志をご機嫌にさせた。
食事の間も気が気でなかった七海は、部屋に戻るとちゃんと彼の姿があることに安堵した。待っている間に眠くなったのか、ベッドに俯せる彼の背中は穏やかな呼吸で波打っている。起こさないよう静かに着替えを用意し、展望風呂に向かう。
部屋付きのお風呂はよく見るシステムバスだった。展望風呂はいわゆる家族風呂で、広々とした浴室は檜の香りと湯気で満たされていた。大きく取られた窓の外は残念ながら暗闇だ。
東京湾に浮かぶ漁り火が夜霧に霞みながら細かに揺らぐ。
地図で見れば小さな湾なのに、宵闇の中に沈むと果てしなくどこまでも広がっているように見える。
糸のように連なる明かりは対岸の房総か、それとも横須賀辺りか。窓がどの方角を向いているのか七海にはわからない。
こんな時でもなければのんびり湯に浸かっていたいところだ。
七海は手早くかつ丁寧に全身を洗い、湯船に浸かる。どこかで浄化されているのか、それとも美帆がざっと汚れを流してくれたのか、二人が入った後にしてはお湯は澄んでいた。それとも躰を洗って入ればお湯は汚れないものなのか。誰かと湯船を共有したことのない七海にはわからない。美帆が言うには父親や兄の後だとお湯が僅かに濁るらしい。美帆の家にお世話になっている間中、七海は一番風呂をいただいていた。七海の家では使用後はお湯を抜いて湯船を洗ってから出るよう言われており、お湯を共有したことはない。
七海にとって、家族や家庭といわれて思い浮かぶのは、美帆の家のことだった。
熱めのお湯に肩まで浸かると、細く長い息が自然と洩れる。
胸がぴりっと痛んだ。彼と会ったせいなのか、また胸が張っていた。
これが発情というものなのか、七海は躰の変化を持て余していた。彼と繋がりたいという思いが強い。躰の奥がざわめく。
これ以上お湯に浸かっているとのぼせそうで、七海は急いで浴室を出た。急に不安を覚えたせいでもある。彼は本当にまだ部屋にいるだろうか。
脱衣所で最低限のスキンケアだけし、急いで着替えて部屋に戻る。途中、和室で仲良く地酒を飲み比べている美帆と大志に「おやすみ」と声をかけ、足早に部屋のドアにたどり着く。
いざとなると尻込みしそうになる。もし本当にいなかったら……そう思うと怖くてドアが開けられない。
ぐるぐると思い悩む七海の背後から声がかかった。
「ねえ、悪いんだけど、ちょっと付き合ってもらえるかな」
七海が振り返った瞬間、七海の周囲がぐにゃりと歪んだ。咄嗟に叫んだ「ベルク!」が何を指すのかもわからないまま、視界は白に染まった。