トウメイノチカク
§4 ユクムスナ②


「七海!」
 美帆の鋭い声が七海の耳を打った。咄嗟に彼の躰から離れようとして、それでも逃がすまいとする七海の無意識は再び彼の腕をひしと掴んでいた。
 そんな七海の咄嗟の行動に、彼は少し驚いたように目を見張り、そしてせつなそうに顔を歪めた。
 全速力で七海のもとに駆け寄ってきた美帆はこれでもかと目をつり上げていた。その後ろに大志も続く。
「また一人でぼーっとして! 危ないって何度言ったらわかるの! 七海女の子なんだよ!」
「え? 一人じゃ」ない、と言いかけた七海の頭上から密やかな声が降ってきた。「彼らには見えてないから」
 思わず七海は彼を見上げた。彼が困ったように笑う。
「そばにいるから」
 不意に彼の姿が掻き消えた。彼の腕を掴んでいたはずの手が空を掴み、今まであったはずの気配すらなくなっている。
 途端に七海は強い喪失感に襲われ、躰の力が抜けそうになる。
 小さく悲鳴を上げた美帆が慌てて七海の腕を支えた。
「七海、大丈夫?」
「だいじょ……」大丈夫と言おうとして、七海は頬を伝う涙に気付いた。「あー、ごめん。なんか情緒不安定かも」
「それ自分で言うか?」
 大志の困った顔に七海は申し訳なく笑った。
 美帆が差し出すティッシュで目元を押さえる。押さえても押さえても涙は止まらず、ついに七海は笑い出した。
「深津屋、大泣きしながら笑うなよ。ちょっと怖いって」
「ごめん、自分でもなんかわかんなくなってきて」
「今日はもうホテルに行こう。七海、少し休んだ方がいいよ」
 時間を確認した心配顔の美帆に、七海は力なく頷いた。



 チェックインしたロイヤルスイートルームはそれはもう広々としていた。外資系ホテルのようなゴージャスさというよりは日常の延長にある贅沢といった感じで、ベージュピンクでまとめられた室内は目にも優しく落ち着いた雰囲気だ。
 どこか和を思わせるのは、元は旅館だったのをホテル風に改装したからだと案内してくれた仲居さんが教えてくれた。和装の仲居さんが和モダンな雰囲気とマッチしている。
 ベッドルームは二部屋。それぞれにバストイレが付き、ベッドはダブルサイズのツイン。広々とした十二畳もある和室に、窓の外に太平洋が一望できる部屋付きの展望風呂まであり、簡易キッチンに洗濯機までついた、長期滞在も視野に入れた造りになっている。
「これで二食付き二万は贅沢かも」
 ソファーに深々と腰掛ける美帆が満足そうに笑う。大志は早速とばかりに展望風呂に向かった。

「で? 何があった?」
 美帆はソファーに沈んでいた躰を起こしてすっと背を正した。その向かいに座っていた七海も背もたれから背を起こし、彼女と向き合う。
「なんでわかるの?」
「そりゃね。七海があれだけ感情を乱すことなんて滅多にないから。大志もびっくりしてたでしょ?」
 びっくりというよりは困惑が正解だろう。
「コマくん、なんか気付いてる?」
「根本的なことは何も。ただ心配はしてる。今の七海、心ここにあらずだから。そのくせいきなり大学辞めたり大胆なことするから目が離せない」
「ごめんね」
「謝らなくていいから」
 美帆の声は優しかった。心配していることがストレートに伝わってくる。
「会えたの」
「七海が好きになった人に? え? さっき?」
「さっき。美帆たちが来る直前まで」
「どんな人なの?」
 どこまで話していいのか七海は悩んだ。彼は間違いなく普通の人じゃない。
「色が白くて、背が高くて、細身で、困ったように笑う人」
「なにその弱そうな感じ」
 美帆は容赦なかった。
 美帆は筋肉質でがっしりした体型の男らしい人が好きだが、七海はその逆で細めのすらっとした柔らかな感じの人が好きだ。ただし、お互い押しの強い人が苦手なので、外見のタイプは真逆でも、内面のタイプは似通っていた。
「ってかそういうことじゃないから。日本人じゃないんでしょ、どこの国の人?」
 美帆がじれったそうに身を乗り出してくる。
「さあ。思い出したわけじゃないから」
「思いだしたわけじゃないのに、その人が好きだってわかったの?」
「わかったんだよね。不思議だよね」
「なに他人事みたいに言ってんの!」
 苛つきを隠さない美帆に七海はへらりと笑ってみせる。美帆の顔が引き攣った。
「つまり、七海もよくわからないってことね」
「そんな感じ」
「なんで会ったの? 偶然にしては出来過ぎじゃない?」
 今まさに七海が言おうとしていたことを美帆に先回りされた。それでも一応言う。
「偶然だと思うけど……」
 そういえばユカは「探した」と言っていた。あれもどういう意味だろう。そもそもユカの話は七海の理解を遙かに超えていた。
「まさか、本当にストーカーじゃないよね」
 念を押すように訊かれ、七海は口を噤んだ。
「ちょっと、そこ大事だから。ストーカーじゃないよね」
 もう一度念を押された。
「ストーカーではないと思う」
 七海が認識しているストーカーとは違うはずだ。近いものはあるかもしれない。彼の言う「そばにいる」の意味があまりにざっくりしすぎていて七海にもよくわからない。好きでもない人に言われたら鳥肌モノだが、そこはまあ、七海が黙っていればいいことだ。
「あやしい」
 あからさまに訝しむ美帆を誤魔化すのは一苦労だ。
「私もよくわかってないから……」
「七海、騙されてないよね?」
 美帆がさらに身を乗り出した拍子に、二人の間にあるローテーブルに彼女の膝が当たり、ガツっと小さな音を立てた。
「大丈夫?」
「大丈夫。ちょっと痛かったけど」
 顔をしかめた美帆が手のひらで膝を押さえる。痛そうだ。もう一度「大丈夫?」と声をかける七海に、美帆は「うー……じわじわ痛い」と唸っている。
「その人、私には連絡することが出来るって言ってた人なんでしょ?」
 膝をさすりながらも美帆の質問は続く。
「たぶん。思い出したわけじゃないから違うかもしれないけど……でもたぶんそうだと思う」
 リビングのドアが開き、Tシャツにハーフパンツ姿の大志が「気持ちよかったー」と顔を出す。湯上がりの上気した顔はさっぱりしている。
「コマくん部屋着持ってきてたの?」
「深津屋持ってこなかったの?」
「美帆持ってきた?」
「もちろん。七海持ってこなかったの?」
「旅館のイメージなのか、ホテルには浴衣の代わりにバスローブがあるものだと思い込んでいて。昨日のホテルにもバスローブなくて、変だなって思ったんだけど……」
 結局、昨日は裸のまま布団に入った。
「あのホテルの場合は一階に自分で取りに行くシステムだったんだよ。もう、いざというとき素っ裸で避難するはめになるよ」
 美帆が眉を顰めて現実的なことを言う。
「ここは浴衣用意されてたけど、私も大志も浴衣苦手だから。あー……部屋着ないんじゃ、七海は寝る前にお風呂入る?」
「そうする。美帆先に入っておいでよ」
「俺は夕食まで少し寝るよ。ああそうだ、先に洗濯機使ってもいい?」
 頷く七海に「さんきゅー」と言いながら大志は寝室に洗濯物を取りに行った。部屋に洗濯機が備え付けられていると聞いたので、荷物を全て部屋に持ち込んでいる。洗濯機は毎回クリーニングされております、と受付の人の機械的な声を思い出す。
「待って、私のも一緒に洗って」
 美帆が大志を追いかけた。二人は洗濯物を一緒に洗う仲なのかと、七海は改めて二人の関係の深さを知った。
 美帆は展望風呂に、大志と七海はそれぞれの部屋に移動する。



 七海が部屋のドアを開けると、窓際に彼の姿が見えた。バルコニーに通じる窓から海を眺める背中に、七海は野生動物を相手にするように音を立てずに注意深く近付き、シャボン玉に触れるような慎重さでそっと手を伸ばした。存在を指先で確かめ、手のひら全体で感じるはっきりとした存在感に七海は自ずと詰めていた息を吐いた。
「まだ信じられない?」
 ゆっくり振り返った彼が困ったように笑う。
「いきなり現れたり消えたり、錯覚じゃないかって……」
 もう自分は気が狂っているんじゃないかって──言えない言葉が涙に変わる。
「僕は七海を泣かせてばかりだ」
「私、泣く方じゃなかったのに」
 このところの七海は涙もろい。気付くと泣いている。あまりに情緒不安定すぎて、七海自身、自分の感情を持て余している。
「ごめんね。僕もよくわかっていなかった。ユクムスナの言ったことを調べてもらったら前例がなかったんだ。Ⅵ以上の等級でアルビナとブーズしたのは僕が初めてだった」
「ごめん、何一つわからない」
 ユクムスナがユカのことだとはわかる。その一方でユカが何者かがわからない。世界的に有名な歌手だというだけでも別世界の話なのに、おそらく彼女も普通の人間ではないのだろう。

 七海をベッドに座らせ、彼もその隣に腰をおろす。窓辺には肘掛け椅子とローテーブルが置かれていたにもかかわらず七海をそれより少し離れたベッドに連れてきた彼に首を傾げると、「あの椅子、座り心地がよくないんだ」と気まずそうに言われた。
「七海は僕たちにとってアルビナという存在で、僕とブーズ、つまり独占契約している」
「独占契約って?」
「僕だけのパートナーってこと。つまり、地上でいうところの配偶者なんだけど……」
 地上という言い方に引っかかりを覚えつつ、それ以上に七海を驚かせたのは配偶者という言葉だった。
「私って結婚してたの?」
 七海の声が上擦った。目を丸くする七海を、眉を寄せた情けない顔の彼が見下ろす。
「してたの。覚えてないだろうけど、七海は僕がいいって言ってくれたんだ」
 七海の中にすとんとその事実が落ちてきた。
「なんか納得した。結婚まで考えるほど好きだったんだもん、ただの好きとは違うよね」
 そんな存在を忘れてしまえば情緒不安定にもなるだろう。今もただそばにいるだけなのに心の底から安心している。
 七海は手を伸ばして彼の指先に触れた。長く繊細に見えるのに、触れると骨張った男の人の指だった。
「七海は手を繋ぐのが好きだよね」
 彼の指と七海の指がクロスする。
「私だけじゃないと思うけど……」
「僕たちにはパートナー同士でも手を繋ぐという習慣がないんだ。こうやって指を絡めて繋ぐのは七海に教えてもらった」
「手、繋がないの?」
「繋がない。僕らは腕を組む。手のひらはマニを使うときにバルブの役割を果たすからすごく重要な部位で、そうだな、急所といえば急所だから手のひらを合わせるって発想がないんだ。それこそパートナー契約のときくらいかな」
 それを聞いて慌てて離そうとする七海の手を彼の手が強く握った。
「七海と手を繋いでいると、僕は急所を預けてもらえる存在なんだって思える」
「よくわからないけど、私はそのマニってものが使えないから急所じゃないと思うけど」
 今気付いた、とでもいうように目を丸くする彼に、七海はつい笑ってしまった。
「マニって、消えたり現れたりすること?」
「原子を操る力だよ。僕たちは原子を操る力を持つ。その力の大きさを等級で段階分けしている。僕は七海と出会うまで地上に出られる最低等級のⅢだったんだ。それが七海とマニ、つまりエナジー交換したおかげで一気に最高等級にまで上がった」
「それがセム?」
「いや、(シャ)(セム)は人を超越した存在だから、さすがにそこまでは上がらない。ⅥとⅦはひとつ上の等級という意味ではなく別物だから」
「エナジー交換って、キスのこと?」
「いや、えっとなんだっけ、セックス、性行為のこと」
 あまりにさらっと説明され、七海は虚を衝かれたようにその言葉が頭に入ってこなかった。
「あの、私ってあなたとしかしたことないよね」
 ふと七海の脳裡に嫌な考えが過ぎった。
「したことないって言ってたけど……したことあったの?」
「ない、はずなんだけど……。私、記憶がない間、あなたとしてたんだよね。あなた以外としてないよね」
 不安からしつこく訊いてしまう七海を彼が訝しげに見つめる。
「何を心配してるの?」
「私、人に触られたくないってすごく強く思うの。それこそ拒絶反応みたいに。それって、何かされたからそう思うんじゃないかって思えて……」
「それはない」彼はきっぱり言った。「少なくとも僕と出会ってからの七海は僕以外とはそういう行為はしていない。七海自身、僕以外の誰かとエナジー交換することを嫌悪していた」
 その通りだ。七海は浮気を嫌悪し軽蔑している。そこまで知っているなら彼の言うことは間違いない。
「よかった。躰が今までと違う感じがして、そういう気配が残っていて、それなのに男の人に触れられるのがすごくイヤで、もしかしてレイプされたのかって考えると妙に納得できることばかりで……」
「僕との行為を強要だと思っていたのかな」
 ショックを受けたように彼が言う。
「違う!」七海は強く否定した。「もしそうだとしたらこんなふうに触れない。あなたにはずっと触れていたいって思うから……」
 繋がる手に視線を落とした七海は、指先に力を込め彼の手を強く握った。そのまま隣に座る彼に躰を預ける。自然と寄り添う躰が、何よりも雄弁に七海に語りかけてきた。離れたくない。
 顔を上げた七海の目に、泣きそうな顔で笑う彼が映し出される。
「七海は前も同じことを言っていたよ」
「きっと、あなた以外に触れられるのが嫌になったんだと思う。あなたにしか触れられたくないって思ったんだと思う」
 言葉にしたら、妙にしっくりきた。
「そう、きっとそうだ。あなた以外は嫌だったんだ」
 きゅうっと彼の腕の中に閉じ込められた。間違いない、と七海はもう一度強く思った。彼だけなのだと七海の肌が確信する。
「七海はいつだって僕が特別な存在だと思わせてくれるんだ」
「きっとあなたも、私が特別な存在だって思わせてくれたんだと思う。あなたといると自分が自分だって思えて安心するから。それってすごいことだと思う」
 かつてないほどの自己肯定感。はっきりした根拠など何もないのに、自分の存在が自分の中いっぱいに広がっていく。
 記憶にはないものの、七海は彼と一緒に生きていくことを決意した理由がわかったような気がした。