トウメイノチカク
§4 ユクムスナ①


 車ごとフェリーに乗り込む。初めての経験に三人とも子供のようにはしゃいだ。
 車中ではしゃぎすぎたせいか、三人が船内に躍り出るころにはすでに窓際の席のほとんどが埋まっており、仕方なく中央付近のシートに美帆を中心に景色が見えるよう並んで座る。
 フェリーが動き出した最初はよかった。次第に船の揺れが七海から航空機事故の記憶を引き出した。
「吐きそう?」
「大丈夫、そこまでじゃない」
 そう言いつつも七海の血の気は引いている。背中をさする美帆の心配そうな顔に、七海は笑って見せるも頬は勝手に引き攣っていた。
「事故の直前、これよりもずっと強く、上下に揺れたの」
 なんとか気を紛らわそうと、七海は頭に浮かぶことをそのまま口にする。
「胃が浮き上がるような感覚で、初めは信じられなくて、なかなか現実が受け入れられなくて……」
 背中にある美帆の手から伝わる温度が何かを浮かび上がらせる。
「誰かにしがみついていたような気がする」
「飛行機の中で?」
「うん。なんだか今、そんな気がした」
「七海が好きになった人?」
「そうだと思う」
「七海、一目惚れってしなかったのにね」
 美帆の声に微かに滲んだ感情はなんだろう。淋しさのような気がして七海は俯いていた顔を上げた。
「一目惚れ、だったのかな」
「一目惚れじゃない? ……ん? あれ? そういえば、七海からもらったメッセージ……」
 美帆がごそごそと鞄を漁り、スマホを取り出した。
「そうだよ、そうだよ、なんで忘れてたんだろう」
 美帆の指がスマホの上で忙しなく動く。
「あの日七海から届いたメッセージ、ほらこれ、『アップグレードしてもらえた』『ラッキー』『隣の席の人なんかいいかも』って来てる。隣の席の人だったんじゃないの? 七海の好きになった人」
 そうだ。離陸までは通信が可能で、美帆にメッセージを送っていた。間違いなく七海が送った文字なのに、その肝心の隣の人が思い出せない。
「乗客名簿捜せば見付かるんじゃない?」
「無理だよ。完全な個人情報だ」それまで黙っていた大志が口を開いた。「待てよ、事故当時は乗客の名前がアナウンスされてたから捜せば見付かるかも」
「探すのはビジネスクラスだけでいいんだよね、だったら、奇跡の生還の時に乗客名簿一覧がどこかのニュースサイトに載ってたはず」
 二人がスマホで検索し始めた。
 名前だけを見てもわかるだろうか。縦揺れに不安が上乗せされて、七海は吐き気に襲われる。
「日本人なんだよね?」
 何気なく美帆に訊かれ、七海はふと首を傾げた。
「日本人って、日本人?」
「何言ってんの? それとも外国人だった?」
 畳み掛けるように美帆に訊かれ、七海は混乱した。
「日本人じゃないかも。日本人って気がしない」
 大志が手を止め顔を上げた。
「だったら無理だよ。公表されてたのって日本国籍の乗客名簿だけだったし、外国籍なら公表されてないと思う」
「航空会社に問い合わせれば教えてくれるかな?」
「無理だよ。それこそ個人情報だ」
 二人の会話を聞きながら、七海はなんとなく自分の名前すら載っていないような気がした。
「ねえ、私の名前載ってる?」
「それが……、今見てるんだけど、七海の名前がないの。事故当時は載ってたのに、今見るとどこにもない」
 睨むようにスマホを見ていた美帆がはっとしたように顔を上げた。
「やっぱり七海の存在って隠されてる?」
 声を潜める美帆に七海は頷いた。
「そんな気がするよね」
「あの賠償金の額といい、なーんかありそうだよなあ」
 ミステリー好きの血が騒ぐのか、大志が唸る。大志のミステリー好きが美帆に伝染し、それが七海にまで伝染した。
 ふと何かが七海の頭をかすめた。
「惨殺にいたる思考」
 唐突に思い浮かんだタイトルに七海は首を傾げた。
「あのエグい小説?」
「そう、なんとなく覚えているような……」
「七海が読んでたの?」
「まさか。あれすごくエグかったから一度で十分……」
 なんとなく意外な人が読んでいたような気がする。やはり知り合いが乗っていたのだろうか。七海はその先を掴もうとするも、それ以上は何も浮かばなかった。
「そんなにエグかったかなあ」と大志は不満そうだ。
「大志はミステリーとかホラー読みすぎて感覚がマヒしてるんだよ。あれを彼女に勧めるのはどうかと思う」
 それを七海に勧めたのは美帆だ。「エグ過ぎてキモいから読んでみて」と言って。それで読んでしまう七海も七海だが、大志が美帆に勧め、美帆が七海に勧めるものはなんだかんだ言いつつも結局は面白いのだ。
 もうすぐ到着するとのアナウンスが流れた。気が紛れたおかげか、七海の嘔吐感は少しだけ紛れていた。



 ファリーを降りるとまずは近くのホテルを探すことにする。空室を求めてよさそうなところから電話をかける。
 運良く七海がかけた二件目に空きがあった。ただしロイヤルスイートルームしか空いてないという。それにしては一人二万円程度だというので、同じく別のホテルに電話をかけていた美帆と大志が揃って首を振るのを見て、そこに決める。
「一人二万のロイヤルスイートって安すぎない?」
「外資系の一流ホテルじゃなきゃそんなもんなんじゃないの?」
 美帆に答える大志はなんだか悔しそうだ。
「まあ、ベッドルームが二つある広めの部屋ってことで」
 ウェブページを見る限り、悪くはなさそうだ。
「行き当たりばったりでホテルとるってギャンブルだな。俺がかけたとこなら二食付きで七千円だったのに」
 空きがないのだから仕方がない。レンタカーにしてもホテルにしても、もっと簡単にいくと思っていた。世間知らずと言われても仕方がないほど、何もかも安直に考えていた。三人揃って認識の甘さに溜め息を吐く。

 ホテルが横須賀方面だったこともあり、横須賀の三笠公園まで走ってみる。
 途中走水で人気だという食堂で昼食にする。口コミがなければわからなかったコンビニの裏にある専用駐車場に車を駐め、少し待って店内に案内された。
 びっくりするほど大きな穴子の天ぷら定食に、アジの刺身定食、アジフライ定食を頼み、三人でシェアする。美帆が小さく歓声を上げながら写真に収め、早速SNSにアップした。フェリーに乗り込むときも三人で記念撮影している。
 無機質なシャッター音が七海には裁断の音に聞こえた。一体何を断ち切っているのだろう。場面を切り取るとはよく言ったものだ。
「あれ? 七海、写真撮らないの?」
 今までの七海なら、美帆と一緒にはしゃぎながら写真を撮っていただろう。
「んー、今日はいいや」
「じゃあ、あとであげるね」
 どうしてあんなに一生懸命写真を撮っていたのだろう。そうしなければならないような気がしていた。何かを発信することが自分らしさだと思っていた。
「深津屋、なんか落ち着いたんだな」
「そうかな」
「じゃないかな。今までだったら美帆と一緒に騒いでただろ? 色々不安だからってのもあるだろうけど、それ以上になんか落ち着いたっていうか、肝が据わったというか、一皮剥けたというか?」
 アジフライを頬張りながら大志が思案顔で言葉を繋ぐ。
「色々あったんだもん、今までと同じじゃいられないよ」
 美帆がスマホを鞄に仕舞いながらしんみり言うと、大志まで「だなあ」と声のトーンを落とした。
 七海は何も言えなかった。どうしても気分に浮き沈みが出る。それが申し訳なくて眉を下げると、美帆が気にするなとばかりに小さく笑った。



 整備された海岸際の公園をいくつか経由し、三笠公園に到着する。近くの駐車場に車を入れ、公園内を歩いてみる。
 やはり人の手の入った場所には何も感じない。波の音も風の音も、海鳥の声すら七海の感覚を刺激しない。
 公園内に設置された戦艦を眺めている二人とは少し離れ、七海は一人、園内を散策する。平日のせいか人は少ない。犬を散歩させている人や、七海同様のんびり散歩している人がちらほら見える。
 真上から太陽が照りつける。あまりにも強い日射しに、風景は紗がかかったように色を飛ばしている。
 汗ばむはずの七海の肌はさらっとしている。日射しが強いと感じても、暑いとは感じない。風がむわっとしていることを感じても、ベタつきを感じたりもしない。全て七海を守る膜のような存在のおかげなのだろう。
 七海は日陰を求めて野外ステージに向かって芝生を歩いた。

「やっとみつけた」
 不意に聞こえてきた蠱惑的な声。と同時に、周囲が透明な何かに覆われた。いきなり七海の目の前に現れた長身の背中と数メートル先にいる若い女性。
「ユクムスナがなぜここに」
 耳に飛び込んできた低すぎない声に七海の全ての感覚が逆立った。知っている。耳が覚えている。
「その呼び方やめて。ユカでいいから」
「ユカ?」
 聞き覚えのある特徴的な声と名前に七海が思わず目の前にある背中の脇から顔を出す。
「ユカって、歌手のユカ?」
「そう、知ってる?」
 知ってるも何も世界的に有名だ。最も影響力のある世界の百人にも選ばれている、日本を代表するアーティストだ。
 少し離れた位置に立つ世界的美女、というよりは美少女と言いたくなるような年齢不詳の彼女は、首元がゆるく伸びた白いTシャツにサスペンダー付きの黒いショートパンツ、真っ赤なビーチサンダルという、完全にご近所ファッションだった。それなのにやけにクールに見える。
「あ、今度はストレートなんだ」
 目の前の存在に緊張しすぎて、少し離れた位置にいるユカの存在の方にばかり意識が流れる。
「そう。抜け感に飽きたから」
 彼女は毎月髪型を変えることで知られている。今は顎のラインで切り揃えられたプラチナブロンドのストレートボブだ。頭の上には真っ赤なフレームの大きなサングラスがのっている。ネイルは手足それぞれ黒。公の場でも最小限のメイクなのは元がいいからだ。
「探すのに苦労した」
 フラットな口調はどこか突き放すようでいて、その声音が真逆の印象を与える。
 ユカが一歩近付いた。目の前の背中が七海を背後に隠す。
「感じ悪。お礼言いに来ただけなのに」
「礼を言われるような覚えはない」
 低すぎない声が鋭く言い返す。
「こっちにはあるの。君でしょ、事故機にテータしたの。あそこにたまたま私のマネージャーが乗ってたの。おかげで助かったから」
 テータ──その言葉を聞いて、七海は周囲に目を向けた。三人を包むように覆っている透明な膜のようなものに覚えがあった。
「自分のためにしたことだ」
「違うでしょ、後ろに隠した半身のためでしょ」
 ユカの声には温度がない。感情のない声は何を考えているかわからない。
「半身?」訝しそうに聞き返す耳に心地好い声。その音は体温と同じ温度で七海の耳にしっとりと触れ、その縁をそっとなぞり、とろりと滴るように鼓膜の奥へと忍び込んでくる。
 七海の背をぞくぞくとぴりぴりが合わさったような奇妙な感覚が駆け上がっていった。
「知らないの? その子、君の半身。ついでに言えば君は私の半身候補でもあったの」
 七海は二人のやりとりを聞き流しながら、絶対に逃すまいと長身の腕を両手でがっちり掴んでいた。肩から首筋のライン。間違いない。この人があの輪郭の人だ。夢でもなければ七海が作り出した妄想の産物でもない。間違いなく実在する。 
「もしかして半身の意味もわからないとか? まさかただ相性がいいだけだなんて思ってないよね」
 目の前の長身がどんな表情をしたのか七海にはわからない。さも呆れたと言わんばかりのユカの溜め息を聞く限り、彼女の言う「半身」の意味を知らなかったようだ。
「あのね、半身は|Ⅶ《セム》すら狂わす存在なわけ。まさか|Ⅵ《シャ》以上には半身が存在するって知らないとか?」
「聞いたことはない」
「まあ、第二世界には必要ないといえば必要ないか。もしかしてそっちのⅥが実験的に世界をつくり出したってのも知らないの?」
「それはお前たちシーレンだろう」
 ユカがうんざりとばかりに肩をすくめた。
「そこに私を加えないで。あくまでも私は中立なんだから」ユカがむすっと言う。「だいたい、別にむこうだって敵対するつもりなんてないわけ。お互い干渉せずにやりたいようにやってればいいだけでしょ。勝手に敵対してるのは第三世界の人間だけなんだから」
 聞こえてくる会話は七海に理解できるのもではなかった。ただ必死に両手で彼の腕を掴んでいる。
「ねえ、とりあえず彼女に説明してあげれば? って、どうして記憶の一部がテータされてるの?」
「お前には関係ない」
「最悪。それってつまり君のエゴじゃないの? 一応教えておくけど、半身は存在が同一になるから、片方が死ぬともう片方も死ぬよ」
 あからさまに彼がびくっと震えた。どういうことかと七海は彼の背後から顔を出す。
「本当最悪。そんなことも知らなかったの? そういう自己犠牲っていまどき流行らないから」
 蔑んだ目で長身を見上げるユカが、サムズダウンをした。
「自己犠牲ってなんのこと?」
 思わず七海が訊くと、ユカは大袈裟に肩をすくめると大きな溜め息を吐いた。
「あーあ、かわいそうに。何も知らないまま君の自己満足に付き合って彼女まで犠牲になるところだった。勿体ないから私がもらおうかな」
「ふざけるな!」
「独占欲だけは人一倍って本当最低。まあ、半身ってそういうものだけど。ってことで、そろそろ行くね。助けてくれてありがと。お返しはそのうちするから」
 一方的に喋り続けたユカの姿がふっと掻き消えた。同時に空間が歪むような感覚があり、周囲の音が戻って来たことで、七海は今まで無音だったことに気付かされた。

「七海」
 名前を呼ばれた瞬間、たとえようもない幸福感が七海の胸をひたひたと満たし、涙を滲ませる。
「とりあえず腕を放してくれる?」
「無理。絶対に離さない」
 振り向いた男性の困ったような顔に見覚えがあった。力一杯握りすぎていたせいで、向き合う彼の腕が捻れている。それが痛そうで、七海は素早く手を動かして彼の腕のひねりを解消した。が、離さない。離すものか。七海はもうとにもかくにもこの腕の持ち主を逃したくなくて、頑なな子供のように必死だった。
「記憶、なんで?」
 興奮と混乱から七海は上手く言葉を紡げない。握りしめる自分の手の甲を見ながら言った。
「七海が耐え難いほどのショックを受けたから」
「あなた、死ぬの?」
 ようやく顔を上げた七海の目に飛び込んできたのは、薄い青に紫が混じったような不思議な瞳の色だった。その色に胸が締めつけられる。
「ユクムスナの言ったことが本当なら、七海を死なすわけにはいかない」
「あれ、本当のことだと思う」
 言い方はふざけていてもユカの言葉は真っ直ぐだった。
「僕もそう思う」
 彼の困ったように眉を寄せる仕草に、七海の胸に様々な感情が溢れるほどに込み上げた。
「会いたかったのに」
「そうだね、ごめん」
 何もわからないのに、気持ちが溢れた。
 そっと肩を抱かれ引き寄せられる。七海はしがみついていた腕を放し、目の前の長身に抱きついた。というよりは逃すまいとしがみついた。
「記憶、戻して」
「それは無理かな。きっと七海は耐えられない」
「なんで?」むっとして抱きつく腕に力がこもる。七海を抱きしめる彼の腕にも力がこもった。
「信じていた人に裏切られて、目の前で消される様を見たから、かな」
「裏切られたって?」
「七海のね、血液を、……原始的な方法で奪われたんだ。僕は許せなくて、そいつを七海の目の前で消してしまった」
「消すって?」
 一瞬、彼は言葉に詰まった。
「殺すってこと」
「あなたが?」
「僕が」
 穏やかに説明されているせいか、七海にはなんの実感も湧かなかった。
 ダークグレーのスーツ姿。第一ボタンが外された薄いブルーのピンストライプのシャツ。濃い青のネクタイが胸ポケットからはみ出している。
 情けない声を聞く限り、とても人を殺せるとは思えない。
「どうして私の血液?」
「七海の血液には僕たちの力を底上げする要素が含まれているから」
「僕たちって? さっきの第二世界とかセムとかシャとか、その、ユクなんとかってユカのことでしょ?」
 彼からはなんの匂いもしなかった。人として当然あるはずの肌の匂いが全くしない。だから透明になっても気付かれないのかと七海の頭の隅で感心していた。
「彼女は、ある意味コアそのものなんだ」
「コア?」
「そう、世界の核となるものというか、マトリクスというか、コアというか……」
 なんだか前にもそんな曖昧な説明をされたような気がする。
「じゃあ、あなたのことだけ、記憶を戻して」
「そういう難しいこと言わないでよ。僕もまだ力を使いこなせていないんだ」
 情けない声に聞き覚えがあった。目の前の彼の何もかもに覚えがあるのに、はっきりした記憶はない。まるで目隠しをされて手探りで歩いているようで心許ない。不安と恐怖と混乱を極めた七海は思わず叫んだ。
「もう、わけがわからない!」
「だろうね」と他人事みたいに彼は言った。そのくせ不安そうに訊くのだ。「それでもいいの?」
「それでもいい。わかってて訊かないで」
 七海の口から意図しない言葉が飛び出た。彼はきっと私の何もかもを知っているのだろう、そう思える確信が七海の中にあった。
「僕は七海のそういう妙に思い切りのいいところが好きなんだ」
「意味わかんない」
「いいよ、僕がわかっていれば」
 ずるい、と言いながら七海は顔を上げた。どことなく見覚えのある白い顔。すっと通った鼻筋、シャープな顎のライン、彫りが深めにしては涼しげな目元、情けなく下がる眉。
 七海の目から涙が溢れた。
 白く長い指先がぎこちなくも優しく零れるままの七海の涙を掬った。