トウメイノチカク
§3 テータ④


「コマくん、さすがにこの車は大きすぎない?」
「格安で借りられたんだよ」
 だとしても軍用車かと思うような厳つい車はどうなんだろう。眉をひそめる七海に美帆はあっけらかんと「偉そうに見えるね」とご機嫌だ。
「こういう車もレンタルってあるんだね」
 七海が想像していたコンパクトカーの倍ほどの大きさがある。
「まあね、帆高さんのコネなんだけど」
 へーえ、と声を上げながら、七海は車の周囲をぐるっと一周する。角張った真っ黒な車は道なき道を走れそうだ。
「仲のいい会社の先輩から借りたんだって。保険の切り替えの差額代とか込み込みで十万ぽっきり。どうせ買い替えるつもりだから、何してもいいって。ただし事故ったら自己責任だってさ」
 美帆の声が弾んでいる。美帆は何気にこういうごついものが好きだ。大志も背はそこまで高くはないが、筋肉質のごつい躰をしている。
 スペアタイヤの付いたテールゲートは横に、リアガラスは上に開いた。おお、と七海と美帆は声を上げた。
「これ輸入車だから普通に借りると二十四時間で二三万かかる」大志が荷物を積み込みながら説明する。「保険も限定解除してもらったから、万が一の時も大丈夫」
 荷物を渡すとき、ほんの僅か、かする程度に七海の指先と大志の指先が触れた。その瞬間、七海は大袈裟なほど驚き、荷物を取り落としてしまった。
「おっと、ごめん、手が滑っ……た?」
 自分に非があるように謝る大志は、荷物を拾いながら七海の顔を見て首を傾げている。
 七海の感覚は親しいと思っているはずの大志まで拒絶した。そのことに七海自身ひどく動揺していた。
 
 大志は運転席に、はしゃぐ美帆は助手席、七海は後部座席に乗り込む。車高が高いせいで乗り降りが大変だ。
「それにしても、ひと月で十万って安すぎない?」
 エンジンの音がかなり大きい。視界も高く、まるでバスに乗っているようだ。エンジン音に負けないよう、美帆が七海に顔を寄せてきた。
「ひと月じゃなくて車検切れるまでなら好きなだけ使っていいって。どっちにしろ売ろうと思ってたから、先払いで十万もらえるなら、それを頭金に足して新しい車買うんだって。結構古い車だし距離走ってるから下取りは十万しか付かないって言われてるんだって」
 大志にはとりあえずレンタカーの費用として三十万渡してあった。
 三人でざっと調べた限り、一ヶ月以上借りるならレンタルよりリースの方が割安だった。ただしリースの場合は車庫証明等が必要になるため、ひと月以上前に申し込む必要がある。時間のない七海は一日たりとも無駄にしたくない。コンパクトカーのレンタル料は一日一万円ほど、ひと月で三十万は覚悟していた。
「でもきれいだよね」
 車体には傷ひとつなく、内装もきれいだ。タバコ臭くもない。
「結構大事に乗ってたらしい。輸入車は、まあものにもよるんだろうけど、下取りが安いらしい。維持費はバカになんないし、燃費は悪いし、乗り降りが大変だし、で、奥さんと子供には不評だって言ってたよ。次は国産のミニバンに買い替えるんだって。俺は好きだけどね、こういう車」
「私も好きー。なんなら大志このまま譲ってもらえば?」
 美帆の思い付きに、大志が本気で悩み始めた。

 七海たちが今いるのは、郊外にある美帆の通うキャンパスだ。
 結局美帆は休学を一時保留にした。落とせない講義には簡単に戻って来ることのできる関東周辺をまずは探すことにして、それでも見付からない場合に改めて休学することになった。美帆も大志も十月に入るとちょいちょい大学に戻ることになる。
 国道十六号で横浜まで出て、そこから海岸沿いの道を千葉方面に進む。房総半島をぐるっと周り、勝浦からアクアマリン経由で川崎まで戻り、今度は三浦半島をぐるっと回って鎌倉を目指す。
「田舎ってイメージだと千葉っぽいんだよなあ。横浜や川崎じゃなさそうだし」
 大志の運転は安定していた。発進も停止も丁寧で、乗り物に弱い七海は胸を撫で下ろした。
「東京でも時々田舎っぽい景色に出会うことあるよ」
「まあね。でも東京の場合、沿岸部は埋め立て地ってイメージだろ?」
「そっか」振り向きざまに美帆が言う。「七海のイメージだとそれはちょっと違う?」
「違う気がする。整備された感じじゃなくて、なんだろう、昔っぽい感じ?」
 ふと七海の脳裡に寂寥の風景が過ぎる。
「だったら、アクアラインより内側は除外してもよさそうだな。まあ、そこはざっと通ってみるか。なんか気になったら言って」
「二人ともありがとう」
「いいんだって。結構俺たちも楽しみにしてるし。こういうことって美帆の親じゃないけど今しかできないだろうし」
 今回の費用は全て七海が負担する。二人は渋ったものの、そこは七海も譲れなかった。せめてもの恩返しに二人にはできるだけいいホテルに泊まってもらうつもりでいる。
 七海は見付けられなかった場合を考えていない。よくよく考えると、二ヶ月という期間がどの時点から二ヶ月なのかがわからない。そんな気がしたその瞬間からなのか、記憶がない期間もそこに含まれるのか、後者なら本当に時間がない。もし見付けられなければ、きっと七海はこの喪失感に耐えられないだろう。
「絶対に見付けるから」
 小さく決意を呟く。
 窓の外に海はまだ見えない。

 途中のファミレスでお昼を済ませた。この旅における会計係は美帆だ。レンタカー代として渡していた三十万円のうちの残りの二十万円も美帆にそのまま預けてある。お金に関しては三人の中で美帆が一番きっちりしている。ついさっきも追加でもう一品注文しようとする大志を予算オーバーだと諫めていた。
 ファミレスを出て一時間ほどのろのろ走るとようやく海が見えてきた。
 閉めきった空間だと美帆の耳に負担がかかるため、少し窓を開けている。そこから排ガスに混じって微かな潮の匂いを感じた。
「十六号どんだけ混んでるんだよ。話には聞いてたけど、これほどとは思わなかった」
 まだ車幅感覚が掴めないからと国道を選んだのが裏目に出た。項垂れる大志を美帆が「仕方ないよ」と慰める。
「コマくん、普段は国道通らないの?」
「ナビで裏道だなあ。うちはコンパクトカーだから結構細い道もいけるし。大抵は親の買い物のお供とか、基本家の近所ばっかなんだよ。車あると駐車場探すの面倒で、普段美帆と出掛けるときもあんま使わない」
 首都高も車が多い。羽田線と湾岸線の二択は、より海側の湾岸線を選んだ。
 車窓から外を見ていても何も感じない。高い遮音壁が景色を遮る。なんとなく七海が思う空とは違うような気がする。気になったところで下に降りると言われていたものの、結局湾岸習志野まで首都高を走り続けた。

 海沿いの道をひた走る。きれいに整備された地形に感じるものはない。
 濁った空だけを見ていると何かを思い出しそうになる。
 車内には最新のヒット曲がランダムに流れている。曲ごとに大志が口ずさみ、美帆が口ずさみ、七海もいつの間にか口ずさんでいる。
 先が読めない不安の最中にあっても気の置けない二人とのドライブは楽しく、七海の心を軽くした。

 富津岬で夕日を見た。車を降り、そこから東京湾を一望する。靄がかかったような東京の空はずっと先まで見通せない。以前よりずっとクリアになった七海の視力でも、はっきりと見える範囲は限られていた。
「日が暮れるとアウトだな」
「そうだね」
 濤声の中、景色を眺める二人に疲れが見え、七海は申し訳なくなる。
「今日はもうホテルに入ろう」と七海が提案すると、大志も「だな。早めに寝て早めに起きよう」と言いながら腕をぐっと上に伸ばした。
 トラベルサイトを見てよさそうなホテルに電話で空き状況を確認する。満室が多い中、運良く二部屋空いているビジネスホテルを見付け、移動する。
「行き当たりばったりでホテルとるのって厳しいね」
「九月に入ったとはいえまだ夏だからなあ。連休は一旦家に戻った方がよさそうだな」
 夕食もやはりファミレスで済ませ、ホテルにチェックインする。キャンセルが出たというツイン二部屋だ。部屋割りで少し揉めた。美帆は七海を心配し一緒の部屋を希望したが、七海は断った。
「ごめん、今日見た景色を思い出しながら色々考えたい」
「そっか、そうだよね」
 心配顔の美帆に七海は耳打ちする。
「もしかしたら、透明人間が付いてきてるかもしれないし」
「気配あるの?」
「ないけど、車も守られてるような気がするから」
 車に乗り降りする際、なんとなく空間の揺らぎを感じた。空気感の違いとでもいうのか、なんとなく、何かを通り抜けているような気がするのだ。
「本当にストーカーじゃないんだよね」
 不審を隠さない美帆に七海は苦笑いを返す。
「じゃあ朝食バイキングが六時半からだから、少し前に迎えに来るよ。食べたらすぐに出発しよう」
 気を取り直したように美帆が笑った。
 七海に割り当てられた部屋の前で二人と別れる。二人の部屋はもう少し廊下を進んだ先になる。隣同士というわけにはいかなかった。同じ階であるだけラッキーなのだろう。
 部屋に入るときに何かが七海の脇をすり抜けたような気がした。何を感じたわけでもないのに、七海にはそんな気がして仕方がなかった。
 ドアを開けたままぼんやりしている七海を、振り返った美帆が見咎めた。
「七海、部屋のドア開けたままぼんやりしてないで!」
 足早に戻って来た美帆に小声で注意された。
「朝まで部屋から出ないでね。出るときは絶対に声をかけて」
 美帆のことさら強い口調に頷きながら、七海は急いで部屋のドアを閉めた。

 荷物の大半は車に積んだまま、今日の分の着替えやケア用品だけを持ってチェックインしている。
 日焼け止めを落とし、七海はそのままシャワーを浴びた。バスローブはなかった。仕方なくバスタオルを巻いたまま、冷蔵庫からフロントで教わった無料のミネラルウォーターを取り出し口をつける。
 サイドテーブルにペットボトルを置き、ベッドに腰をおろす。濡れた髪をタオルドライしていると、不意に涙が込み上げた。
 不安がないわけではない。すぐに見付かるとも思っていない。まだ始めたばかりだ。それでも、今日一日なんの手がかりも見付けられなかったことが七海の心を強かに打ち付けた。
 心細くて仕方がない。幼い頃から飼い慣らしてきたはずの心細さが執拗に歯向かってくる。
「本当は、いらなかったのかな」
 小さく呟いた七海の声は思った以上に部屋に反響した。声に出さずにはいられなかった。これ以上抑え込むことができなかった。
 確かなものがひとつもない。それが七海を苦しめる。
 そんなわけないと思っている。大切にされていた気がして仕方がない。その一方で、何かに守られていると感じることも、夢の中のキスも、七海の気のせいかもしれないのだ。
 誰かに愛されたいと強く願うあまり、意識不明の間、都合のいい夢を見続けていた可能性だってある。
 気が触れているのかもしれない。
 あんな事故に遭って、何一つ損なっていないことがそもそもおかしいのだ。どんなふうに漂流していたのかも、流れ着いた先でどんな扱いを受けていたのかもわからない。躰に残る感覚は、尊厳を踏みにじるような最悪の行為を容易に想像させる。信用している大志すら拒もうとする無意識もそこに結びつく可能性だってある。
 考えただけで血の気が引く。
 記憶がないということは、自分がどんな状態だったかもわからないということだ。あまりにひどい状況から逃れるために、都合のいい夢の中に逃げ込んだのかもしれない。七海の中に「いい夢だった」というぼんやりとした感覚が確かに残っているのに、それすらも幻想かもしれない。
「会いたい」
 どんな人でも、どんな存在でもいい。それこそストーカーだろうが、犯罪者だろうが、七海を心から必要としてくれるならどんな人でもいい。
 そう考えたところで、急に現実に引き戻される。実際にストーカーだったり犯罪者だったりしたら、どれほど必要とされていても七海自身が拒否するだろう。
 浸りきれない自分が七海は心底鬱陶しかった。だから、気が触れたまま夢の中で生きていけないのだ。だから苦しいのだ。いっそ狂ってしまえば楽なのに、それすらできない臆病者──。



 抱きしめられているような感覚の中、七海の意識はゆっくりと覚醒に向かう。
 夜明け前の青に沈む室内は静かだった。
 あるはずのない輪郭を確かめるように、すぐ近くにあるはずの気配にそっと手を伸ばそうとしたその時、青の空間に白が射した。
 七海は息を呑んだ。
 部屋に曙光が溢れた瞬間、目の前に現れたほんの刹那の景色。
 胸が締めつけられる。愛おしさに涙が滲む。
 改めて伸ばした指先はただ虚空を掴んだだけだった。目の錯覚かもしれない。それでも七海は、一瞬の光が描き出した輪郭に泣きたくなるほどの愛おしさを覚えた。
 見えたのは顎から首筋、肩へと続くライン。それだけ。七海を正面から抱きしめるように横たわる、おそらく男性だろう人の輪郭。目に焼き付いたラインにはっきりと見覚えがあった。既視感よりも強い確かな感覚。
 こんなにも近くにいるはずなのに、感覚でしかとらえられない人。
 七海は見えない胸板に顔を埋めるように、もう一度ゆっくり目蓋を閉じた。



 朝食を済ませ、ホテルを後にする。
 富津から勝浦まではできるだけ海岸沿いの道を走るつもりが、海岸線に沿った道がないことに気付いた。
「どうする、歩く?」
「この車なら波打ち際を走ろうと思えば走れるけど……」
 先細る道の先は海岸へと続いている。通りかかった地元の人に訊いてみると、波打ち際を歩けないこともないが途中岩場があったりするので慣れない人には危険らしい。
 七海自身波打ち際から先をしばらく眺めてみても特に何も感じず、道なりに迂回することにした。

 朝のうちは窓を空けて走っていたものの、九時を過ぎると暑さに負けて窓をほんの少しだけ空け、エアコンをつける。眺め続ける景色に思うところはなく、七海は焦り始めていた。
 しばらく走ったところで、すぐ目の前に波打ち際が見える道路脇に大志は車を駐めた。車から降りて軽くストレッチを始めた大志を見て、七海たちも車を降り、大志の真似をする。
 目の前には小さな港が見え、何艘もの漁船が陸に上げられている。小さな埠頭の脇に停まっている船もあり、地元の人が船と埠頭を行き来していた。
「疲れた?」
 申し訳なさから七海が訊けば、大志は笑いながら首を振った。
「運転はそうでもないんだけど、座りっぱなしでケツが痛い」
「運転変わる?」
 どこか嬉しそうな美帆に、大志が慌てたように首を振っている。
「でも車通りあんまりないし、美帆の練習になるんじゃない?」
 七海の提案に美帆は喜び、大志はげんなりしながら「仕方ないな」と溜め息をひとつ落とした。
 繰り返す波音に海鳥の声。そこに紛れ込む人の声や生活音。
 ふと七海は二人の背後、海の向こうの景色に何かを感じた。
「コマくん、ここってどの辺?」
「あの港の先が南無谷崎ってところみたい。ナビにはそう出てた」
「あの海の向こにうっすら見えるのは?」
「ん? 三浦半島じゃない?」
「何か感じる?」と訊く美帆に、七海は海の向こうに視線を定めたまま首を傾げる。
「何か感じたような気がしたんだけど……はっきりしない」
「少なくともこの辺じゃなさそうだね」
 大志の声に七海が頷く。
「どうする、この先に行くより戻って三浦半島に行ってみる?」
 大志の提案を悩む七海に、美帆がぼそっと言った。
「七海、直感」
 それは、七海がいつも選択で悩むときに美帆が必ずといっていいほど口にする言葉だ。
 進む予定だった岬に視線を向ける。目を細めてじっと眺めても何も感じない。
 再び視線を海の先に向ける。なんとなく気になるような気がする。
「気のせいかもしれない」
「いいじゃん、違ったらまた戻ってくれば。とりあえず気になるところを先に見た方がいいよ」
 それもそうかと七海は美帆に頷き返す。
「振り回してごめんね」
「気にすんな。俺たちは好きでやってるんだからいいんだよ。よし、アクアライン初走行だ!」
 車に戻ってナビを見ていた大志が、フェリーが運航されていることに気付いた。
「すぐそこの金谷港から久里浜港まで一時間かからないみたいだ。料金は……」
 スマホで検索するとアクアラインを通った方が安い。車一台と運転手一人分で四千円近くかかる。車が大きいせいもあるが、それにプラスして同乗者は乗船券が必要になる。二人で千五百円弱。アクアラインならETC割引なしでも一台三千円を少し超えるくらいだ。
「深津屋の話だと、横浜や横須賀近辺じゃなさそうだからなあ、久里浜に一気に行った方がいいような気もするんだけど……運行は一時間に一本かあ。時間的には微妙だな」
「お金のことは気にしなくていいから、フェリーに乗ってみる?」
 アクアラインよりフェリーに魅力を感じてしまったのは七海だけではなかったようだ。