トウメイノチカク
§3 テータ③「ではよろしくお願いします」
深々と頭を下げた七海に、職員の対応は最後まで事務的だった。
七海は大学をやめた。休学するつもりで手続きに来て、休学するにも休学費がかかることを知り、その場で中退を決めた。
やけに太陽の光が眩しかった。キャンパスは太陽の気配に満ちていた。
やめるに際し、一片の躊躇もなかったことに七海自身も驚いていた。
退学届を出したことと新しいスマホを買ったことをまとめて美帆に知らせると、近くのカフェで待つよう返信が来た。七海の大学と美帆の大学は比較的近い。
漂うコーヒーの薫りに、ふと何かが七海の頭をかすめた。目を閉じ、自分の中に残る残滓を探る。周囲の喧噪がすーっと遠退いて、深く深く自分の内に沈み込む。ゆっくり慎重に一縷の感覚を手繰り寄せる。
コーヒーにまつわる何かが七海の中にはあるはずなのに、何も浮かばなかった。コーヒーを飲むたびに少しずつ浮かんでくるかもしれない。
昨日、航空会社から賠償金が振り込まれた。
退院するその日の朝、航空会社の代理でやけに色白の弁護士が示談書を持ってきた。流暢な日本語を話していたものの、どう見ても日本人だとは思えなかった。そもそも日本の航空会社ではないので弁護士も日本人ではないのだろう。
七海は何も考えられず、言われるがままサインした。
その際に提示された金額をあとで美帆が調べたところ、生存者に支払われる額としては破格であることがわかっている。
三十分も待たないうちに美帆が姿を現した。
七海は自分の中に残る痕跡を辿る決意をしている。美帆には事前に話してある。
「こんなことなら美帆と一緒に運転免許とっておけばよかった」
美帆は大学一年の夏に運転免許を取得している。
「七海さあ、私の休学費用払ってくれない?」
コーヒーが載ったトレーを持った美帆が、七海の向かいに腰をおろすなり言った。
「なんで?」
「とりあえず私の半年を七海に捧げようと思って。運転手は私だ、車掌は君だ」
「なにその歌」
「電車ごっこの歌。うちのお坊ちゃまがヘビロテ中」
どうやら彼女の甥は電車に夢中らしい。
「まさか、私に付き合う気?」
「付き合う気」
ふと七海の中に何かがよぎった。こんなふうによくオウム返しされていたような気がする。目を閉じ意識を集中させてもそれ以上はわからなかった。
七海がゆっくり目を開けると、美帆の怒ったような困ったような顔があった。
「ほらね、そうやっていきなり無防備に目を閉じたりするんだもん、危険すぎる」
美帆の指摘に七海は苦笑を滲ませた。
「でもそれって七海にとって必要なことなんでしょ? だったら、やっぱり私も一緒に行く。もう休学手続きお願いしてきちゃったし。明後日面談があるんだけど、たぶん大丈夫だと思う。うちの休学費用、半期で七万だって。よろしくね」
ね、と美帆がわざとらしく小首を傾げた。女の子を具現化したような容姿の美帆は自分の童顔を嫌っている。あえてそれを強調するのは照れ隠しのときだ。
「勝手に付いてくるのにその費用は私持ち?」
意地悪くいえば、あっけらかんと美帆は笑う。
「そりゃそうだよ、運転手、必要でしょ?」
七海はどうしても記憶のないひと月の間、日本にいたという気がして仕方がないのだ。どこか海外の小島にいたという気はさっぱりしない。とりあえず海岸沿いをどこまでも探してみようと決めている。きっと何かが見付かるはずだという思いが強い。
「美帆の半年がたったの七万?」
「破格でしょ?」
「破格だね」
七海が無理に笑えば、「笑わなくていいから」と美帆が泣きそうな顔で笑う。きっと七海も同じように笑ったのだろう。
「ご両親は?」
「平気。七海と一緒に自分探しの旅に出るって言ったらお腹抱えて笑ってた。今しかできないことを今のうちにやっとけだって」
美帆の親らしい、と七海は思った。七海の両親には大学を中退したという連絡事項のみのメールを送った。返信はない。
「コマくんは?」
美帆には高校から付き合っている彼氏がいる。
「うーん、言ったら付いてきそうなんだよねえ。半年我慢してもらう」
そう上手くいくだろうか。
「半年もかからないと思う」
七海はカフェラテを一口飲んで、カップを静かにテーブルに置いた。
「できればひと月、どんなに遅くても二ヶ月の間に見付けられなかったら、たぶんそこで終わり」
そう、もうずっと「終わり」という言葉が七海の中で警鐘のように執拗に浮かび上がってくる。時間がない。
「七海は……決めたんだね」
痛みを堪えるように目を細めた美帆に、七海は迷うことなく頷く。
決意は初めから七海の中にあった。
このまま何事もなかったように生きていくこともできるはずだ。それだけの用意がなされていることもわかっている。
きっと忘れられない。ことあるごとに蘇る感覚は消えることはないだろう。もしもこれが記憶だけであったならば、いつしか忘れられたかもしれないのに、感覚はきっといつまで経っても消えてくれない。
「ごめんね。できるだけ終わらないようにするから」
心に空いた穴はきっと一生埋まらない。七海の中にはブラックホールが口を開けている。それはいずれ七海が七海でいられなくなるほどの大きな穴だ。その穴に七海の全てが持っていかれてしまう。埋まることはない。埋められもしない。
翌日、早朝から美帆が訪ねてきた。その背後に小間井 大志を伴って。
彼が玄関ドアから一歩足を踏み入れた瞬間、七海には透明な何かが揺らいだような気がした。目の錯覚のようなほんの一瞬の出来事。
「深津屋、元気そうだな」
我に返った七海は何食わぬ顔で大志に挨拶を返す。
「コマくん久しぶり。大学は? まだ始まってない?」
「は? んなもん休んだに決まってるだろ」
大志の不機嫌な声が全てを物語っていた。
「ごめん、うちのバカ兄がバラした」
美帆が顔の前で両手を合わせ、ごめん、と謝る。こうなるだろうことは予測済みだ。七海の知る大志なら、可能な限り美帆の側を離れないだろう。
「女二人で車中泊とか、バカじゃないの?」
「だからそれは最悪の場合って言ったでしょ、できるだけ安いビジネスホテルとかに泊まるよ」
なんだかんだいいつつも二人は仲がいい。二人一緒にいることが自然で、大志と一緒にいるときの美帆はどんなときよりも自然で輝いていた。
眉を寄せて睨むように美帆を見ていた大志が、ふと七海に目を向けると、虚を衝かれたように息を呑んだ。
「ってか、深津屋男できた?」
「会う人会う人そう言うんだよね」深く息を吐きながら七海が言えば、大志は「うわあ、深津屋の男見てみたい」と下世話な興味を示す。
同じ目線の大志を七海が睨めば、大志は悪びれたふうもなく「おっじゃましまっす」と勝手知ったる、で上がり込む。
「本当ごめんね」
「付いてくるって?」
「そのつもりみたい」
玄関先で美帆と七海がこそこそ話していると、リビングから大志の「なにしてんの?」が聞こえてきた。
朝食がまだだという二人はコンビニで買ってきたパンやサラダをダイニングテーブルに並べた。七海の分も当たり前のようにある。二人はいつだって七海の存在を自分たちと一括りで考えてくれる。
美帆が琺瑯の鍋に牛乳を人数分入れ、ロイヤルミルクティーを作り始めた。真っ白なミルクパンはもうずいぶん前に美帆のためにと七海が買ったものだ。
「深津屋、本当に無事でよかったよ」
改めて言われると、どれほど心配をかけたのかが身に沁みた。七海は大志に向き直り深く頭を下げる。
「ご心配お掛けしました」
「見付かったって聞いたときは信じられなかったけど、深津屋、なんか変わったな」
目を細めながらまじまじ七海を眺めた大志は「うん、でも無事でよかった」と繰り返し、ダイニングチェアに腰をおろした。
「美帆から聞いてないの?」
「なんも。自分探しの旅に出るとは聞いたけど。あ、それは帆高さんから聞いたんだった」
美帆の兄の帆高は年が離れているせいか妹の美帆に対し過保護気味だ。大志との交際も未だ快く思っていない節がある。
「大志は自分探しする必要ないでしょ」
出来上がったミルクティーをダイニングテーブルに並べる美帆がふてくされたように言う。
「だから、女だけでってのが危険だって話だろ。帆高さんが俺に連絡してくるくらいだよ、日本の安全神話はもうとっくに過去の話なんだからな。だいたい深津屋は美帆の運転知ってるの?」
「え、知らないけど……」
「だろうと思ったよ。よくあれで免許取れたよな」
「そんなひどいの?」
「とりあえず話しかけたらアウト」
「運転に集中してるってだけでしょ」
美帆の声高な反論に、あながち大志の言うことも間違っていないような気がして、七海は細めた目を美帆に向けた。
「なにその目」
「美帆、公道走ったことある?」
「あるよ!」
「美帆、嘘はよくない。教習所やショッピングモールのただ広い駐車場は公道じゃない、私有地だ」
冷静な大志の声に美帆が「ぶつけたことないもん!」と猛反発している。
二人の気が済むまで七海は黙々とサラダを口に運んだ。
「コマくん大学はいいの?」
「平気。二ヶ月くらいならなんとか取り戻せるって言われた」
「本当にいいの?」
「いい。深津屋がいなくなったときの美帆をもう見たくないんだ。だったら、深津屋ごと俺が守ってやるよ」
「コマくん……そんなに美帆と離れたくないの?」
「お前、そこは俺の男っぷりに感動しろよ」
「セリフが薄っぺらかった」
そう言ってパンを頬張る七海に、キメ顔だった大志は肩を落とした。それを見て美帆がくすくす笑っている。ここ最近見ていなかった美帆の明るい顔を見ていると、七海は大志も一緒の方がいいような気がしてきた。
「コマくん、お世話になります」
「任せなさい。ただし、金はない」
「ああ、それなら大丈夫」
賠償金の話を聞いた大志は顔をしかめた。
「ちょっと額多くない? いくらひと月意識不明だったとはいえ、深津屋はどこも怪我してないんだろ? 普通その十分の一程度なんじゃないの?」
「そうなの?」
「そう。つい最近先輩とその話になって……」大志が何かを思い付いたように、ああ、と小さく呟いた。「そうだよ、まさに深津屋の航空機事故の時だ。賠償で揉めるんだろうなって話になって……。なあ、そんな高額、しかももう振り込まれてるんだろ? それって深津屋、死んだことになってないよな」
ふと何かが浮かびそうになって七海は目を閉じた。死んだことになっている、そんな気がしてきた。どこかでそんな会話をしたような気がする。
七海が目を開けると、大志の困ったような顔と美帆の明かな呆れ顔があった。
「これか、美帆が言ってたの。確かに危険だな」
「でしょ。七海は自分が女だって意識が低すぎるんだから」
男顔の女が目を閉じたところで喜ぶのは一部の特殊な人たちだけだ。普通の男は興味も持たない。ふと、持つとしたら……と考えたところで何かを掴み損ねた。
七海は間違いなく誰かに必要とされていた。そんな一本の揺るぎない芯のようなものが七海の中に存在している。誰にも必要とされていないと思いながら生きてきた七海は、美帆に出会って初めて自分を肯定できた。それ以上の自信が今の七海の中にある。
「七海のこと、ニュースに一度も出てないんだよね。大使館の人もなんだかはっきりしなかったし」
美帆が腑に落ちない顔で大志に告げている。七海は思考を中断し、二人に意識を向けた。
「実際死んでるわけじゃないけど、そういうふうに処理されてるって考えた方が納得できるな。もしくは口止め料か。生存者が一ヶ月も見付からなかったなんて、そう簡単には公表できないんじゃないか? 深津屋にしてもヘタに騒がれてマスコミに集られるより有耶無耶にされてた方がマシだろうし」
「どこにどんな思惑があるのかわからないけど、とりあえず軍資金はたっぷりあるから」
七海の声に大志と美帆は納得しかねる顔のまま頷いた。
「出発は美帆の面談の後だな。レンタカーの手配はしておくよ。着替えはまあ、一週間分もあればいいだろうし、宿は行き当たりばったりで空いているところに泊まるしかないな。最悪ラブホだ」
「ラブホ?」美帆の声が微かに尖った。
「そう、ビジネスホテルや旅館は駅前や観光地に集中するけど、ラブホは結構辺鄙なところにもあるんだよ」
「よく知ってるね」
美帆の胡乱な視線に大志が慌てたように付け加えた。
「先輩が彼女とロードバイクで日本一周したときにそう言ってたんだよ。実際は日本一周どころか関東一周だったみたいだけど」
「七海はどこを出発点にするつもり?」
大志の言い訳を聞き流した美帆が七海に顔を向ける。その横で大志がむっとしている。
「とりあえずは東京湾かなあ。東京湾をぐるっと回ってみたい」
「じゃあ、東京から千葉方面を回って、アクアライン通って神奈川回る?」
「そうだね。なんとなくだけど、日本海側じゃないような気がするから……」
手繰り寄せた波の景色は穏やかだったような気がする。七海の中の日本海には荒れたイメージが添付されている。
「よくわかんないんだけどさ、深津屋のそのイメージはどんな感じなの?」
「波の音と、風っていうか草の音かな。それからカモメみたいな海鳥の鳴き声しか聞こえない感じ」
「ってことは、割と田舎の方?」
「そんな感じ。人の気配があまりないような……」
大志がスマホで地図アプリを見ながらルートを考えている。それでも念のためぐるっと東京湾沿いを走ってみることにする。
「深津屋は何か探してる景色があるってことでいい?」
大志の確認するような問い掛けに、七海は頷く。
「自分でもはっきりしないんだけど、行方不明だったひと月、意識不明だったとは考えられなくて、記憶がないって考えた方がしっくりくる。それを取り戻したい」
「記憶喪失ってこと?」
「たぶん。よくわからない感覚だけが残っていて、ときどきふわっと浮かんでくる感じ」
「具体的に?」と難しい顔で大志が訊く。
「抽象的に、かな。映像とかそういうのが浮かぶわけじゃなくて、なんとなくイメージみたいな、感覚っぽいものをふわっと感じるっていうか……わかるかな」
「デジャヴみたいな感じ? あ、これ知ってる、みたいな」
思わず美帆と目を合わせる。付き合っている男女は思考も似てくる。
美帆は七海の個人的なことを大志にも漏らしていない。それが七海をほっとさせていた。美帆はそんな人だ。だから何もかも打ち明けられる。
「そんな感じ」と答える七海に、大志は「ふーん」と唸りながら考え込んでいた。
キスから伝わる気配に不満が滲んでいた。
大志がこの空間に入ったことに対する不満なのか、それとも七海が行動を起こそうとしていることに対する不満なのか。それでいて唇に触れてくる感触はどこまでも優しい。
もっと確実に繋がらなければいけない気がするのに、七海の焦りを宥めるように、優しいキスが繰り返される。
「必ず見付けるから」
キスの合間に決意を告げる。
唇から動揺が伝わってきたような気がした。
絶対に終わらせない。
今の七海では「終わり」が何を意味しているのかわからない。それでも終わらせてはいけないという強い思いだけは七海の中に揺るぎなくある。間違いなく「終わり」が何を意味しているのか、七海は知っていたはずだ。
込み上げる何かを唇から渡す。七海の中から込み上がってくる何かの気配は日に日にその濃さと質量を増している。もっと確実に渡さなければ、溢れてしまいそうなほどに──。