性質の差異
第二話新しい会社に移って一年が経つ頃、あの日以来、初めて遼子から連絡が来た。
『梨花……』
そう言ったきり黙り込んでしまった遼子に、彼女に対する怒りなどはないことを告げる。ただ、その事実だけが受け入れられなかったことも。
『私、思い上がっていたんだと思う。梨花だけだったの、本当の私を知っても友達でいてくれた人。だから、梨花はなんでも受け入れてくれるって勝手に思い込んでいて……』
うん、と相槌を打てば、言葉を詰まらせながらも彼女は言葉を続けた。
『梨花がいなくなって、本当はすぐにでも謝りたかったんだけど、それは自分が楽になるだけの言葉だって晄平に言われて……後悔しているの、すごく。でも、謝って許されることじゃないってこともわかっているから……』
確かにそうだ。許すとか許さないとか、そういうことじゃない。遼子に私と同じ感覚を求めるのは違うだろうし、彼女の感覚を私も共有はできない。
単純に受け入れられないだけだ。
「遼子自身を嫌いになったりはしていないから。今でも友達だと思ってる。ただ、智と別れたのに遼子にだけ会うことはできない」
そうだよね、と今度は彼女が溜息交じりの相槌を打った。
「あの時私がちゃんと拒めばよかったんだよ。拒まなかった私だって悪い」
『違うの。前から晄平にも、梨花にあまりそういう話はするなってそれとなく言われていたの。それなのに私が聞く耳持たなかったんだよ。あんな小さな好奇心で梨花がいなくなるって思ってもみなくて……』
遼子にとってあれは、ただの小さな好奇心。世間でいわれているような感覚とは違う。
悪気がないのも、私から智を奪おうとしたわけでも、浮気した坂木君に対する当て付けでもない。
本当にその瞬間に芽生えた小さな好奇心。ただそれだけだ。
それが理解できるからこそ、彼女を恨む気にも憎む気にもなれない。
だからこそ感情を持て余してしまう。
「いなくなったわけじゃないでしょ。ちょっと今は離れているだけだよ。こうして話だってできるし……」
黙り込んだ彼女を訝しむ。どうしたのだろう? 声をかけようとしたら、かすれたようなか細い声で名前を呼ばれた。
『梨花』
「ん?」
『あのね。私、子供ができたの。それでね、生まれたら、私には会わなくていいから、できれば子供に会いに来て。梨花に見て欲しいの、私の子供』
ぽつぽつとたくさんの想いを隠すかのように、ゆっくりと話す遼子の声は、今まで聞いたどんな声より静かだった。
不思議な気持ちになった。なんだろう、なんともいえない感覚。
「遼子が、お母さん?」
『そう。不思議な感じがするでしょ? 子供つくろうって決めてつくったんだから、できて当然と言えば当然なんだけど、お腹にいるってわかった瞬間、すごく不思議な気持ちになったの。それで、梨花に知らせようって思って』
「おめでとう? やだ、なんか語尾が上がっちゃう」
『わかる。私もそんな感じだった』
照れ笑いを含む遼子の声に、何かがひとつ昇華された気持ちになった。何かはわからない何か。思わず遼子に伝えたら、彼女もそんな気持ちになったらしい。
『子供の存在ってすごいね。まだお腹に芽生えたばっかりなのに、色んなことを教えてくれる。私ね、きっと変わると思うの、色んなことが』
その言葉を聞いたら、私まで何かが変わるかのような気持ちになった。
「会いに行く。子供だけじゃなくて遼子にも。だから、無事に産んで。無理しないようにね」
携帯電話の向こうで、子供の様に声を上げて泣く遼子に、坂木君がびっくりして話し掛けている。それを耳にして、静かに通話を終えた。
自分でも不思議なことに、遼子に対する負の感情は一年経った今でも浮かんでこない。智に対してもだ。
冷め始めたと思った心は、その外側が冷めただけで、会わなくなったことにより、その内側はより一層じわじわとその熱を上げているような気がする。
ただ、あの日の事実だけが受け入れられない。もしかしたら、本当はそれすらどうでもいいのかもしれない。
今はただ、彼の考え方が私とは根本から違っていたことへのショックが強く残っている。全てわかり合っていると思っていた人との根本的な性質の違い。
思い上がっていたのは私の方だ。
今でも智を愛している。智以外の人には目が向かないほどに。彼の番号を消せないほどに。
本当に私は馬鹿だ。
失いたくないなら、失わないよう努力すればよかったのに。受け入れられないなら、受け入れられるよう努力すればよかったのに。
六年もの歳月、あんなに愛して、それ以上に愛されていたのに。
その全てを一方的に放棄して、自分の一方的な考えを押しつけて、一方的に別れてしまった。
彼は私の考えをあの短い時間で理解し受け入れてくれていたのに。だからこそ、私の前から去ったのに。
一般的には、別れを決意してしかるべきことだ。
けれど、私たちの間にそれを当て嵌めていいのかがわからなくなる。それは当て嵌まらないだろうと思う一方で、ならば受け入れられるのかと問われれば、受け入れられない。この先も同じことが繰り返されるのは耐え難い。
けれど──。
私とお付き合いしている間、智は私以外の人とそういうことはしていなかったように思う。遼子とのあの一度だけだと思う。私が気付かないほど上手くやっていたなら別だけれど、そういうことを隠し通せる人ではなかった。
単に私がそう思いたいだけなのかもしれないけれど。
この一年、ことあるごとに考えてきたことを、また不毛にも考え始め、軽く頭を振って思考を切り替える。
もう考えたって仕方ない。もう智は私のそばにはいないのだから。
「須藤さん、業務外ですが、少し相談させていただきたいことがありまして……」
その日の仕事終わりにそう声をかけると、帰り支度をしていた上司はほんの少し首を傾げ、自分のデスクの前にある打ち合わせテーブルに促してくれた。
「実は、数日前から会社帰りに後をつけられているような気がするんです」
「あなたがわざわざ私に相談するってことは、気のせいじゃないのね」
「おそらく。わざと立ち止まると相手も立ち止まっているような、様子を伺うような気配があります」
「相手はわかる?」
「すみません。怖くて確認できていません」
「それはそうよね。警察へは?」
「何か被害があったわけではないので。もしかしたら勘違いかもしれない可能性も捨てきれませんし」
「わかったわ。しばらく一緒に帰りましょう。今日は帰りにパン屋さんに寄っちゃうけど、いい?」
二週間ほど前から、二、三日に一度、後をつけられているような気がし始めた。最初は気のせいかとやり過ごしていたものの、不意にやり残した仕事を思い出して立ち止まり、もう一度社に戻ろうと振り返ったときに人影を見た。たまたま路地を曲がった人の影かとその時は思ったものの、それからも同じような視線と気配を感じ続けている。
私や須藤さんが会社から借り上げてもらっているマンションは、会社から歩いて通える距離にある。私の足で二十分かからない。他にもいくつかある社宅は、そのほとんどが会社から二キロ圏内にあるそうだ。それゆえ、オフィス街に建っているマンションが多い。夜や週末には平日の昼間と比べて随分と人の姿が減る。
「今日スーパーに行ったのにパンを買い忘れちゃったらしくて。明日の朝のパンがないのよ。うちの子たち、生意気にも朝はパン派だとか言っちゃって。自分で買いに行けって言いたいわ」
須藤さんの息子さんたちは、上の子が中学二年生、下の子が小学六年生だ。礼儀正しく賢そう。須藤さんが今の会社に移るときに翻訳の仕事をしていたご主人がフリーになって、家のことを一手に引き受けてくれることになった。
それでも、やはり彼女が家で食事をとるルールは変わらない。できるだけ早く帰れるよう、私も彼女のスケジュールは効率よくタイトにまとめるようにしている。
彼女と他愛ない話をしながら、途中早々とクリスマス仕様になっているベーカリーに寄り、つい釣られていくつかパンを買ってしまった。須藤さんの満足そうな顔に苦笑が浮かぶ。
「ここの美味しいのよ。この時間でも品揃えが充実しているなんて、働く人の味方よね」
確かに、オフィス街に店を構えているからか、会社帰りのお客さんが多い。
大通りから脇道に入った途端、いつもの視線を感じた。隣の須藤さんの存在が心強く、思わずその視線の先を探してしまうも、あっという間にわからなくなる。
「見付けた?」
「いえ。わかりませんでした」
「いつも感じるのはこの辺りから?」
「いえ。日によって違うような気がします」
眉を寄せ、心配そうな顔をする須藤さんの存在が有難い。一人なら足早に歩き続けることしかできない。
「心当たりは?」
「ありません。まるでわからないから怖いんです」
本当に心当たりがない。たまたま同じ方向に向かって歩いている人かとも思ったけれど、感じる視線や気配がいつも同じような気がして、帰る時間をずらしてみたり、道順を変えてみたりしても、やはり感じる気配は同じものだった。
はっきりと確認したわけではないので、同じもの! と断言はできない。けれど、自分の感覚のどこかが同じだと訴えてくる。
「今埜さん、誰かお付き合いに発展しそうな人は? クリスマスを一緒に過ごせるような」
上司の考えていることがわかってしまう。
「すみません。いざという時に頼れそうな男の人は、まだ当分現れそうにありません」
そう言うと、須藤さんは呆れたように「なかなか出会わないものね」とほんの少し諦めのような表情を浮かべつつ微かに笑った。
智と別れて、五キロ落ちていた体重がさらにそこに三キロプラスされ、あの時の私は鶏ガラのように見えたらしい。
須藤さんが泣きそうな顔で毎日食事に連れ出してくれていた。自分では自覚していなかったものの、食べる量が極端に減っていたらしく、消化にいい物をとにかく食べさせてくれた。その際、須藤さん御一家にもお世話になってしまい、公私ともに頭が上がらない。
しばらく須藤さんと一緒に帰っていたら、二週間も経つ頃には視線も気配も感じなくなり、もしかして勘違いだったかもとさえ思い始めていた。
「本当に大丈夫かしら?」
「大丈夫ですよ。もう感じることもありませんし。飽きたのか、そもそも勘違いだったのかもしれません」
毎朝出勤前に会社が入っているビルの一階のコーヒーショップで、ゆっくりとコーヒーや紅茶を飲んでから出社する。このお店はコーヒーだけじゃなく紅茶も充実していて気に入っている。
いつも私より少し遅れて須藤さん顔を出し、毎朝ここでその日の簡単なスケジュール確認をするのが日課になった。
上司は来週一週間支店に出張だ。面白いことに、旦那さんも同じタイミングで同じ地方での打ち合わせがあるとかで、現地で落ち合うことにしたらしい。その間は須藤さんのお母さんが来て息子さんたちの面倒を見てくれるそうだ。
「うちの子に迎えに来てもらう? あれでも一応男だし」
「今、期末試験中ですよね。それに今は男の子でもあのくらいの歳の子の方が色々物騒ですよ」
「そうだけど……」
「大丈夫ですよ。いざという時には会社の誰かに送ってもらうか、タクシーで帰りますから」
月曜の朝、一度社に顔を出したあと、必ず誰か頼りなさいよ、と言い残して上司は出張に出掛けた。今回私は同行しない。
その日から毎日、また視線と気配を感じるようになった。帰りだけじゃなく朝も。今まで出勤時に感じたことはなかったのに。
三日目に観念して、日のある朝はともかく、暗くなる帰りはタクシーを使うようにした。会社の前で乗車して、マンションの真ん前で下ろしてもらえば、目の前にはコンシェルジュが待機するロビーがある。
ところが金曜日の夜、つい須藤さんがいない間に終わらせてしまいたいと夢中で仕事をしていたら、終わる頃にはいつの間にか二十一時を回っていた。慌てて帰り支度をして、会社前でタクシーを捕まえようにも、金曜の夜だからかなかなかつかまらず、諦めて歩いて帰ることにした。足早に、少し遠回りでも大通りを選んで。
歩き出してすぐに感じた視線と気配に、どうしようもないほどの恐怖が込み上げた。いつも感じるよりも強い視線と近い気配。
誰かに連絡を取ろうとして、焦るあまり誰に連絡を取っていいかわからなくなる。不意に思い浮かんだのは智で、思い浮かんでしまったら智以外が思い浮かばなくて、咄嗟に電話をかけてしまった。
『梨花? どうした?』
聞こえてきた優しく懐かしい声に、恐怖と安堵が入り混じって縋り付きそうになる。
「智、あの、いきなりごめんなさい。どう、どうしよう」
『落ち着いて。何があった?』
「誰かにつけられているみたいで」
『今どこ?』
場所の説明をすれば、すぐに来てくれると言う。周りに開いている店はないかと聞かれ、すぐ側にあったコンビニに逃げ込んだ。大通りを選んでいてよかった。いつもの帰り道だとコンビニなんてなかった。
『いい? 電話切らないで。そのまま店員に事情を説明して保護してもらって』
言われるがままカウンターにいた女性店員さんに事情を説明して、迎えが来るまで店内にいさせて欲しいとお願いする。警察を呼ぶかを聞かれて智に聞けば、とりあえず彼が来るまでそこで待たせてもらうことになった。
お店に入ってくる全ての人が疑わしくて、怖くてカウンターの側から離れられない。会計の邪魔になっていることはわかるのに、店員さんの死角に入るのが怖い。
すごく強い視線だった。その息遣いまでが伝わってきそうな、ほんの数歩で捕まってしまうかと思う程の距離に感じた。
何人かが入れ替わり会計を済ませたり、後ろを通り過ぎていく。
──外で待ってるから……。
ぼそっと呟かれた低い声。びくっとして慌てて周りを見れば、何人もの人が目に入るも、誰が言ったのかがわからない。私に言った言葉なのか、他の誰かに言った言葉なのかもわからない。それらしき会話をしている人も見当たらない。男の人の声だった。
「今、今……」
『大丈夫、もうすぐ着くから。どうした?』
「外で待ってるって聞こえて」
『コンビニから絶対に出るなよ』
そこで携帯電話から、バッテリーが残り僅かだと告げられた。バッテリーの持ちが悪くなっていたのに放置していたツケだ。
「どうしよう、バッテリー切れちゃう。充電器あったよね、コンビニに」
『動くな! 電話が切れても、カウンターの側から動くな。絶対に。店員のそばにいて』
「でも、切れちゃう」
命綱のように感じていた繋がりが切れてしまう。
『大丈夫、もうすぐ着くから──』
その瞬間、バッテリーが切れた。
「一緒に充電器取ってきましょうか?」
心配そうな女性店員さんがそう声をかけてくれるも、次々と切れ間なく続くお客さんに手が離せない。並んでいるわけじゃないけれど、レジは稼働しっぱなしだ。店員が二人しかいないのか、もう一人もカウンターで会計を行っている。
「彼氏さんの番号覚えてます? 私の携帯使って下さい」
そう言って携帯電話を貸してくれようとしたとき、ドアが開き、見覚えのあるコートを着た智が息を切らせてお店に駆け込んできた。
思わず駆け寄って抱きつく。抱きしめてくれる腕の強さと、外の匂いに混じって香る智の匂いに、体の力が抜けそうになる。
「よかった、無事で」
強められた腕の力に心の底から安堵した。
嘘のようにお客さんが引けて、聞けば客足には波があるらしい。今日は急にアルバイトが休んでしまい、二人しかいなかったそうだ。だから奥の事務スペースに匿ってあげられなくてごめんなさいと、逆に謝られてしまった。気遣ってくれた女性店員さんにお礼を言って、智と一緒にお店を出る。
出るときに怖くて足がすくみそうになると、智がしっかりと肩を抱き寄せてくれた。寄せられた体がその位置に違和感なく馴染んで恐怖が薄れる。
「家まで送るよ」
「ごめんなさい。迷惑かけて」
「迷惑じゃないよ。俺を頼ってくれて嬉しかった」
お店を出て歩き始めると、どうしても周りが気になってしまう。
「感じる?」
「今は感じない」
私は人より恐がりだからか、人の視線や気配を感じやすいらしい。それを教えてくれたのも智だった。
マンションがもうすぐ見えるというところで、また視線と気配を感じた。びくっとして思わず智にしがみついてしまう。
「梨花」
呼ばれて顔を上げると、智と唇が重なった。その瞬間微かに聞こえた舌打ちのような音。
「嫌だった?」
否定の意味で小さく首を振れば、もう一度触れるだけのキスをされた。最後に下唇を啄むようにして離れていく。いつもの智のキスの癖。
何かが解けていくようだった。ただ触れただけのキスなのに、自分の中にあった頑なな何かがほろほろと崩れ出す。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
智にしがみつき、零れる言葉は彼を拒絶したことに対する謝罪。身勝手さに対する懺悔。謝ったところで取り戻せない後悔。
「謝らないで。悪いのは俺だから。梨花、また俺のそばにいて」
驚いて顔を上げれば、怖いくらい真剣な顔をした智に、もう一度同じ言葉を繰り返された。
「俺のそばにいて。俺は、梨花さえいてくれればそれでいいんだ。他は何もいらない。もうあんなことは二度と起きない」
それは、受け入れなくてもいいってこと? 私だけが唯一の相手になるってこと?
「あの時、梨花に試したければって言われた時、俺は自分の好奇心を優先したんだ」
「ごめん──」
「違う! 梨花は悪くない。俺が、本当は必要のない好奇心を押さえられなかっただけなんだ。そんなもの、梨花と比べたらゴミみたいなものなのに」
言われたことが上手く飲み込めない。それでもやはり、あの時私がちゃんと拒めばよかったんだってことはわかった。
再び歩き始めると、感じたはずの視線も気配もなくなっていた。見えてきたマンションの明かりを指差す。
「今住んでるの、あのマンションなの」
「えっ?」
驚いた顔の智を見て、それもそうだろうと思う。
正直言って、それまで住んでいたマンションとは外観からして違う。明らかに高級マンションだとわかる佇まいに、住み始めてしばらくは自分の存在が場違いな気がして、悪いこともしていないのにこそこそしてしまった程だ。
マンションのエントランスの風除室を抜けると、コンシェルジュの男の人の姿が見えた。会釈するといつも丁寧に挨拶を返してくれる。ここ最近その声が聞こえるとどれほど安堵したことか。彼らは警備員も兼ねているので、いざという時にも頼りになると、須藤さんが話していた。
ここまで来ればもう大丈夫だ。そう思ったときに聞こえたコンシェルジュの声。
「お帰りなさいませ。松下様、お荷物をお預かりしております」
どういうこと? どうして智の名前を知っているの? 荷物預かってるって?
「あのさ、梨花。梨花が勤めてるのって、もしかして須藤さんと同じ会社?」
「そう。須藤さんの補佐をそのまま続けてる」
「くそっ、やられた!」
頷きながら答えれば、智が小さな声で悪態をついた。
「どういうこと?」
「あー、ちょっと着いてきて」
コンシェルジュから小さな荷物を受け取る。きっといつも買っていた専門書だろう。
繋いだ手を引かれ、オートロックを抜ける。どうしてここのカードキーを持ってるの? 疑問を浮かべたままいつも乗るエレベーターのひとつ奥、中層階用のエレベーターに乗せられる。
「智、ここに住んでるの?」
「そう。正確にはこの秋から住み始めたの」
エレベータの扉が開くと、手を引かれ、いくつかのドアを通り過ぎ、一番奥のドアを開けた。
「今の俺の家。説明するから、嫌じゃなかったら入って」
お邪魔します、と靴を脱ぐと、スリッパを用意してくれた。思わず顔を見れば、ばつが悪そうに笑っている。
「ちゃんと用意したんだ。梨花に言われてたから」
智はスリッパを履く習慣がなかったからか、来客用のスリッパを用意していなかった。
男の人の一人暮らし、必要ないかとは思ったけれど、時々来る坂木君たちや学生時代の友人たち用にと、いくつか用意したことがある。その時にちゃんとスリッパが用意されていると、出迎えてもらえているようで私なら嬉しい、そう話したことがあった。
そんな些細なことをちゃんと覚えていてくれる。彼はそんな人だった。
招き入れられたリビングは、がらんとしていて人が住んでいる気配が一切ない。家具ひとつなく、カーテンすら掛かっていない。
「あー…寝に帰ってくるだけだからまだ何も買ってなくて。前の家の物は全て処分したから何もないんだ」
キッチンを見れば冷蔵庫すらなかった。ミネラルウォーターが何本かシンクの上に並んでいる。
「まさか、洗濯機もないの?」
「さすがに洗濯機と掃除機は買った。あと、ベッドも」
覗き込んでいたキッチンから反射的に振り向けば、コートすら脱いでいない智が、怖いほど真剣な顔をしている。さっきも見た、必死なほどに真剣な顔。
「梨花、俺とセックスできる?」
誤魔化しのない言葉に、咄嗟に返す言葉が見付からない。
ふわりと抱きしめられた腕の中、感じるのは安堵だけだ。この腕の中にいることが世界で一番安全だとすら思える。
「抱きしめるのは大丈夫だろう?」
目を合わせ頷けば、重ねられた唇。いつもの癖で薄く開けば、入り込んできた智の舌が温かい。
初めは様子を見るかのように、優しくゆっくりと動かされ、それに応えるのが当たり前かの様に自然と舌が動く。
何もかもが自然だった。抱きしめられている腕の位置や強さ、傾ける顔の角度、重なり合う唇に、絡み合う舌の動き、その温度やその息遣いさえもが、当たり前のように自然だった。
「梨花、全部試したい」
私も試したい。もっと触れたい。全部触れて欲しい。
体中が寂しかったと訴える。あんなに拒んだくせに、心より先に拒んだくせに。今度はあっさりと智の全てに応えたいと訴える。
あれ以来一度だってそんな気にはならなかったのに、自分の奥がぬかるんでいくのを感じる。
自分から智の首に腕を回し、キスをする。私からして欲しいときの合図だ。
そのまま抱き上げられ、一度廊下に出るとひとつのドアを開けた。広めの部屋の真ん中に大きなベッドがひとつ。この部屋は適度に乱れていて生活感がある。
「大きいベッド」
「あれと同じサイズのベッドはもう無理だったんだ。だからってシングルは狭いし、ダブルにしようと思って買いにいったら、ダブルよりクイーンの方がいいって店員に勧められて──」
「買っちゃったの?」
「買っちゃったの」
このやりとりもよくしていた。智は一人で買い物に行くと、店員さんに勧められるがままに買ってしまう。大抵後悔することになるから、何かを買うときは一緒に行くことが当たり前になった。
「後悔した?」
「した。でかすぎて一人を意識しすぎる」
ベッドの脇に下ろされ、話しながらコートを脱がされ、キスしながらワンピースが足元に落とされる。私がひとつ脱がされるごとに自分もひとつ脱いでいく。私だけが脱がされるのは恥ずかしいと言ったら、そんな風に順番に脱いでくれるようになった。
「智、先にお風呂に入りたい」
「だめ。確かめるのが先。先に確かめさせて。あそこは舐めないから」
それも私が言い出したことだ。お風呂に入らないときは舐めないでって。
色んな思いが込み上げ、鼻の奥がつんと痛む。あまりに当たり前で、あまりに自然で。一年前に別れたなんて思えないほどに。昨日までの続きかと錯覚してしまうほどに。
下着を脱がされる前にベッドに入れられる。寒がりな私のために自然とそうしてくれていた。
ひんやりとしたシーツに奪われる体温を、智がしばらく抱きしめて温めてくれる。それまでと何も変わらない。本当に何も変わらない。触れる肌の感触や温度、手の動きや唇の動き、絡め合う足の位置までも。
下着を取り払われ、首筋から啄むようにゆっくりと体中にキスが落とされていく。右の乳首を咥え、脇をなぞられながら左の乳房を愛撫される。
息が上がっていく。
いつも与えられる快楽に不安になって手を伸ばすから、右手をしっかりと握っていてくれるようになった。
確かめるように全身を丁寧に愛撫される。その全てが気持ちよくて、嬉しくて、それだけで幸せだと感じてしまう。
「いつもより敏感になってる。梨花、欲しい?」
頷けば、言葉にしてと耳元で優しく言われ、耳の縁を舌でなぞられ軽く歯を立てられる。ちゃんと言わないといつまで経っても与えてくれない。
「欲しい。智のが欲しい。智のしかいらない」
言えば足の間を指でゆっくりとなぞられる。それだけで声が上がり体が跳ねる。
「本当だ。欲しくて欲しくてたまらないみたいだね」
入り込んできた指。軽く中を撫でられるだけで、簡単に体が跳ね上がる。
「狭くなってるのに感度は上がってるって、まるで熟成されたみたいだな、梨花は」
中を指で擦りながら、乳首を咥えられ、クリトリスを捏ねられる。
一度に与えられた刺激に、まるで駆け上がるかのように一気に上りつめる。体中に力が入り、智と繋がれた手をぎゅっと握り、歯を食い縛ってしまう。体の力が一気に抜けたあと、落ち着くまで啄むキスが体中に落とされた。その度に小さく体が跳ね、声が上がる。
「梨花、入れるよ」
その瞬間、浮かび上がりそうになった何かを遮るように、強く名前を呼ばれた。
「梨花! 俺を見て。俺だけを見て。最後まで俺から目をそらさないで」
言いながら入り込んできた智は、いつもより大きく感じた。
「やっ、大きい?」
「俺もいつもより大きいけど、梨花もいつもより狭いんだよ」
目を合わせ少しずつ前後するように動かしながら中程まで入ると、目を合わせたまま一気に奥まで突き上げられた。
それだけでいってしまう。仰け反るほどの突然の強い快楽に思考が追いつかない。
落ち着くまでぎゅっと抱きしめて待っていてくれた。
今まで感じたことのないほどの幸福感。心も身体も満たされていく。
「ごめん、余裕ない。多分長く持たない。一気に動いていい?」
ゆっくりと瞼を開けると困ったような智の顔。頷けば、愛おしそうに笑う。
目が覚めるかのようだった。
いつも抱かれている間はほとんど目を閉じてしまっていた。開けても滲んだ涙で霞がかったようなぼんやりとした視界だった。だからちゃんと見たことなんてなかった。
私の中にいるときの智が、こんなにも幸せそうに、愛おしそうに私を見ていたなんて。
「梨花、愛してる」
「私も、愛してる。智だけ」
「俺も。梨花だけ。梨花だけが欲しい」
動き出した智は、言葉通り余裕がないのか、いきなり激しかった。
再び一気に高みに連れて行かれ、下ろされることなく何度も押し上げられる。止めどなく艶めいた声が上がり、快楽が頂点を極める度に体中に力が入り、歯を食い縛る。
体中が喜んでいる。体中が歓喜と快楽に震える。気持ちよすぎておかしくなりそうだ。自分の中心が嬉しそうに智の中心を抱え込み、嬉々として締め付ける。
私の体は智によってつくられた。智だけが知る体。智しかいらない体。快楽と一緒に涙も零れる。
智は避妊しなかった。緩んだ思考でそれでいいと私も思った。
彷徨っていた思考が纏まり始める。智の腕によってその体に抱き寄せられ、いつもと同じように覚醒する。
「俺、この秋に転職したんだよ」
私の意識が戻ったのを知ってか知らずか、智が唐突に話し始めた。
あまりに腕の中が気持ちよくて、このまま眠ってしまいそうになる。
「須藤さんに引き抜かれて」
目が覚めた。
「どういうこと?」
「そういうこと。俺、梨花と同じ会社で働いてるんだよ。ここ、会社が借り上げてくれてる社宅」
「でも、会ったことないよ? あっ、最近システム部に行かなかったからだ」
「システム部って、梨花たちのいる高層の方じゃなくて、低層の方に入ってるんだ」
そうだった。互いに行き来しなければ会うわけがない。
会社が入っている複合ビルは、高層と低層に別れていて、ビルの入り口すら真逆に口を開けている。
ここのところシステム部に用があるときは、須藤さん自らが行ってくれていた。気分転換とか言っちゃって。帰りにちゃっかりコーヒー買ってきたりして。
それにしてはこのマンションのエントランスでも会わなかった。
「もしかしてコアタイムぎりぎりに出社してる?」
智は朝が弱い。前の会社でもシステム部はみんなコアタイムぎりぎりに出社する人が多かった。私や須藤さんは九時には社にいるようにしている。
「おかげで梨花から連絡貰ったときも会社にいたんだ。あそこは会社からの方が近いだろう?」
そうだ。だから通りの名前と交差点の名前を言っただけで場所をわかってくれた。コンビニの店名を言っただけで駆けつけてくれた。あの時は焦っていてわからなかったけれど、前の会社にいたままだったら、あんなに早く駆けつけられるわけがない。
ちょっと頭の中を整理したい。
「お風呂入っていい? ……智、お風呂ちゃんと洗ってるよね?」
「洗ってくる」
慌てて部屋を出て行く彼の後ろ姿があまりにも情けなくて、思わず笑ってしまう。智は水回りの掃除がとにかく嫌いで、金曜日に彼の家に行くとまずは水回りの掃除をしていた。
ふと不安になる。あれから一年以上経っていることを思い出した。
慌てて手近にあった智のシャツを羽織り、智の後を追う。中から零れ出した体液に一層不安が募る。もう私たちはあの頃の私たちとは違うのに。
全裸のまま背を丸め、一生懸命お風呂の掃除をしている智を目にした途端、あまりに間抜けで、あまりに自然体で、涙が零れた。
何よりも水回りの掃除が大嫌いなのに、真剣な顔をして私のために洗ってくれている。
私は取り戻したのだろうか。誰よりも愛おしんだ人を。
「どうした?」
振り返った智は慌てたように手に付いた泡をシャワーで流す。
「私が掃除する。私が掃除するから……」
濡れたままの手で頭を撫でられ抱きしめられる。
「梨花。来年俺たち三十なんだ」
頷けば、また怖いほど真剣な顔をされる。
「結婚しよう」
足の間から零れ出したものが、お風呂の床に伝い落ちた。