性質の差異
第三話ゴシゴシと溜まりに溜まった汚れをこれでもかと擦っている。
もういっそ自分の家に戻ってお風呂に入ればいいかとも思う。もうこれは強力な洗剤に頼らなければ落ちない汚れだ。こんな柔らかで小さなキッチン用スポンジで落ちる汚れじゃない。このスポンジ、きっと何かの景品だ。
「智、もうさ、お風呂うちでもいい? この汚れは簡単には落ちないよ。どうしてここまで汚れを溜め込むの?」
「梨花さん、お返事をいただけるとありがたいのですが」
「智さん、真っ裸でお風呂掃除しながら言うことですか?」
「ごもっともですが、できればお返事を頂戴いたしたく」
「まずはお風呂に入ってからです」
お風呂の掃除を諦め、身に着けていた服をもう一度簡単に着る。コートの前を閉めてしまえばわからないだろう。脱いだストッキングなんてもう一度履く気にはなれない。
「智? 仕度できた? それとも智はお風呂入らなくていい?」
「入る。ここんとこシャワーばっかりだったから嬉しい」
冬になると週の後半、お風呂に入りたくて時々うちにいきなり来ることがあった。自分で洗って入ればいいのにと何度思ったことか。
エレベーターに乗り、一度ロビーまで下りて低層階用のエレベーターに乗り直す。誰にも会わないよう、こそこそしてしまうのは仕方がない。
このマンションのエレベーターは一基ごとに乗降の優先階が決まっている。おかげで高層階に住む須藤さんは一定階以上は止まらないからストレスがないと言っていた。
「へぇ、こっちも広いなぁ」
「智のとこは2LDK?」
「そう。ひと部屋でいいって言ったんだけど、須藤さんがあの部屋しか空いてないって無理矢理。後で総務にそれとなく聞いたら、他のマンションなら空きがあったって言われて、おかしいなとは思ってたんだよ」
お風呂を洗ってお湯を張る。その間ずっと智は私に付き纏っていた。新しい家の間取りに落ち着かないのだろう。今まではどこにいてもその姿が見える狭い部屋だったから。
「智、先に入る?」
「いや、いいよ。いつも通りで」
いつも通り。その言葉に過剰に反応してしまう。
本当に、あまりにも何もかもがいつも通りで、それが自然なことに思えて少し戸惑う。
私が先に入り、全身を洗って湯船に浸かる頃、智が入ってきて全身を洗う。ゆったりといつまでも湯船に浸かっていたい私と、ある程度浸かると満足してしまう智。当時はどちらの家も追い焚き機能のないお風呂だったから、一緒に入る方が経済的だった。
「追い焚きできるからゆっくり入れるよ」
「いい。一緒で」
まるで駄々っ子のような言い方に思わず笑みが浮かぶ。これ以上言うとむっとするのがわかっていて、わざともう一度言うこともあった。
全身を洗い終える頃、今までと同じタイミングで智が入ってくる。変わらない洗い方にどこか安堵しながら、湯船に浸かってただ智だけを見ていた。
「うちの風呂もだけど、広いよなぁ。二人で入っても余裕がある」
「今まではぎちぎちだったもんね」
後ろから抱えられ、お腹に回された腕に力が入る。後ろから首筋に吸い付かれると、それだけで洗ったばかりの足の間が再びぬめり始める。
「梨花、体重戻ってないだろう? 胸が小さくなってる」
「でも一時期よりは戻ったんだよ」
「梨花、もうすぐ生理来るよね。中で出しても平気だったよね。もしかして周期変わってる?」
変わってない。そうだ、生理の前はいつも避妊していなかった。絶対じゃないからって、結婚を意識した三年目から始めたことだった。
振り返るとキスされる。啄むようなキスが次第に深くなり、貪るようなキスに変わる。体の向きを変えられると、智が中に入ってきた。どうしようもないほどに気持ちいい。ゆるゆると奥だけを擦られる焦れったいくらいの動きは、思考を奪うまではいかない。たゆたうような動きと気持ちよさに、心が満たされていく。
「俺、勃起不全なんだよ。EDってわかる?」
意味はわかる。けれど、その言い方だと今でもそうだと聞こえる。私の中の智が小刻みに奥を突いている。
「何か精神的な強いストレスがあったんじゃないかって言われてるんだけど、思い当たる原因はないんだ」
腰を掴んだ手がゆったりと動き、奥を同じリズムで擦られる。智に抱きつき、与えられるゆったりとした快感と、彼の声だけを聞く。それだけに集中しているからか、頭の中が妙にクリアだ。
「オナニーはできるんだけど、アダルトビデオや雑誌に載ってるような、実際の女性を見ては無理なんだ。自分の中の適当な妄想だけ。おかしいとは思ったんだけど、周りにも色んな趣味のヤツがいたからそこまで気にしてなかった。だから気付いたのは高校の時で。どんなに好きになった子とそういうことをしても、どれだけ興奮しても、勃起しなかった。高校の頃はそれでもなんとか誤魔化せたけど、大学に入る頃には誤魔化せなくなって、付き合う子付き合う子、どれだけ俺が好きだって言っててもしばらくすると離れていった」
突然湧き上がった快楽の爆発に、仰け反りながら悲鳴が上がる。悲鳴が彼の口の中に飲み込まれ、体を動かした彼のほんの僅かな刺激にさえ、強烈な快感が伴う。
繋がったままお風呂から出され、軽く体を拭かれる。そんな刺激にさえとてつもない気持ちよさに襲われる。勝手に暴れ出す体を押さえ込むように智に必死にしがみつくと、繋がったまま歩き出されたのか、その振動が強烈すぎる快感を与え、再び悲鳴が上がり背がしなる。
柔らかな場所に下ろされ、肌に触れるその全てが快感を呼ぶ。腰を押しつけたまま奥に刺激を与え続ける彼に、自分から絡みついて貪欲に快楽を貪っていく。
まるで全力疾走を何度も繰り返したかのような息の上がり方。
ゆっくりと時間をかけて奥を刺激されたあとにいきなり訪れる、強烈で長い快楽は、まるで麻薬のように全てを蝕む。
自分が何を言わされているのか、どんなことをさせられているのか、どんな姿をとらされているか、何もかもがわからなくなる。どれだけ彼を求めていたか、それだけが記憶に残る。もっともっとと、ただ快楽だけを求めてしまう。
「梨花」
名前を呼ばれ口移しで水を与えられた。
「頭痛い?」
「いたい」
声がかすれて喉が少し痛い。もう一度喉を湿らせてくれる。
「これのあといつも梨花は頭が痛くなるよなぁ。頭に血が上りすぎるのかなぁ。もっと頭の位置高くした方がいいのか? それより仰け反らせすぎないようにした方がいいんだろうなぁ」
ぶつぶつと独りごちる智の声が心地いい。今度は体が起こされ、欲しいだけ水が与えられた。
「このまま寝る?」
眠い。
不意に目覚めると、「起きた?」と智の声がかかる。智は眠らなかったのだろうか。
「梨花のベッド、あの頃のと一緒だ」
さっきセミダブルが苦手になったと聞いたばかりだ。私のベッドも智のベッドも、付き合い始めてしばらくして、互いにセミダブルに買い替えたものだった。
「ごめん、嫌だったよね」
「いや、自分のベッドがダメになっただけだよ。このベッドは平気。むしろ今はこの大きさが懐かしい」
言いながら智のお腹がぐうっと鳴った。私もお腹が空いた。
「何か軽く食べる? 私もお腹空いた。今日はまだ夕飯も食べてなかった」
「俺も。何か一気に腹が減った」
ゆっくりと起き上がり、ルームウェアを着せられ、智に支えられながらキッチンに立ち、冷凍していたご飯で洋風雑炊を作る。トマトの水煮とベーコン、適当な野菜を刻んで煮込むだけの簡単なそれは智のお気に入りだった。
「さっきミネラルウォーター取り来たときも思ったんだけど、梨花んちの冷蔵庫って相変わらずなんでも揃ってるよね」
「家で食べるから」
「やっぱり一人での外食やコンビニ弁当は苦手?」
頷きながら、器に盛りシュレッドチーズをたっぷりとのせると智が嬉しそうな顔をした。
軽くオーブンで焼いている間に、簡単なサラダを作っておく。
小さなダイニングテーブルに向かい合って座る。これを買うとき、椅子を一脚にするか二脚にするかで悩み、二脚買ってよかったと正面に座って食べる智を見て思う。
誰かが座るなんてあの時は想像もしなかった。単にバランスを考えて二脚にしただけなのに。一脚じゃなんとなく寂しい気がして。
とろけて糸を引くチーズと熱さに、智が苦戦しながら息を吹きかけ口に運んでいる。
「真夜中にたっぷりのチーズは危険な気がする」
「梨花はもう少し太った方がいいよ」
「でも、智も少し痩せたよね」
「そりゃあね。大事なものをなくしたんだ。痩せない方がおかしいよ」
定期的にジムに通っていた智は、それなりに背も高く引き締まった体をしていた。その線が以前よりも細くなっている。
互いにお腹が満足したあと、食後のコーヒーには牛乳をたっぷりと入れたマグカップを渡すと、智がこれでもかと言うほど嬉しそうに笑う。
「話の続き聞けそう?」
「大丈夫。なんだか目が覚めちゃったから。でも智、ちゃんと勃起ってるよね。さっきだって──」
「梨花だけなんだよ」
その言葉に首を傾げる。どう言う意味なのかがわからない。
「もう会社に入る頃には色々諦めてたんだ。長く付き合うことは無理だし、結婚なんてできないだろうって。俺にとってのセックスって、挿入は含まないんだ。キスし合ったり、互いに触れ合うことが俺にとってのセックスだった」
後ろから抱きしめられるように小ぶりのソファーに二人で横向きに座り、静かに智の話に耳を傾ける。直接顔を見ては話しづらいのかもしれない。
聞きたいことも色々ある。けれど、まずは彼の話を最後まで聞きたい。
「でも梨花に出会って、どんどん惹かれていって、付き合うことになって。短い期間で終わってしまうのが惜しいくらいに好きになって。キスも何もかもがたどたどしい梨花がとにかく大事で。初めて肌を合わせたとき、梨花がこういうことは初めてだって、すごく幸せだって教えてくれて。その時、初めて微かに反応したんだ」
最初のうちは触れ合うだけだった。初めて触れ合うキスをして、初めて深いキスをして、初めて体を触られて、初めて肌を見せて、初めて体中に触れられた。
段階を追っていくごとに深まる関係に、当時の私はそれだけで十分に刺激的で、彼についていくのが精一杯だった。
「梨花と触れ合うごとに反応が大きくなっていったんだ」
初めて肌を重ねてから挿入するまでに数ヶ月かけてくれた。おかげで初めてでも不安はなかったけれど、その種明かしがそんな事情だったとは、当時は想像すらしなかった。
「梨花は、触れ合っただけでも満足してくれただろう? 今だって、挿入しなくても満足してくれる」
「みんなそうじゃないの? 智に触られているだけでも気持ちいいから、それだけで十分幸せだけど」
特にどちらかが突然会いたくなって会う平日などは、触れ合うだけになることが多かった。会って触れ合えただけでも十分幸せだった。
「どうなんだろうな。俺が今までそういう人に出会わなかっただけかもしれないけど」
なんとなく嫉妬のような感情がぷくっと膨らむ。何かを感じたのか、ぎゅっと抱きしめる腕に力が入り、持っていたマグカップが揺れ、カフェオレが零れそうになる。
「梨花の嫉妬は可愛いな」
「どうしてわかるの?」
「どうしてだろうね」
くつくつと笑う智から微かな振動が伝わってくる。顔が見たくて振り向けば、そのまま軽くキスされた。
「梨花の初めてが俺だったように、俺の初めても梨花だから」
話を聞いていればそう言うことになるのだろう。何を初めてとするかにもよるだろうけれど。
残りのカフェオレを飲み干すと、二人分のマグカップがコーヒーテーブルの上に並んだ。以前から使っていた二人で買ったお揃いのマグカップ。どうしても捨てられなかった。ふたつずつ揃えた食器も。
「そういう体質だったから、セックスに対する興味はむしろすごくあったんだ。挿入しなくても満足させられるようにとか、どうすれば気持ちよくさせられるかとか。だから、晄平や遼子の話にはすごく興味があった。梨花には勃起しても、梨花以外にはやっぱり反応することはなかったから、いつまた反応しなくなるかわからなかったし」
「私の何が智のスイッチを押したんだろうね」
「何だろうね。梨花だけが特別なのか、梨花以外にもそういう人がいるのかはわからないけど、俺は梨花だけでよかったんだ」
けれど。あの日、智は遼子の中にも入った。
「あの日、初めてだったんだ。どれだけ卑猥な話しをしても、今まで一度だって遼子に反応なんてしたことなかったのに。あの日、梨花に試したかったらって言われた瞬間、自分でも驚くくらい勃起してたんだ」
抱きしめられる力が強くなる。聞きたいのか聞きたくないのかが自分でもわからない。ただ、聞かないと前に進めない気がする。
「遼子と触れ合う気はまるで起きなかった。でも挿入には興味があった。俺にとってセックスは触れ合うことで、挿入することじゃなかったから。一般的な考えとはかけ離れている思考なのに、その時はそこまで考えられなかった。梨花にしていた全てを試してみたくなった。梨花が満足してくれていたのは知っていたけど、もっと梨花を満足させられるかもって、まるで実験のようにしか考えていなかった」
自分の放った一言が全ての引き金だった。間違えたのは私だ。
「あれは、梨花がそばにいたからこそ、梨花に見られていたからこそ起きた現象だったんだ。それでも射精することはできなかったけど。梨花がいなくなったあと、遼子に反応することは二度となかった」
複雑すぎることを告げられて、何を思えばいいのかわからなくなる。
確かに彼の言う通り、遼子にしたのは挿入だけだった。キスはおろか、最初から最後まで愛撫すらしていない。おまけに射精までしていなかったなんて、あの時は気付かなかった。だからといって、受け入れられたわけじゃないだろうけれど。
「こう言うと梨花は自分のせいだって思うだろうけど、それは違うから。ただそれが事実ってだけなんだ。間違えたのは俺であって梨花じゃない。俺自身は梨花が他の男に触れられるなんて考えられないのに。矛盾してるよな」
実行したのは智だけれど、その背を押したのは私だ。私にはそう思える。
わからなくなる。誰のせいとか誰が悪いとか、そういうことじゃないような気がする。
あの事実はショックだけれど、彼らを憎めなかったのはそういう部分だ。
「智は、私に見られてまた他の人としてみたい?」
「そうだな、正直に言えばセックスに興味がないとは言えない。でもそれで梨花を失うくらいなら、その程度の興味はゴミみたいなものだよ」
さっきも同じようなことを言っていた。私は、別れる前にちゃんと彼の言い分を聞くべきだった。そうすればもっと早くわかり合えていたかもしれないのに。
それともこれは必要な時間だったのだろうか。そんな気もする。
「俺は、梨花さえいてくれればいいんだ。梨花が俺によって気持ちよくなってくれればそれだけでいいんだ」
「いつだって気持ちいいよ。入れても入れなくても。入れたときの強烈な快感も、入れないときの緩やかな快感も、智から与えられるものはどっちも気持ちいい。だって、私の体をつくったのは智だから」
あの時の彼の思考は正直に言えば、よくわからない。私にとってセックスは挿入も込みでセックスだ。
私は智が与えてくれる快楽しか知らない。それ以外を知りたいかと聞かれれば、わからなくなる。知りたいかを問われると首を傾げたくなるけれど、そこの行為自体に興味がないわけではない。
そして、やはり私もそれで智を失うくらいなら、知らなくていいと思う。
「そうだな。俺がそんな風にしたんだ。俺が、俺が梨花の体をつくった」
智の声が微かに震えた。
「ごめん梨花。本当にごめん。謝って済むことじゃないってわかっている。でも、ごめん。傷付けてごめん」
「私こそごめんなさい。ちゃんと嫌だって言えばよかった。もっと早く智のことわかろうとしなくてごめんなさい。甘えていたのは私の方なの。智のこと何も理解していなかった。わかったつもりになって、勝手にショックを受けて、勝手に拒んで、本当にごめんなさい」
体を捻り、彼の胸に顔を埋める。抱きしめてくれる腕が心強い。こんなにも安心できる場所なのに、どうしてあの時の私は拒めたのだろう。自分のことなのにわからなくなる。
智に体を寄せるとすっぽりと包み込んでくれる。温かくて心地いい。
「拒むのがきっと普通の反応なんだよ。それだけ梨花が俺のこと好きでいてくれたってことだ」
その通りなのだろうと思う一方で、身勝手なことをしたのは間違いない。ちゃんと智の言い分を聞こうともしなかった。正直、聞いた今でもよくはわからないけれど。
けれど、もし逆だったら、彼はきっと私の話を聞いてくれていたように思う。
「俺、さっき梨花と久しぶりに触れ合って、ちゃんと勃起して、梨花の中に入って、梨花の中に出せて、初めてセックスはその全てがセックスなんだって実感できた。だからまるで余裕がなかったんだ。あんな風になるんだな、気持ちひとつで」
それは考え方が変わったってこと? それは私の考えに近くなったってこと? 単に実感できたってだけ?
なんだかもうどうでもいい気がする。そんなことより智がそばにいてくれることの方が大事だ。
「梨花。眠くなったからっておざなりに考えるのやめて。ちゃんと考えて、さっきの返事をして」
「さっきの?」
「結婚しようって言ったでしょ」
「わかった」
「わかってないでしょ? 梨花? 寝るならちゃんと歯を磨いて」
洗面所に行き歯を磨く。後ろで智もしゃこしゃこ音を立てながら歯を磨いている。
歯ブラシちゃんと持って来てたんだ。いつもこうだったなぁ。
駄目だ。眠い。あの強烈な快楽のあとで起き上がること自体、無理な話だった。体の力が抜けそう。
「ほら、立ったまま寝ないで。ちゃんと口ゆすいで」
言われた通り口をゆすぎ、渡されたタオルで口元を拭う。智が簡単に綺麗にしてくれていたけれど、もう一度お風呂に入りたい。シーツも替えたい。けれど、もういい。眠い。
結局智に抱きかかえられてベッドまで運ばれたような気がする。
翌日、お昼までぐずぐずと寝ていた。途中何度か目が覚めたけれど、智の腕の中にいることが心地良すぎて、目覚める度に再び微睡んでしまう。
軽く朝食兼昼食を食べ、シャワーを浴びようと思ったところでどうせ汚れると後回しにし、家中の掃除道具を持って智の家に行き、全ての部屋をチェックした。
寝室に使っていたひと部屋以外、まるで何もない。キッチンは使われた形跡すらなく、うっすら埃を被っている始末。お風呂と洗面所はもうチェックしたから後回しにして、恐る恐るトイレのドアを開けたら、思っていた以上に綺麗だった。
「トイレの掃除はしてたの?」
「あー、使うと汚れるからなるべく家でしないようにしてた。さすがに風呂は無理だったけど」
呆れて物も言えない。そこまで嫌い?
お風呂も含め、全てが綺麗になった頃にはすっかり日も暮れていた。智は洗濯だけはマメにするのが唯一の救いだ。ゴミもマメに捨てている。埃だらけになる前には掃除機もかけていた。
自分の家に戻り、お風呂に入り、夕食の仕度をする。ずっと智は私のそばにいて離れようとしなかった。だからといって、水回りの掃除を手伝ったりしないのが智だ。どうかと思う。自分の家なのに。むかついたから掃除機くらい自分でかけるよう言うと、しょぼくれながら掃除機をかけていた。
「あのね、見張ってなくてもいなくならないから」
「わかってるけど。そばにいたいんだよ、しばらくは」
「月曜日、智の家に引っ越すことを総務に言うから。智の方も手続きして──」
言葉の途中で後ろから思いっきり抱きしめられた。
「梨花、結婚して」
「わかったから。包丁持ってるのに、危ないから」
「ちゃんと返事して!」
包丁を置いて、智に向き合う。
あの日の光景はきっとこの先もなかなか消えないだろう。
それでも、私は彼のそばにいたい。
「私だけをあなたの唯一の存在にしてくれますか?」
「梨花だけが俺の唯一の存在です」
私が二度と間違えなければいい。私が嫌がることを智はしない。しっかりと目を見てはっきりと言う。
「よろしくお願いします。私と結婚して下さい」
その途端、智がふわっと笑った。肩の力が抜けるような柔らかで幸せそうな笑顔。
うん、再びこの笑顔を見られただけでいい。この先も見られるならそれでいい。
「ありがとう、梨花」
「私こそ。ありがとう」
柔らかに嬉しそうに笑う智の表情が、急に引き締まったものに変わる。
「早速明日にでも区役所に行こう」
「明日? 結婚は来年じゃなかったの?」
「もうすぐ来年だから。今から行くか。梨花、本籍移してある?」
「本籍は移してないよ。住民票だけ」
舌打ちされた。普通本籍なんて滅多に動かさないでしょうが。
「ちょっと明日梨花の実家まで行こう。新幹線ですぐだろう?」
「日曜日も戸籍って取れるの? お母さんに言って取ってきてもらうよ。郵送でもいいでしょ」
「それじゃいつになるかわからないだろう? 梨花のお母さんのんびり屋なんだから。明日行ってついでに挨拶もしてこよう」
智は何度かこっちに遊びに来た母に会ったことがある。確かにのんびりしているけれど、結婚のためとあっては智同様すぐに動きそうだ。
「たぶん言えばすぐに取ってきてくれると思うよ。結婚はまだかまだかって煩かったから」
調理を再開しながらなんの気なしにそう言えば、今度はやんわりと後ろから抱きしめられる。
「ごめんな。俺、いつまで勃起できるのかわからなかったから、先延ばしにしてたんだよ。さすがに三十まで大丈夫なら大丈夫かなって」
「別にそんなことどっちでもよかったのに。子供が欲しければ人工授精だってできただろうし、まだ生まれてもいない子供より智の方が大事だったのに」
背後からの密着を強められると、腰に膨らみを感じる。本当にこれで勃起不全なのだろうか。言われなければ、きっと私は一生気付かなかったと思う。
翌日、本当に実家に挨拶に行き、とんぼ返りで戻ってきた。
上機嫌な母が月曜日の朝一で戸籍を取ってきてその場で速達にて郵送すると請け負ってくれ、父にまでようやくかと安堵されてしまった。
近くに住むはずの智の両親にはビデオ電話で報告しただけだ。それぞれの仕事の都合から、年末に挨拶に行くことになっている。失礼だとは思いながらもモニタ越しにご挨拶させていただいたら、彼の事情を知るご両親からは「本当にいいのかと」何度も何度も確認され、うんざりした顔の智が一方的に通話を終えてしまった。
なんとなく彼が一人暮らしをしていた理由がわかってしまった。
翌朝、いつものコーヒーショップで智と一緒に須藤さんを待った。眠そうにあくびをしている智に呆れてしまう。
「だから、智はあとで来ればいいって言ったのに」
「俺だって須藤さんには言いたいことがあるから」
「言いたいことって? やっと捕まえたの? 松下君」
にやにやした顔の須藤さんは、朝から元気だ。
「出張、お疲れ様でした」
「お土産、今日宅配便で会社に届くようにしておいたから」
「今回は何ですか?」
「明太子味のおせんべい。クリスマス限定品」
須藤さんは出張で出掛ける度に面白そうなお菓子をお土産に買ってくる。特に限定品に弱いらしい。これがなかなか人気で、周りからの評判もいい。たまに強烈なハズレがあるのがご愛敬だ。
「で? 引っ越すの?」
「須藤さん、最初からそのつもりで俺にあの部屋勧めましたね」
「だって今埜さん、松下君のこと好きで好きで仕方ないみたいなのに、自分からは動かないから焦れったくて。松下君だってこの世の終わりみたいな顔してたじゃない」
「俺の引き抜きも?」
「それは別。公私混同はしません」
十分してると思う。呆れたような目を上司に向ければ、「だって家はプライベートでしょ?」とわざとらしく小首を傾げた。本当になんてわざとらしい。
確かに智は前の会社でも一二を争うほどの実力の持ち主ではあった。仕事に関して須藤さんはシビアなので、それについては本当なのだろう。
「二度と泣かせないで」
須藤さんが睨むように智に言えば、智が真面目な顔で「そのつもりです」と答える。
それが嬉しくて、つい口元を緩めると、須藤さんに呆れた顔をされた。
「結婚しても仕事は続けさせて。できれば私が退職するまで」
「我が儘ですね」
「彼女ほど私のことわかってくれる人はいないから。彼女のおかげでここまで来られたのよ、私」
上司の言葉が純粋に嬉しくて、ついにやけてしまう。
「ありがとうございます。私も須藤さんに育てていただきましたから」
「あげませんよ」
智が須藤さんを睨みながら言えば、須藤さんも負けじと睨み返す。
「うちの息子がせめて大学生だったら、うちの嫁にもらったのに!」
「残念でした。明日にでも婚姻届を提出しますから」
智が声を抑えずそう言った途端、声が聞こえた。
「男いないって言ってたのに!」
隣の席に座っていた男の人が低く呻くように呟いた言葉。コンビニで聞いた声と同じだった。
「悪いね。彼女は最初から俺のものだ。他を当たってくれ」
智が何の気負いもなくそう言うと、その男の人は乱暴に席を立ち、お店を出て行った。その際ちゃんとゴミを片付けて行ったのに妙に感心してしまう。しっかり分別までしていた。
「もしかして、例の付き纏い?」
驚いた顔の須藤さんが智と私に確認を取る。
「たぶんそうだと思います」
答えると、眉間に皺を寄せて心配そうな顔を智に向けた。
「大丈夫? あんなこと言って」
「大丈夫ですよ。これからは俺が常に一緒にいますから。それに、あれはきっと声をかけたくて後をつけていただけのような気がします」
もし智の言う通りなら、私が恐がりゆえに過剰に反応しすぎただけなのかもしれない。それってすごく恥ずかしい。
須藤さんに出張中のことをかいつまんで話したら、頭ごなしに叱られた。
「タクシーがつかまらなかったら、つかまるまで待ちなさいよ! 警備に言って呼んでもらえばいいでしょ! どうせあなたのことだから、三台くらい見送っただけで諦めたんでしょ!」
「よくわかりますね」
「何年パートナーでいると思ってるの! そういうときはうちの息子呼べって言ったでしょ! って、まさかそれで松下君を呼んだの?」
「よくわかりますね。でも、もしかしたら過剰反応だったのかもしれませんし……」
「そんなの結果論でしょうが!」
盛大な溜息をつかれた。隣で智が声を抑えて笑っている。
「もういいわ。今日からスケジュール確認は社内でしましょう。まさか聞かれてるなんて思わなかったわ。あんな小声でのやりとり」
油断大敵! そう言いながら飲みかけのコーヒーを持って席を立つ。
「俺たち総務に寄ってから出社しますから」
「私も着いて行くわ。面白そうだから」
本当に須藤さんは朝から元気だ。
翌日の出社前、変わらずコーヒーショップで須藤さんを待つ。智の「きっと彼はいないだろう」との言葉通り、例の彼の姿はなかった。
今になったからこそ言えることだけれど、ぱっと見た感じ、悪い人には見えなかった。過剰に反応して申し訳なく思う。あの時は本当に怖かったけれど。
智が婚姻届をダウンロードし、届いた戸籍謄本と一緒に、その日の夜には彼の本籍地である区役所に婚姻届を提出した。証人欄には須藤さんが立候補し、須藤夫妻が署名してくれた。
「余裕の欠片もないくらい必死ね」
「この一年絶望しかありませんでしたから。必死にもなります」
「それって、ざまぁって言うのかしら? 息子がよく言うのよね」
「いえ。ちゃんと捕まえたからざまぁじゃないです」
にやにや笑う須藤さんに、嫌そうに智が反論している。
須藤さんがしみじみと私の顔を見て「捕まったわね。まあ、網と籠を用意したのは私だけど?」と、またわざとらしく首を傾げて笑った。
数日後、出勤途中でコーヒーショップにいた例の男の人を発見した。突然智が彼に駆け寄り話し掛ける。少し離れた場所でそれを見ていると、智が二言三言彼に話しかけ、次に携帯電話を耳に当て、しばらくすると通話を終えて手帳に何かを書き付けている。そのページを破り取るとその彼に渡し、再び二言三言言葉を交わした後、私の元へと戻ってきた。
「何を話したの?」
「ああ、晄平の合コンに誘ったの」
「えっ?」
「晄平に任せとけば大丈夫だよ。よく遼子に付き纏う男がいてさ、晄平が上手く対処してる。晄平にかかるとあっさり別の人に目を向けるんだよね、彼ら。彼みたいなタイプは案外義理堅いから誘えば文句いいながらもちゃんと来てくれるだろうし」
注意しているのかと思った。それにしては相手の訝しむ顔と智の愛想のいい顔がちぐはぐで、おかしいなと思っていた。
「俺は彼と晄平を引き合わせるだけで合コンには行かないから」
必死にも聞こえる声で伝えてくるから、思わず笑ってしまう。智が合コンに参加するなんて思ってもいなかったのに。
「今までだって参加してなかったでしょ?」
「一応言っとかないと。とりあえずなんでも梨花には言うことにしたんだ」
六年寄り添い、一年離れ、そして生涯寄り添うことを決めた私たちは、今まで以上にお互いのことをわかり合う努力をするようになった。
そして、二人の生活が落ち着く頃、安定期に入った遼子と坂木君に会いに行った。
待ち合わせたお店で、私の姿を見た瞬間、遼子が駆け寄り、抱きついて声を上げて泣いた。周りにいたお客さんがびっくりしている。それに頭を下げながら、興奮させないよう必死になだめていると、智が坂木君に「妊婦を興奮させるな!」と八つ当たり気味に怒られていた。