性質の差異
第一話


 目の前でぶつかり合う肌と肌。
 嬌声を上げているのは私の同期で友人。好奇に満ちた目で肌をぶつけているのは、私がお付き合いしている人。



 彼女が私と彼に愚痴を言いに来ることは、そう頻度は多くないもののこの数年間の間には何度かあった。
 その内容は自分の夫の浮気。けれどそこに負の感情はない。

 互いに同じ会社の別の部署、同期入社のうちの四人。
 私たちは四人は互いに気が合い、出会った当初からとても仲が良かったように思う。

 彼女たちはお付き合いを初めて一年も経った頃、あっさり結婚した。子供はまだいない。
 同じ頃お付き合いを始めた私たちは、六年経った今も結婚はしていない。互いに三十歳になったらと、何かの話のついでに彼が話していたのを覚えている。

 いいお付き合いをしていると思う。
 会社では必要以上に互いの関係を口にすることもなく、互いの関係が仕事に影響することもない。社内の誰もが私たちが付き合っていることを知っていて、部署が違うから結婚してもそのまま働けるわね、そう話していたのは誰だったか。



「また浮気された」
「また? 晄平(こうへい)も飽きないなぁ。そろそろ飽きると思うんだけど」
「今回はすごく小柄な子だって」
「へーぇ」
「小柄だから狭いってことはなかったって」
「それ言っちゃダメなことだろう」
「あと──」

 彼女と彼の会話をただ黙って聞いていた。
 明け透けな内容に口を挟む気にはなれない。彼らにとってセックスはある意味スポーツのような位置付けらしい。私の感覚とは少し違う。

「いつも自分だけ楽しそうなのよね。それがなんだか悔しい」

 遼子(りょうこ)からの「また浮気した」との連絡はいつも突然だ。愚痴りたいと言う彼女に、今日は(さとる)の家にいると答えると、遼子は有名店の冷菓を手土産にやって来た。
 夏の名残が残る午後、ノースリーブのタイトなロングワンピースを着た彼女はすらりとした美人だ。夫となった坂木(さかき)君もすらっとしたいい男で、美男美女のカップル。

 からりと乾いた彼女の怒りは、自分の夫が浮気したことより彼だけが楽しんだことに対するものだ。そこに世間一般的にいわれるような、泥濘のような湿った感情はない。

 更に明け透けな話を続ける遼子に、興味深そうに相槌を打つ智。黙って聞いているだけの私。それはまるで何かの解説のように聞こえ、頭の中に入ることはなく上滑りしていく。

 ふいに遼子が何かを思い付いたように目を瞬かせた。

松下(まつもと)ってどんなセックスするの? そう言えば聞いたことなかったよね」
「どんなって、普通だよ。至ってノーマル」

 面食らったかのように答える智の目も瞬く。

「お前たちのセックスはどうなの?」
「痛いこと以外は割と何でもするよ。興味あることはなんでも試す」
「だろうな。遼子は感度よさそうだし」
「まあねぇ。晄平との相性がいいからどんどん上がっていったって感じ。すごくいいらしいよ、私の中」
「マジか。試してみたいな」
「試してみる?」

 すごく楽しそうに、厭らしさの欠片も感じさせずに秘め事を話せる彼らは、ある意味尊敬に値する。
 だから、最後のやりとりも私には冗談のように聞こえていた。
 だから、二人に顔を向けられて、冗談のつもりで答えたのだ。

「二人が試したいなら?」

 そこからのことはよくわからない。

 えっ? と戸惑う間に遼子は手早く服を脱いでさっさと下着も取り払い、智は避妊具を用意し、腰の部分だけを寛げ装着していた。

「やばいわ。興奮しすぎてそのまま入りそうなくらい濡れてる」
「ならそのまま入れていい?」

 そして、目の前で二人はプレイし始めた。まさにプレイ。そこには互いにセックスに対する興味しか見付けられない。
 智の家の八畳ほどのワンルーム。私と智だけが使っていると思っていたセミダブルのベッドで、二人は楽しそうに互いの欲をぶつけ合う。

 遼子から上がる艶めいた声がどんどん色濃くなっていく。それは本当に気持ちよさそうに部屋中に響いた。
 智はいつもあんな顔でセックスをしていたのだろうか。子供の様に目に興味だけを浮かべて。

 嬌声。肌がぶつかり合う音。それらに絡みつく水音。

 様々な体位で体を繋げ、遼子が何度か快楽の頂点に辿り着き、最後に一際艶めいた声を上げ、息を詰め体を強ばらせたあと、一気に体の力が抜けた。そのほんの少し後で智が遼子との繋がりを解いた。

「あー、松下も悪くない、けど、やっぱり、晄平の方が、いいわ」
「俺も。確かに、遼子の具合はかなり、いいけどね」

 忙しない息を整えながら交わされた会話。それを聞いた瞬間、唐突に悟った。
 彼らと私の考え方が決定的に違うということを。

 私にとってそれは許せる範囲にはない行為で、セックスをスポーツのようには考えられない。
 聞いているだけならなんとも思わなかったことも、自分が当事者となれば、そこには拒絶しかない。

 遼子に対して負の感情は湧かないし、智のことも目の前で今し方見たことを含めても嫌いにはなれない。そのくらい信頼していたし、それほどに好きだってことに、今になって気付いた。

 ただ、体が拒絶する。心のどこかが無理だと告げる。目の前で見た事実だけが、どうしても受け入れられない。
 もう智と今までのように肌を重ねることはできないだろう。指先が触れることすら無理かもしれない。
 現に、事後の微睡みもないまま手早く身繕いをした智が伸ばしてきた手を、咄嗟に避けてしまった。

梨花(りか)? どうした? 顔色悪いよ」

 心配そうな顔をする智をじっと見つめる。その瞳には罪悪感の欠片もない。彼らにとってそれは後ろめたいことではないのだろう。

 事実、私に了承を求め、真実はどうあれ私は了承し、私の目の前でそれは為された。

「梨花、具合悪いの? 少し横になる?」

 事後の色香を纏ったままの遼子が、二人がつい今し方肌を重ね合った智のベッドに誘う。純粋に私のことを心配してくれているだけで、そこに悪意や負の感情は欠片もない。

 だからこそ、どうしていいのかがわからなくなる。何を思えばいいのか、何を感じればいいのかがわからない。

 本当に彼らにとってセックスはスポーツなのだろう。単に一時的にペアを代えただけ。
 肌を重ねるごとに心が重なっていく。そう感じていた私は彼らとは別の生き物なのだろう。互いを唯一の存在のように感じていた。智も同じように感じていると思っていた。実際にそうだったと思う。
 けれど、その一方で、彼は別の考え方もできる人だったのだろう。私にはできないというだけで。



 心配してくれる二人を残して、私は彼の住むマンションからほど近い、自分の住むマンションに戻った。纏わり付くような夏の名残がとにかく不快だった。

 家に戻ると執拗なほどに全身を洗った。どうしてか、そうせずにはいられなかった。いつまで経っても纏わり付いた不快感が消えない。
 これ以上は意味がないと、無理矢理自分を納得させてユニットバスから出れば、それが正解だと思い込むかのように上司に連絡を取り、退職したい旨を告げる。
 休日なのに相手をしてくれた上司は、何度か引き留めてくれたものの、簡単に理由を話せば、最後には「仕方ないわね」と認めてくれた。

 その瞬間、全身の力が抜け、思わず携帯電話を取り落としそうになる。

『褒められたことじゃないわよ。付き合っていた同じ会社の男と別れるからって、あなたの方が先手を打って退職するなんて。でもまあ、働くこと自体を辞めるわけじゃないんでしょ? 次の会社決まってる? 決まってないならいい会社があるのよ。紹介しするわ。もちろん彼には言わないから』

 別れる理由など一言も言っていないのに、退職日までその旨を伏せて貰えないかと言っただけで、何かを悟ってくれたらしい。彼女の下で働けたことは、私にとってプラスにしかならなかった。

「お願いしてもいいですか? 今の仕事はできれば続けたいんです」
『もちろん。まだ上の人しか知らないけど、その会社に私も転職が決まってるから。できれば今まで通り私の補佐をお願いしたいの。本当はずっと誘いたかったんだけど、松下君がいたから無理かなぁって諦めていたのよね』

 私の仕事は彼女の補佐だ。ここ数年彼女の補佐を専属でしてきた。彼女の仕事のやり方は誰よりもわかっていると思う。彼女の行動が素早いことも。



 翌日には彼女と一緒にその会社の面接を受け、あっさりと採用された。今の会社よりも大手の、業界第一位の会社。上司は所謂ヘッドハンティングされたらしい。おまけで採用された私のお給料すら、今までの倍になるという。

「だから多少の融通は利くのよ。よかったわ、今埜(こんの)さんが補佐を続けてくれることになって」
 そう言って笑う彼女には頭が上がらない。私をここまで育ててくれたのは彼女だ。

「マンションをいくつか社宅として借り上げているらしいから、申請しておいたわ。引っ越し、考えてるでしょ?」
 驚きながらもお礼を言えば、してやったりの顔をする。
 私が彼女を理解するように、彼女も私を理解してくれる。それは仕事の上でのことだったけれど、こうしてプライベートにも生かされている。

「で、浮気でもされたの?」
 口に含んだアイスティーを吹き出しそうになった。

 終業後、面接と言うよりも採用条件の説明を受け、それも終えて近くのカフェで一息ついたところだった。
 本当なら一緒に食事したいところなんだけど、と言う彼女は、二児の母だ。今日は旦那さんが早く帰る日。その周期すら私は知っている。それに合わせて仕事の調整をしてきたから。どんなに遅くなっても食事は必ず家でとる。それが彼女なりのルールだそうだ。

「よくわかりますね」
「そりゃね。伊達に歳はとってないわ。あなたはそういうの許せない感じだけど、松下君はともかく坂木夫妻は割と平気そうだったからちょっと気にはなっていたのよね」

 観念して昨日の出来事をかいつまんで話した。
 アイスティーに刺さったストローをゆっくりと回しながら。氷が立てる音を聞きながら。暮れ行く空の色を見ながら。気を紛らわしながら。

「完全に考え方の違いね。性質の違いかしら? 私には無理だわ。と言うより無理な人の方が多いでしょう?」
 やはりそうなのだろうか。彼らの方が少数派だとは思っていたけれど。

「目の前で見せられてよく耐えられたわね」
「よくわからないうちに始まって、よくわからないうちに終わった感じです。なんでしょう、映画でも見ているような感じでしょか。我に返ったのは家に帰ってきて、須藤(すどう)さんに電話したときかもしれません。退職だって衝動でしたし」
「そうなの? 私にとっては願ったり叶ったりの展開だけど……もしかして今埜さんって怒ると冷静になるタイプなのかしら? 怒ったの見たことないって思ってたけど、もしかして静かに怒ってたりする?」
 軽く小首を傾げる須藤さんは、社内で見るよりも可愛らしい印象だ。

 いつもカチッとしながらもどこか女性らしいラインのスーツを身に着け、髪をすっきりとまとめている。絵に描いたようなできる女だ。私より一回り程年上。とてもそうは見えない。面倒でワンピースばかり選んでしまう私とは違う。

「そうかもしれません。冷静になるというよりも、現実味がなくなっている感じですけど」
 そう答えると「うわぁ、気を付けよう」と、この先も上司となる彼女がおどけるように笑った。
 気を遣わせてしまっている。聞かされた彼女だってなんとも言い難いのだろう。

 一般的な浮気や不倫とは違う。
 彼らとは不貞行為という認識すら違うのだろう。
 本当に考え方が違うだけだ。ただ享受できるかできないか。それだけでしかない。



 しばらくして上司の退職の知らせが社内中に撒き散った。その陰には私の退職も紛れているものの、部外に漏れることはなかった。それほど須藤さんの退職がセンセーショナルだったということでもある。
 女性として初めて第二営業部のトップに立った人。第一営業部は主に海外、第二営業部は主に国内を担当する。
 上司を隠れ蓑に退職の手続きを進める。須藤さんの専属補佐だった上に、その須藤さんも退職するとあって、たいした引き継ぎもなく、上司より一足早く有休消化も兼ねて社を去った。

 丁度決算月だったこともあり経理部にいる遼子は忙しく、智はたまたま出張が重なり、二人とは顔を合わすことなく辞した。

 唯一、坂木君にはバレたものの、彼は私の考えていることが手に取るようにわかると、逆に理解を示された。
 彼はある意味私の考えとは真逆にいるからだろう、遼子から話を聞いた瞬間、私が彼らの前から姿を消すと予想していたらしい。

「俺たちみたいな考え方ができないなら、智ともこの先上手くいかなくなるかもしれない。今埜はまた傷付くかもしれない。人の本質はそう簡単には変わらないから」
 それでも、寂しくなると口にし、私との別れを惜しんでくれた。自分からは二人には何も言わないとも言ってくれた。

「それでも、智は今埜のこと心から愛していると思うよ。遼子も今埜のこと信頼してる。俺だってそうだ」
 最後に言われたその言葉は、私の心を揺るがせた。

 揺らぐ心と揺らがない体。
 智とのセックスを考えると体だけが拒絶する。もう体は彼を受け入れない。それを知った心までが、悲しいほどにゆっくりと冷め始めていた。



 彼から直接電話がかかって来たのは、私が辞した十日後、翌々週の月曜日だった。
 月末でもあるその週末、正式に私は社外の人間となり、翌月曜日からは他社の人間となる。土曜日には引っ越しも控えいる。

 私の家にも彼の家にも互いの荷物はほとんどない。大抵週末は私が彼の家に通っていた。
 家が近い分、合い鍵を渡し合うこともなく、金曜日の夜になると週末分の着替えを持って帰宅した彼の家に行き、日曜日の夜にはそれらを持って自分の家に帰っていた。
 平日は基本的に会わない。互いの領域を必要以上に侵さない関係は、とても心地よかった。

 退社したすぐ後の週末も、次の週末も、忙しい彼の方から会えないとの連絡が文字によって送られていた。それは今までにもよくあったこと。

『梨花! 退職したって本当? なんでいきなり? どうして一言も相談しなかったんだよ』
 心配そうでいて、少しの怒りが滲む声。

「ごめんね。智忙しそうだったし。時間取れそう?」
 電話で話すことじゃないと言葉を濁した。

『あー、今週もキツイ。来週か、再来週以降にならないと無理だなぁ。なんかあったの? 虐めとか?』
 怒りが消え、そこにあるのは気遣わし気な優しさだけ。

 背後から聞こえる音はまだ彼が社内に居ることを物語っていた。もう二十二時だ。今まで電話する時間も取れなかったのだろう。手に取るようにわかってしまう。それほど、私たちはちゃんと寄り添ってきた。

「ないよ。虐めなんてない。単なる思いつき? 衝動かな」
『思いつきで会社辞めるなよぁ。かなりびっくりしたから。須藤さんが辞めることと関係してる?』
 ほっと息をつくような、声に安堵が滲んでいる。

「それもあるかも。言わなくてごめんね。時間取れそうになったら教えて。会って話したいから」
『わかった。ごめんな、すぐに会いに行けなくて』
 申し訳なさそうな声。いつも聞いていた優しさが滲む声。

「体に気を付けてね」
 涙が出そうだった。声が震えないようにするのが精一杯だった。

 今でも好きだと思う。重ねてきた肌と心と時間は、そう簡単には消えてくれない。



 週末、引っ越しを無事に終え、新しいマンションに移り住んだ。
 今までの狭いワンルームとは違い、ゆとりある1LDKは、家賃の三分の二を会社が負担してくれる。今までと変わらない家賃で、今までの四倍は広く、マンションの一階にはコンシェルジュが常駐している。同じマンションの上階には須藤さん一家も移り住む予定だ。今まで住んでいたマンションは、丁度手狭になっていたこともあり売却するらしい。

 新しい会社は何もかもに余裕があった。
 須藤さんは個室を与えられ、私はその前室に待機する。営業補佐ではなく秘書のような立場だ。須藤さんは今まで以上に生き生きとしていて、そんな彼女の補佐をする私もすごく楽しかった。
 須藤さんより一足早く入社した私は、この会社でのやり方をあらかじめ教わっていたこともあり、須藤さんが入社してきてすぐに動ける環境に整えておいた。
 たったそれだけのことが、社内で高く評価されて、すごく戸惑った。当たり前のことを当たり前とせず、ちゃんと評価してくれる。私のようなサポート職にとってそれは何より嬉しいことだ。

「そういう会社なのよ。だから移る気になったの。だからあなたを誘いたかったの」
 須藤さんが「だから」を強調し、得意気に笑っている。本当にいい上司に恵まれた。



 そして、智からようやく仕事が落ち着いたと連絡があったのは、あの日から二ヶ月以上が経ってからだった。
 忙しさで会えないことは、年に一度か二度は今までにもあったことだ。智は本当に仕事が忙しくなると細かなやりとりさえ億劫になってしまう。それを知ってからは、放置することにしていた。同じ会社だったから、どれほど忙しくしているかも、体調を崩していないかも、それとなく知ることができたから。

「ごめんな、なかなか時間取れなくて」

 本当に申し訳なさそうな顔をされ、これから話さなければならない言葉が喉の奥に引っ込んでいく。
 彼が着ているコートは去年一緒に選んだ物だ。私が着ているコートだってそう。互いの服も持ち物も、いつだって一緒に選んできた。

「梨花、実家にでも帰ってたの? 一度家にいったんだけどいなかったから」
「あっ、ごめん」
「いや、いきなり行った俺も悪かったんだけどさ」

 秋の終わりの昼下がりの週末。
 日だまりにあるオープンカフェは、二人でよく来た場所だった。
 ぽかぽかとした暖かさと、時折吹き付ける冷たい風。これから話さなければならない言葉と相まって、それは心許ない気持ちにさせた。
 どうせなら暖かな陽気の中、静かに別れを告げたい。冷たい風の中で告げたい言葉じゃない。

「智。私、もう智とは一緒にはいられない」
「どういうこと? 新しい仕事この辺りで決まらない?」
 訝しげな彼の顔を一瞬目の中に入れて、そっとその視線を落とした。

「別れてください」
 予想していなかったのだろう、絶句した彼が音を立ててコーヒーカップをソーサーに戻した。
 彼が言葉を継げられずにいるうちに、自分の想いを言葉にする。

「私には、無理なの。目の前で遼子とそういうことをされて、それで初めて気付いたの。私にとっては許せないことだって」
 驚いたように言葉を詰まらせた智は、思いがけないことを言われたかのような戸惑いも見せている。

「でも、梨花、試してみればって……」
「うん。あの時、二人の言葉は冗談だと思っていたの。冗談だと思っていたから、そう答えたんだけど……」

 智が目を見開く。

「梨花にとっては泣くほど嫌なことだったの? 俺との別れを決意するほど?」

 頬を伝う涙が馬鹿みたいだ。泣きたいわけじゃないのに、次から次へと溢れてくる。
 普段滅多なことでは泣かない私は、周りから意地っ張りだと言われているのに、こんな時ばかり勝手に涙が零れる。

「もう、智に触れることすらできないほどに」
 みっともなく震える声に情けなくなる。

 触れたいのに触れられない。顔を見ればやっぱり大好きだって思う。ほんの少しでも触れることができたら、きっと乗り越えられることだと思うのに、どうしても彼に指先すら伸ばせない。
 悲しげにその表情を歪めた智は、私に伸ばしかけたその手を宙に留めた。

「ごめんなさい。嫌いになったわけじゃないの。でも、遼子とそういうことをした智とはもう触れ合えない。それは遼子だからってことじゃなくて、遼子じゃなくても同じことで、私は三人とは考え方が違うみたい。どうしても受け入れられない」
「俺がどれだけ愛してるって言っても?」
「どれだけ愛されているかを知っていても」

 彼が私を大切にしてくれていることも、未だ私を一番に考えていてくれていることも、ちゃんとわかっている。その心は私にしかないことも、ちゃんとわかっている。それなのに──。

「どうしても受け入れられない」
 ごめんなさいと続いた言葉の半分は、口の中に留まってしまった。
 彼が私の手を握った瞬間、そこから一気に全身が粟立った。込み上げてくる何かを必死に押さえる。
 口元を押さえた私を見て、彼が慌てたように手を離した。

「梨花っ、俺はっ──」
 悲痛な声が耳に届く。言葉を飲み込んだ彼が黙り込んだまま、ただじっと私を見つめているだろう視線を感じた。申し訳なくて顔を上げることができない。こんな風に拒絶したいわけじゃないのに。

「梨花、痩せたな」
 彼の微かに震えた吐息のような声に、また涙が頬を伝う。
 彼の言う通り、この二ヶ月の間に五キロほど体重を落としていた。あれ以来、智のことを思い出すたびに浮かぶのは、遼子の中にいるときの彼の顔だった。子供の様な好奇に溢れた彼の顔。初めて見た、あんな無邪気な顔。

「ごめんなさい」
「いや、梨花の反応の方が普通だってことを忘れてた俺が悪い。俺が梨花に甘えすぎてたんだ。遼子との話を聞いてる時だって、本当は辛かったんだろう?」
 そんなことないと慌てて首を横に振れば、智は悲しそうに笑った。

 急に日が陰り、足元から込み上げてくる寒さにじわじわと飲み込まれていく。

「そうだよ。梨花は本当は嫌だったんだよ。時々微かに眉を寄せてるなって思ってたんだ。それを俺は見ていたはずなのに! 勝手に梨花には刺激が強すぎたんだなって思い込んでいたんだ」
 そうなのかもしれない。口を挟めなかったのは、挟みたくなかったからなのかもしれない。

 あまりに明け透けに、厭らしさの欠片もなく話されていたから、それが普通なのかと思っていた。私にとって智が初めての人だったから。何もかもの基準が智だったから。

「受け入れられなくてごめんなさい」
「梨花は悪くないよ。俺が間違ったんだ」
 軽く首を傾げ、悲しげに笑う智からは、私に対する気遣いしか感じられない。

 本当に私は彼に愛されている。
 それなのに、たった一度のことを許せない私は、本当に彼を愛していたのだろうか。

「梨花が俺のこと本当に愛してくれていたのもしってる。だからこそ梨花は許せないんだ。受け入れられないんだよ」
 優しく諭すように言う智は、いつだってこんな風に私にわからせてくれた。

「俺たちは根本的な考え方が違っているんだ。俺がもっと早くそれに気付いていれば、こんなことにはならなかったのに。俺は梨花さえいてくれれば、それだけでよかったのに」
 言葉を喉の奥から絞り出すようにそう言ったあと、智は波立った感情を鎮めるかのように、細く長く息を吐いた。

 いつものように伝票を持って立ち上がった彼は、最後に「幸せになれ」との言葉を残した。

 誰よりも好きだった人の背が遠ざかっていく。
 誰よりも好きでいてくれる人がいなくなる。

 あの時、冗談だと思わず嫌だと言えばよかっただけなのに。そうすれば智はあんなことしなかったのに。私の嫌がることは絶対というほどしない人だったのに。そのたった一言を間違えただけで、誰よりも愛おしんだ人が去って行った。



 冷め切った紅茶を口に含めば、ぽろりと一粒、名残の涙が零れた。


   目次次話