シロクマのたなごころ
第五章 §2


 エルちゃんがまたトリノに行っていたらしい。ジェラートをバケツ買いしてきた。いや、バケツじゃないんだけどね、バケツほどの大きな入れ物に入ったジェラートを大量に買ってきて、食堂の一画に度丼と山積みされている。エルちゃんが溶けないように何かしているらしい。
 期間限定でバールでも提供されている。

 エルちゃんの家に遊びに来ている祝日。ポーラさんはエルちゃんの代わりに何かを調べにまたトリノに行ってる。

「エルちゃんさぁ。トリノで何調べてるの?」
「んー。トリノだけに行ってるわけじゃないんだけどね」
「そうなの?」
「ちょっとね。二番目の兄様関連」

 エルちゃんの二番目のお兄さんは世界を超えて自分の彼女を探しに行った人らしい。確か宿命って存在だ。なんだかエルちゃんと一緒にいると世界が広がって、広いはずのこの世界が小さく思えてくる。

「ひとつの世界なんてすごくちっぽけだよ」
「そうなの?」
「私はそう思う。余程人の内側の方が壮大だよ」
「人の内側?」
「そう。人の内側」
「グロ的意味合い?」
「さーちゃん。もう少し夢を見ようよ」
「わかってるよ! わざと言ってみただけだよ!」
「うそくさっ」

 エルちゃんがアホの子を見るような目で見ている。なんだろう、最近の私は怒りっぽい。ちょっとしたことですぐに頭にきてしまう。ちょっと反省。

「さーちゃん、気付いてないみたいで危なっかしいから、あえて教えるんだけどさ」
「ん? なに?」

 エルちゃんがにたぁって笑った。嫌な予感。

「ぱんぱかぱーん! ご懐妊おめでとう!」
「は? そんなわけないでしょ」
「じゃあさ、なんでさーちゃんの旦那様はここ最近エッチしてくれないの?」

 何でエルちゃん知ってるの! 魔女か! 魔女的チェックか! 恨めしい!

「さーちゃん、気付いてないのさーちゃんだけだから。さーちゃんの旦那様、毎日さーちゃんのお腹撫でてでれでれしてるでしょ」
「あれ、お肉が付いてきたのを笑ってたんじゃないの!?」
「生理、来てないでしょ」
「だって、呪いは?」
「互いに子供を望んだ瞬間解かれるようになってるの」
「うそん!」
「本当。そう説明したでしょ?」
「そうだっけ?」

 そうだったかも。あー。私って、赤ちゃん欲しかったんだ。なんだか泣きそうだ。

「自分で自分の気持ちに気付いてないとか、さーちゃん、間抜けすぎ」
「だって、頑張ろうって思ってたんだもん」

 泣きそうだ。だが堪える!

「うん。それはわかってる。でもそれ以上に旦那様との子供が欲しくなったんでしょ」

 エルちゃんがすごく優しい顔で笑っていた。そんな顔しないでよ。泣きそうだよ。

「エルちゃん、喜んでくれる?」
「当たり前でしょ。よかったね、さーちゃん」

 本当に当たり前だという顔でそう言ったエルちゃんを見て、言おうと決めた。
 エルちゃんは私の友達だ。大切な人だ。

「エルちゃんもポーラさんとちゃんと向き合いなよ」
「は?」

 鳩が豆鉄砲食らった。そんな顔になったエルちゃんは、次の瞬間真っ赤になった。

「気付かないふりはもうやめなよ。誰も幸せにならないよ」
「でも……」
「わかってる。マルクさんのことだって本当に好きなんでしょ」
「うん」
「でも、だったらポーラさんと離れられる?」

 エルちゃんは黙り込んだ。黙り込んで、表情の抜け落ちた顔でじっと何かを考えていた。



 考え始めたエルちゃんを置いて家に帰ると、ラウルが少しだけ心配そうな顔で出迎えてくれた。

「子供できた」
「ああ」
「知ってた?」
「ああ」

 ラウルの腕の中に閉じ込められて、ずっと泣くのを我慢していたからか、涙が零れた。

「最近、してくれ、なかったのは、だから?」
「ああ」
「私、嫌われ、たのかって、仕事できない、ダメな人だってっ、呆れられたのかって……」
「そんなこと考えてたのか? そんなわけないだろう」
「だって……」

 ラウルの両手が頬を包んで、そっと上を向かされた。しっかりと目を合わせた後、言われた。

「紗奈、俺の子供を産んでくれ」

 泣き笑いの間違いなく不細工な顔で頷けば、ラウルが嬉しそうに笑ってキスをひとつくれた。今まで見た中で一番嬉しそうに笑ってくれた。
 まるで愛おしいものを見るような目で見つめられて、急に今の自分の不細工な泣き顔が恥ずかしくなる。ラウルの胸に不細工な顔を隠せば、ラウルがくつくつと笑っていた。



 幸せだ。今私は間違いなく幸せだ。
 あの日、ラウルのところに迷い込んでよかった。ラウルに出会えて良かった。



 落ち着いたところでリビングに場所を移して、さっきエルちゃんに思い切って言ったことを話す。

「エルちゃんに言っちゃった。ポーラさんと向き合えって」
「そうか」
「でも、マルクさんのことも本当に好きなんだと思う」
「そうだな」
「でもさ、」
「ああ。ポーラさんとは強い絆で結ばれてるな」
「そうなの?」
「そうだと思う」

 ふと思っていたことを聞いてみる。男の人って何を思うのだろう。

「あのさ、エルちゃんがポーラさん以外の男の人とそういうことしてるのって、ポーラさん平気なのかな?」
「平気じゃないだろうな」
「だよね。でもエルちゃんの好きにさせてるよね、ポーラさん」
「魔女殿が自覚した瞬間に囚われるだろうな」
「なんか、ちょっとコワイね」
「まあ、お仕置きは覚悟した方がいいだろう」
「……こわっ!」

 絶対にエロいお仕置きだ。確実に監禁される。ポーラさん、絶対にドSだもん。痛いことはしないだろうけど……うわぁ。想像するのもコワイ。鎖とかで繋がれそう。うわぁ。

「紗奈。魔女殿のことより自分のことを考えなさい」
 呆れたようなラウルの声に我に返ると、声だけじゃなく顔まで呆れていた。

「紗奈の子供は魔女殿が取り上げてくれるそうだ」
「へ? エルちゃん助産婦さんなの?」
「いや、魔女だろう」
「そうだよね、魔女だよね。……魔女ってそんなことまでできるの?」
「どうだろうな。だが、誰よりも信用できるだろう?」
「うん。そっか。エルちゃんが取り上げてくれるのかぁ」

 なんだかすごく安心した。そっか、エルちゃんがついていてくれるんだ。それって最強だ。

「ところでさ、ラウルはいつから知ってたの? 子供のこと」
「ひと月以上前からだな」
「それって……しなくなった時期ってこと?」
「ああ。控えるように言われたからな、魔女殿に」
「もしかして、私ってクロエさんより先に子供産むの?」
「そうだ。あと少しで四ヶ月目に入るところだ」
「うそん! だってコーヒーとか飲んじゃってたよ!」

 確かコーヒーとか飲んじゃダメなんだよね。お酒は……そう言えばここ最近飲んでなかった気がする。

「ああ、魔女殿がカフェインを抜いていると言ってたぞ」
「そうなの?」

 エルちゃん様々だ。ってか、そんな風に暗躍するぐらいなら、最初から教えといて欲しい。
 ラウルに手渡されたのは母子手帳だ。いつの間に! エルちゃんめ。

「最近苛々してたのとか、お腹に肉が付いてきたと思ってたのって……」
「妊婦なんだから当たり前だろう?」
「でもつわりなんてなかったよ?」
「ああ、魔女殿がなんとかしていたらしい」

 ……そこまでしてなぜ教えない。

「紗奈がいつ気付くかってな」
「やっぱり!」
「さすがにこれ以上は無理だと言っていたが……」

 それで今日の突然の告知か。してやられた感がハンパない。

「お父さんやお母さんは?」
「もちろん知ってるぞ」
「だよね。エルちゃんとお母さん、何気に仲いいもんね」

 エルちゃんとうちのお母さんは気が合うようで、時々二人で連れ立って遊びに行っている。主に歌舞伎座に。なぜか二人とも最近歌舞伎にハマってる。

「それでだな」
 ラウルが照れくさそうに笑う。

「双子だそうだ」
「は?」
「男女の双子だそうだ」
「は?」

 少し顔を赤らめながらそう告げたラウルは、本当に嬉しそうだった。

「いきなり二人の子育ては大変だろうと、お義母さんと魔女殿が子育てを手伝ってくれるらしい。ああ、アンナも手伝うと張り切ってたな」
「は?」

 双子って? 今、私のこのお腹の中には、二人もいるのか! 教えてよ! 一刻も早く教えといてよ!



 エルちゃんはその夜、知恵熱を出したそうだ。……魔女が知恵熱って。どうなのそれ?

 翌朝ポーラさんがものすごく綺麗な笑顔で教えに来てくれた。こわっ! その綺麗な笑顔の裏にある真っ黒な笑顔が透けて見えた。こわいわっ! 胎教に悪いわ!

 そしてポーラさんから綺麗な青い石の付いたペンダントが渡された。

「お子さんが産まれるまでは身に着けていてください。万が一の時にも身を守ってくれます」

 エルちゃんの一番上のお兄さんが作った魔石だそうだ。エルちゃんの一番上のお兄さんは治癒魔法の研究をしているらしい。
 真っ黒な笑顔のお礼だろう。ポーラさんとのことを考えて知恵熱まで出したエルちゃんには悪いけど、ありがたくもらっておく。
 早速首にかけていると、ラウルが少しだけ面白く無さそうな顔をしていた。いやいや、他の男からのプレゼントとかじゃないんだから。いや、確かに他の男からのプレゼントだけど。
 思わず外そうとしたら、ラウルの手がそれを止めた。心中複雑って思いっきり顔に書いてあって、ちょっと笑った。



 それから三日間、エルちゃんを見かけることはなかった。
 で、四日目に会ったエルちゃんは、げっそりとやつれて、ぼんやりしていた。

「エルちゃん! どうしたの? まさか、飲まず食わずで三日間やりっ放しとか?」
「なんの話よ。さーちゃん、想像力逞しすぎ。胎教に悪いこと考えちゃダメだからね」

 エロいお仕置きじゃないのか。

「で、どうしたの?」
「んー…なんか悩み始めたらわからなくなったの」
「ん」

 小さく相槌を打って先を促すと、エルちゃんが少しぼーっとしながら話し出した。

「ポーラとはね、産まれたときから一緒にいるの」
「うん」
「ポーラと契約した時ね、一人じゃなくなったって思ったの」
「そっか」
「そのポーラがいなくなるのは、ありえないことなの」
「そうなの?」

 ありえないとか思っている時点でそうなんじゃないかって思うけど、契約っていうのがよくわからないから、なんともいえない。

「でもさ、エルちゃん。もしマルクさんと一緒に生きていこうとしたら、ポーラさんの存在ごとマルクさんは受け入れなきゃいけなくなるんだよ。もし私だったら、素直に喜べないよ」
「そうかな」
「そうだよ。エルちゃんなら受け入れられる? マルクさんに絶対に離れるはずのない女の人の存在があったら」
「ヤだ」
「逆にさ、ポーラさんがエルちゃん以外と契約して、エルちゃんから離れたらどうする?」

 エルちゃんが信じられないくらいびっくりした顔をしたあと、ぽろぽろと涙を流し始めた。
 もう、仕方ないな。
 立ち上がってセレブなティッシュを持って来てあげる。

「わかった?」
「わかった。でも……」

 ずびーっと鼻をかむエルちゃんは美人なのに不細工だ。不細工な美人顔で、涙をぽろぽろ流しながら、途方に暮れたような顔をしている。

「うん、マルクさんが好きなんだよね」
「うん。嘘じゃないの」
「わかってる。なら、今すぐ結論を出さなくてもいいと思う」
「ん」
「それでもマルクさんのそばにいたいなら、いてもいいと思う」
「ん」
「でもそれは確実にマルクさんを傷つけることになると思うよ」

 エルちゃんが心底傷ついたような顔をするから、ぎゅって抱きしめる。鼻水を付けられないよう、セレブなティッシュを何枚もエルちゃんの鼻に押しつけてからだけど。

「エルちゃん、マルクさんがそれをよしとするなら、マルクさんと一緒にいてもいいと思う」
「うー…」
「そんなことくらいでポーラさんはエルちゃんから離れたりはしないだろうって思う」
「うー…」
「私は、誰がなんと言おうとも、エルちゃんが大事だから、マルクさんやポーラさんが傷つくのも仕方ないって思ってしまう」

 エルちゃんがえぐえぐ泣いている。えぐえぐ泣きながら、ずびびーっと鼻をかむ。ちょっと可愛い。

「たくさん考えるといいと思う。エルちゃんは長く生きるんでしょ?」
「うん」
「なら、マルクさんと一緒に生きた後で、ポーラさんと生きてもいいんじゃない?」
「ずるくない?」
「ずるくない。私だけはエルちゃんの味方だから。もしそれをマルクさんが許すならそれでもいいと思う」
「許してくれるかな」
「私なら許さない」

 エルちゃんが驚いたように顔を上げた。

「エルちゃん。エルちゃんがマルクさんの立場なら、許す? 私なら許さない。ラウルに常に一緒にいる女の人がいたら、許せない。許したふりはできるけど、心の中で悩むと思う。何かあったときにどっちか選べって言ってしまうかもしれない。でも、私はマルクさんじゃないから、マルクさんがどう考えるかはわからない」

 エルちゃんの顔が歪んだ。

「エルちゃん。誰もが幸せになれる結末なんて、そんなのありえないよ。そんな都合のいいことなんて童話の中にだってない」

 エルちゃんの目を見てしっかりと言う。私まで泣きそうだ。

「誰かを傷つけても、自分が傷ついても、それでも譲れない人を選ぶべきだと思う。エルちゃんがどうしても譲れないと思うのは、誰?」
「そのくらいにしてあげてください」

 不意にポーラさんがエルちゃんの後ろに現れて、エルちゃんを後ろから抱き込んだ。くるりと体の向きを変えたエルちゃんが、ポーラさんにしがみついて泣いている。
 どうして気付かないんだろう。それが答えなのに。ポーラさんも大概エルちゃんに甘い。



 そしてエルちゃんはまた知恵熱を出した。

 今気付かないと、エルちゃんはこの先後悔するんじゃないかと思う。マルクさんを傷つけたことを後悔して、ポーラさんとも向き合えなくなるんじゃないかと思う。
 大きなお世話だと思うけど、エルちゃんが傷つくのは嫌だ。
 エルちゃんは悪戯好きの魔女っ子だけど、誰よりも優しい。誰よりも周りの人の感情に聡い。それなのに誰よりも自分のことに鈍感だ。私よりずっと鈍いと思う。

 マルクさんには申し訳ないけど、エルちゃんを支えられるのはポーラさんしかいないと思う。マルクさんだってそれをわかった上で、エルちゃんと一緒にいるなら、それもまたズルイと思う。ズルイと思うけど、それでも一緒にいたいっていうのも本当なんだろうなって思う。そのくらい好きなんだろうなって。その想いにエルちゃんは安心するんだろうなって思う。

 ポーラさんだってズルイ。エルちゃんからその手に転がり落ちてくるのを待ってるなんて。自分から捕まえに行けよって思う。エルちゃんが納得した上で自分を選んで欲しいってのもわかるけど、ポーラさんだってきっと怖いんだろうけど、あの優しい檻に閉じ込めておくのもどうかと思う。

 本当に上手くいかない。なんだか苛々する。あっ、妊婦だから?

 エルちゃんはみんなを幸せにしてくれているのに、簡単に幸せになれるよう手助けしてくれてるのに、そのエルちゃんが幸せにならなくてどうするって感じだ。

 もうっ! 本当に上手くいかない。