シロクマのたなごころ
第五章 §1


 国際結婚の場合、婚姻届を出しただけだと、名字は変わらないって知ってた?

 一応ヴァリエ一族はフランス国籍になっているらしい。ラウルの会社は日本支社らしく、フランスに本社があるらしい。
 らしいらしいと定かではないのは、エルちゃん情報だからだ。いつものごとくエルちゃんがちょちょいと誤魔化しているらしい。ビザとかどうなってるのかとか、色々疑問に思うけど、まあ、エルちゃんのことだから抜かりはないはず。

 で、その本社があることになっているフランスで、とある企業広告が地味に話題になっているそうで……いつの間にか私たちの結婚式の映像が、エルネス&ヴァリエトレーディング社の広告に使われていた。なんてこった!
 料理長とアルノーさんが構えていたカメラたちがいい仕事をしたらしい。
 綿帽子に白無垢姿の花嫁がフランスでややウケらしく、綿帽子のコスプレが地味に流行っているらしい。なんじゃそれって感じでしょ。おかげで会社も地味に儲かっているらしい。

 婚姻届とは別に氏の変更届ってのを出さなければならないんだけど、クロードヴァリエ紗奈にするか、ヴァリエ紗奈にするかで悩んだ。どっちもどっちな響きなのは仕方ない。
 結局欲張ってミドルネーム付きにして、クロードヴァリエ紗奈になった私は、完全にダメ人間を自覚した。

 卒業一歩手前まで就職が決まらなかったダメ人間が、まんまと就職できたからって、そうそうできる人間に変わるわけはない。
 さらにお城のみんなが優秀すぎて、ダメ人間っぷりが一層際立つ。
 頑張っても頑張っても埋まらない溝に、このままお給料をもらい続けていいのかって思ってしまうくらい、私の仕事はラウルのお世話だけだった。しかも仕事のお世話と言うより、妻としてのお世話って感じだ。

 会社のみんなはそれでいいと言ってくれるけど、それでいいわけがない。
 とりあえずお給料はラウルがもらってくる分で十分なので、私のお給料は時給に変えてもらった。きっちり働いていると思われる時間分だけ申請して、そうじゃない妻的領分だと思われる部分は申請しないことにした。そうすると、一日二時間くらいしか働いていないことがわかって、ものすごく落ち込んだ。残りの時間は何やってるんだ? って自分でも思ったし。

「もらえるものはもらっておけばいいのに。秘書なんて妻みたいなものでしょ」
「でもさぁ。本当に仕事って言われるようなことは何もしてないんだもん、私」

 凹む。

 エルちゃんは受付でただ座ってるだけのようでいて、何気に取引先の人の魔女的チェックをしているので、お城のみんなはそれを参考に話を進めることができるらしい。魔女ってすごい。

「そうかなぁ。ちゃんとスケジュール管理とかしてるでしょ」
「時間ごとに声をかけるだけをスケジュール管理とは言わないよ」
「そうなの? お知らせしてもらえると助かると思うけどなぁ」
「実際にスケジュール管理しているのはセドリックさんだもん」
「副社長なのに?」
「うん。執事だったときにやってたことだからって。ラウルもその方が動きやすいみたい」
「ふーん。じゃあ、アンナさんは何してるの?」
「セドリックさんの補佐。いつもものすごい速さでキーボード叩いてる」

 アンナさんのブラインドタッチは驚異的な速さだ。時々鼻歌に合わせてリズムを刻んでいて、密かに私の癒やしになっている。

「会社に入って上達したのは、お茶をおいしく入れることくらいだよ」
「それも大事なことでしょ、お客さん来たときとか」
「アンナさんが入れるお茶はさらにおいしい……」

 エルちゃんに哀れみの目を向けられた……。凹む。

「さーちゃん、専業主婦になる?」
「社員じゃなくてアルバイトとして頑張る」
「パートじゃなくて?」
「だって実質一日二時間労働だもん。パートすらおこがましいよ」

 私は社長室がある役員フロアで働いている。母がパートで働いているフロアとは別なので、母との住み分けはできている。雑用も社長と副社長、父である専務の三人分しかない上、父は雑用すら自分でしてしまうし、セドリックさんの雑用はアンナさんがしている。つまりラウルの雑用しかすることがない。書類の整理や書類のお届け、時々コピー程度の雑用くらいしかない。
 あまりに暇で会社のことをググったりしているくらいだ。それで白無垢情報を知った。泣ける。
 私に用意されているPCなんて、宝の持ち腐れもいいところだ。心なしか林檎マークの欠けた部分が腐り始めている気さえする。

 何より、多くの書類はフランス語か英語だ。日本語ですらない。お手上げである。英会話学校に通おうとしたら、ラウルに止められ、ラウルから日々英会話を習っている。ビジネス英会話なるものは、まったくもって難解である。私の脳みそは日本語しか受け付けないらしい。フランス語なんて東北弁に聞こえる始末だ。

 入社して半年。

 自分なりに努力はしたけど、努力でなんとかなるほど社会は甘くなかった。道楽会社なのに利益がちゃんと出ていると聞いた時点で気付くべきだった。優秀な人の集まりだからこそ、道楽でも利益が出る。そこに紛れた一人のダメ人間。泣ける。完全にマスコット的立ち位置だ。着ぐるみでも着ようかと思うほどに。

「ですが、時々書類を届けに来て下さる紗奈様を見ると、みんな和みますよ」
 黒猫のメイドさんだったクロエさんの、悪意無い言葉がむしろ突き刺さる。完全に会社の色物だ、私って。 
 隣でエルちゃんがお腹を抱えて笑っている。むーかーつーくー。



 会社の一階にバールができた。
 エルちゃんがイタリアのトリノ──魔の都なんだって──に用があると何度か出掛けて行った後で、ポーラさん監修によって作られた。ちなみにエルちゃんにかかるとイタリアも日帰りだ。ここ最近は何か調べ物をしているのか、ちょくちょくトリノまで行っているらしい。

 通りに面した店舗は、会社の人だけじゃなく一般の人も利用できる。
 本場イタリアのバールとシステムも何もかもが同じように作られているので、日本ではウケにくいお店だ。実際に席に着くだけで料金が高くなることに怒ったお客さんもいる。
 それでも連日そこそこのお客さんが来ていて、イタリアやスペインの人、バールを現地で利用したことがある人が多い。
 もともと、うちの会社の人のために作ったお店なので、儲けようとは思ってないらしい。道楽会社ならではだ。

 実はこのカフェの店員に転職しようかと企んでいる。秘書よりは向いていそうだ。バイトしたこともあるし。だがしかし! 従業員を募集していない。がっくし。

 バールは料理長と助手のアルノーさん、シオンと紺野さんが働いている。経営者はポーラさんだ。バイトにお隣のビルに住む蔵間さんと目梨さんが来ている。
 シオンと紺野さんはバリスタの資格まで持っている。エルちゃんのちょちょいじゃない、ちゃんとした資格だ。私とは違う。

「さーちゃん、最近やさぐれ気味だよね」
「みんなが優秀すぎるんです」
「さーちゃんはアホっぽいのがいいのに」
「アホじゃないもん!」
「アホとは言ってない。アホっぽいだけ」

 エルちゃんがにまにましながら頬を突いてきた。むかっ。クロエさんがそれを見て柔らかく笑っている。

 そのクロエさんの柔らかな笑顔を、少し離れた場所から蔵間さんがじっーと見つめていた。うわぁ。ターゲットロックオン! な瞬間を目撃してしまった。うわぁ。うわぁ。隣の女将さんの里子さんが蔵間さんのことを「エロ天狗」って言ってた意味がわかった。壮絶に色っぽい顔でクロエさんに笑いかけている。こわっ!

 ふと見るとエルちゃんがそれを見て、にたぁっと笑う。エルちゃんって人の恋路を観察するのが好きだよね。

 ラウルの会社では、三時から四時までは第二の休憩時間だ。朝の十時に始業、お昼の十二時から一時までがお昼休み、三時から四時までがおやつ休み、夕方の六時に終業という、道楽会社ならではの勤務形態だ。

 で、今はおやつの時間。エルちゃんとクロエさんと一緒にバールで休憩中。
 遅れてきたキツネの衛兵だったマルクさんに誘われて、エルちゃんは場所を移した。エルちゃんはマルクさんとお付き合いしている。エルちゃん曰く、未だ二人は清い交際らしい。
 どこからどう見てもエルちゃんはポーラさんと想い合っているのに、気付いてないのか、気付きたくないのか、そのあたりが微妙すぎる。

「あの二人は、見ているこちらがはらはらしますね」
「クロエさんもそう思う?」
「ええ。マルクはポーラさんには敵わないから、せめて魔女様が気付くまでは、って思っているみたいなところがありますから」
「そっか。せつないね」
「ええ。魔女様も悪気があるわけではありませんからね」

 そうなんだよねぇ。エルちゃんは本当にマルクさんを好いている。でもそれ以上にポーラさんの存在が大きいってことに気付いてない。ポーラさんはわかっててエルちゃんを好きにさせてるっぽい。

「クロエさんは好きな人いないの?」
「そうですねぇ。普通の人だと物足りないと言いますか。呪われていたころの記憶があるせいか、どうも出会う人が頼りなく思えてしまうんですよね。だからといって城の仲間は完全に仲間意識の方が強くて、恋愛感情が持てないと言いますか……」

 クロエさんがこてんと首を傾げた。キリッとした感じなのに可愛い感じも兼ね備えているクロエさんは、間違いなくいい女だ。

「でもポールさんは普通の人とお付き合いしているよね」
「ええ。男と女の違いでしょうか?」
「そっか。クロエさんたちより長く生きている人っていないもんね。頼りなく感じてしまうってのはあるのかも」
「ですねぇ」

 うわぁ。聞き耳立てているよ、蔵間さん。こわっ! ものすごくエロい顔で笑ってる。
 確かに蔵間さんならクロエさんより長く生きてるだろう。なにせ神様的に祀られている、普通の|人《・》とは言い難い、謎の存在だ。エロ天狗だけど。
 どうしよう。クロエさん、逃げられるかな。無理そうだな……。
 うわぁ。エルちゃんが離れた席からにへにへ笑って二人を見てる。これは逃げられないってことか。哀れ、クロエさん。



 で、ひと月ほど後。

 クロエさんがまんまと蔵間さんにつかまり、蔵間さんのお嫁さんになった。早すぎる展開にぽかーんとしてしまったのは私だけじゃない。なんとクロエさん、お腹に赤ちゃんがいるのだ! 早すぎる。
 ロックオンの直後、まんまと食べられていたらしい。こわっ!

 これに隣の和菓子屋の女将さんの里子さんが食いついた。どうして|妖《あやかし》と人との間に子供ができるのかと。

 里子さんは人のまま鬼であるご主人との子供が欲しいらしい。妖の子を宿すには、母体も妖になる必要がある。里子さんは人外好きとして、自分が人外になったら意味がないと、それを頑なに拒んでいる。
 なんというか、ある意味突き抜けている。私なら子供欲しさにあっさり人外になっちゃうけど。

 その突き抜けた心意気に大ウケしたエルちゃんが、里子さんに子を宿す間だけ人外になる呪いをかけてあげたらしい。感心するんじゃなくて大ウケするってのがエルちゃんっぽい。実際お腹抱えて笑ってたし。なぜか里子さんは笑われてるのに大威張りだったし。謎な二人だ。

 クロエさんが蔵間さんの子を宿せたのは、お城のみんなの体はこの世界に来るときに、エルちゃんがこの世界に合った体に変えたからで、それにはこの世界に存在する人外たちの要素も含まれていたからだそうだ。何それコワイ。

 それを知った和菓子屋の弟子の権太さんや、紺野さん、目梨さんが、お城のメイドさんだったみんなをロックオンした。それを見て里子さんが「人外のロックオン!」って言いながら、ぐへぐへ悶えていた。権太さんの里子さんを見る目が冷たすぎる。
 権太さん曰く、妖も少子化なのだそうだ。特に化け狸は絶滅の危機にあるらしい。日本の妖なのに国際結婚って……いいのか?



 ところがところが。

 なんと化け狼のシオンとリスのメイドだったレアさんがお付き合いしていたらしい。これによって権太さん、紺野さん、目梨さんのターゲットがオコジョのメイドだったジョゼさんと、ビーバーのメイドだったネリーさんに絞られた。里子さんが「人外逆ハーレム!」とか言って、またもや悶えていた。里子さんってば、どれだけ人外好きなのか。
 同じ会社で働いている紺野さんが一歩リードしているようで、ジョゼさんとなかなかいい雰囲気、権太さんの猛烈アピールにネリーさんはそろそろ絆されそうだ。

「やっぱりバイトの一つ目じゃダメなのか……」
 目梨さんがせつな気に呟いていた。聞こえてしまった私も思わずせつなくなるほどの悲しげな声だった。

 目梨さんはクロエさんと蔵間さんの子供が女の子であることを、蔵間さんの祀られている神社に祈願しているそうだ。その神社に祈願するくらいなら、蔵間さん本人に祈願すればいいのにってエルちゃんに言ったら、大笑いしていた。

「蔵間さんだって好きで祀られているわけじゃないからね」
「そうなの?」
「そうだよ。人間が勝手に崇めているだけだから。そもそも妖とか妖怪って言われてるけど、存在的には神って言われているものと同じだよ。都合が悪いから悪者みたいに扱われているだけ」
「そうなの?」
「そう。人の都合だよ、善悪なんて」

 そういえば、神話って作られたものだって聞いたことがある。それまで日本に根付いていた神様みたいな存在を悪者に仕立てたって聞いたこともある。
 何が本当なのかはわからないけど、諸説ってのがあるくらいだ、歴史も勝者に都合良く解釈されているって聞いたことあるし。

「色んな存在がいるんだよ、世の中には」
「でもさ、このビルと隣のビルにその色んな存在が居すぎじゃない? ただの人なのはうちの家族くらいでしょ」
「そう? さーちゃんのお母さんだって巫女の血筋だよ」
「うそん! そうなの?」
「あれ? 知らなかったの?」

 エルちゃんがこてんって首を傾げた。くっ! 美人なのにこてんって! 可愛いじゃないか!

「そういえばお母さんの実家って神社だ」
「でしょ」
「もしかして! 私も巫女の血筋?」
「さーちゃんは普通の人。さーちゃんの妹にその血が受け継がれた」

 エルちゃんの残念そうな顔が心をえぐる。

「私ってどこまでも普通なんだね」
 がっかりだよ。せめてその要素くらいは欲しかったよ。ただの人は私とお父さんだけか……。でもお父さんは専務だ。しかもばっちりしっかり働いている。ダメ人間とは違う。

「さーちゃん、普通が一番だよ」
「普通じゃない優れた人たちに囲まれていると、普通が悪のように思えるよ」
「さーちゃんがひねくれてきた」
「ひねくれたくもなるよ。優秀すぎるよ、みんな」

 その筆頭であるエルちゃんが「そう?」って首を傾げている。エルちゃんは自分の存在を悪く思いすぎだ。エルちゃんがどれだけすごい存在なのか、エルちゃん自身がわかっていない。きっと魔女って言葉が悪いんだ。同じ存在なら女神って言えばよかったのに。

 ……にたぁって笑う女神はちょっとヤだ。

「さーちゃん、今よからぬことを考えたね」
「……時々エルちゃんの能力が便利すぎて恨めしい」

 エルちゃんがアホの子を見るような顔をしていた。むーかーつーくー。