シロクマのたなごころ
第四章 §1早春。
私は大学を無事卒業。めでたい。
同時に妹も高校を卒業し、家族揃ってラウルのビルに引っ越してきた。エルちゃんが4LDKを譲ってくれて、今エルちゃんとポーラさんは五階の2LDKに住んでいる。
お父さんはちゃっかりラウルの会社の専務に納まり、それまでと同じような仕事をしているらしい。なぜかお母さんはパートのおばちゃんとして、いそいそとみんなにお茶を入れたり、コピー取りなどの雑用を任されている。何気に楽しそうだ。
朝ご飯を食べた後、部屋に戻ってまったりしていると、オコジョのメイドだったジョゼさんとウサギのメイド長だったアンナさんがやって来て、ブライダルエステなるものを施してくれる。
ラウルと私の結婚式はなぜか四月一日に決まっていた。なぜにエイプリルフールなのか。謎だ。
あと二週間で結婚式、というところでようやく結婚式は神社で行うことを知らされ、私は白無垢を着るらしい。絶対にお母さんの陰謀だ。うちの母、妙に白無垢にこだわりがあるらしく、ドレスよりも白無垢派だ。角隠しにするか綿帽子にするかで真剣に悩んでいた。自分の式でもないのに……。
披露宴はしない。
式にはお城のみんなとエルちゃんと私の家族と、なぜかお隣の和菓子屋さんのご夫婦とその常連さんだけが参加する。
その神社には、常連さんの蔵間さんという人が祀られているらしい。本人が祀られている神社ってのもすごいけど、その祀られている本人を紹介されたとき、串団子をうまうまと食べているところだったので、微妙だった。
なぜか和菓子屋の若女将に蔵間さんは「エロ天狗」と呼ばれていた。確かに妙に色気のある美丈夫ではある。
「アンナさん、そろそろラウル様に首筋へのマーキングをおやめいただかないと」
「そうですねぇ」
マーキング?
「紗奈様ご存じなかったのですか? いつもこの辺りに、ラウル様の……お印が残っております」
右寄りの後ろ首を指で軽くとんとんしながら、ジョゼさんが顔を赤らめた。知らなかったとはいえものすごく恥ずかしい。
「ラウル様は紗奈様を心から愛しておいでで、羨ましいですわ。紗奈様も私たちにお優しいし、前の奥様とは大違いで……」
「ジョゼ!」
アンナさんの鋭く咎めるような声に、ジョゼさんははっとした顔になり青ざめた。
……前の奥様って言った? 前?
「アンナさん、ラウルってバツイチなの?」
「それにつきましては、ラウル様に直接お聞きください」
そう言って、それ以上は話してくれなかった。別の話しにすり替えられて、その日の私の余分なお肉撲滅活動は終わった。
「エルちゃーん! エルちゃん知ってた?」
で、ラウルに聞く前に私が聞くのは当然エルちゃんだ。
私がこんなに焦っているのに、エルちゃんはシロクマのお腹の上に寝そべって日向ぼっこしていた。正しい休日の過ごし方って感じだ。和む。ちょっと羨ましい。
シロクマのお腹の上にうつぶせで寝ていたエルちゃんが、顔をこっちに向けた。目がとろんとしている。余程気持ちいいのだろう。ものすごーく羨ましい。羨ましいけど今はそれどころじゃない!
「エルちゃん、ラウルがバツイチだって知ってた?」
「んー……。知ってたぁ」
「知ってたの? ちょっとちゃんと起きて、起きて」
エルちゃんの腕を引っ張り、シロクマの上から引きずり落とすと、エルちゃんがびたんと床に落ち、「ふぎゃっ!」と変な声を上げた。
「あっ、ごめん。思わず落としちゃった」
「思わずじゃなくて、あえて落としたよね」
「はい。落としました」
「ごめんなさいは?」
「ごめんなさい」
仰向けに寝ていたその上体を、すくっと起こしたポーラさんの腹筋力にちょっとびっくり。上体がまるで揺れなかった。シロクマの腹筋。
エルちゃんと一緒に日だまりの中、ラグの上にぺたんと座って一緒に日向ぼっこをする。エルちゃんの後ろにはシロクマのポーラさんがぼんやりとした顔で座っている。
「で?」
「そうだ。ラウルがバツイチだって知ってたの?」
「うん。だって、その前妻に毒殺されようとしてたんだもん、さーちゃんの旦那様とお城の仲間たち」
「うそん! なにそれ?」
「まあ、理由は旦那様に聞きなよ」
……なんだかエルちゃんのご機嫌がナナメだ。
「エルちゃん、なんかあった?」
「ん。なんもない。生理来ただけ」
エルちゃんが無表情だ。生理痛でだるいって感じじゃない。なんだろう、まるで傷つきたくないから感情を殺しているみたいだ。
「エルちゃんさ、言いたくなかったら言わなくていいけど、どうしてラウルとしたかったの?」
「さーちゃんの旦那さんとなら子供できるかなって思って」
「エルちゃん、子供欲しいの?」
「欲しい」
無表情だったエルちゃんの顔が少しだけ歪んだ。
聞いちゃいけないだろうか。でも聞かなきゃわからない。エルちゃんが何を考えているかは、いつだって後にならないとわからない。だから、いつだってエルちゃんは自分が傷ついていても笑っている。そういうのはもう嫌だ。
聞くことがいいことだとは限らないかもしれない。でも、聞かなきゃわからないことだってある。
「そっか。で、なんでラウルだったの?」
「やっと見付けた男の理解者だったから」
「理解者?」
「ひとつの世界に一人だけいる、私みたいな存在を理解してくれる人」
エルちゃんの言葉に驚く。ひとつの世界にたった一人、しかもやっと見付けたって言うくらいだ、それはすごく貴重な存在なんじゃないの? それなのに、そんな大切な存在だったのに、エルちゃんは私とラウルを結びつけてくれた。
「どうして? どうして、そんな大切な存在だったのに……」
「んー。さーちゃんも大事だから」
「でも、だって……」
「さーちゃんはね、貴重な存在なんだよ私にとって」
静かに、でも強く聞こえたその言葉に、エルちゃんの顔をしっかりと見れば、その表情が少しだけ柔らかくなっていた。混乱していた頭の中がすっと落ち着く。
「私の存在ってね、だいたい三日で忘れられちゃうの」
「えっ?」
「長くても丸三日、私のことを思い出さないと、そのまま記憶から消えちゃうんだよ。早い人はその日のうちに消えちゃう」
エルちゃんがまた無表情になった。
「そうなの?」
「うん。忘れないのは、理解者と、私に会って三日以内の人と、私のことを三日に一回は考えてくれる人だけ」
「私も理解者なの?」
「違うよ。だから貴重なの。さーちゃんは私のことを初めて会った日から一度も忘れなかった」
そこでエルちゃんはその日初めて笑った。それはすごく儚いような、寂しそうな、少しだけ嬉しそうな、そんななんともいえない、触れたら壊れてしまいそうな、シャボン玉みたいな笑顔だった。
「さーちゃんはさ、私とひと月会わないことがあっても、忘れなかったんだよ」
「当たり前だよ。忘れるわけがない」
「その当たり前が通用しない存在なんだよ、私は」
エルちゃんが吐き捨てるようにそう言うから、思わずエルちゃんの手を両手でぎゅっと握った。
「エルちゃん、私はきっと忘れない。だって、毎日ふとしたときにエルちゃんのことを思い出すもん。普通好きな人のことは忘れないよ。何かの拍子に無意識にでも思い出す。忘れるわけがない」
「うん。さーちゃんだけだった。忘れないでいてくれた人は」
エルちゃんが泣きそうな顔で笑うから、泣かせたくなくて咄嗟にほっぺたを抓った。
「いひゃい!」
「あっ、ごめん。思わず抓っちゃった」
「思わずじゃなくて、あえて抓ったよね」
「はい。抓りました」
「ごめんなさいは?」
「ごめんなさい」
ポーラさんがエルちゃんの後ろからエルちゃんを抱え、シロクマの膝の上に乗せた。シロクマ座椅子! かなり和む。エルちゃんは当たり前のように座っているから、いつものことなのだろう。まるで恋人同士だ。ちょっと鬱陶しい系の。
「でもさ、お城のみんなも、唯ちゃんやきょんちゃんもエルちゃんのこと覚えてるよ」
「理解者や忘れない人のおかげで、その周りにいる人も覚えていられるんだよ」
唯ちゃんやきょんちゃんは大学でエルちゃんと一緒に親しくなった友達だ。学生の間くらいだろうって、お互いにちゃん付けで呼び合っている。でもきっとこの先もちゃん付けで呼び合うと思う。
「なるほどねぇ。なかなかよくできてるんだね、そのシステム」
「さーちゃん、たまに面白いね」
「ごめん。何が面白かったのかわからない」
「システムって言うからさ、なんか面白かったの」
「ふーん。よくわからないけど、忘れられたくなかったら三日に一度、メールでも電話でもすればいいのに」
「なんか、無理に覚えていてもらうのもね」
「うわぁ。そこは足掻こうよ。忘れられたくない人には足掻こうよ」
「今度からそうする。でももうさーちゃんがいるからいいや」
エルちゃんからは、諦めとかじゃない、前向きな投げやり感が伝わってきた。……前向きな投げやり感って、なんじゃそれ。自分で思ったくせに自分で突っ込んじゃったよ。脳内一人突っ込み。
「さーちゃん、アホなこと考えてないで、結局何しに来たの?」
「そうだった。ラウルがバツイチだったんだよ」
「うん。すでに何回も聞いた」
「うん。なんかそれ、もういいや。それよりさ、エルちゃんはなんで子供が欲しいの? 子供の前に旦那さんじゃないの? あっ、あのね、言いたくなかったら言わなくてもいいから」
エルちゃんが少し考えるように視線を下げ、再びその視線を上げて目を合わせると、自分のことを話し始めた。
そのエルちゃんを後ろからポーラさんが抱きしめるように抱えている。まるで大切なものを守るかのようなその姿に、あの日、エルちゃんのことを疑わないでと言ったポーラさんの姿を思い出した。
「私の体ってね、魔力のないさーちゃんたちとまるで同じなんだよ。歳はもうすぐとらなくなっちゃうんだけど、生理はあるし、生理痛もあるし、エッチもできるし、濡れるし、気持ちいいし、ちゃんとイケるし、最初は少し血が出て痛かったし、とにかく同じなのね」
「うん。なかなかに赤裸々発言だけど、同じだね」
エルちゃんは顔色も変えずしれっと言うけど、聞いてる私の方が恥ずかしくて顔が赤くなってるはずだ。もう少しオブラートに包んで欲しい。
「でもね、存在が違うから子供はできないんだよ」
「うん。でも試してみたかったんだよね、エルちゃんは」
「うん。で、試してもできなかったから、今度はできそうな人を探したの」
「うん。それがラウル?」
「そう。でも断られて……」
「毒殺されそうだったから、呪いってことにして助けたんでしょ?」
エルちゃんが渋い顔をしたけど、きっとそうだと思う。
「……もう一服盛られた後だったからね、それしか方法がなかったの」
渋い顔をしたまま認めた。エルちゃんが認めるなんて珍しい。いつもはのらりくらりとかわすのに。
「それなのに、私と結びつけちゃってよかったの? 今更一回やらせてって言っても、もう遅いよ?」
「うん、たぶんさーちゃんの旦那様ともできなかったと思う」
「ねえねえ、エルちゃんの存在って、そもそもどういうものなの?」
前にも聞いたけど、まるでわからなかった。
「んーそうだなぁ、似ているのはポーラたちかな。その源は違うけど、同じような存在っていったらポーラなのかなぁ」
ポーラさんがエルちゃんを抱える腕の力を少しだけ強めたのがわかった。エルちゃんは全く気にしてないけど、それはまるで自分のものだと主張しているみたいだ。
「エルちゃんはさ、なんで子供が欲しいの?」
エルちゃんの顔が明らかに歪んだ。聞いてはいけないことだったのだろうか。
「自分のね、家族が、欲しいの」
ぽつりとこぼれ落ちたその言葉は、エルちゃんの深すぎる思いが込められているかのように響いた。
「今いる家族とは別の家族が欲しいの?」
聞くと、少し考えた後、再びゆっくりと話してくれた。
「私の母様はね、いわゆる異世界トリップをしたんだけど、そのおかげで父様っていう唯一無二の存在に巡り会えたの。宿命って絶対の存在で、簡単に言うとベターハーフとか魂の片割れみたいな存在なのね。兄様たちにもそういう存在がいるのに、私だけは魔女って存在だったせいで、いないの。魔女って存在だったおかげで、魔力みたいな力のある界で一人だけ力がなくて、常に自分の周りに結界を張って生きてたのね。あそこでは自分一人だけが異質だった」
そう言って力なくへらりと笑うエルちゃんは、「十分すぎるほど愛されていたけど、いつも何かが足りなかったんだ」と口にすると、無理に笑った。
「この世界でも、やっぱり同じ存在がいるわけじゃないんだけど、体だけはね、同じだから……少し気が紛れるの」
エルちゃんはたくさんある世界に十二しかいない存在だ。世界がどのくらいあるのかはわからないけど、きっと地球上にたった十二人しかいないような、そういう存在なのだろう。
「宿命かぁ。そういう存在がエルちゃんも欲しいの?」
「うん」
「それが子供?」
「うん。でもできないけど」
ふとポーラさんと目が合った。どうしてすぐ側にある存在に気付かないのだろう。生まれたときから一緒にいたから、近すぎて気付かないのだろうか。
それを言おうとしたとき、ポーラさんが小さく首を横に振った。どうして?
「エルは長きを生きることになる。自分で悩んで自分で答えを見付けることこそが、大切だろう?」
そのポーラさんの言葉に、見上げるようにシロクマを見つめるエルちゃんは、もしかして気付いてるのかもしれない。
その目には確かな信頼と溢れんばかりの愛情が見て取れた。ポーラさんから注がれているのも同じものを含んだ視線。
……なにこのピンクな空間。
シロクマにしっかり抱きかかえられ、その膝の上に座ってシロクマと見つめ合う美女。まるで映画のポスターだ。アホくさ。ラウルにちゃんと話を聞いてこよ。
立ち上がって振り向けば、そこにラウルが立っていた。腕を組んで壁に寄り掛かって立っているその姿は、これまたモデルかと思うほどに格好いい。なんだ? この部屋で私だけが一般人?
「いつからいたの?」
「紗奈が魔女殿に謝っているあたりから」
「えっと……一回目? 二回目?」
「一回目」
「つまり最初から?」
振り向いてエルちゃんを見ると、にたぁと悪い顔で笑っていた。ポーラさんまでにたぁと笑っている。なにこの二人。似たもの夫婦め! この二人、絶対に両片思いだ。アホくさすぎる。