シロクマのたなごころ
第八章 §2さて。
きょんちゃんの結婚式をニースで決行! が合い言葉になっていた我が夫の会社に、超難問が持ち上がった。
その家族や恋人まで同伴可、その旅費まで出しちゃうよってな太っ腹に、うほうほと喜んでいた社員たちに衝撃が走った。
翼さんたちやお隣の和菓子屋のご主人夫妻まで誘っちゃったりして、完全に社員旅行の枠を超えているよね、なーんてみんなでうきゃうきゃしているところにまさかの大打撃!
妖は生まれた地を離れられない。らしい。
ようするに、本州で生まれた妖は、本州から出られない。北海道で生まれた妖は北海道から出られない。伊豆大島で生まれた妖は伊豆大島から出られない。つまり、海を越えられない。
「フェリーに乗っても?」
「一里進むと勝手に引き戻されると思うよ」
「海水浴はできるんだね」
「海坊主も生まれた島の周囲にしか生息できないからね」
「行動範囲狭いねぇ」
妖プチ情報だ。ちなみに蔵間さんはへっちゃららしい。蔵間さんは地に縛られる妖ではないからだそうだ。蔵間さんに関しては正直どうでもいいので詳細は聞いていない。
「世界は超えられないけどねぇ」
エルちゃん、普通は容易に世界は超えられない上に、これ以上蔵間さん情報はいらんよ。
そんな妖システムの発覚に、一気にトーンダウンしたのは言うまでもない。きょんちゃんと目梨さんの結婚式に参列するため、という建前がなくなってしまう。しかも本州から出られないとは……明太子を食べに福岡にすら行けない。
いやね、子供の手が離れたからって、最近ラウルがデートに誘ってくれるようになって、こないだ福岡まで明太子食べに行ってきたんだよ。帰りに大量に買った明太子は、頭の中で強く強くエルちゃんとシロクマを思い浮かべたら、目の前から消えた。便利すぎる。おかげでのんびり帰って来られた。
こないだは京都の老舗旅館ってのに泊まったんだけど、そりゃもう格式高すぎて庶民の私は緊張しっぱなしでむしろ疲れた。無理にお上品ぶろうとしてしまうから気疲れがハンパなかった。そりゃ素晴らしい居心地だったけど、なんだろう、身の丈って大事だってわかった。
エルちゃんに話したら、久しぶりにアホの子を見る目で見られたけど。
お屋敷のエルちゃんの部屋でまったりと、その京都で買ってきたお土産のわらび餅を食べていたら、ポーラさんがずいっとその手をエルちゃんに突き出した。その掌の上には禍々しき真っ黒な小さな石の付いたネックレスがのっている。
「あっ、できたんだ。これで問題解決!」
「この禍々しい黒い石なに?」
ポーラさんが微かに顔をしかめた上に、真っ黒オーラが背後から滲み出ている。何をやらかしたんだ? 私。命の危機? 呪われる?
「これね、ポーラの魔力が籠もった魔石。これを身につけてると妖たちも生まれた土地から離れられるってわけ」
「そうなの?」
「そうなの」
久しぶりに見たエルちゃんのドヤ顔だ。真っ黒オーラを引っ込めたポーラさんまでドヤ顔だ。美男美女のドヤ顔はあまり目にしたいものじゃない。特にこの二人。
この禍々しき黒い石──エルちゃんにはポーラさんの瞳と同じ色の綺麗な黒い石に見えるらしい。愛の力ってすごい。どこからどう見ても禍々しいのに──は、妖の有り様をねじ曲げる何かが刻まれた代物らしい。よくわからないけど、世の中の有り様をねじ曲げられるほどの力を、ポーラさんは肉体を得ると同時に得たらしい。なにそれコワイ。
やたらシオンたちがポーラさんを畏れるわけだ。蔵間さんまでがポーラさんを尊んでいる。
そんな神懸かった力を持っているなら、私をラウルのいた世界に飛ばすことなど造作も無いことなのだろう。シロクマコワイ。シロクマが神の世界は禍々しき世界に違いない。おおぅ、超絶美形に睨まれた。
とりあえず、エルちゃんすごい! とエルちゃんの頭を撫でておいた。すごいのはポーラさんだけど。あの超絶美形の頭を撫でる勇気はない。勇者なエルちゃんはポーラさんの頭を撫でていた。ちょっとポーラさんがデレて、見ちゃいけないものを見た気になった。
それをラウルに話したら、ラウルは時々デレたポーラさんを見かけるらしく、すかさずからかっているらしい。強いなラウル。思わず感動して思いっきり褒めたら、ぺろっと食べられてしまった。衰えんなラウル。
その禍々しき黒い石の付いたネックレスが妖たちに配られると、彼らはその禍々しさに畏れ戦きつつも、手にした瞬間むせび泣いた。海外旅行は妖たちの夢のまた夢だったらしい。
目梨さんが「三ツ目に自慢できる!」と、珍しく可愛らしい顔に邪悪な笑みを浮かべていた。それを見たきょんちゃんが「とう君格好いい!」と喜んでいて、きょんちゃんの目には何が映っているのかと心配になった。エルちゃんはそれを見て面白そうにぐへぐへ笑っている。色々おかしい。
浮かれた妖たちは、週末揃って早朝から沖釣りに出掛けた。初めてだったからかボウズだったけど。それでもとにかく楽しそうだった。帰りにアクアラインを通ってきた! と思いっきりはしゃいでいた。ってか誰の車で行ったの? 免許持ってたの?
なぜか翼さんまでがその石を受け取っていたのは見ないふりをしておく。今ならわかる。お茶もお花もお琴も舞踊も、数え切れないほどの趣味が師範の域だった意味が。時間はたっぷりあったのだろう。
インテリ妖。私の中に新たなカテゴリが生まれた。
「さーちゃんの最近の思考って落ち着いたよね」
「いい歳なもんで。この歳でアホな思考だったら色々問題でしょ」
「問題大歓迎なのに」
「歓迎しなくていいから」
エルちゃんは変わらない。変わらないけど、時々微かな違和感を感じるようになった。それが何かはわからない。
もしや! ジェネレーションギャップか! エルちゃんは見た目だけじゃなく思考も若いままだったら、おばちゃん化しつつある私との間にジェネレーションギャップが発生してもおかしくない。
ショック! かなりショック!
シリルの学校のお友達に「おばちゃん」呼びされたくらいショックだ。初のおばちゃん呼びは、誰のことかとうっかり周りを見渡した後、私のことかと自覚した瞬間、思いっきり心を抉られた。ついにおばちゃんになっちゃったよ。泣ける。ラウルに泣きついてしまうくらいショックだった。
結局シリルもサラもニナも、保育園や幼稚園に通うことなく、翼さんに小学校入学まで見てもらっていた。
アルフ君や美里ちゃん、光ちゃんたちは、みんな「紗奈ちゃん」と呼んでたし、クロエさんは「クロエちゃん」だし、里子さんは「里ちゃん」だし、アンナさんだけは「アンナさん」だったけど。子供たちの誰からも「おばちゃん」って呼ばれたことはなかった。ひとえに翼さんたちの教育のたまものだ。
ちなみにクロエさんたちも「おばちゃん」呼びにショックを受けていた。さすがの里子さんまでがしょぼんとしていて、互いに慰め合ったのはいい思い出だ。
しかもあの学校の子供たちは清々しいほどのクソガキ共だ。これぞ子供らしさ! ってなくらいのクソガキっぷり、いたずらっぷりに、時々蔵間さんが本気で怒りながら追いかけ回していて、クロエさんに呆れられている。
社員旅行……じゃなくて、きょんちゃんと目梨さんの結婚式は子供たちが夏休みの間に決行されることになった。
エルちゃんのちょちょいで手に入れたパスポートに感動する妖一同。エルちゃんから手渡されるパスポートを、誰もが恭しく両手で受け取っていた。お隣の和菓子屋のご主人なんて、凶悪な強面を一層凶悪に歪めて感動していた。かなりコワイ。隣で里子さんが「いつも以上の間抜け顔ですね」とご主人に言っていて、凶悪顔を間抜け顔と言っちゃえる里子さんにちょっと感動した。いや、ものすごーく優しい穏やかな人なんだけど、いかんせん顔が極悪だ。
唯ちゃんを誘えば最初は渋ったものの、旅費は会社持ちだと言えばいい笑顔になり、すぐさま有給申請したらしい。ちなみに唯ちゃんの会社は経営難が奇跡的に持ち直した。絶対シロクマの陰謀だと思う。きっと唯ちゃんは妖を受け入れられないのだろう。この会社はエルちゃんのためにある会社だ。
あまりにうきうきする妖たちに、エルちゃんのちょちょいではなく、普通に飛行機に乗って行くことが決まり、そのおかげで唯ちゃんやきょんちゃんのご両親たちが、ポーラさんによって記憶操作される事態を回避できた。記憶操作とか、シロクママジコワイ。
そして、ビジネスクラスを一機丸ごと買い占めた道楽会社も怖すぎる。おかげでみんな気兼ねなく過ごしていたけど。
初めて乗った飛行機に妖たちが興奮して鼻血を出すという恥ずかしい事態が発生したり、きょんちゃんのご両親や唯ちゃんが恐縮しながらも嬉しそうだったり、目梨さんにご両親がいたことに驚いたり。
翼さんのビキニ姿がどこからどう見ても女性にしか見えず、しかもかなりのスタイルの良さに全身整形を疑ったり、実は翼さんは元雪男、現雪女であることがわかったり、ビーチでこんがり肌を焼いてるけど溶けないのか不安になったり、エルちゃんがその存在を呪いで変えていたことが判明したり、その呪いの代償が雄の象徴であったことにびっくりしたり、その雄の象徴をどうしたのか聞くに聞けずに悶々としたり……。
きょんちゃんの花嫁姿があまりにも綺麗で泣きそうになったり、そのドレスがフランスの老舗の某ブランドのオートクチュールだったことにきょんちゃんが気絶しかけたり、目梨さんの資産がいかほどなのかと下世話な想像をしたり、目梨さんがきょんちゃんの「誓います」あたりでちょと引くくらい号泣していたり、なぜかフランス人の神父さんが日本語ぺらぺらだったり、妖がカトリック教会で結婚式していいのかと疑問に思ったり、ってかきょんちゃんカトリックだったの? ってな疑問が頭をかすめたり、エルちゃんがにへにへ笑っていたからこの神父偽物だなと疑ったり、なぜかまた料理長とアルノーさんがカメラを構えていたり……。
私以外のみんなが普通にフランス語を話しているのに泣きそうになったり、私の専属通訳にニナがなってくれたり、帰りの飛行機の中でもしやエルちゃんのちょちょいでフランス語ぺらぺーらになれたんじゃないかと思い付いたり、その瞬間エルちゃんに「遅いわ」ってつっこまれたり、「うそん!」って思わず声に出した私をエルちゃんが大笑いしたり。
まあ、色々あった。
一軒のオーベルジュを借り切り、とことんニースを満喫した二週間はあっという間に過ぎ、目に鮮やかで優しいニースの景色にうっとりしたまま帰路についた。
帰ってきた途端、体に纏わり付くような暑さと湿気に心底うんざりした。日本って暑苦しい。
あまりに翼さんが涼しげな顔をしていたから、さすが雪女だと思っていたら、自分の周りの気温を調節してくれる禍々しき黒い石をもうひとつ持っているらしい。翼さんと手を繋ぐと瞬時に蒸し暑さがなくなり、ひんやりとして驚いた。手を繋ぎっぱなしだったのは言うまでもない。その私のもう一方の手をラウルが繋ぎ、翼さんのもう一方の手をニナが繋ぎ、ニナの手をシリルが、ラウルの手をサラが繋ぎ、翼さんを中心に我が家がアホのように繋がった。涼しい。
それを見たエルちゃんと禍々しき存在がぐへぐへ笑っていたのは、気持ちよくスルーできた。この涼しさには代えられない。
料理長とアルノーさんが山のようにオリーブオイルとワインを買い込んでいたと知ったのは帰ってから。エルちゃんのちょちょいで食堂に山積みになっていた。いつも言うけど不正だから。
きょんちゃんもこのビルの住人となり、ついにピンク地に水色の水玉模様の扉の謎も明かされ、エルちゃんとポーラさんの謎は曖昧なまま、週末になると我が家からお屋敷に通うようになった。
「なんっていうか、そういうものだと受け入れて、細かいことは気にしないことにした」
疲れたように笑うきょんちゃんに、エルちゃんがにたにた笑っていて、諸悪の根源はエルちゃんだ! と強く強く強ーく思ったけど、エルちゃんには伝わらなかった。シロクマめ。
そのきょんちゃん。
「ハネムーンベイビーおめでとう!」
エルちゃんの声がバール中に響いたのも、その場で目梨さんがやっぱり引くくらい号泣するのも、ぽかんと呆けたきょんちゃんがクロエさんのチョップで我に返るのも、きょんちゃんと目梨さんの結婚式の様子が会社の広告になっていることが判明したのも、ニースから帰ったひと月後のこと。
「さーちゃん、色々苦労してるね」
そんな労りの言葉をきょんちゃんから頂戴した。有難く受け取り、心の友よ! と抱きついたのは仕方ないと思う。諸悪の根源がにたぁっと笑っていた。その背後で諸悪の根源の親玉も、同じようににたぁと笑っていた。
シロクマの思う壺。