シロクマのたなごころ
第九章微かに感じていたエルちゃんに対する違和感が、少しずつ少しずつじわじわとシミが広がるように、日に日に大きくなっている。
なにがどうってことじゃない。なんとなく首を傾げるような、なんとなく何かが違うような、そんなすごく些細な違和感。
最初はジェネレーションギャップかと思ったけど、そもそもエルちゃんは昭和脳なので今更だった。こないだ「ヒューヒューだよ」ときょんちゃんをからかっていて、いつの時代だよと二人でつっこんだのは記憶に新しい。
なんていうか、昨日のエルちゃんと今日のエルちゃんって同じエルちゃん? みたいな。そんな違和感。
いや、エルちゃんはエルちゃんなんだけど、なんだろう、昨日のエルちゃんの延長上に今日のエルちゃんがいないような、そんな感じ。何となくだけど雰囲気が違うような。
そんなことを考えていたら、なんだか急にとてつもない不安に襲われて、それはエルちゃんについてだけじゃなくて、自分の存在が不確かな気がするような、これってもしかして夢じゃないよねって思うような、そんな現実味のない感じっていうか……。
ふと、今自分が居る場所は今まで自分が居た場所なのかって思うことがあって、それがエルちゃんに対する違和感と一緒に少しずつ膨らんでいって、どうしてこんなに情緒不安定なんだろうって、意味もなくラウルにしがみついてしまう。
ラウルに話しても、ラウルもなんともいえない顔をしていて、自分が答えようのないことを言っているのはわかっているのに、一層不安を煽られて、いっその事エルちゃんに話してみようかと思った。
で、目の前にシロクマ。
なんかわかった。つまり私の不安もエルちゃんへの違和感も、勘違いや気のせいじゃないってことだ。
シロクマがこくりと頷いた。
こういう時にシロクマの姿はズルイと思う。ぽてっと我が家のソファーに座っているシロクマがあざといほどに可愛く見える。実際かなりあざといけど。あの超絶美形の方が悪役っぽくて罵りやすいのに。
ここって、元々私が生まれた世界?
頭に浮かべた疑問にシロクマがふるふると頭を左右に振った。
やっぱりか。どうもおかしいと思ったんだよね。だって、どうして妖が普通にいるわけ? いくらなんでも現実的じゃない。目の前に存在してるから、あまりにあっさり受け入れてきたけど、よくよく考えたら不自然極まりない。
「いつから?」
「ラウルに出会った直後から」
「なんで今更思い出したの? 私」
「私の格が上がった影響だ。近くにいるものも影響を受ける」
だからか。紺野さんのしっぽが三尾になったり、シオンの化け狼姿が大きくなっていたり、権太さんのふぐりが膨らむと気球サイズになっていたりしている。権太さんのふぐりサイズは知りたくなかったけど。
最近、蘇るかのように浮かび上がる記憶の欠片がある。
あの日、ダッツをコンビニで三つ買った帰り、私ってば誰かに刺された気がするんだよね。お腹をぶすっと。凶器は包丁。
「もしかして私、死んでる?」
「死にかけていたのを拾った」
……さいですか。
捨て置かれても困るけど、拾ったと言われるとイラッとする。せめて助けたと言って欲しい。
そのトラウマなのか、包丁が持てなくなっていた。ずっと食堂でご飯を食べていたから気付かなかった。果物ナイフはちょっと怖いくらいで、それは単に刃物に対する怖さだと思っていて、家で料理をしないからか、家に普通の包丁がないことに違和感を感じなかった。
このビルに来る前は、朝はパンをかじって、お昼は学食、夜は賄い付きのウエイトレスのバイト、休日やバイトのシフトが入っていないときはエルちゃんが来てくれて、片っ端から野菜や何かを刻んでくれていた。包丁じゃなくいつものちょちょいで。あまりにもそれが鮮やかで面白くて、手品みたいに喜んで見ていた。
このビルにあるあの食堂は、きっと料理ができなくなった私のトラウマ対策だ。
「刺したのは?」
「見ず知らずの男。通り魔殺人」
……一番報われない死に方だ。犯人め、呪われろ!
「この世界って、なに?」
「元の世界とは別の可能性の世界だ」
「パラレルワールドみたいなもの?」
こくりと頷くシロクマの雰囲気が、珍しく柔らかい。
元の次元より派生した世界は、とかく流動的なのだそうだ。長く存在することもあれば、あっという間に元の世界に還ることもある。
既視感や未視感は、この派生した世界が元の世界に戻った際に起こる現象らしい。同じようでいて微妙に違う世界だからこそ、その感覚のズレが既視感や未視感になるらしい。
妖が普通にいるこの世界は、随分と長く存在している安定した世界だそうで、シロクマがそれを手中に収めたそうな。なにそれコワイ。
「私の家族は……」
「同じだ。私が入れ替えた」
「だよね。お母さんたちに違和感はないもん」
シロクマがふっと笑った気がした。お父さん、お母さん、玲奈、私の所為でごめん。みんな楽しそうだから許してくれるといいな。玲奈はマルクさんと無事に結ばれて、すでに子供もいる。
「ラウルは知ってる?」
頷くシロクマに、ラウルが微妙な顔をしていたのも頷けた。
じゃなきゃ、家に包丁があってもおかしくない。ラウルは一度も私に料理を作るよう言ったことがない。それは使用人が当たり前にいる環境で育ったからだと思っていたけど、それだけじゃなかったってことだ。
「もしかしてさ、私の寿命って短い?」
「倍までしか引き延ばせなかった」
「じゃあ、四十歳そこそこってこと?」
シロクマが少しだけ切なそうに頷いた。シロクマの切ない表情がわかる私って、ちょっとすごくない?
この世界には魔力がないから、シロクマの力をもってしても、死にかけた私の寿命は倍までしか伸ばせなかったらしい。もっと強い力を加えてしまうと、人としての有り様から外れてしまうそうだ。つまりは人外って事だ。
「だから、ポーラさんは焦ってたのか。そっか。寿命のこと、ラウルは?」
「そこまでは知らせてない」
「エルちゃんは?」
黙って頷いたシロクマが泣きそうだ。エルちゃんのことに関してだけは、そこまで感情が動くシロクマよ、私の短い寿命ももっと嘆け。
「エルちゃんさ、なんか違和感があるんだけど?」
「エルは、少しでも長く紗奈と過ごしていたいと思っている。だから、三日に一度ずつ、時間を超えて会っている」
「また面倒なことを……」
それでも合わせて六十年しか一緒にいられないのか。
今日のエルちゃんは今日のエルちゃん、明日のエルちゃんは二十年後のエルちゃん、明後日のエルちゃんは四十年後のエルちゃんってな感じだったわけだ。記憶力いいな。さすが魔女。
「ポーラさん、私は人として死ぬね」
「そう言うだろうと思っていた。エルも承知だ」
「死に方は?」
「眠るように」
「そっか。この記憶、消していいよ」
シロクマがわかっていると言いたげに小さく頷いた。
私は今まで通り何も知らない方がいい。エルちゃんにもその方がいいような気がする。だからこそ、シロクマはエルちゃんに内緒で私に話しているのだろう。
ラウルにもその日までは今まで通りの方がいい。今がすごく幸せだから、その時までラウルも今まで通りの幸せを感じていて欲しい。死ぬと分かっている人と暮らすのは途方もなく苦しいだろうから。
「寿命が近付いても知らせなくていい。毎日が幸せだから、そのまま逝きたい」
「わかった」
シロクマが神妙に頷く。シロクマの神妙な様子なんて、二度と見られないだろうなぁ。
そっか。
あと数年か。
ラウルを、大好きなラウルを、本当は寂しがり屋なラウルを、私は遺して逝くのか。
死にたくないなぁ。
すでに死んでいたはずの命だけど、こうして生きている今は死にたくないって思う。
もっとずっとラウルのそばにいたい。ラウルを一人にしたくない。
この記憶が消えてもラウルにたくさん甘えよう。たくさん甘やかしてもらおう。たくさんの私を憶えていて欲しい。
あんなにエルちゃんのことを心配していたのに、最後に想うのはやっぱりラウルだ。ラウルだけは譲れない。ラウルだけが心配。
「オーロラとか見たい。ナイアガラの滝とか、エアーズロックとか、マチュピチュとか、南極にも行ってみたい。まだまだ色んなところに行ってみたいから、そのあたりはよろしく」
泣きそうになる意識を別のことに切り替えると、不意にシロクマが立ち上がった。目の前に来て跪き、もふっと私を抱きしめる。エルちゃんにはこのシロクマがいるからきっと大丈夫。
「紗奈、ありがとう」
「私こそ、二十年分生かしてくれてありがとう」
シロクマにはシロクマの思惑があったとは言え、ラウルに出会えて、子供たちが生まれて、毎日幸せだ。きっと死ぬまで幸せだろう。
本来なら経験できなかったはずの幸せを十分すぎるほどに経験させてもらっている。間違いなくシロクマが守ってくれている幸せだ。
私は最初からシロクマのてのひらの上で、エルちゃんのためとは言え、それでも大切に守られてきた。
「ニナだけじゃなく、シリルとサラもお願いね。あと、ラウルを一人にしないで──」
少しだけひんやりしたシロクマの毛の感触を感じながら、私の中にあった今し方の記憶が、ゆっくりと溶けるように消えていくのを感じた。
────◇────
子供たちの成長って、本当にあっという間だよね。
シリルとサラが高校を卒業して、半年後にはイギリスの芸術大学に留学する。光ちゃんまでイギリスに留学することが決まっている。こっちは天文学を学ぶためらしい。絶対に天文学なんて後付だ。ただのサラのストーカーだと思う。まあ、サラが嫌がってないからいいけど、相変わらずラウルとシリルは微妙な顔をしている。光ちゃんはあのポーラさんの禍々しき黒い石を持って、留学するらしい。
我が子ながらシリルもサラもニナも、超絶美形に育ってしまった。さすがラウルの遺伝子。
三人とも背も高いからかモデルにならないかとの誘いが引っ切りなしにある。すでにシリルとサラは芸術界においてその名を轟かせているので、モデルなんて今更な感じだ。
ニナは芸能関係には全く興味がないらしく、ラウルの会社を継ぐのはすでにニナに決まっている。ラウルの頭脳を受け継いだニナは、とにかく賢い。里子さんの頭脳を受け継いだ美里ちゃんと一緒に、アメリカにある世界最高峰の大学を目指している。さすがラウルの遺伝子。
子供たちはみんな、蔵間さんのお社があるあの町の高校までそのまま進学した。
我が子だけじゃなく、美里ちゃんや光ちゃんたちを始め、妖の血を引く子たちはことごとく賢い。開校以来の進学率だと、学校から感謝されている。天才を生み出す教育者として、小中高の校長先生たちが時々講演までしているらしい。まさか妖の子供たちが多分に含まれています、とは言えない。
しかも講演の原稿をラウルが監修しているのは内緒だ。校長先生たちは講演に行った先々で、たくさんのおいしいものをお土産に買ってきてくれる。何気に仲良しだ。お隣の和菓子職人の弟子だった権太さん曰く「うぃんうぃんの関係」らしい。
きょんちゃんは目梨さんの子供を我が家と同じく三人授かり、エルちゃんの超簡単出産に、毎回頭を抱えていた。さすがにエルちゃんの存在のおかしさには気付いているものの、詳しく聞くのを今でも拒否している。
「絶対知らない方が幸せだと思うんだよね」
そう言って、エルちゃんににたにた笑われている。
きょんちゃんは本当に賢い。知らないが故にエルちゃんの悪戯からことごとく逃れている。羨ましい。
唯ちゃんには、エルちゃんはちゃんと歳を重ねているように見えているらしい。どんなちょちょいでそうなっているのやら。謎すぎる。
そのエルちゃんは、最近ふとした瞬間に寂しそうな顔をするようになった。どうしたのかと聞いても、なんでもないと頑なに教えてくれない。
でも、この目には覚えがある。死んだ魚の目だ。きっと誰か親しい人の寿命が近付いているのだろう。相変わらず魔女って存在はエルちゃんに優しくない。
「よくわからないけど、大丈夫だから。私がエルちゃんを好きなのは変わらないから」
「さーちゃん、百合発言?」
「違うから。友情だから。そこに愛はあるけど、発情はしないから」
「うわぁ、発情とか、恥ずかしげもなく言っちゃう?」
「言っちゃう。もういい歳なので、羞恥心は明明後日あたりにいる」
エルちゃんが泣きそうな顔で笑った。
「さーちゃん、大好きだから」
エルちゃんが、いまだかつて見たことないほど寂しげに笑った。急に言われたその言葉に違和感を覚える。急にどうした?
「さては! 隠していた獅子屋の羊羹食べたな」
「さーちゃん、里子さんに知られたら一年はお隣で羊羹売ってもらえないよ」
「だから隠してたんでしょうが。で、まさか一棹丸ごとじゃないよね」
「ポーラと二人で半分こ?」
こてんと小首を傾げて可愛くいってもダメだから。あざといな、エルちゃん。
「シロクマ! 獅子屋の羊羹三棹献上!」
「叫ばなくても伝わってると思うよ」
「叫びたくもなるでしょうが! お隣の手前、どれだけこっそり買いに行ったと思ってるの?」
でへへ、って笑って誤魔化そうとしてもダメだから。
「今日は久しぶりにみんな揃うから、みんなで食べようと思ってたのに。エルちゃん、後で買いに行ってもらうから。あともう今日は食べちゃダメだからね」
どうせちゃっかり食べるんだろうけど。
買ってきたのが昨日だから、昨日か今日のうちに羊羹半分も食べたわけ? さすがに嫌になるでしょうが。
「獅子屋の羊羹はいくら食べても飽きないよね。お隣の羊羹もおいしいけど、たまには獅子屋もいいよねぇ。羊羹丸かぶりしたい!」
うっとりしているエルちゃんが恨めしい。どうせなら私だって食べたかったよ。一棹六千円もしたのに!
ふと言いたくなった。どうしてか今言わなきゃって思った。
「エルちゃん、私、幸せだから」
はっとしたように目を瞠ったエルちゃんは、ほろっと一粒涙を流して、綺麗に笑った。
相変わらずエルちゃんは綺麗だ。本当に綺麗だ。エルちゃんほど綺麗な人を私は知らない。
「獅子屋の羊羹食べられたのに?」
「それとこれとは話は別。エルちゃんもちょちょいじゃなくて、ちゃんとこっそり買いに行ってきてよ。私の苦労を味わうがいい」
だよねー、って言いながら、エルちゃんが抱きついてきた。
本当にどうしたんだろう?
大丈夫、私がいるから。そんな気持ちを込めて、その背をぽんぽんしてあやした。余程大切な人なのだろう。これほどエルちゃんに想われるなんて、その人はきっと幸せだ。
「エルちゃん、鼻水付けないでよ!」
でへへとエルちゃんが笑ったあと、ちょちょいと鼻水を浄化した。エルちゃんは、ずいぶん前に鼻水を浄化するという素敵スキルを身につけた。変わらないようでいて、エルちゃんも進化しているらしい。
思考を読んだエルちゃんの久々のドヤ顔が、鮮やかに目に焼き付いた。
エルちゃんはそうじゃなくちゃ。ね。
その日、眠りにつくとき、ラウルの腕の中にいることに、とてつもない幸せを感じた。
「出会えてよかった」
ほろんと零れ出た言葉に、ラウルが目を瞠った。
ぎゅっと抱きしめられたその腕が微かに震えていて、どうしたのかと心配になる。
「紗奈、私もだ。紗奈に出会えて、子供を三人も授かって、私は幸せだ」
「私も。ラウルに出会ってからずっと幸せ。なんか、急に言いたくなっちゃった。なんだか今、すごく幸せなの」
そうか、そう声を震わすラウルは、泣いているようだった。泣くほど幸せなのだろうか。
ああ、でも、確かに。
泣きたくなるほどの幸せがじわじわと込み上げてくる。なんだろう、凄まじいほどの幸福感。
すごく幸せ。
どうしようもないほど幸せ。
今日に限ってどうしてこんな風に思うのか。
「ラウル、たくさん愛してる。これからもずっと愛してる」
抱きしめるその腕に力が入る。私もだ、紗奈、愛してる、そうくぐもった声が耳元で聞こえた。ラウルの腕の中はいつだって安心する。
「おやすみ」
「ああ、ゆっくりおやすみ」
大好きなラウルの声を聞きながら、ゆっくりと微睡んでいく。頬を優しく撫でられ、愛してる、そう言ってキスをひとつ落としてくれたラウルの瞳が、いつになくきらきらと輝いて見えた。