シロクマのたなごころ
第七章


 昨日まで元気だったはずのエルちゃんが、急にしおしおとしぼんでいる。なえなえになっているだけじゃなく、妙にポーラさんに甘え、受付業務すらポーラさんの膝の上とは何事か。

 ぎょぎょっと二度見して、それはダメだろうと思いつつよく見れば、お客さんはポーラさんの存在に気付いてない? あれほどの禍々しき黒い存在に気付かないとはこれいかに。
 おおぅ、暗黒ビームが突き刺さる。ポーラさんと目が合うってことは、幻覚じゃないらしい。実在しているのに見えてない? だいたいエルちゃんの座高が妙に高くなってるのに、お客さんはいつものようににこにこ顔で、しょぼくれているエルちゃんと普通にやりとりしてる。どーゆーこと? あのしょぼくれっぷりも見えてない?



 エルちゃんはお客さんたちにすこぶる評判がいい。美人だからってのもあるけど、エルちゃんの顔を見ると一日中幸せを感じるとか。昨日の夜そんなことをラウルが言っていた。

「はらはらどきどきじゃなく?」
「ほわほわほわん、らしい」

 思わず聞き返したら、ラルフも腑に落ちない顔で、お客さんから聞いた言葉を教えてくれた。今日も今日とて子供たちを寝かしつけた後、ソファーでまったり、いちゃこらしながらとりとめもない話しをしている。この時間がすごく好き。子供たちの前じゃ甘えられない私を、ラウルは今まで以上に甘やかしてくれる。

「魔女殿は人知れず何かをしているのだろう? わざわざここに訪ねてくるのはそれなりの地位にある方ばかりだ。ストレスだけでも解消しているのかもしれん」

 それなりの地位にあるおじさまたちが口を揃えて「ほわほわほわん」だの「ふわふわふわん」だの「ぽわぽわぽわん」だの「ふるふるふるん」だの、同じ調子の言葉をちょっと恥ずかしげに言うらしい。おじさまの恥じらい。ちょっといいかも。
 会社に訪ねてくるおじさまたちは、なかなか渋めの素敵な方が多い。美形には美形が集まるのか? ってなくらい、相変わらずこのビルは美形率が高い。

 何故かラウルにむちゅっとされた。むちゅっとされながら思う。だが解せぬ。むちゅがれろんに変わった。色々考えられなくなるからちょっと待って欲しい。その分厚い胸板を必死に押し返す。

「私にストレス与えまくりなエルちゃんが?」
 ぷはっと息をつきながら言えば、むすっとした顔のラウルが目の前に。美形はむすっとしても美形だな。むしろこれがいいって人もいそう。ラウルはおじいちゃんになっても美形なんだろうなぁ。

「紗奈のはストレスじゃないだろう? むしろ発散させてもらっているんじゃないか?」
「そうかも?」

 その日はラウルのストレス発散に付き合わされた。色々解せぬ。



 で、ストレス発散してご機嫌なラウルを見送った後、お付き合いして全身とほほな私は、子供たちと一緒に託児所に行こうとして、受付で澱んだ空気を漂わせているポーラさんの膝上のエルちゃんを発見した。

 なんだかものすごく落ち込んでる? 落ち込んでいるっていうより悲しいのかな。
 ここのところ見なくなった無表情のエルちゃんがそこにいた。

 ひとまず託児所に子供たちを預けて、翼さんに子供たちをお願いする。

「エルさんですか? 今日は最初からあんな感じです。なにか悲しいことでもあったのかしら?」

 何も言ってないのに私のこれからの行動も、エルちゃんのこれまでの様子も、しっかりとわかっている翼さんはもしやエスパー? エスパー翼。なんだろう……言葉の響きがダメな感じだ。

「紗奈さん、よからぬことを考えてないで、早くエルさんのところに行ってあげて下さい」
 翼さん、それはまさかのジト目ですか。そしてやっぱりエスパーですか。

「……紗奈さん、考えていることが丸わかりです」
「マジですか」
「マジですよ」

 エルちゃんだけじゃなく、ラウルだけじゃなく、きょんちゃんだけじゃなく、アンナさんだけじゃなく、セドリックさんだけじゃなく、クロエさんだけじゃなく、翼さんにまで言われた。私の周りの人はみんなエスパーなんだな。そうなんだな。そうなんだよ。そうだそうだ。

 ふと気付けばすでに翼さんは子供たちと一緒に託児所の中で、今日は何をしようかと子供たちの様子を観察していた。腕にいたはずのニナまでいつの間にか翼さんの腕の中だ。マジか。マジックか。マジックなんだな。そうなんだな。そうなんだよ。そうだそうだ。

 ……現実逃避していても仕方がない。

 久しぶりに表情を無くしたエルちゃんと対峙するのがちょっと怖い。今のエルちゃんが表情をなくす理由が、なんとなくわかるからなんだけど……。
 放って置いた方がいいのか、話を聞いた方がいいのか、ただ一緒にいればいいのか。エルちゃんにとって何が一番いいのかがわからない。

「一緒にいて」

 ひぃぃぃぃぃぃぃぃっ!

「ちょー! やめて! 耳元で気配なくぼそっと呟くの! 悪霊かと思ったわ!」

 振り返れば、にたぁと口元だけで笑うエルちゃん。怖すぎるわ。託児所内からの翼さんの冷ややかな目。美人の冷ややかな目ってどうしてこうも背筋がぞわぞわするのか。

 お騒がせしました。翼さんにぺこりと頭を下げて、ぐへぐへ笑っているエルちゃんを連れてエレベーターに乗り込み、⑨のボタンを連打する。
 怖かった。怖いときにゆーれー系の言葉を脳内で漢字に変換すると、さらに怖さ倍増だ。うっかり変換しちゃったよ。しばらくは絶対に変換しない。

 ちらっと見れば、今日はポーラさんが受付をするらしい。超絶美形が強烈な存在感を放って受付に座っているという、とんでもなくシュールな空間がそこにあった。しかもいつの間に着替えた? ついさっきまでラフな格好だったはずなのに、今はびしっとスーツを着ている。
 ポーラさんの存在が謎すぎて、むしろ詳しく知りたくない。謎は謎のままでいい。特に黒いシロクマに関してはあえて謎のままで。

「さーちゃん、階数ボタンを連打すると取り消されるんだよ」
「うわっ、本当だ。知らなかった」

 なにその謎知識。もしや常識? もう一度だけ⑨のボタンを押すと、ちゃんと光った。ちょっと感動。わずかな浮遊感と一緒に九階まで運ばれる。

 ソファーに寝転ぶエルちゃんに、最近取り扱いを始めた、知る人ぞ知るというおいしい紅茶を用意する。日本人はメジャーどころが好きだからか、隠れた逸品的おいしい物は、探せばまだまだたくさんあるらしい。

 アンナさんに教わった通りに淹れたものの、アンナさんのように極上にはならない。精々が中の上、よくて上の下だ。飲み比べるとがっかりするほどよくわかる。

「でもまあまあ。茶葉がいいからだね」
 きちんとソファーに座り直して、こくりと上品に口に含んだエルちゃんが偉そうに言う。でもその目は死んだ魚だ。無表情ではなく目が死んでるってのが正しい。

「さーちゃん、もう少しマシなたとえにして」
「人の思考覗き見しといて文句言うのはどうかと思う」
「お祖母様がね、逝くの」
 突然切り出された言葉は、いきなりすぎてかまいたちのようにすっぱりと私の心を切り裂いた。

 ずずっとお行儀悪く音を立てて紅茶を啜るエルちゃんの、死んだ魚の目の原因はそれらしい。
 薄々わかってはいたけど、こうもずばっと切り出されると、何も言えなくなってしまう。

 エルちゃんはずっとずっと長く生きる。すでにその姿も変わらなくなっている。そんなエルちゃんを残し、私たちはみんな先に逝ってしまう。だからこそ、一緒に生きることができるポーラさんと想い合えてよかったと思う。シロクマのくせに腹黒いのが唯一の心残りだ。あのゆるキャラのクロモン並みに可愛げがあればいいのに。クロモンの無表情っぷりもなかなかシュールだけど。

 ……あれ? 逝く? 逝った、じゃなくて?

「ねぇねぇ、エルちゃんって、寿命もわかるの?」
「わかるよ。言えないけど」

 それは、とんでもなく残酷なことではないだろうか。再びかまいたちに襲われる。どうして魔女という存在はエルちゃんに優しくないのだろう。

「言えないのに言っていいの?」
「ラン兄様が先に言ったから。ラン兄様は私よりも格が上だから割となんでもアリなんだよ」

 かくって何だ? 前に聞いたような気もするけど、聞いてない気もする。まあいいや。きっと格式とかそういう感じだ。エルちゃんの家族も謎だらけだ。まあ、エルちゃんが魔女の時点で謎だけど。

 ずっと前からわかっていたことだけど、改めてエルちゃんの二番目のお兄さんに言われて、もうそれが目の前に迫っていることを実感させられたらしい。実感さえしなければ、それは緩やかにエルちゃんの上を滑るように流れて消えていくはずのことで、長く生きるからか、普段は生き死にに関しては深く感じないようにしているらしい。
 それでもきっとエルちゃんは、自分と関わった人の死を悼むのだと思う。苦しむのだと思う。

「んー…、エルちゃんたちは人の寿命もなんとかできるんじゃないの?」
「できるね」

 できるのか! 適当に言ったのに。どんな存在なんだ? 魔女って。前にも聞いたっけ?
 もう色々謎すぎて、どうでもいい感じに謎を放置しまくりだ。

「なんとかしないの?」
「されたい?」

 急に真面目な顔で言われてびっくりする。これはちゃんと考えた方がいいときの顔だ。

「そうだなぁ。うーんと。例えばね、病気で苦しむんなら助けて欲しいって思う。でもそれが寿命で、自然な死だったら、受け入れると思う。しょせん私はただの人だから、死は当たり前のものだって思ってる、かな」

 自分で言ってて落ち込む。エルちゃんにとっては残酷な言葉なんじゃないかと思う。

「それが普通だよ。だから寿命には手を出さない」
「エルちゃんのおばあちゃんは寿命?」
「寿命」
「あのね、私だったら、最後まで生きてることを楽しみたい」

 わずかに目を瞠ったエルちゃんの死んだ魚の目が、小さな生け簀に囚われた魚の目くらいには回復した。どこに生け簀の存在があったのかがわからないけど。

「だからさ、もう少しマシなたとえにしてよ」
「だからさ、人の思考にケチつけないでよ」
「だってさーちゃん、ダダ漏れなんだもん」
「漏らしたくて漏らしてるんじゃないからね」
「うわぁ。何となくえんがちょー」

 にたぁっと笑うエルちゃんがむかつく。しっかり人差し指と中指を交差させているのもむかつく。それを顔の前にドヤ顔で突き出されているのもむかつく。でも囚われた魚の目なのがせつない。

「お祖母様っ子だったんだよね」
「そっか」
「さーちゃんのおばあちゃんってどんな人だった?」
「んーとね。お母さんの方のおばあちゃんが凄く不思議な人で、よく頭撫でてもらった。ついでに肩を払って、背中をぱんって叩かれてた」
「それ、穢れを祓ってるよね」
「マジですか」
「マジですよ。お母さんの方のおばあちゃんって、巫女さんでしょ?」
「そうかも。いつもお守り売ってるとこに、巫女さんの格好して座ってた」

 言われてみれば、お母さんの実家の神社のことってあまりよく知らないかも。境内が夏は涼しくて、縁日が楽しくって、花火がよく見える場所ってくらいしか知らない。

「そのおばあちゃんがね、ある日突然、『一年後に寿命を迎えるから、死ぬまで遊びまくる』ってみんなに宣言して、へそくりと年金で色んなところに出掛けまくってたらしい。で、本当に一年後、ぽっくり逝ったんだよね。みんな呆気にとられちゃって、悲しいんだけどおばあちゃんらしいって、神葬祭の時に笑ってた」
「おばあちゃん、笑って逝った?」
「よくわかるね。これぞ満面の笑みって顔だったんだって。いい夢見てるんじゃないかって、最初亡くなったことに気付かなかったんだって。だから私もそうやって死んでいこうと思ってる」

 私は神道じゃない。神社の存在は身近にあったけど、それを丸ごと飲み込めなかった。だからと言って仏教でもキリスト教でもない。神様も仏様もゆーれーも、全部信じているようで全部疑っているような、あやふやな感じだ。だがしかし! あくりょーはコワイ。完全にホラー映画の影響だけど。

 でも、魔女も|妖《あやかし》もシロクマも、目の前にいるから信じている。それが神様みたいなものだと言われたら、あっさり信じられるくらいには、信じている。
 おばあちゃんの存在を信じているから、その生き方や死に様を真似ようと思う。会ったこともない神様の説いた生死観なんて知ったこっちゃない。

 なるほどねぇ、と呟きながらエルちゃんが何かを考えてる。ちょっとだけ生け簀が大きくなった気がする。

「お祖母様もそう言うかも」
 そう言ったエルちゃんは、生け簀に囚われた魚の目のまま、受付に戻っていった。



 ソファーに寝転がって、かまいたちに傷つけられた場所をそっと舐めるように考える。
 私がエルちゃんに残せるものなんて何もない。記憶や思い出は、どれほど忘れたくないと思っていても、時間とともに薄れていく。
 シリルやサラやニナがエルちゃんと一緒にいてくれるといいな。その子供たちや、またその子供たちも。私がいなくなった後も、誰かがエルちゃんと一緒にいてくれるといい。エルちゃんには、ただその存在を覚えていてくれる人が必要だと思う。ただ忘れないだけ、それだけなのに貴重な存在。

 私はどうしてエルちゃんの存在を忘れなかったのかなぁ。

 ……いやいや、忘れるわけないよ。だってあのエルちゃんだよ。ってか、みんな忘れられるってむしろすごいな。あのエルちゃんを忘れられるって、どんだけ? 才能? 才能が必要なの?

「さーちゃんさ、げんこつとこめかみぐりぐりどっちがいい?」
 飛び起きたのは言うまでもない。

 握り拳にはーって息吹きかけるの止めて。ってかそれ、おじいちゃんのくせと同じだから。息吹きかけても握り拳は硬くならないから。

「どっちも嫌です。ってかエルちゃん、受付に戻ったんじゃないの?」
「今日は朝一のお客さんが帰ったらもう誰も来ないの。代わりにニナ迎えに行ってあげたのに」
「そのニナがどこにもいませんが」

 最近はアンナさんとこのアルフレッド君も託児所通いを始めたので、ニナも仲間が増えて嬉しいのか、託児所ではアルフ君と一緒にいることが多い。

「ポーラがすでに迎えに行ってた。うちでシロクマのお腹の上に乗って寝てた」
 エルちゃんが微妙な顔をしてる。もしや嫉妬してる? ニナはまだ乳児だからね。

 そんなことより、とてつもなく心配なことがある。

「腹黒のお腹の上で寝てたら、腹黒になりそう」
「さーちゃん、ポーラの前で堂々と言いなよ」
「やだよ! 堂々と言えないから陰で言うんだよ」

 そう言えば、ポーラさんはシリルやサラ以上にニナにかまう。

「ねぇねぇ。ニナって何かあるの?」
「何にもないよ。単純にこの世界における私の理解者ってだけ」
「うそん!」
「本当。私を忘れないさーちゃんと、理解者である旦那様の間に理解者となる子供が生まれるって、私も初めて知ったよ。理解者についてはよくわからないんだよね」
「世襲制?」
「違うと思う。でも正直よくわかんない。そうだったらいいけど、たまたまなのかも」

 エルちゃんは小首を傾げて本当によくわかってなさそうな顔をしている。だがしかし! 絶対にたまたまの訳がない。あのシロクマに限って、たまたまなんて訳はない! 
 今になってようやく理解した。



 シロクマ、謀ったな。



 私がラウルに出会ったのは、間違いなくこのためだ。エルちゃんの為なら容赦ないシロクマのことだ、どうやったのかはわからないけど、私をラウルのいた世界に連れていったのは、間違いなくあのシロクマだ。私のこの思考がエルちゃんに伝わってないことが何よりの証拠。なんて腹黒い。

 さっき、ほんのわずかに頭をかすめた「この紅茶にはあの隠しておいたクッキーが合いそうだな」ってうっかり思ってしまったそれは、しっかりとエルちゃんに伝わっている。なぜなら、隠しておいたとっておきのクッキー缶を、にたぁと笑いながら手にしているからだ。

 それなのに! 肝心の思考が全く伝わってない! これじゃあ、とっておきのクッキーが犠牲になっただけだ。

「ちょっ、一人で食べないでよ! それなかなか手に入らないんだよ!」
「けちだなぁ、さーちゃんは」
「今度はエルちゃんが並んで買ってきてよ」

 私がエルちゃんのためなら仕方ないって思うことも、間違いなくシロクマの想定内だ。腹立つー! 色々腹立つー!

「忘れない人と理解者の子が理解者として生まれてくるなら、エルちゃんを忘れない男の子を好きになるように、今のうちからニナに言い聞かせておく」

 あー…きっと私がこう考えることも想定内だ。ニナの相手は間違いなくシロクマが見付けてくる。自分がお手玉にでもなった気分だ。シロクマめ! いつか墨をぶっかけてクロクマにしてやる!

「さーちゃん、それって親としてどうなの?」
 こうやってニナのことを心配してくれるエルちゃんがいる限り、ニナに悪いようにはならないと思う。

 エルちゃんが天使に見えるって……私、追い詰められてるなぁ。シロクマ! クッキー三缶献上せよ!

「大丈夫。エルちゃんを忘れない男の子は、きっとニナのいい理解者にもなると思う。ニナもその子が好きになると思う。よし! 我が家の代々の家訓にしよう! それっぽい巻物とかも作っちゃおう」
 呆れた顔をするエルちゃんを尻目に、忙しくなるぞー! ってやけくそ気味に叫んでおく。

 シロクマにしてやられた感がハンパないけど、かまいたちにつけられた傷は|瘡蓋《かさぶた》になった。まだじくじくと痛むけど、容赦ないシロクマだからこそ、エルちゃんを任せられる。
 くぅぅぅ! きっと私がこう考えることもシロクマの想定内だと思うと無性にむかつく! 他人の人生まで手玉に取るほどの愛ってどんだけ重いんだ。



 翌日、リビングのローテーブルの上に、クッキーが三缶きっちり積まれていた。シロクマめ!