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19 用紙「琥太朗さん、これは一体いつ誰が用意したものでしょうか」
一瞬の間のあと、ゆっくりとえくぼが生まれる。言葉にするなら、にやり、だ。
「紫桜さん、あなたならもうおわかりですよね」
どこの誰の真似だと突っ込みたくなるような琥太朗の作られた声に、紫桜は呆れ混じりの冷ややかな目を向けた。
目の前に広げられた婚姻届。夫になる人の欄はすでに埋まっている。問題は、証人の欄も埋まっていることだ。もっといえば、空いているのは妻になる人の欄だけ。
「いつ送られてきたの?」
琥太朗は黒狐の爪を切っている。終わったら掃除機かけるから飛ばし放題飛ばしていいよ、と紫桜が言ったからか、琥太朗は楽しそうにぱちんぱちんと切り始めた。
大人しくされるがままの黒狐は不思議そうに爪切りされている自分の後ろ足を眺めている。何もかもが新鮮な黒狐は、いつもきょとんとした顔で軽く首を傾げ、琥太朗や紫桜を観察している。雨風に曝されることのないあたたかい家の中は心地好い、そんな感情のようなものが常に伝わってくる。一緒にいることを喜んでいたり、寄り添う体温に和んでいたり、物語に出てくる意地の悪い妖狐とは違ってうちの黒狐は素直でかわいい。
おざきくんが対抗するように紫桜の膝の上で黒狐と同じようにひっくり返っている。紫桜は遠慮なく後ろ足の肉球をむにむにする。おざきくんは時々嫌そうに紫桜の手を蹴り返しつつも、黒狐が同じ姿勢でいる間は自分も同じ姿勢でいると決めているのか、ぶにぶに口の中で呻きながら触られるがままだ。
「わりと早い段階で。お盆に天埜の家に行ったちょい後くらい」
いつかの母の声が蘇る。こーたくんから結婚の話はまだ出ないの? 今思えば、おかしいわね、と続きそうな声音だった。
証人欄の両親の署名は間違いなく彼らの筆跡で、琥太朗の両親の欄には母親の名前だけ。琥太朗は自分の父親を知らない。
「琥太くん、本籍まで移してたんだね」
琥太朗がこの家に引っ越してくるときに、住所を移してもいい? と訊かれてはいたが、まさか本籍まで移しているとは思わなかった。
「それまで大学の住所にしてたんだよ。さすがにそれはどうかと思って移したんだけど、ダメだった?」
「ダメじゃないけど、琥太くん初めからこの家に居着く気だったんだなーと思って」
「この家っていうよりは紫桜のいるところかな」
爪切りが終わると今度はヤスリがけだ。黒狐は琥太朗の感情を読んでいるからかリラックスしている。
紫桜はにやつきそうになる口元にぐっと力を入れて平静を装っていると、黒狐に小首を傾げられた。おざきくんは肉球マッサージが気に入ったのか、膝の上でとろけている。うっかりマッサージの指にも力が入り、ぶにゃ、と抗議の声が上がった。
「それ、琥太くんが記入したのはいつ?」
「送られてきてすぐかな」
琥太朗の目がちょろっと泳いだ。数ヶ月間あたためていたのか。
「ちなみに何枚送られてきた?」
琥太朗が目を丸くする。あの母のことだ、予備を入れて最低でも三枚は送ってきたはず。
「よくわかるね。五枚も送られてきたからびっくりしたんだけど」
五枚。どれだけ書き損じると思っているのか。
「しかも、このノーマルの用紙以外はデザイン用紙っていうの? ちょっと派手な婚姻届なんだよ」
そう言って見せてくれたのは、空きスペースに花束がデザインされていたり、ハートが乱舞していたり、やたらとピンクピンクしていたり、なぜか母の好きなキャラクターがいたりする、これ大丈夫なの? と首を傾げたくなるような届け出用紙だった。母はともかく、父はどんな顔で署名したのか。
「こんな用紙で、受け付けてくれるの?」
「受け付けてくれるらしい」
この中から琥太朗が選んだのがノーマルの婚姻届だというだけで、記入する気になってしまう。
「この中で普通の用紙選ぶのもある意味個性だね」
「紫桜は別のがよかった?」
少し不安そうな琥太朗に、即座に「全く」と返す。
「これ以外を選んでたら、かなり引いた」
黒狐が床の上で不思議そうに足踏みしている。爪切りの前と後では床に当たる感覚が違うのだろう。大人げないおざきくんは、黒狐が喜んでいるのは面白くないとばかりに猫パンチを繰り出し、黒狐は楽しそうにおざきくんのちょっかいを躱している。傍目にはじゃれ合っているようにしか見えない。
「よかった。俺もこれ以外を紫桜がいいって言ったら、ちょっと冷静になった気がする」
「琥太くん冷静じゃないの?」
「冷静じゃないと思うよ。紫桜と再会してからは毎日きゅんきゅんしてる。大学でも、先生最近ご機嫌ですねって言われるくらい」
紫桜の目に映る琥太朗はいつだって落ち着いて見えるのに。その琥太朗が真顔できゅんきゅん……。
「こういうのを恋って言うんだなーってしみじみしたりしてさ」
ぼそっと独り言のように琥太朗が呟く。
琥太朗が喜んで、琥太朗がきゅんきゅんして、琥太朗がご機嫌で、琥太朗が力の抜けた顔でしみじみ笑っている。紫桜はきっとそれが好きなのだ。その空気感とでもいうのか、琥太朗から発散される木洩れ日のような穏やかな気配に包まれると、紫桜はほっこりと心が円やかになる。安心できる。ふっと力が抜ける。恋だなー、と紫桜もしみじみ思う。
飛び散った黒狐の爪を掃除機で吸い込みながら、ついでにリビング全体も掃除していくと、ころんと黒い碁石が出てきた。
「琥太くん、碁石。危うく吸い込むところだった」
「碁石結構高いんですからね、あんまりばらまかないでくださいよ」
座敷ぼっこに苦情を言う人は世の中にどれくらいいるのだろう。返事のように今度は白い碁石がことんとダイニングテーブルの上に現れた。黒狐が来てからというもの、座敷ぼっこもずいぶんと積極的になった。
「昨日も俺、座敷ぼっこに負けてさー。結構いいとこまでいったと思うんだけど、結局自分が勝ったもんだからご機嫌なんだよ」
琥太朗は勝負事に弱いらしい。碁も将棋も対戦相手がついついアドバイスしてしまうほど弱いらしい。
うちにいる座敷ぼっこは、座敷ぼっこの中でも力の強い、ボス的な座敷ぼっこじゃないかと琥太朗がぼやいていた。マヨヒガにはそのくらいのボスがいても驚かない、とか。
「俺さあ、きっと紫桜がいなくても生きていけると思うんだよ。自分なりに納得しながら、淡々と日々を暮らしていくことができると思うんだ」
掃除機を片付けながら紫桜も想像する。確かに琥太朗がいなくても生きていくだろう。琥太朗の言葉通り、淡々と。
「でも、琥太くんがいると、淡々とはしないかな」
「そうなんだよ」琥太朗の目が輝く。「紫桜と一緒だと、なんだろうな、同じことの繰り返しでもなんとなく楽しいんだよ。また同じことの繰り返しだ、また失敗した、また一からやり直しだ、ってうんざりしながらもまあいいかって笑っていられるっていうか」
紫桜はダイニングテーブルに用紙を広げた。空白が少ない用紙を見下ろしながら椅子を引き、ゆっくりと腰をおろす。ペンを持つ手が一瞬震えた。琥太朗もその瞬間は緊張しただろうか。
婚姻後の夫婦の氏というチェック欄にレ点は入っていない。紫桜はまずそこにチェックマークを入れた。それから、あと少しで書き納めになる自分の氏名を丁寧に記していく。背後に琥太朗の気配を感じながら。足元には右に黒狐、左におざきくんの体温を感じながら。全て書き終わった瞬間、微かに樟脳が香った。座敷ぼっこの笑い声が聞こえた気がした。
「いつ出すの?」
「いつがいい?」
「いつでもいいかな。なんか、特別な日じゃない方がいいな。そんなことも忘れちゃうくらい何でもない日」
「忘れていいの?」
「いいんじゃないの? 結婚して何年経ったなあって思うときって、きっとそういう記念日じゃない日常の中の一瞬でしかないだろうから」
ふっ、と琥太朗が笑った。息を吐くような自然な笑い方。
「そういう考え方いいな。何でもかんでも特別にしないのって逆にいいな。俺記念日とか忘れちゃいそうだし」
「直前までは覚えてるのに、当日忘れることってあるよね」
「あるある。だからって軽く考えてるわけじゃないのに」
「それまで必死に考えてたから、いざ当日になると考えることが当たり前になりすぎて忘れちゃうんだよね」
ああ、きっと私は“こたくん”のことを必死に考えすぎて、考えることが当たり前になりすぎて、それで忘れてしまったのかもしれない。大切なことほど頭の中で考えるのではなく、その時が来るまで心の奥底に仕舞っておかなければならないのかもしれない。
そんなことを考えながら紫桜が顔を上げると、大切な人と唇が重なった。
「紫桜は狭知の御当主と結婚する意味をちゃんとわかっているのか?」
「わかってる」
父の気遣わしげな顔を真っ直ぐに見て、紫桜ははっきりと答えた。
「お父さんは、天埜の家が絶えてもいいと思ってる。だから、紫桜には紫桜の好きなように生きてほしい」
「天埜の家とは関係ないよ。琥太くんがたまたま狭知の人間だったってだけで、狭知の人間だからってわけじゃないから。琥太くんだってそうだよ、私が天埜の人間だって知ったとき、がっかりしたって言ってたくらいだから」
「がっかりか」
そう言った父はしばらく何かを考え込んでいた。
待ち合わせたのは東京駅に併設されたホテルの中の和カフェ。ここの和菓子は母の大好物だ。
「わかる気がするな。お父さんは逆に、お母さんが全く関係ない平凡な家に育ったと聞いて心底ほっとしたもんだ」
父から連絡が入ったのは、仕事納めを翌日に控えたお昼休みだった。本省に顔を出した帰りに会えないかという提案に、紫桜は覚悟を決めて会うことにした。母はまだ新潟にいる。
「狭知に近い家ほど天埜が狭知と縁を結ぶことを喜ばないだろうな」
「お父さんには悪いけど、家のことだってわかってるけど、私たちはそういうのとは関係ないところで生きていきたい」
「わかってるよ」と父は笑った。「そういうことはお父さんに任せておけばいい」
「お父さんの立場的に、狭知との縁はよくないもの?」
「いや。天埜の家としてはこのうえない縁だ。父親としては複雑だがね」
「あんな用紙にサインしといて、複雑もないんじゃないの?」
「あれは……」
言いかけて諦めたのか、肩を落とした父は深い深い溜め息をついた。母の勝ち誇った顔が目に浮かぶ。
「孫、抱かせてあげられなくてごめんね」
父は目を剥いて、手にしていたコーヒーカップを落とすようにソーサに置いた。がちゃん、と小さくない音が立つ。
「彼はそこまで話したのか」
「そりゃそうでしょ、そういう話もしないで結婚の話が出るわけないでしょ」
「黙ってたってよかったんだ。なかなか子供できないねって誤魔化すこともできたはずだ」
こういうところで父もやはり天埜の人間なのだと感じる。誤魔化し切れるわけがない。女を見くびりすぎている。
「そういう人じゃないよ。そういう人じゃないから、一緒にいたいって思えるんだよ」
ふと父が真顔になった。
「彼の優しさや誠実さは、紫桜にだけ向けられるものだ。彼もまた狭知という、それこそ総本家の当主なんだよ」
「ねえお父さん」
どう言えばわかってもらえるだろう。紫桜の頭に、いつかの琥太朗の残酷なまでに冷えた眼差しが蘇る。女子大生の手を振り払った仕草を思い出す。つい先日知った策士っぷりなど最たるものだろう。そういう一面があることはわかっている。当然、紫桜にだってそういう一面はある。あの女子大生が琥太朗の腕を掴んでいるのを目にした瞬間に湧き起こったもやもやを、今になって自覚する。
「琥太くんが私以外のほかの人にどんな顔を見せているかは、どうでもいいとは言わないけど、でも気にしても仕方のないことでしょ。私の仕事中の顔だって琥太くんは知らない。そこまで見せろとも言われないし、私も言わない」
「信じているんだな」
目を細める父に、紫桜は照れ隠しから早口になる。
「そりゃそうだよ、信じられない人とは暮らしていけないでしょ」
「紫桜はいつの間に大人になったんだ?」
目を細めたままの父の声は優しかった。
もう二十五なのか、まだ二十五なのか。二十五という年齢はどっちつかずで曖昧だ。
「まだまだ大人とは言えないかも。自分の足の裏がちゃんと地面にくっついてるって気付いたのもわりと最近だし」
足の指にぐっと力を入れて大地をしっかり掴んでいる、そんな実感はまだない。それでも、足の裏が大地に触れている確かな感覚はある。
「それも、彼のおかげか」
「そうかもね。他にも影響を受けた人がいて、今の会社に引き入れてくれた人なんだけど、すごく尊敬してる。お父さんやお母さんから教わったこともたくさんある」
父がふと、何かを思い出したような顔をした。
「お前たち、結婚式はどうするんだ?」
「えー……やらなきゃダメ?」
「ダメじゃないが……彼はなんと言ってる?」
「結婚の話は出ても結婚式の話は出たことない」
苦虫を噛み潰したような顔の父を見て、紫桜は結婚式は免れないかもしれないという嫌な予感に寒気を覚えた。
「天埜さん、迎えに来てもらった方がいいんじゃない? 大学はもうとっくに休みでしょ?」
「そうですけど……」
仕事納め。書類を片付けているうちになんとなくふわふわするなと思っていたら微熱だった。すぐに解熱剤を飲んだものの、未だふわふわは続いている。先月には各種予防接種を終えているので、風邪というよりは疲れが出たのだろう。何気に父との対面に緊張していたのかもしれない。嫌な予感だと思った寒気は単に発熱の前兆だった。三十七度ぴったり。いつもより五分高いだけの微かな熱。
「さすがに午後の予約は入ってないんでしょ?」
「入ってません。だから、今日こそはこれを片付けようと思っていたんですけど……」
溜まりに溜まったデータの整理を終えてしまおうと思ったのだ。やらなくてもなんとかなるが、やっておけば効率が上がる作業というのは、時間がある時にしかできない。
「わかるわー。私も似たようなことやろうと思ってて、まだできてないのよねえ」
「あと少しなんです。座ってるだけですし、たぶん疲れが出ているだけなので、これやり終えてから連絡します」
「ダメ。とりあえず今のうちに連絡して。迎えを待ってる間に終わるでしょ。そうやって一人で何とかしようとするのも、うやむやにしようとするのも、天埜さんの悪いクセだからね」
あまりにも小関が熱心なので渋々琥太朗に連絡を入れたら、すでに会社の近くにいると返ってきた。
おざきくんと黒狐が騒いだらしい。二匹をまとめてあの大きなリュックに入れて担いできた、とある。リュックに猫とキツネ……あまりにも不可解で眉間に力が入る。
「どうしたの?」
「あ、いえ。たまたま近くにいるらしくて」
マスク越しにもごもご話すと、小関の目がにんまりと細められた。
「じゃあ今日はもうお終い。仕事納めなんだから、終わったら帰っていいのよ。律儀に最後まで残ってることないわ。私もこれ終わったら帰るし。その代わり仕事始めは私とっとと帰るからあとよろしくね。そのときにでも続きやればいいじゃない」
ほれほれと急き立てるように手を振る小関に、では遠慮なく、と引き上げることにした。
「お疲れさまでした。今年一年ありがとうございました。来年もよろしくお願いします」
「こちらこそ、ありがとう。また年明けにね。ああそうだ、来年名字変わる?」
いきなりの攻撃に紫桜は繕うこともできずふわふわと正直に答える。
「え、っと、戸籍上は変わるかもしれませんが、仕事上はこのままで……小関さんと同じで」
「素直でよろしい。しからばそこもとには名義変更の際、効率よく回る順番を教えて進ぜよう」
あー、そういえば小関さん、毎年年末は時代劇にはまるって言ってたなー、と頭の隅に浮かんだ。
「よろしくお願いします」
そそくさと会社を出て、琥太朗が待っている駅まで急いだ。絶対に今の小関とのやりとりで熱が上がった。結婚の自覚というものは、案外本人同士よりも他人を介して生まれるものかもしれない。
最寄り駅のちょっとした待ち合わせ場所にもなっている広場のベンチに、琥太朗が寒そうに身を縮めながら座っていた。
「琥太くん!」
「紫桜、もしかして熱出た?」
「なんでわかったの?」
「黒狐が、」
琥太朗の脇の置かれたリュックがもぞもぞ動いた。黒狐が紫桜が弱っているとおざきくんと琥太朗に伝えたらしい。ファスナーを開けると黒狐がするっと出てきて、紫桜の首に巻きついた。ふわっと干し草の匂いに包まれる。
おざきくんはいつも日向の匂いがする。陽だまりの匂い。黒狐は稲架掛けされた稲穂の匂いがする。藁の匂い。どちらも子供の頃を思い出す、懐かしい匂い。
「キツネマフラー」
琥太朗のからかうような口調に紫桜は、どうすればいいの、と視線で助けを求める。
首に巻きついた黒狐は羽のように軽い。そして、ものすごくあたたかい。まさに極上のマフラー。ただ、端からはどう見えるのか気になるところだ。
「すごいな。リアルすぎてかえって偽物っぽい」
黒狐が鼻の先で頬に触れてきた。悶えるほどかわいい。
「そのリアルすぎる襟巻き、重くないだろ?」
「重くない。なんでわかるの?」
「リュック担いでてもおざきくんの体重しか感じなかったから」
ようやくリュックから這い出たおざきくんが、黒狐に対抗するように琥太朗の首に巻きつこうとして失敗している。
「い゛ー! ちょっ、痛っ、ちょっと痛いですってば、爪立てないでくださいよ」
奇声を発した琥太朗におざきくんが、にゃうにゃう、と言い訳している。
不意に、紫桜の内にこもっていた熱っぽさがすーっと消えた。首に巻きついた黒狐の躰に熱が吸収された気がして真横を見ると、黒狐が紫桜の頬をぺろんと舐めた。
「ありがと」
そっと黒い頭を撫でると、二つのしっぽがはたはた揺れた。