シェア マヨヒガ
18 故意


 十二月はどうしてこうも忙しないのか。

 大叔母の弁護士だった高山が庭の剪定にやって来たのは、センリョウの真っ赤な実が映える十二月の最初の週末のことだった。
 当初は十一月の頭を予定していたものの、急な案件が立て続けに入ったとかで翌週に延期、再延期、再々延期……と、延びに延びてようやくの運びとなった。
 予定が延びた分の疲労を全身に重ねた高山弁護士は、自前の刈込バサミや剪定バサミ、電動の剪定バリカンなどなど、どう見てもプロ仕様の道具を山のように持ち込んで、道具を使うことそのものを楽しむように、琥太朗を助手に庭の剪定を始めた。
 竹でできた熊手を手に、お疲れのところ申し訳ありません、と恐縮する紫桜に、むしろ疲れが吹き飛びます、と高山弁護士は子供のように目を輝かせて、かっかっかっ、と快活に笑っていた。作業する背中まで楽しい楽しいと笑っている。
 しかも、旨い茶葉をもらったのだと、高山弁護士は大叔母が遺した茶器を懐かしそうに眺めながら、慣れた手付きでお茶を淹れてくれた。琥太朗のキャンプ用のバーナーで湯を沸かして淹れたお茶がまた本当においしくて、紫桜が目を離した隙におかわりが座敷ぼっこに飲まれたほどだった。
 おざきくんと黒狐は見事に気配まで隠していた。サッシに取り付けた猫ドアを見て、「猫が居るんですか?」と訊いてきた高山弁護士に、琥太朗が苦笑いで「恥ずかしがり屋なので」と言い訳していた。もしかすると、高山弁護士にはおざきくんのピースなしっぽが見えるのかもしれない。

 葉を落とした木々がそのシルエットを整えていく様は惚れ惚れするほど見事で、すっと空に向かって伸びた枝は、地に伸ばす影もまた美しかった。
 手をかけて整える。誰かに手をかけられることで、より美しく生きられる。
 枝にも髪にも通じることなのだと、紫桜は目が覚める思いがした。自分の仕事はそういう仕事なのだと、改めて小さな誇りを胸に抱いた。

 庭がすっきりした次の週末には、紫桜主導で琥太朗の部屋もすっかり片付いた。冬休みの間に論文を書くと聞いた紫桜が、今のうちに片付けるよう強く勧めたのだ。
「琥太くん、資料を床に広げるのやめないとまた元の木阿弥だよ」
「こう、ばーっと視界の中に必要な資料が全部入ってないと気になるんだよ」
「頭切り替えて。ファイルボックスに入れてずらっと並べればいいでしょ。そこはミニマムに生きて」
「えー」
「えーじゃない」
「紫桜が冷たい」
 基本的には未だデータ化されていない末端資料のコピー用紙の束が多く、その紙束もすっかりよれて幾人もの手を渡ってきたことが窺い知れる、ある意味年代物の資料に片足を突っ込んだ状態だ。
 大切に保管しなければならない古い文献などは丁寧に文庫箱に収めて階段箪笥の中に仕舞っていく。引き手に木札を下げて中にどの文献が入っているかがわかるようにした。
「琥太くん、いつも抽斗を五ミリくらい開けておくのやめてね。ちゃんと最後まで閉めてね」
 紫桜が階段箪笥の前で思い出したように琥太朗の変なクセを指摘すると、琥太朗は初めて気付いたと言わんばかりに驚いた。
「俺ってそうなの?」
「そうなの。大学で言われたことない?」
「あーわかった。俺が使ってるデスクやキャビネットの抽斗って最後は勝手に閉まるようになってるんだよ」
「うちでもそのつもりで閉めてるからちょっと空いてるってこと?」
「たぶん」
 もう一つ言えば、戸を五センチほど開けておくのも止めてほしい。きっとこれもクローザーのついた引き戸を使っているからなのだろう。ただし、琥太朗の閉め忘れによっておざきくんが家の中を自由に歩き回れるのも事実なわけで、もし琥太朗がトイレの戸をきちんと閉めていたら、おざきくんは水洗トイレを使わなかったかもしれない。だからといって、押し入れやお風呂の戸まで五センチ開けておくことはない。……ん? あれ? もしかして、換気のためだったりして。そう考えると悪いことでもないのか……。
 手を動かしながら紫桜の頭の中には五センチ問題がぐるぐる渦を巻いていた。

 黙々と手を動かしていると、おざきくんがちょいちょい邪魔しに来る。
「あっ、おざきくんそこ気を付けてね」
 おざきくんは猫なのにちょっと鈍い。言ったそばから、しっぽで重ね上げたばかりの資料の束を崩してしまう。
「おざきくんは猫なんですからね、しっぽはほぼ二叉ですからね、そこんとこ忘れないでくださいよ」
 琥太朗の呆れ声に、おざきくんがしまったという顔でだだだだーと逃げていく。紫桜は笑いを堪えながら崩れた紙の束を元に戻した。ここで声を立てて笑おうものなら、おざきくんはしつこく拗ねた挙げ句お邪魔猫になるので要注意だ。
「こないだのフグ、おいしかったね」
 庭を好きなように剪定させてもらったお礼だと言って、高山弁護士がフグ料理のお店に連れて行ってくれたのだ。おざきくんは黒狐が来てから留守番を嫌がらなくなった。
「あの店、一見様お断りの完全紹介制だって」
 どう考えても庭木の手入れをしてもらったこちらがお礼をするべきなのに、高山弁護士は頑なだった。素人に毛が生えた程度の私がここまで好き勝手に庭木を刈らせてもらえるなど本来であれば有り得ない云々かんぬんと、さすが弁護士という迫力で言いくるめられてしまった。ぜひ来春もやらせてほしい、と懇願までされたので、もしよろしければ、次は泊まり掛けでゆっくりお願いします、と琥太朗が提案すると、高山弁護士はこれ以上ないほど顔を綻ばせていた。
「すごくいいお店だったよね」
 気後れしそうなほど高級なお店なのに、お店の人たちは誰もが気持ちいいくらい爽やかだった。丁寧なのにさり気ない接客が印象的で、紫桜はとてもよいお手本に出会った気がした。

 興味深そうに部屋の入り口に伏せて観察している黒狐。薄く射す冬の日射し。穏やかだなー、と目を細めながら、紫桜は一つ伸びをした。
 紙を触っていたせいか、指先がかさついてきた。休憩を兼ねてアルガンオイルを手の甲に一滴垂らし、丁寧に塗り込む。ついでに紅茶を入れる。
「高山先生ってこの家に入って来れるんだね」
 はい、とマグカップを渡すと、琥太朗が首のストレッチをしながら、さんきゅ、と受け取る。ついでに琥太朗の手の甲にもアルガンオイルを一滴垂らす。手の甲に広げ、そこから指の背に広げていき、最後に体温で伸ばしながら手のひらに広げる。紫桜にはどのハンドクリームよりもアルガンオイルが合っていた。琥太朗にも勧め、ベタつきがないこともあり琥太朗も気に入ってよく使っている。
「美織さんとは昔からの知り合いだったらしいよ」
「そうなの?」
「さり気なく訊いた」
「高山先生ってご家族は?」
「俺が知り合った頃には独り身だった。ずっと独りだったのか、独りになったのかはわからない」
「それって……」
「まあそういうことだろうね」
 この家を売るか貸すかするときは連絡がほしいと言っていた高山弁護士の真剣な表情を思い出す。
 高山弁護士と大叔母は昔からの知り合いで、琥太朗も高山弁護士とは知り合いだった。そして、大叔母と琥太朗を知る紫桜が高山弁護士に出会う。この符合に意味はあるのか。単なる偶然か。世間は思ったよりも狭いということか。
「だったら、私たちがここに住んでるのってどうなんだろう……」
「もともと高山先生もこの家に来るのは数ヶ月に一回程度だったらしいよ。季節ごとに顔を出しては庭を眺めてたって。そういう意味では、大人の付き合いだったのかもね」
 素敵だなと思うと同時にせつなさを覚えてしまうのは紫桜の勝手な感傷だろうか。結婚という制度上の手続きを嫌がってはいても、好きな人とはできるだけ一緒に居たい。そう思うのは紫桜がまだ未熟だからだろうか。

 窓ガラスは存在を確かめたくなるほどクリアになり、障子はぱりっと、床や家具、軒下や縁の下、屋根裏までもがさっぱりして、水回りもぴかぴかになったところで大掃除を終えた。



 ざっと琥太朗の前に並べられたあらゆる品々。茶道具に壷や大皿、絵画や武具、よくわからない金物類、家具や置物。
 琥太朗はそれを片っ端から一瞬触れただけで年代の鑑定をしていく。彼の傍らにはお店の人がぴったりとくっつき、次々発せられる数字を付箋に書き留めては対象物に貼り付けていく。
 大きな倉庫だった。主に家具を専門に扱う古美術商の倉庫らしく、壁際にはいくつもの古い家具が和洋入り混じって鎮座している。補修中なのか一部が解体された家具もあったりと、なかなか興味深い空間だ。

「だめだ。一端止めます。紫桜、やっぱちょっと手伝って」
 十分くらい経ったところだろうか、琥太朗がスマホのタイマーを止めた。
 事前に琥太朗から教えられたのは、一店舗三十分の持ち時間の中でどんな品であっても今から何年前に作られたかを鑑定するというものだ。三十分で十万円。今回八店舗が希望しているので四時間で八十万という信じられないほど高額なバイトらしい。従来の鑑定料は、物によっても変わるが大体一品で五万前後かかるらしい。琥太朗の目の前に並べられているのはざっと数えただけで五十品以上。年代がわかるだけでも十分元が取れるらしい。
 そもそも、鑑定士という言葉はよく耳にするものの、国などが定める資格ではないらしく、知識と経験則から判断しているに過ぎない。鑑定料の相場もわりといい加減なものらしい。
「琥太くんが言った数字繰り返すだけでいいの?」
「そう。紫桜俺の言ってた数字全部聞き取れてるよね」
 琥太朗に付いていたお店の人が申し訳なさそうに会釈してきた。
「聞き返されるとその分時間を食うから、本来見られる数より少なくなっちゃうんだよ。できるだけ数を見たいから、悪いけど頼んでいい?」
 事前に頼まれていたことだ。琥太朗は集中すると口の中でぼそぼそ喋ってしまうらしく、聞き慣れてないとどうしたって聞き取りにくい。いちいち訂正していると琥太朗の集中も切れるので尚のこと効率が悪くなる。
 琥太朗と紫桜の二重アナウンスで作業はそれまでよりずっと早く進んだ。

 面白いのは、店によって琥太朗の第六感の使い方がまるで違う。ひたすら年代だけを聞き取っていく店もあれば、最初の二十分は年代の聞き取り、残りの十分で聞き取った年代と合わせて、作り手を確かめる店もある。琥太朗は残留思念を読み取るわけではないので、それ単体では作り手が誰かまではわからない。すでに鑑定されて判明している作り手の品と触り比べて同じ作り手かどうかを判断する。
「これは違いますね」
 目を剥く店主が「間違いないか?」と念を押しつつ、高揚している。そして、恐る恐るというふうに、もう一つの茶碗を出した。目の前の茶碗とは全くデザインの異なる色鮮やかな茶碗だ。
「ああ、そう、これと同じ手です」
 周りから、おお、とどよめきが起きた。幻の楽茶碗だ、と小さく聞こえてくる。どうやらかなりの逸品が見付かったらしい。四百十八年前のミカンの皮のようにでこぼこした真っ黒で歪な形の茶碗。紫桜にその価値はわからないながらも、周りの興奮具合から相当な値打ち物だということはわかる。
 琥太朗はそんな周りのざわめきなど気にも留めず、淡々と作業を進めていく。紫桜はできるだけ琥太朗の気を散らさないよう集中して、彼の呟く数字を復唱していった。

 途中十五分ずつ休憩を挟みながら、ただひたすら琥太朗は物に触れ、数字を呟く。
 元々この倉庫の持ち主である古美術商とは、琥太朗が家具の製造年代と補修された部分の年代の不自然さを言い当てたことからの付き合いらしい。
 本来アンティーク家具は様々に補修された跡がある。当然、製造年代とは別の年代に補修されているのが自然であるにもかかわらず、そのときの家具は製造と補修跡の年代も作り手も同じであり、さらに全て近年につくられものだと琥太朗は指摘した。つまりは贋作。それがまた見事なまでによくできた贋作で、古美術商も琥太朗に指摘されるまでは贋作だと気付かなかったらしい。
 当時、琥太朗は高校生だったそうで、古美術商もなかなか琥太朗の言うことが信じられず、悪戯だと決めてかかったらしい。琥太朗にしてみればたまたま目に付いたから指摘しただけであって、自分とは関わりのないことだと投げやりなところもあり、その琥太朗のどうでもよさそうな態度が逆に信じる気にさせたのだと古美術商は笑っていた。
 この古美術商との縁から民俗学の教授を紹介され、その教授の勧めで民俗学を学び、今の琥太朗がある。

 河瀬と名乗った初老の古美術商は、いっそ潔いほど不躾に紫桜のことを眺め回した。そのうえで、「なるほどねえ」などともったいぶったことを呟く。あからさまな嗤いと値踏みの視線を、紫桜はむっとしながらも丁寧に無視した。琥太朗が何も言わないなら紫桜が何か言う必要もない。
 その河瀬の背後から、紫桜と同じ年頃の女性になんとも言えない顔で会釈されている。河瀬の孫娘らしい。やたらと気合いの入った彼女の服装やメイクを見れば、いくら鈍い紫桜でも大体のことは想像できる。こんなことならもっと気合いの入った格好で来るんだったと後悔しても遅い。場所は倉庫、動きやすい格好で、と聞いていた紫桜は、思いっきりラフな服装で来てしまった。
 モテなかったなんて嘘ばっかり。
 たしかに、琥太朗の才能があれば買い付けも捗るだろう。そんな下心を琥太朗が察しないわけもなく、恩人ゆえに断りにくい話ではある。紫桜をわざわざ連れてきた意味がよーくわかった。

「ねえ、琥太朗さん」
「なんですか、紫桜さん」
 夕暮れの銀座は気後れするほど煌びやかだった。やる気の漲ったクリスマスのデコレーションはどこもかしこも品良くゴージャスで、紫桜にとっては地元商店街のチープなクリスマスデコの方が愛嬌があってほっこりする。
「今日はがっつり超高級なお肉が食べたいです」
 奢らせる気満々の紫桜に琥太朗は小さく声を上げて笑った。
 全く腹が立つことに、何もかもわかっているのだ、この男は。帰り際にさり気なく紫桜と一緒に住んでいることを洩らすあたり、完全に策士だ。とはいえ、紫桜だって琥太朗の存在があるからこそ、天埜の家からの見合い話がぴたりと止まったのだからお互い様といえばお互い様で、琥太朗を初めて天埜の家に連れて行くときにちらっとそんな思惑がよぎったことは紛れもない事実で、そんな紫桜の微妙な心理まで琥太朗は間違いなく理解しているのだから、なおのこと腹立たしい。
「了解。食べて帰る? 家で焼く?」
「琥太くんが焼いて。できれば角切りステーキ入りのオムライスがいい。デミグラスなやつ」
 ここぞとばかりに言ったところで、この男は優雅に笑って紫桜のわがままを難なく聞き入れるのだ。
「承知いたしました」
 わがまま放題の紫桜を見る琥太朗は上機嫌だ。えくぼがくっきり浮かんでいる。
「おざきくんには刺身でも買っていくか」
 太っ腹である。まあ、半日で八十万を稼いだのだから、多少の散財は許されるだろう。手伝ってくれたのだから半分は紫桜のバイト代だと言われ、即座に断ったのは惜しかったかもしれない。
「ねえ紫桜、ついでに結婚指輪も買う?」
「えー、いらない。仕事で邪魔になるし」
「記念に買っとくのは?」
 紫桜は小さく「えー」と言いながら繋がれた手の持ち主を見上げた。
「琥太くん最近ぐいぐい来るね。そんなに結婚したいの?」
「なんかね。そんな気分。どうせするなら早めにくしとくのもいいかなって」
「あー……それはわかるかも。きっと後になればなるほど面倒になりそう」
「だろ。やっぱ今の生活に慣れ切っちゃう前にやることやっとかないと、一生今のままでいいことになってしまう」
「一生今のままでもいいけど……」
「なんかそれはそれで淋しいだろ」
「そうかなあ」
 そうかもなあ。繋いだ手の確かさだけでも生きていける。そう思うと同時に、琥太朗の言う通り、それだけでは淋しい気もする。隣を見上げる紫桜に、だろ、と琥太朗が笑った。
「だね。でも結婚指輪はいらないかな。どうせなら、何かもっと一生使うような実用的な物の方がよくない?」
「一生使うものってそうそうないよ。例えば?」
「えー、例えば……なんだろ、今すぐは思い付かないけど」
「まあ、見るだけ見に行ってみようよ。どんな感じか興味あるし」

 紫桜がはっと気付いたときには、世界的に有名な宝飾店で結婚指輪を注文し終えていた。
「共同作業で稼いだお金で結婚指輪買うっていいな。ついでにこのマグカップもお揃いで買う? あっ、ほらご飯茶碗や箸や、そうだ、グラスもお揃いにしようよ」
 琥太朗がそれはもう嬉しそうに笑っている。お店の人がそつなく棚に飾ってあったマグカップやワイングラスを見せてくれた。琥太朗の全身からうきうきが弾けている。
 その極上の笑顔を見ているうちに、まあいいか、と思ってしまうのだ。紫桜は。いつだって。