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15 黒狐


 子供かあ。
 紫桜はこれまで自分の子供について考えたことがなかった。そもそも、子供がほしいと思ったこともなければ、そう思えるほどの相手と巡り会えるとも思えず、周りが恋愛に一喜一憂するのをどこか醒めた目で眺めていた。
 琥太朗に再会するまでは。
 子供という存在を中心に考えるとまるで雲をつかむような心地がするのに、琥太朗を中心に考えるとさっと雲が晴れて遠くまで景色が見通せる。琥太朗を失ってまで子供がほしいとは思わない。琥太朗以外との行為には嫌悪感しか湧かない。
 それとも、いつか琥太朗を失ってでも子供がほしくなったりするのだろうか。琥太朗ではない誰かの子供を?
 ないない。
 もともと紫桜はそこまで子供が好きなわけではない。自分の子供は別物と聞くが、自分の子供だからこそ責任が持てない。ちゃんと育てられるか、子供がイジメられたら、ママ友との付き合いなど、考えれば考えるほど腰が引ける。もしも子供が病気を抱えていたら、もしも罪を犯したら……。そんなふうにネガティブなことばかり考えるのは、子供に対する冒涜ではないかと思えてしまう。
 琥太朗との子供なら、とは考えられても、琥太朗以外との子供は端から考えられない。それこそ雲を掴むような話だ。
 つまりはそういうこと。
 結論が出ればすっきりする。あとは琥太朗がどう考えるかだけだ。この先琥太朗が子供をほしがるようなら、笑って別れればいい。笑って……。笑えるだろうか。そのときは意地でも笑おう。

 そう考えると、大叔母があの家を遺してくれたことに感謝してもし足りない。自分だけの家があるというこの安定感は一人で生きていく上での礎となる。
 小関が今の会社に入る前にそれまでの貯金を使い果たしてまでマンションの一室を買ったというのも今なら頷ける。聞かされた当初は全く理解できなかったのに。彼女があの家の相続を是非にでも、と強く勧めた理由も今ならよくわかる。とはいえ、小関も今や一児の母だ。出産の際に小関のサポートに紫桜が指名され、今もそれは続いている。当時は貧乏クジを引いたかのごとく社内で同情された一方、小関は抜擢だと言っていた。天埜さんにはこっちの才能もある、と。紫桜は自分を引き抜いてくれた小関を信じた。おかげで、独立に必要な多角的な視点が持てるようになった。

 意識するまでもなく足は勝手に駅に向かい、電車に詰め込まれ、吐き出され、改札を通過して会社に向かう。
 フリーになってもなんとか生きていける。
 今まで意識することすらなかった自信がお腹の底からふつふつと湧いてくる。自分の足元が脆弱だと目先のことしか考えられず、足元が盤石になればなるほど先を見通せる。そんなことにも気付かなかった。

「おっはよー」
「おはようございます」
「あれ? 何かいいことあった?」
 小関に背後から声をかけられ、並んで歩く。
 小関に誘われてこの会社に入らなければ、今もまだ自分の手に職があるとは思えなかっただろう。小関のサポートに入らなければ、いざというときは自分一人でもなんとかなるという自信も湧かなかった。
「小関さんの存在がありがたいなーって」
「天埜さんってそういうこと言う人だった?」
「お世辞じゃなくて、本心から思ってます」
「え、なに? それはコーヒー奢ってあげようって提案?」
 小関のおちゃめな笑顔に、紫桜もつられるように笑う。
 最近の紫桜は、ふと気付けば笑っている。少し前までは笑うことがあんなにも難しかったのに、今は何を意識するでもなく昔からそうだったとばかりに口角がくいっと上がっている。
 そんな紫桜を見る小関の目は優しい。紫桜の変化を黙って受け入れ、喜んでいることを暗に伝えてくる。この小関の押し付けのない優しさは本気で見習いたいところだ。
「シナモンロールもつけます?」
 小関の好物を上乗せする。彼女は今ダイエット中だ。一体どこをダイエットするのかと首を傾げたくなるスタイルなのに、本人曰く見えないところがヤバイらしい。
 琥太朗に連れられ、紫桜もよく歩くようになった。もともと紫桜の午後からの業務は中腰が基本の肉体労働だ。それプラス歩くことで全体が一層引き締まった。それがほぼ一日中デスクワークの小関を奮い立たせたらしい。
「えー……私の下腹がますますのさばっちゃうじゃない……でも食べる!」
 会社の手前にあるコーヒーショップに笑いながら入る。こんなにも簡単に小関と笑い合える。そんなことにも気付かなかった。



『もうお母さん、ゆかりはいつ結婚するのかって、しつこく訊かれるんだけど』
「そんなこと言われても……」
『こーたくんから結婚の話はまだ出ないの?』
 母の苛々が絡みついてきそうで、紫桜は呼吸一回分スマホを耳から遠ざけた。
「ねえお母さん、結婚のメリットって何?」
『メリット? なによそれ。そんなこと考えてると結婚できなくなっちゃうわよ』
「じゃあお母さんはなんで結婚したの?」
『そりゃあ決まってるじゃない。お父さんを誰にも取られたくなかったからよ。結婚って、この人は私の夫ですって周りに宣言することでしょ?』
 違う気がする。
『お父さん、ああ見えて若い頃はモテたのよ』
 ぬけぬけと言い放つ母に紫桜は呆れを通り越していっそ感心する。娘の贔屓目で見ても父は女性にモテるタイプではない。いい人で終わるタイプだ。
『こーたくんだってああ見えて最近モテるんじゃない?』
 ああ見えてとは失礼な。むっとした紫桜の脳裡にふと、いつかの女子大生が浮かんだ。あの後どうなったのか、なんとなく訊きづらくてそのままになっている。
『どんな人だって、彼女ができたり彼氏ができたりして気持ちが安定すると、多少なりともモテるようになるのよ。ゆかりも気を付けなさいよ』
 それは真理だと紫桜も思う。
 三島などはいい例で、愛妻家と公言しているにもかかわらず、女性からのアプローチが絶えない。その手のことに鈍い紫桜でさえ気付くくらいだから、気付かないところではもっと声をかけられているのだろう。幸い三島は躱し方も上手いので大きな問題にならずに済んでいる。紫桜と組んで主に子供相手の仕事ばかりを入れているのは、その辺りの事情もあるのだろう。いつだったか、三島と中学高校と同級生だった小関は、三島くんって特別顔がいいわけでもないし、昔は全くモテなかったのに、と不思議そうに首を傾げていた。
『こーたくんって、天埜にお婿に来てくれるのかしら』
「天埜より狭知の家の方が格上なんじゃないの?」
『そうよねえ。となると、本家は誰が継ぐのかしら。一代飛んでゆかりの子供になるのかしらねえ』
 紫桜は黙り込んだ。結婚して子供を生む。母はそこに疑いを持っていない。
「ねえお母さん」
『なに?』
「家ってそんなに大事なのかな」
『大事な人には大事なんじゃないの? お母さんはどうでもいいって思ってるけど』
 きっと母にとっては何気ない会話だろう。それでも紫桜は勇気をもらったような気がした。

「結婚せっつかれた?」
「聞こえてた?」
 紫桜の部屋にひょいと顔を出した琥太朗がマグカップを差し出す。受け取った中身はミルクティーだ。ほっと力の抜ける好い香り。
 母はだいたい午後八時か九時の五十三分に電話してくる。今日は八時五十三分。通話終了はきっかり九時。番組を見終わった後、次の番組が始まる前のわずかな時間。近況報告という名の暇つぶし。テレビに支配されていないこの家には存在しない隙間時間。
「おばさんって基本電話だよね」
「前はメッセージアプリだったんだけど、私が無視するから電話になっちゃって。電話だと万が一緊急だったらって思うと出ちゃうから相手の思う壺」
 琥太朗とともに部屋を出てリビングに行くと、おざきくんがソファーの上でひっくり返っていた。
 子供がいなくてもおざきくんがいる。先日のこのひと言でおざきくんはすっかり落ち着いた。
「紫桜って結婚する気ある?」
「琥太くんとって意味で?」
 おざきくんの隣に紫桜が腰をおろすと、その反対側に琥太朗も腰をおろす。おざきくんが迷惑そうな顔で緩慢に寝返り、ソファーの背に飛び乗ってそこでだらりと寝そべった。ピースなしっぽがたすんたすんとソファーの背を叩く。
「俺とというか、一般論として」
「正直に言えばあんまりないかなあ。それが琥太くんと一緒にいるための条件なら別だけど」
「だよなあ。子供ができれば入籍しないと色々問題があるだろうけど、認知さえしとけばって考えもあるし、子供がいないなら尚更だよなあ。紫桜ちゃんと自立してるし、俺の扶養になるつもりないだろ?」
「働けるうちはね」
「問題は、天埜の家か」
「狭知の家はいいの?」
「狭知はもう俺以外いないからいいんだよ」
「うちの親戚以上に気持ち悪い泉の家は?」
 琥太朗が吹き出すように笑った。
「黙らせるだけの力があるから平気」
「もしかして、うちの親戚黙らせた力?」
 あの日、天埜の家に集まっていた男たちは間違いなく琥太朗を恐れていた。
「あれ? 十七歳で力って失うんじゃないの? 琥太くん、力持ったままなの?」
「生まれたときからある力がそんな簡単になくなるわけないだろ。俺の第六感がどこから来てると思う?」
 そりゃそうだよね、と妙に納得しかけたところで、別の疑問が湧く。
「ん? じゃあなんで十七歳?」
「十七歳くらいまでならなんとか丸め込めるからじゃないの」
 たしかに、そのくらいまでなら生き神という存在に万能感を見出すかもしれない。
「でも、二十歳過ぎても丸め込まれる人はいるんじゃない?」
「そうなると、変に知恵がついて分け前とかそういうこと言い出すだろ」
「分け前? 教祖って儲かるの?」
 聞けば泉の家はそのほとんどが古くからの神社や寺院らしい。琥太朗を生き神様にしようと企てるわけだ。神も仏も千差万別、色々あるのだろう。
「この世の中、金がなければ何もできませんよ、紫桜さん」
「世知辛いですね、琥太朗さん」
 ソファーの背でおざきくんが宙に向かって、にゃう、と鳴いた。
 紫桜はふと、ダイニングテーブルの上の木皿を見て思った。子供がいなかったら、この家の座敷ぼっこは淋しいままだろう。



 その日、紫桜は朝から近所の和菓子屋に出掛けていた。この時期だけ毎週土曜日の午前十一時に栗おこわを販売するのだ。しかも予約不可の売り切り終了。紫桜は二度も買いそびれている。
 前回は開店の一時間前に並んでも買えなかった。今回は二時間前。すでに五人も並んでいた。
「おはようございます」
 おっとりと話しかけられて、紫桜は一瞬首を傾げかけ、ああ、と気が付いた。
「お隣の、」
 お嫁さん、と言いそうになって慌てて口を噤む。つい先日三島から、彼の奥さんが他人にお嫁さんと呼ばれることを嫌がっていると聞いたばかりだ。
 お隣からは九月に息子夫婦と同居することになったと挨拶されている。紫桜も琥太朗との同居が決まったときに再度挨拶に行っている。どんな人が住んでいるか、集合住宅では知らん顔できても、持ち家だとそうはいかない。地に足をつけるとはこういうことかと妙に感心したものだ。
「おはようございます」
「やっぱり栗おこわ?」
「ええ。もう二回も買いそびれているので今日こそはって」
「おいしいのよねえ、ここの栗おこわ。ここの食べちゃったら余所のは食べられない」
 お隣の息子さんの奥さんはふっくらと上品に笑う。
 一頻り挨拶代わりの会話が終わると、紫桜は途端に不安になる。共通の話題、共通の話題……。天気くらいしか思い浮かばない。
「そういえば、天埜さんのお宅は犬も飼ってらっしゃるのかしら?」
 ふと思い付いたように、お隣の息子さんの奥さんは首を傾げた。お隣の顔触れや姓は知っていても、そこに暮らす人それぞれの名は知らない。姓と続柄だけで通じてしまうからだ。
「平日の昼間なんだけどね、お宅の門の前にいつも決まって犬が寝そべってるのよ」
「いえ、うちは猫だけですけど……」
「あのいつもご主人の肩に乗ってる三毛猫ちゃんよね」
 ご主人。紫桜は否定するのも面倒で、曖昧に笑って誤魔化す。
「あの三毛猫ちゃん、みたらし団子みたいよね。うちでは勝手にみたらしちゃんって呼んでるの」
 名前がおざきくんとはなんとなく言いにくい。これまたなんとなく笑って誤魔化す。
「でもね、その犬を見かけてるの私だけじゃないのよ、うちのお義父さんやお義母さんも見たって言ってるし……」
「平日の昼間ですか?」
「そうなの。夜や土日に見たことはないのよ。だからうちの主人は見たことなくて。天埜さんのところ、平日はお二人ともお勤めよね」
「そうです」
「まるで留守宅を守っているみたいで、ちょっと感心してたのよ」
「どんな犬でしたか?」
「柴犬を黒くしてもっと厳めしくした感じかしら」
「首輪してました?」
「してなかったのよ。でも大人しく寝そべってるかお座りしているかで、私の実家で犬を飼っていたものだから、そのつもりでうちの子が不用意に手を出しちゃって。でも吠えることもなければ咬んだり歯を当てたりすることもなくて、迷惑そうに顔を背ける感じで、すごい、ちゃんと躾けられてるのねーって感心してたのよ」
 本当に違うの? と目で訊かれ、紫桜は軽く首を振って否定した。
「じゃあ、野良犬かしら。そんな感じはしなかったんだけど……。保健所に連絡した方がいいのかしら……。いくら大人しくても念のためにリードつけた方がいいんじゃないかしらと思って、今色々うるさいからちょっとお節介な気持ちでいたんだけど……」
 これまで門の前に犬の糞尿の跡があったことはない。そこに犬が居たと教えてもらわなければ全く気付かなかった。

「って言われたんだけど」
「このおこわ旨いなあ」
「二時間並んだ甲斐があった」
 お一人様二合まで。もちろん二合買ってきた。いつもの塩大福と栗羊羹、芋羊羹も買ってきた。琥太朗は栗蒸し羊羹が苦手らしく、買いに行くときに「蒸してない方ね」と念を押された。
 木皿の上にも栗おこわ。あたたかいうちに食べてほしい。
「黒柴を厳つくってことは日本犬ってことかな」
「琥太くん気付いてた?」
「まったく。おざきくん気付いてました?」
 栗おこわをじっと狙っているおざきくんが、にゃ、と小さく短く鳴いた。
「おざきくんも気付いてないとなると……」
 紫桜は、えっ、と声を上げた。
「今の否定だったの?」
「否定でしょ? おざきくん、気付いてなかったってことでいいんですよね」
 えくぼを見せながら語尾を強めて念を押す琥太朗に、またしてもおざきくんは小さく短く、にゃ、と鳴いた。
「ほら」
「ほらって、今のは肯定なの?」
 紫桜には同じに聞こえた。琥太朗はおざきくんとスムーズに会話をしている。おそらく鳴き声を聞き分けているのだろう。それとも、これも第六感の為せる業なのか。
 残念ながら、紫桜は聞き分けられないことの方が多い。おざきくんもそれをわかっているのか、わかりやすく不満を表す以外は適当に返している気がする。
「ん? おざきくん、適当に返事してない?」
「おざきくん、紫桜にも気付かれてますよ」
 栗おこわから目を離したおざきくんはものすごく不満そうに、ぶぎゃ、と鳴いた。
「で? どこで出会ったキツネですか?」
「えっ、キツネなの?」
「まさか、尾は一つでしょうね」
 散々のブーイングの果てに、おざきくんは大人げなくそっぽを向いた。
 琥太朗があの手この手で事情聴取した結果……。
「二尾の黒孤で押しかけ女房……?」
「にびのこくこ? その黒いキツネは女の子なの?」
「猫又に妖狐って、この家はもののけホイホイか」
 気付けば木皿の栗おこわが消えていた。そういえば、おざきくんは琥太朗や紫桜の食べ物を狙うことはあっても、座敷ぼっこの木皿は狙わない。
 座敷ぼっこに猫又に妖狐。琥太朗だってミツチだ。もののけホイホイ……笑えない。