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14 紅葉


 琥太朗が紫桜の部屋に足を踏み入れるのはこれが初めてだ。
 物珍しそうにあたりを眺めている琥太朗から、隠しきれない緊張が伝わってくる。肌がざわざわ波立つような、手足の指先にきゅっと力が入るような、そんな緊張。
 この家で暮らすようになって、琥太朗はちょっと凝った作りのスウェットやパーカーなどの部屋着を買った。ただし、色は黒、もしくは黒に近いダークグレー。そして、たぶん高い。琥太朗の持ち物はお金がかかっている。気に入った物を長く使う方が経済的だという理由らしい。流行に踊らされ、毎年ほとんどの衣類が入れ替わる紫桜の後頭部にがつんと衝撃が走った。
 ぎくしゃくする二人の間にいるおざきくんは、広いベッドの真ん中で悠々と寝そべっている。
「おざきくんって真ん中が好きだよね」
「もしかしていつも?」
 おざきくんは普段紫桜のベッドで寝ている。しかもど真ん中で。せっかくの広いベッドなのに、気付けば紫桜は端で寝ていることが多い。
「おざきくん、やっぱり遠慮しようかなーって思ったりしません?」
 三日ほど続いた琥太朗とおざきくんの男同士の話し合いは決裂したらしい。
 遠慮がちにベッドの端に腰をおろした琥太朗は、おざきくんを足元の方にぐぐっと押しやる。しゅたっと起き上がったおざきくんは琥太朗の手を逃れて中央に戻り、一度ぐうっと背を伸ばしてから再び我が物顔で寝転んだ。
 おざきくんは遠慮する気がない。断固とした強い意志を感じる。
 先にベッドに潜り込んだ紫桜を見た琥太朗は、項垂れるようにベッドに俯して唸った。
「俺この年でよかった。もうちょっと若かったら、なんかもう、色々ダメだった気がする」
 そう言いながらもこっそり伸びた琥太朗の手がおざきくんをぐぐっと押しやっている。
 予行演習をすることにしたのだ。他人からしてみれば馬鹿馬鹿しいと嘲笑されるだろうが、本人たちはいたって真面目だ。
 おざきくんを無理矢理閉め出すことだけはしたくない。渋い顔をしながらもそう言った琥太朗の意見に紫桜も肯いた結果、そのうちおざきくんは飽きるんじゃないか、に賭けることにした。あれほど熱中していた爪とぎもひと月もすると飽きたようで、今はリビングの隅に追いやられている。さすが猫又と言うべきなのか、おざきくんはマタタビの誘惑にも打ち勝つのだ。

「俺さあ、おざきくんの気持ちがわからなくはないんだよね」
 灯りを消し、障子越しの月明かりに浮かぶベッドの上で、琥太朗がぼそっとこぼした。すぐそこに感じる琥太朗の気配と体温に、紫桜の心は安堵と緊張と少しの不安が入り混じって落ち着かない。
「俺もずっと紫桜のこと探してたけど、高校くらいまではどっちかといえば自分のことに必死で、大学に入ってようやく本気で探し始めて、なかなか手がかりがなくて、ようやく見付けたと思ったらもう別の場所に引っ越してるとか、そんなことばっかりで、二十四、五あたりからますます焦るようになって。紫桜が誰かのものになってたらどうしようって」
 紫桜はそっと琥太朗の横顔を盗み見た。琥太朗は天井を向いたまま、小さく息をついた。
「もういっそ誰かのものになってたとしても奪ってしまえって年々思い詰めるようになっていって、でも実際に紫桜に会ったら、そういう気持ちが全部吹っ飛んで、紫桜が幸せならもうそれでいいやって、呆気なく気持ちが覆ってさ」
 琥太朗の静かな声が、逆にどれほどの焦燥を抱えていたのかを如実に伝えてくる。
「覆ったくせに、紫桜が誰のものもでもないってわかった途端、今度は絶対に手放したくないってまた簡単に覆って」
 琥太朗がおざきくん越しに紫桜を見た。
「おざきくんもそうなんだろうなーって。十五年もかけてようやくたどり着いたんだよ、俺たちのところに。二度と離れたくないって思うのも当然だよなって」
 紫桜はおざきくんの頭から背にかけてゆっくりと撫でた。琥太朗の手が紫桜の手に重なる。二つの手がおざきくんをいたわるように撫でる。おざきくんから満足そうな吐息が聞こえた。
「でもだからって、おざきくんがいても気にしないってことにはならないんだよなあ」
 今の紫桜は、ふわっと抱きしめられたり、軽く唇が合わさったり、そんな軽やかな触れ合いだけでも十分に満ち足りた気持ちになれる。だから、紫桜自身に焦りはない。
「琥太くんは、やっぱり辛い?」
「そりゃあね。肉体的にっていうより精神的にしんどいかな。でもまあ、今のこの歳だから我慢できたりもするんだろうし。もう少し若かったらおざきくんのこと蹴り飛ばしてでも紫桜のこと襲ってるかも」
 ふふっと紫桜は笑った。同時に、身体に入っていた力がふわっと飛散した。
「琥太くんはそんなことしないよ」
「どうかな。追い詰められると人はどんなことでもするから」
「みんなどうしてるんだろうね。やっぱり部屋から閉め出すのかな」
「どうなんだろうなあ。さすがに人に訊くのはちょっとあれだし……普通のペットなら気にしないこともないんだろうけど、おざきくんだからなあ」
 おざきくんは撫でられながら少しずつ寝返りを打ち、今はへそ天になっている。バンザイしているおざきくんは至福そうにごろごろ喉を鳴らしながら琥太朗の指に顎をくすぐられている。
「おざきくんって、言葉通じてるよね」
「通じてるね。時々都合が悪くなると通じてないフリしてるけど、通じてないフリしてる時点で通じてるからね」
「それって普通じゃないよね」
「普通じゃないと思うけど、猫は十年も生きれば人の言葉を喋れるようになる、十五年も生きれば変化もできるって昔から言われてるからなあ」
「そうなの?」
「耳囊っていう江戸時代の文献にそう書かれてるんだよ。書いたのが南町奉行所の役人で、今でいう都市伝説の記録みたいなものかな」
「じゃあ、猫が喋るのも都市伝説ってこと?」
「実際おざきくんは喋ったりしないだろ」
 一瞬納得しかけた紫桜は、おざきくんの存在がどの位置に相当するのか悩んだ。悩みながら眠ってしまった。

 ふと目覚めると、おざきくんの顔が目の前にあった。
 おはよ、と口の中で呟くと、おざきくんも吐息のような声で小さく鳴いた。
 不意におざきくんが這いつくばりながらするすると後退っていく。紫桜が何事かと思った瞬間には、寝返りを打った琥太朗に抱きしめられていた。
 琥太朗は眠っている。眠りながら紫桜の肩や背中を手のひらで確かめ、いつになく強い力でぎゅっと抱きしめてきた。紫桜は息を止めて身動ぐことなくじっと様子を窺う。少しずつ息を吐いていっても、ゆっくり息を吸っていっても、琥太朗の呼吸はなだらかなままだ。寝ながら無意識に紫桜を抱きしめている。紫桜はこれまで抱きしめられたどんなときよりもときめいた。ついつい口元がむずむずとにやけそうになる。
 しばらく幸福を噛みしめていると、再び琥太朗が寝返りを打った。するするとおざきくんが元の位置に戻ってくる。と同時に、琥太朗が「んー」と唸りながら目覚めた。紫桜は咄嗟に寝たふりをする。
「んー……おざきくんずっと間にいたんですか」
 伸びをした後の琥太朗の呆れ声に、紫桜は薄目を開けておざきくんを見た。そーっとおざきくんが顔を逸らす。なるほど、本当は邪魔するつもりもないのに、ただ意地を張っただけなのか。琥太朗の手がおざきくんの頭をわしわし撫でている。おざきくんが気持ちよさそうに伸びをした。



 結局、予行演習中ということもあって、山梨への現地調査は日帰りすることになった。
「おざきくん、しばらく窮屈ですけど、我慢してくださいね」
 おざきくんに家で待っているかを事前に訊いたら、おざきくんは断固として拒否した。家にいる間中、琥太朗の肩や紫桜の膝の上から降りない。紫桜の帰りを駅で待っていたこともある。買ってきたキャリーバッグにも自ら入った。
「現地に着いたら出しますけど、迷子にならないでくださいよ」
 念のために迷子札を首輪代わりのミサンガにつけてある。本当はリードもつけたいところだが、さすがに相手はおざきくんなので遠慮がある。猫に何を言っているのか、と思われそうだが、おざきくんは普通の猫とは違う。念のため、万が一はぐれた場合は交番に駆け込むよう言い聞かせてある。
 目的地の駅の交番の前で、肩に乗ったおざきくんに「迷子になったらここに来ること。この場所覚えてくださいよ」と小声で念を押す琥太朗に、交番勤務の若い警察官が「肩乗り猫! どうやって躾けたんですか?」と興味津々の顔で話しかけていた。

 十一月の頭、山梨の山間は紅葉が見頃だった。
 日帰りなら琥太朗一人で出掛けてもよかったのだが、おざきくんを連れてまで紫桜が同行しようと思ったのは、久しぶりに山の紅葉が見たかったからだ。
 山の紅葉には街中の紅葉にはない熾烈さがある。燃え立つような激しい色。紫桜にとって紅葉とはこの炎のような色合いであり、街中で見る灯火のような柔らかな色ではない。
 山の景色は音色になって響いてくる。そんな気がして仕方がない。
「ねえねえ、おざきくん、懐かしくない?」
 子供の頃、おざきくんも一緒に落ち葉の中を歩いたことがある。紫桜の腕の中にいるおざきくんが目を細めて、にゃあ、と鳴いた。
 琥太朗は博物館の人に聞き込みに行っている。
 この辺りでは水晶が採れるらしい。そこかしこにそんな看板が見える。遊歩道を一周したあと、屋根のついたベンチに座り、東京ではあまり見ることのない大きな空を眺める。天上の青が迫ってくる。薄く刷毛を引いたような雲は漂白したかのように真っ白だ。
 山の透き通った風にぶるっと震えたおざきくんが紫桜のコートの中に潜り込んできた。顔だけひょこんと出したおざきくんのおかげで紫桜もあたたかい。
「おざきくんもうちの屋根裏見たことある?」
 屋根裏にはやたらと大きな黒水精の原石が据えられている。琥太朗がスマホで撮った写真を見せてくれた。琥太朗はその黒水精の出所を探している。琥太朗の第六感をもってしても国産であること以外はわからないらしい。
 水晶は水精とも書く。ミツチに連なる一族では一番扱いやすい石らしく、うちの屋根裏にある黒水晶は琥太朗曰く、黒水精と書くのが正しいらしい。
 目の前を服を着たポメラニアンがおざきくんにキャンキャン吠えながら飼い主に引っ張られていく。見送るおざきくんの白けた顔には貫禄すら漂う。
「おざきくんも寒い日は服着る?」
 ぶなーう。おざきくんからのブーイング。わりとわかりやすい。

 軍服のような黒いコートを着た琥太朗が半ば駆けるように戻って来た。おざきくんが「遅ーい!」とばかりに、んにゃー! と鳴く。
「ごめん、お待たせ」
 琥太朗が少し疲れた顔をしている。
「無駄足だった?」
「んー無駄とは言えないんだけど、めぼしい成果はなかったかな。関係ない昔話が長くて長くて」
 調べておいたテラス席のあるほうとうのお店に向かう。ペット可の中に猫も含まれるか確認済みだ。
「もうここでわからないなら、このままわからず仕舞いだろうなあ」
 紫桜のコートの中から出たおざきくんは寒そうな顔して琥太朗の肩に乗った。寒さを我慢してでも肩乗りしたいらしい。
 悔しそうな琥太朗は、ほかの産地にも聞き込みをしており、文献も紐解いているが、あの大きさの黒水精が出たという記録を見付けられずにいる。

 あの黒水精のルーツ解明が大叔母や彼女が遺した家の解明に繋がると琥太朗は考えている。紫桜にしてみれば、あれほど大きな黒水精をわざわざ屋根裏に上げるという行為そのものに得体の知れなさを感じる。
 屋根裏の黒水精は一メートルほどもある岩のような結晶で、あの家が建つと同時に設置されたらしい。黒水精を設置するための補強材は柱や梁と同じ建築時のもので、同じ職人によって加工されたものらしい。
 琥太朗の第六感はその物に関する情報を読み取る。物に付随する人間の感情、いわゆる残留思念などは拾わない。だから、誰のどんな思惑でこの石が屋根裏に置かれているのかはわからない。しかも、石自体の力が強いせいで、石の情報もほとんど読み取れない、と溜め息をついていた。
 あの家は、大叔母の前の持ち主がわからない。琥太朗が閉鎖登記簿謄本というものを調べたところ、大叔母が登記する前の記録が残っていないことに首を傾げていた。
 登記の日付を見ると大叔母はあの家をわずか七歳で所有したことになっている。当然、親権者である曾祖父は知っていたはずで、そうでなければ未成年の大叔母は登記はできなかったはずだ。となると、祖父、ひいては現当主である父が知っていてもおかしくない事柄なのに、父は知らなかった。天埜の家とは関係のない、曾祖父の独断だったのか。登記時の七歳という年齢を琥太朗は気にしている。

「天埜の人間から琥太くんみたいなミツチは生まれる?」
「ミツチは狭知からしか生まれない」
「じゃあ、美織さんが狭知の人間ってことは?」
「そもそもミツチは男なんだよ」
「美織さんが実は男だったとか?」
「紫桜は男だったと思う?」
 ほうとうを食べる手を止めて、紫桜は過去の記憶を引っ張り出す。大叔母はどう考えても女の人だった。
「思わないけど……」
「もし狭知の男だったら、俺が知らないわけないから」
「なんでそんな断言できるの?」
「俺の中のミツチがそう言ってるから」
 俺の中のミツチ。紫桜の単なる疑問が引き出した言葉。琥太朗は目を伏せてほうとうに集中しているフリをしている。そう、フリ。
「琥太くん、私別に琥太くんがどんな存在でもいいからね。ミツチでも、ミツチじゃなくても」
「紫桜」
 琥太朗の力ない呼びかけに、紫桜は「ん?」とできるだけ力を抜いた声で応える。
「子供、諦められる?」
「なんだそんなこと?」
「そんなことじゃないだろ、大事なことだよ」
 狭知である琥太朗の子供が男の子だった場合、天埜の紫桜の場合は女の子だった場合、それぞれの家系において面倒なことになる。二人の間に生まれる子供はどちらにしても面倒なことになる。
「琥太くんは、相手が私じゃなければ、女の子であれば、普通に育てられると思うけど……」
「紫桜だって、相手が俺じゃなければ、男の子であれば問題ないはずだろ」
 顔を見合わせる。テラス席の足元に置いたキャリーケースの中で、おざきくんが小さく鳴いた。
「子供がいなくてもおざきくんがいるし」
「子供がいなくてもおざきくんがいるから」
 同じことを同時に言った。おざきくんが今度は大きな声で、にゃー、と鳴いた。

「美織さんもそうだったのかな」
 遊歩道を歩きながら琥太朗が、ん? と首をわずかに片向けた。
「彼女の若い頃って、それこそ結婚して子供を生むのが女の使命みたいに言われてた時代でしょ」
「今ほど選択の自由はなかっただろうね」
「同じ時代だったら、きっと私と琥太くんって一緒にはいられなかったよね」
「逆じゃないかな。子供生めって強要されてたと思うよ」
「あー……そっちか」
 そういえば母も同じことを言っていた。一緒にいる以上、知りたくないと顔を背け続けてきた家を受け入れるしかない。それでもできるだけ顔を背けていたい。
「美織さんの好きになった人ってどんな人だろう」
 今思えば、大叔母のあの鷹揚さは愛されている人のものだった。少なくとも紫桜は、琥太朗といることでそれまでであれば考えられないほど寛大になっている。
「天埜家としては、泉の家系以外はアウトだっただろうからなあ」
 そうだった。紫桜に持ち込まれる見合い話も天埜と繋がりのある家の息子ばかりだった。最初は従兄弟たち。それは有り得ないと言えば、次に再従兄弟たち、そこからどんどん狭い範囲の中で候補者は広がっていった。本家の娘と結婚することで本家に近い存在になれると、本家から遠い家ほど必死になっていた。
 そして、そんな思惑の外で、紫桜は大当たりの狭知家当主を引き当てた。なんとも複雑な気分になる。
「ねえ、どうして美織さんは私をミツチから遠ざけようとしたんだろう?」
「生け贄だからでしょ」
 紫桜はふと、足を止めた。遊歩道のずいぶんと下方を川が白い帯のように流れている。川面に迫り出す木々が燃えるように色付いている。
「ねえ、生け贄って何?」
 琥太朗が顔を歪めた。
「ミツチに食われると謂われている」
「食事的な意味で?」
「いや。そういうことじゃなくて……」
「琥太くんの中のミツチにも?」
 紫桜の頭にふと、一つの考えがよぎった。ミツチは水の精だ。精。精は純粋で混じりけのない命の根源。
「子供を諦めるってそういうこと?」
 家の問題などではなく、もっと根本的な問題。
 琥太朗が苦しそうに肯いた。