シェア マヨヒガ
16 マヨヒガ「ねえおざきくん、そんなに嫌ならうちに入れるのやめるけど……」
もう何度も確認している。そのたびにおざきくんはぐっと言葉に詰まったみたいにわかりやすく動揺する。おざきくんと黒狐のこの微妙な関係はなんだろう。
おざきくんが渋々といった感じで連れてきた黒孤は、見事な二尾だった。
日曜日の朝、その場にちょうど居合わせたお隣の息子さんの奥さんは、目を輝かせて「そうそう、この子よ」と黒狐の頭を撫でていた。とりあえずうちで保護することを伝えると、ほっとしたように笑っていた。真っ黒ねえ、ふさふさのしっぽねえ、しっぽの先が白いのねえ、と微笑むお隣の息子さんの奥さんも、呼ばれて出てきたお隣の奥さんも、二つのしっぽには全く気付いていない。おざきくんのピースなしっぽに気付くこともない。
「うちの子になるならお風呂に入ってもらいますよ」
琥太朗がそう言うと、おざきくんが渋々ぶにゃぶにゃ通訳していた。たぶん。それともただの文句だろうか。
「ねえ琥太くん、おざきくんのときは何も思わなかったんだけど、病気とか寄生虫とか、そういうの平気なのかな。たしかキツネって気を付けなきゃいけない病気があるよね」
「エキノコックスね。平気だよ」
やけに自信ありげな琥太朗に、紫桜は眉を寄せる。たしかにこのキツネもおざきくん同様、野生のキツネというにはこざっぱりしている。いくら犬好きだとはいえ、お隣の奥さんたちが躊躇なく撫でるくらいだから、紫桜の思い違いでもないだろう。
「この黒狐、本物のキツネじゃないから」
紫桜には意味がわからなくて首を傾げる。
「座敷ぼっこと同じ存在かな。なりかけのおざきくんはまだ実体寄りだけど、この黒狐は実体があってないようなものだから」
「それって、つまり、妖怪的な?」
ふと思い付いた非現実的な単語。口にするのもなんだか馬鹿馬鹿しい気がしてくる。
「妖怪的な。俺も本物は初めて見たよ。この家本当最高だな」
紫桜は今になってようやく、座敷ぼっこも猫又も妖怪に分類されることを思い出した。子供の頃に当たり前の存在として信じ込んでいたせいか、「妖怪」という言葉にちょっとした抵抗を感じる。妖怪。妖怪とは一体……。
琥太朗が嬉々として黒狐を洗っている間に、紫桜はせっせと首輪代わりのミサンガを編む。おざきくんがしゃーと背中の毛を逆立てて執拗に邪魔をしてくる。この大人げのなさ。
「そんなに嫌なら、追い出す?」
さっきからずっとこの繰り返しだ。ついにおざきくんは、ぶぎゃー! と叫んで、当たり散らすように縁側をだだだだーと駆け回り始めた。
「あれは、赤ちゃん返りみたいなもんか」
お風呂を終えた黒狐が琥太朗の後ろからひょこっと顔を出した。かわいい。
埃っぽさのなくなった黒狐は見事なまでに真っ黒だった。しっぽの先だけ真っ白。
黒いキツネは珍しいものの実在するらしい。昔から黒狐は縁起がいいとも凶事の前触れとも謂われているが、概ね善い妖狐なのだと琥太朗は言う。
「そこから縁側に出て、日向で躰乾かしておいで」
琥太朗に猫ドアを指差された黒狐は、ととと、と窓のそばまで行き、ドアの前でふんふん匂いを嗅いだ後、ここ? とばかりに振り向いた。小首を傾げる仕草がかわいい。
「そうそこ」
琥太朗がジェスチャーで伝えるように大きく頷くと、黒狐はそっと確かめるように鼻の先でドアを押し開けた。外ではおざきくんが少し離れたとろこから、しゃーっ、と威嚇している。大人げない。ドアをすり抜けた黒狐は二つのしっぽをぶんぶん振りながらおざきくんに近寄っていった。例によっておざきくんは、だだだだーと逃走。本当に大人げない。
「あれが赤ちゃん返り?」
「そうなんじゃない? おざきくんは俺が一番ってタイプだから、何するにもまずはおざきくんを優先して、あくまでもおざきくんが一番っておざきくんにわかってもらわないと……」
「またお邪魔猫になる?」
琥太朗の渋い顔。紫桜はダイニングテーブルの上にある編みかけのミサンガを見た。そして、リビングの窓を開けて縁側に出ると、おざきくんを呼ぶ。
「おざきくーん」
紫桜が両手を広げて待っていると、だだだだーと駆けてきたおざきくんが脅威の跳躍力で飛び込んでくる。鳩尾直撃。ぐほっ、と変な音が出た。
「おざきくん、今日一緒に寝る?」
おざきくんの目がきらきらしている。かわいいやつ。おざきくんは優越感たっぷりな顔でちらっと琥太朗を見た。おざきくんの視線につられた紫桜は琥太朗の仏頂面をみて小さく吹き出す。足元では黒狐がきちんとお座りしている。大人なのは断然黒狐。黒い頭を撫でると目を細めて足にすり寄ってきた。かわいい。
そのまま小春日和の陽だまりでおざきくんを膝に乗せて日向ぼっこする。十一月も半ばとはいえ風がないからぽかぽかしている。脇に黒狐が寄り添うように寝そべった。
琥太朗がぶつぶつ言いながら、寝袋を引っ張り出してきて縁側に干している。
「うちではもう使わないと思ってたのに」
不満たらたらの渋い顔。
あれだけ寝袋の性能を自慢していたのに、今ではベッドの寝心地を絶賛している。マットレスを買うときに大きな買い物だからと吟味に吟味を重ねた紫桜も鼻が高い。
「ねえおざきくん、本当は琥太くんとも一緒に寝たいよね。寝袋は黒狐に貸してあげようか」
日向でとろけていたおざきくんは一瞬真顔になり、紫桜と琥太朗の顔を交互にじっくり眺めた後、にゃう、と鳴いて再びとろけた。琥太朗がほっとしたようにえくぼを見せた。
「ってことは、生まれたのはどこって言ってます?」
琥太朗の問いかけに、にゃにゃ、とおざきくんが黒狐に訊く。黒狐がじっとおざきくんを見つめると、おざきくんが得意気に琥太朗に向かって、にゃにゃーん、と鳴いた。
おざきくんは、琥太朗と直接話せる俺エライ! とばかりにご機嫌だ。だが、紫桜は知っている。黒狐はちゃんと人に意思を伝えられる。人の意思も読み取れる。
黒狐がうちに来た日、おざきくんは得意気にベッドに寝そべり、紫桜側のベッドの下には黒狐用にと琥太朗の寝袋が置かれていた。黒狐は寝袋の匂いを嗅いで、鼻先で確かめ、前足で散々ほりほりしてから、寝袋に半分だけ躰を入れて丸くなった。
紫桜はふと夜中に目が覚めた。
琥太朗との間におざきくんがぐでんと寝そべっている。ベッドの下で黒狐がもぞもぞしている気配がして、紫桜は半分ほど眠りに浸りながらベッド下を覗き込んだ。
眠れないの? 頭の中で訊いた。半分寝ていたせいもあってか、なんとなく通じるような気がしたのだ。黒狐がじっと紫桜を見上げてきた。すると、声でもなければ文字でもない、どう表現していいかわからない、ふわっとしたものが伝わってきた。紫桜の頭の中でそれは勝手に形を変え、紫桜の知る何かに近付こうとする。あえて言葉にするなら寂寥感だろうか。孤独感にも通じる、ともかく淋しさのようなものだと紫桜は理解した。
一緒に寝る?
夜の闇にとけ込んだような黒狐が仄かな光を跳ね返す真っ黒な瞳を瞬かせた。
戸惑いと歓喜。
紫桜は身体の位置をずらして黒狐のためのスペースを作る。そっと、遠慮がちに黒い鼻先が紫桜の指に触れた。湿った冷たい感触。紫桜が羽布団の端を持ち上げると、黒狐は羽のような軽さでベッドに飛び乗ってきた。黒い塊が布団に潜り込むと、紫桜の傍らでくるっと丸くなった。
再び眠りに落ちる直前、琥太朗の手が紫桜の頭をゆるく撫でたのを覚えている。
しばらく琥太朗の質問におざきくん越しに答えていた黒狐は、先に飽きたおざきくんの後を追って縁側へ出て行った。
「なんて呼ぼう」
ダイニングテーブルでミサンガを編んでいた紫桜に、ソファーに座る琥太朗が訊いてきた。
「本人に訊いてみれば?」
「訊いた。名前そのものの意味がよくわかっていないみたいだった」
「呼んでいるうちにわかるんじゃないの?」
「どうかなあ。そもそも自己とか個とか、そういう認識がないんじゃないかな」
「それって名前呼んでも反応しないってこと?」
「たぶんね。あの黒狐はおそらく意識を向けただけで呼ばれていることに気付くんじゃないかと思うんだよ」
おざきくんは人と生活の場が近い猫なので、猫同士の情報交換等で人の習性についても学ぶ機会が多かっただろう。だが、キツネは猫ほど人と生活の場を共にしない。野生のキツネが飼いキツネを通して人を知る機会はほとんどなかったのではないか、と琥太朗は考えている。
「それって、わざわざ名前を呼ぶ必要がないってこと?」
「じゃないかなーって思うんだけど、どうなのかなあ。単に俺たちが不便だから便宜上名付けるのってなんか違う気がするんだよなあ」
「人間側の都合って感じ?」
「じゃないかなーって思うんだけど、考えすぎかなあ」
小さく唸りながら琥太朗はソファーの背にぐだーっとだらしないほど力を抜いてもたれた。背骨が抜けたみたいだ。
「妖狐の研究捗りそう?」
「これまでの定説が覆るかもしれない。あの黒狐さ、ホンドギツネの変種みたいなんだよ」
がばりと音がしそうな勢いで姿勢を正した琥太朗の目が子供のように輝いている。
「ホンドギツネ? 本土の狐?」
「そう、ホンドギツネ!」
意味はわからないながらも、琥太朗にとっては大発見なのだろう。にっこにっこしている。
「破れない障子紙にするか」
「でもそうするとプラスチックになるんでしょ? なんか味気なくない?」
この家はカーテンではなく障子だ。どの窓にも障子が入っている。おざきくんは基本的に障子に穴を開けたりといった悪戯はしない。大叔母の着物を毎月陰干ししていても悪戯どころか触れることもない。そればかりか猫じゃらしで遊んでもくれない。ほれほれと目の前で振っても、反射的に目で追うもののしれっとシカトする。あまりしつこくちょっかいを出していると、しゃーっと怒られる。
黒狐は様々なものが珍しいようで、障子の匂いを嗅いでいるうちに鼻先の湿り気で障子を突き破ること数回。穴が空いているというほどではないものの、ぽこっと凹んだ鼻の跡とそこに入ったひび割れはあまり見た目がよろしくない。黒狐も何度目かで気付いたのか、申し訳なさそうに二尾を足の間に入れて項垂れていた。
「障子閉めると外が見えなくなるのが不安なのかなあ」
そうかもしれない。障子を閉めると不思議そうにいつまでも眺めている。そのうち匂いを嗅いで、鼻を付けて、鼻の湿り気で障子を凹ませ、少しだけ破いてしまうのだ。
「じゃあ、下の一段はいっそのこと障子紙張らないで開けとく?」
「夏暑いし冬寒いよ。障子って意外と断熱性能高いから。おまけにこの家はいい障子紙使ってるから余計に」
紫桜は、へーえ、と声を上げながら、黒狐に大丈夫だよと伝える。黒狐は申し訳なさそうに項垂れたままソファーに座る紫桜のそばにやって来て、足の甲を鼻先でちょんと突いた。ごめんねの代わりだろうか。隣に座る琥太朗にも同じ仕草をしている。かわいい。
ソファーの背の上でだらりと寝そべっているおざきくんが、にゃー、と鳴くと、黒狐はふわりとソファーの背に飛び乗り、おざきくんを真似るように同じ姿勢で寝そべった。
十二月を前に、大掃除の計画を立てている。障子紙を貼り替えたり、敷居に蝋を塗ったり、板張りに天然ワックスを塗り込んだり、やることは多い。
「琥太くん、自分の部屋は自分で片付けてよ」
「えー……」
琥太朗の部屋は日に日に資料が増えていき、しかもかさばる資料ばかりなのであっという間に階段箪笥は一杯になり、その上にもうずたかく積まれ、そこかしこに段ボールや木箱の山ができ、今や有効スペースは半分以下になっている。どこにこれほどの荷物を置いていたのか。紫桜が琥太朗に詰め寄ると、これらは全て研究に使う借り物であって、研究が終わればなくなるから、と捨て犬のような目をしていた。一体いつ研究が終わるのか、そもそも研究に終わりはあるのか、それらの質問はのらりくらりとはぐらかされた。
「えーじゃなくて。私が動かしたらどこにあるかわからなくなるんでしょ?」
「自分で動かしてもどこにあるかわからなくなりつつある」
最悪だ。それを片付けるには紫桜もひと通り琥太朗の研究を理解する必要がある。ついつい遠い目になり現実逃避にふと別のことを思い出した。
「そうだ、鏡餅の注文しとく?」
「あの和菓子屋? 鏡餅も作るの?」
「早めに注文しないと、予約の段階で締め切られるみたい」
「小さいのでいいから注文しとくか。鏡開きのあとは揚げ餅にしよう。おざきくん、揚げ餅好きそうだし」
黒狐はうちで物を食べない。そもそも、スーパーの肉を嫌がる。どこで何を食べているのか、おざきくんに訊いても要領を得ない。おまけにトイレもしない。これもおざきくんに訊いてもわからない。直接訊いてもぼんやりとした感覚しか伝わってこなくて、さっぱりわからない。
キツネだから油揚げが好物なのかと思いきや、加工食品には近寄りもしなかった。揚げ餅も食べないだろう。
「あの子は何も食べなくても平気なのかな」
黒狐は窓辺でおざきくんと一緒に日向ぼっこしている。仲が良かったり悪かったり、くっついていたり離れていたり。大抵はおざきくんの一方的な気分で二匹の距離は変わる。
「妖狐だからなあ。精を食べてるんじゃないかな」
「もののけって幽霊とかそういう?」
「前にチの話しただろ。水の精の精がチだって話。その精って字はもののけとも読むんだよ」
「そうなの?」
「俺たちは精というものをきちんと理解しているかっていったら理解してないんだよ。なんとなく命の源とか、パワーとか、魂とか、精霊とか、気とか、色々言われてるけど、どれも感覚的なものだからどれほど言葉を尽くしても、結局はざっくりした解釈しかできない。だから、黒狐もどう伝えていいかわからないんじゃないかな」
黒狐を見ているとそんな気もする。
「でもまあ、ここは精のパワースポットだから、ここにいると常に満たされてるんじゃないの?」
「精のパワースポット? なにそれ」
「この家ってマヨヒガだからね」
「マヨヒガって、あのベンチのおばあさんの言ってた、あのマヨヒガ?」
この家にいるだけで琥太朗の研究が進むわけだ。と思ったところで、紫桜の頭に再び琥太朗の部屋の散らかり具合が浮かんだ。今のうちになんとかしないとこの先が思い遣られる。