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13 感知


「あれ?」
 遠目にも、黒塗りのシルエットは見慣れた輪郭を描いている。紫桜は目を細めながら確かめるように口の中で呟いた。琥太くん?
「もしかしてあのバンドマン、天埜さんの知り合い?」
「あ、いえ、はい」
 いつの間にか通話を終えていた同僚に凝視していた視線の先を拾われ、紫桜はうっかり上げた声を回収したくなった。
 全身黒尽くめの琥太朗が背負っているのはいつものリュックと古地図のコピーが入った筒型の図面ケース。両方とも黒いせいか遠目にはギターケースのように見えなくもない。
「天埜さん彼氏いたんだ」
 琥太朗から目が離せない紫桜は運転席から聞こえる同僚の声に答える余裕はなかった。
「おっ、彼氏嫌がってんなー」
 琥太朗は若い女性に腕をがっちり掴まれていた。腕を掴んでいる彼女は琥太朗に向かって艶々の唇を忙しなく動かし、琥太朗は能面のような無表情で彼女の腕から自分の腕を引き抜こうとしている。
「そう見えますよね」
「あれはどう見ても嫌がってるだろう。超迷惑だけどファンの子無下にもできないし、それなのにたまたま現場を目撃した彼女に浮気だと誤解されちゃうっつー最悪な状況とみた」
 一部大きく異なるが、概ね合っている。相手は琥太朗の講義を取っている学生なのだろう。
 家ではよく喋り表情豊かな琥太朗も外では無口で無表情だ。紫桜も小関に表情が硬いとよく注意されている。子供を相手にすることもあってできるだけ気を付けているものの、なかなか直らない。
「助けに行ってあげなよ。今日はもう直帰でいいから」
 三島のどことなく面白がっている顔を見て、紫桜は山ほどの言葉をのみ込んだ。とりあえず、琥太朗とはまるで結びつかないバンドマンだけは否定したい。否定したい気持ちと、それによって根掘り葉掘り訊かれるだろうことを天秤にかけ、結局紫桜は口を噤んだ。三島のことだ、社に戻ったら小関を質問攻めにするだろうことも想像に容易く、となれば小関が訂正してくれるだろうことを期待する。
「すみません、そうさせていただきます。お疲れさまでした」
「お疲れ。今度詳しく教えて」
 紫桜は会社で、午前は小関と一緒に社内のあらゆる事務処理を行い、午後からは三島と組んで施設などに出向く福祉美容師として働いている。今日も福祉施設で子供たちの髪をカットしてきた帰りだ。会社から三島に連絡が入り、路肩に車を駐めて折り返しているところで、そういえば琥太朗の大学はこの辺だったな、と思った矢先に、女子大生の腕から必死に逃れようとしている琥太朗を発見した。
 紫桜が社用車から降りたところで琥太朗も気付いたらしい。わかりやすくほっとした顔で女子大生の腕を振り切って逃げるようにやって来た。
「紫桜」
「琥太くん今帰り?」
「天埜さん、よかったら彼氏も一緒に近くまで乗ってけば?」
 助手席の窓が開き、同僚の声がかかった。琥太朗の背後、三メートルほど離れた位置で件の女子大生が紫桜をこれでもかと睨んでいる。
「乗ってく?」
「乗せてもらった方がよさそうな感じ、だよね?」
 小声で確認してきた琥太朗に紫桜は目で肯く。
「琥太くん助手席に乗って。うしろはちょっと荷物が多くて狭いから」
 女子大生が思い切ったように一歩を踏み出した。思い詰めているのがありありと伝わってくる。
 急いで助手席に乗り込んだ琥太朗と、後部座席の荷物を力任せに押し込んで乗り込んだ紫桜のドアが閉まると同時に、三島は車を発進させた。
「社名入りじゃない車でよかったよ。あのファンの女の子、すごい目で睨んでたなあ」
 いつも紫桜たちが使っている社用車は車検中で、今日は主に小関が使っている軽自動車を借りていた。
「助かりました。ありがとうございます」
 琥太朗は三島の「ファン」のひと言に怪訝そうな顔をしながらも、運転席に向かって頭を下げた。
「こちら同僚の三島さん」
「初めまして、狭知です」
 俯きがちな琥太朗を見て、紫桜は自分の頭を殴りたくなった。運転席からは琥太朗の右頬が見えてしまう。狭かろうが何だろうが、後部座席に乗ってもらえばよかった。ふと自分の顔が映るバックミラーを見ると助手席の後もダメかもしれない。運転席の後ろがベスト。頭に叩き込む。
「さちさん、珍しいお名前ですね。どういう字ですか?」
 わかりやすく人見知り中の琥太朗から、人懐こい三島は前を向いたままするすると個人情報を引き出していく。
 さっきの女子大生は大学院入試で琥太朗に手心を加えろと迫っていたらしい。
 へえ、大学の先生なんですか。あ、はいまあ。大学の先生ってカジュアルなんですね。あ、いえ、ロッカーにジャケットが……。ああ、置きジャケかあ、なるほど、ですよねえ。はあ。
 琥太朗は決して積極的に会話しているわけではないのに相槌のタイミングが絶妙で、三島との会話はするする進む。琥太朗は紫桜よりもずっと他人とのコミュニケーションが円滑そうだ。
 あそこって男子が女子の鞄持ちするって本当ですか? さあ、どうなんでしょう。先生は興味ない? ええまあ。先生もあそこの大学出身なんですか? ええまあ。へえ、内部生? いえ。外部生ってことは、高校から? あ、いえ。大学からかあ。はあ。じゃあ先生も学生の頃に女の子の鞄持ちしました? いえ、そういうことは……。
 三島がそこまでを聞き出したところで、降車するにちょうどいい地点に差し掛かった。
「あの、三島さん、この辺で」
「こんなところでいいの?」
「ここからなら歩けますから」
 琥太朗がすかさず言う。この先にバス停がありますから、という言葉は紫桜の喉の奥でぐっと詰まった。

「紫桜、荷物かして」
 琥太朗の大きなリュックの中に紫桜の仕事道具が詰まった大きめのショルダーバッグが丸ごと入れられる。代わりに紫桜は琥太朗の図面ケースを斜めがけに背負う。
 通り過ぎていくバスを名残惜しく目で追っていると、ほら、と琥太朗の手が差し出された。子供の頃と同じ仕草。もう何度も手を繋いでいるのに、いまだにその瞬間は恥ずかしくて俯いてしまう。
 手を繋いで暮れかけた歩道をてくてく歩く。
「陽が短くなってきたなあ」
「やっと秋って感じ」
 九月も終わりかけている。夏の名残が色濃く、秋分を過ぎても秋の気配はまだまだ薄い。夕暮れの光と影だけが秋の到来を告げている。
「日が暮れるときの黄色い光ってノスタルジー感があるよね」
「あるねえ。サウダージ感もあるよ」
「なんとなく古い映画みたいなロマンも感じない?」
「感じる感じる。逆にさ、未来も感じる」
「未来?」
「この先何年も、こんなふうに歩いてるんだろうなーって感じ?」
 少し照れたような琥太朗の口振りに、紫桜は琥珀色の光に閉じ込められたこの何気ない景色を、ずっと先の何気ない日常の中でふと思い出す予感がした。それはきっと幸福な未来の予感。
「あー……やっぱりなあ」
「ん? あれ? まさか……おざきくん?」
 前方から、だだだだー、と駆けてくる見慣れた三色柄の猫。
 隣で琥太朗が呆れ混じりの溜め息をついた。
「絶対に来ると思ったんだよ。どんだけ仲間外れが嫌なんだ」
「だからバスに乗らなかったの?」
 家までまだ一キロ以上はありそうな場所なのに、おざきくんはどうやって感知したのか。
「おざきくんならやりかねないなーって思ってたんだけど、今ここにいるってことは車乗るときに気付いたってことだよな。猫という生きものがすごいのか、おざきくんがすごいのか。おざきくんがすごいんだろうなあ」
 そう話しているうちに駆けつけたおざきくんが勢いよく琥太朗の肩に飛び乗った。おざきくんの跳躍力は凄まじい。琥太朗が衝撃で仰け反った。紫桜は繋いだ手をしっかり掴んで琥太朗が倒れないよう踏ん張る。おざきくんが、ご苦労、とでも言うように紫桜に向かって、にゃあ、と鳴いた。
 最近のおざきくんは気まぐれに外歩きに出掛けている。条件は雨が降らない日と風の強くない日。
「おざきくん、今日はどこにいたの?」
 仲間外れになりかけた猫は琥太朗の肩の上でつんとそっぽを向いた。首輪代わりのミサンガは紫桜が編んだもので、首に付けるときに衝撃の事実が発覚した。おざきくんが鏡を見て首輪の様子を確かめていたのだ。猫は鏡を認知しないという説はおざきくんに限っては覆る。さすが猫又。

「紫桜の仕事って密室で男と二人きりになることもあるんだね」
 急に何を言うのかと琥太朗を見れば、肩に乗ったおざきくんの影に隠れて唇を尖らせていた。
「密室って……男って……三島さん、二児の父親で愛妻家だし、家族第一な人だよ?」
 思わず紫桜が笑うと、琥太朗は唇を尖らせたまま、わかってるけど、と拗ねた。
「琥太くんこそ、女子大生に胸押し付けられて鼻の下伸ばしてた」
「伸びてない。断じて伸びてない」
 実際伸びてはいなかった。単に紫桜の嫉妬だ。きれいな子だった。紫桜を睨んだ彼女の目にははっきりと敵愾心が宿っていた。色々勘繰りたくなる強い視線。
「ああいうこと、多いの?」
「わりとよくある。モテない講師は若い女の子の言うこと聞いて当然って高を括ってるんだよ。本当タチ悪い。若い女の子からちやほやされて悪い気はしないでしょって」
「ずいぶん自信があるんだね」
 紫桜にはできない芸当だ。少し羨ましくもある。
「若いってだけで何しても許されるって思ってんだよ。自分の都合しか考えない。俺にはそんな権限ないって言っても聞きやしない」
「本気で琥太くんのこと好きな子もいるんじゃないの?」
「いないだろ。俺だよ?」
「それって私のこと全否定なんだけど」
 むっとした紫桜の代わりにおざきくんが琥太朗の肩に爪を立てた。
「痛たた……。せっかく紫桜がデレたのに……おざきくん、人の恋路を邪魔すると馬に蹴られますよ」
 痛そうに肩をすぼめる琥太朗はそれでも紫桜の手を離さない。おざきくんは琥太朗の肩からリュックの上に移った。猫とはいえよく落ちないものだ。



「あーそういえば紫桜さん、十一月にちょっと調べ物しに山梨行くんだけど、よかったら一緒に行かない?」
 琥太朗はこれまでも月に一度か二度、現地に足を運んで何かを調べている。始発に乗って終電で帰ってくるような強行軍で、時には物だったり、情報だったり、伝手だったり、現地に足を運ばなければ得られない成果を何かしら持ち帰っているようだった。
「平日は無理だよ、琥太朗さん」
 十月に入り、ぐっと秋めいてきた休日の午後。早朝から畳上げや虫干しを行い、ようやく一息吐いたところだ。
 紫桜はダイニングでノートパソコンとにらめっこしている琥太朗を見た。
「今回は週末」
 今の琥太朗の研究のメインはこの家なので、この家にいることこそが現地調査らしい。それ以外にも、学生の引率やほかの教授の助手として講義の合間にフィールドワークに出掛けることも多い。
「おざきくんは?」
「連れてく」
「猫って電車に乗れるの?」
「んーレンタカー借りようかなって思ってる」
「琥太くん免許持ってるの?」
「一応。あんま乗らないから運転は上手くないけど」
「じゃあ私の方が少しは上手いかな」
「紫桜免許持ってんの?」
「一応。仕事で車使うから」
「あーそっか」
 でさあ、と琥太朗が口ごもりながら続けた。
「うちの教授が山梨に別荘持ってるんだよ」
「へーえ。教授にもなると別荘が持てるのかあ」
「それはまあ人にもよると思うけど……でね、猫可で使ってもいいって言ってくれてるんだけど……」
 紫桜がソファーに座り直して琥太朗に目を向けると、琥太朗は面白いくらい目を泳がせた。
「琥太朗さん、それはお泊まりということでしょうか?」
「だめでしょうか、紫桜さん」
 一緒に暮らしていて今更お泊まりもない。はずなのに……どうしてか妙な緊張感にすっぽりくるまれた。目を泳がせた琥太朗の本音の部分が伝わってきて、紫桜も落ち着かなくなる。
「それはその、そういうこと?」
「そういうこと、なんだけど……問題はおざきくんが気を使ってくれるかということで……」
 二人が話し始めた途端、どこからともなくおざきくんが、だだだだー、とやって来た。最近のお気に入りは紫桜の部屋の窓辺での日向ぼっこ。そこにおざきくんは自分用のバスタオルを持ち込んで段ボール箱の中に巣を作っている。
 駆けてきたおざきくんはソファーとダイニングテーブルの間でどっちに行こうかきょろきょろしている。
 琥太朗がソファーにやって来た。紫桜のすぐ隣に座ると、すかさずおざきくんが間に入り込む。
「問題はこれですよ」
「問題はこれじゃなくて、他人様の別荘でそういうのはどうかってことじゃないの?」
「じゃあこの家でできると思う?」
「思わないけど……」
 ずばっと切り込んできた琥太朗に紫桜の顔は熱を持つ。
「山梨に何調べに行くの?」
「話変えようとしてる?」
「してない。ちょっと気になっただけ」
「鉱物について調べに行く。屋根裏の石の出所を知りたい」
 紫桜の頭には「鉱物」より先に「好物」が浮かんだ。
「紫桜」
 呼ばれて顔を上げると、唇が塞がれた。
「いや?」
「いやじゃない。でもおざきくんを説得できるとは思わない。ここでできないことが別の場所でできるとは限らないでしょ」
 なにせ今も自分もと言わんばかりに紫桜と琥太朗の指を代わる代わるざりざり舐めている。
「おざきくんも彼女見付けてくださいよ」
 何気ない琥太朗のひと言に紫桜の顔がほころぶ。
「ん? なに?」
「おざきくんもって言うから」
 も、に力を入れると、琥太朗の顔がみるみる赤くなった。先日の「人の恋路」発言といい、ちょいちょい琥太朗は口を滑らす。明言はしないくせに匂わせてくる。ずばっと切り込まれると逃げ腰になってしまう紫桜には、その回りくどさがちょうどいい。
 紫桜は指を伸ばし、琥太朗の右の頬にかかる髪をそっと梳くようにその耳にかけた。剥き出しになった琥太朗の痣。色付いて一層なまめかしさを増している。指先でなぞりながら、ふと紫桜の脳裡に同じ色合いがよぎった。浮かび上がったきれいな紫と淡い桃色。どこで見た色だったか……。
「気持ち悪い?」
「まさか。すごく色っぽい」
「そんなこと言うのは紫桜だけだよ」
 琥太朗がくすぐったそうに目を細める。その仕草もやけに色っぽい。
「そうかな。こんなにきれいなのに」
 でも、と思う。他の人の痣を見てきれいだと思うことも、触れてみたいと思うことも、ましてや色っぽいなどと思うこともない。それは痣のみならず、そもそも他人の肌に触れてみたいとは思わない。
「きっと特別なんだよ。この痣も、琥太くんも」
 ぐっと抱きしめられた。二人に挟まれたおざきくんは、じたばた藻掻きながら収まりのいいポジションを見付けるとぐだっとダレた。遠慮する気はないらしい。それでいて、ソファーにいるおざきくんの左右に紫桜と琥太朗が座るとおざきくんはふいっとどこかに行ってしまうのだ。やられるのは嫌だけどやるのは好きというこの大人げのなさ。
「おざきくん、ちょっと男同士の話があります」
 首根っこを掴まれたおざきくんが、ぶぎゃ、と不満の声を上げた。