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12 散髪


 ばりばりがりがりぼりぼり……。
 帰宅時、玄関を開ける前から微かな異音がしていた。紫桜は首を傾げつつ、いつも通り「ただいま」と声をかけてから、がらら、と音を立てて玄関の引き戸を滑らせた。
 廊下のど真ん中でおざきくんが爪とぎに没頭していた。いつもなら上がり框の際まで来てお帰りと出迎えてくれるのに、今日はちらっと見ただけで終わりだ。つれない。
「ただいま」
 戸を閉めてからもう一度声をかける。すると、おざきくんは、だだだだー、とものすごい勢いで上がり框まで駆けてきて、にゃ、っと短く声を上げると、またもやものすごい勢いで爪とぎに戻った。そっけない。
 琥太朗から贈られてきたメッセージには、コンビニ受け取りにしている荷物を取りに行って、段ボールを開けた瞬間からおざきくんが纏わり付き、商品を出して保護用のビニールを外したと同時にしゅたっと爪とぎの上に乗って一心不乱にばりばり始めた、とあった。
 この家に住むようになって、在宅にもかかわらず宅配便を受け取れないことが続いた。数寄屋門の格子戸がどうやっても開かないらしく、不在だと思われてしまう。鍵はついていないことをその都度説明しても、鍵がかかっていたの一点張りで、面倒になってコンビニ受け取りにしている。
「おかえり」
 琥太朗がリビングの入り口から顔を出した。おざきくんに向ける目が呆れている。
「宅配便ありがと。おざきくんなんか必死なんだけど、気に入ってくれたのかな」
「何かに取り憑かれたように午後からずっと爪とぎしてるよ。もううるさくて仕事になんない」
「ストレス溜まってたのかな」
「単に久しぶりにやってみたら面白くなったんじゃないの? 爪とぎ、俺の邪魔、爪とぎ、パトロール兼俺の邪魔、爪とぎ、俺の邪魔の無限ループ」
「なんかちょっと鬼気迫るって感じ」
「野良猫時代の苛立ちでもぶつけてんのかもね」
 わかる気がする。いつまで経っても昇華できない苛立ちがふとした瞬間にお腹の底で熾る。仕事柄やるせない思いを抱えている人たちに触れるせいか、紫桜もまたやるせない思いを抱えてしまう。他人であり仕事である。そう簡単に割り切れない感情をいつまでもぐずぐずと燻らせてしまう。
「紫桜? 何かあった?」
 気遣わしげな琥太朗に答えるより先に、紫桜の鼻先でふわっと桃の実が香った。きっとこれが今年最後の桃。おざきくんがちらっとこっちを見た。
「桃買ってきた」
 何か言いたそうだった琥太朗が、瞬き一つで気持ちを切り替えたのがわかった。
「お、いいね。今日はもう仕事になんなかったから角煮作ったんだよ。とろっとろのほろっほろ」
 道理で。桃の香りを覆い隠すほどのいい匂い。紫桜は手を洗いに急いで洗面所に向かった。



「気になるところはございませんか」
「ないけど……何を気にすればいいの?」
 浴槽の縁に腰掛け、前屈みになって頭を洗われていた琥太朗が小さく呟いた。琥太朗の背中にはおざきくんがどっしりと乗っかっている。
 これまで一度も美容院や理容院に行ったことのない琥太朗には、お決まりのセリフも不可解に聞こえるらしい。
「特に何も感じないならそれでいいの。念のため確認してるだけ。シャンプーこれで終わりですって合図でもあるかな」
「それ、訊かれて気になるとこ言ったらもうちょっと洗ってくれるの?」
「もちろん。時々耳の上をもう少しとか、頭頂部をもう少しとか、リクエストされることもあるよ」
 ふーん、と気のない返事をした琥太朗にもう一度同じセリフを言うと、大丈夫です、とこれまたお決まりの返しが来た。
「では流しますねー」
 シャワーのコックをひねり、低い位置でお湯の温度を確かめてから、泡をそっと流し始める。裾をまくった琥太朗のカーゴパンツに水飛沫がかかる。このあと洗うから濡れてもいいらしい。紫桜はハーフパンツ。琥太朗曰く、一気に小僧感が出るらしい。
「お湯加減いかがですか?」
 おざきくんが湯気を嫌がり顔を背ける。そんなに嫌なら琥太朗の背中から下りればいいのに、そこは譲れないらしい。
「ちょうどいい。人に頭洗ってもらうのって、気持ちいいんだね」
「ん。よかった」
 大学の後期授業が始まる前に縁側で琥太朗の髪を切った。とはいえ、伸びた分をカットして、全体を整えただけだ。
 琥太朗は紫桜の部屋から縁側に運んだ姿見越しにじっくり観察していた。こういう感じでクセがあるからここはこうして、毛先に動きが出るようこんなふうにカットして、と一つ一つ説明しながら手を動かしていると、琥太朗は一瞬たりとも動いてはいけないと思っているのか、肩にかなりの力を入れていた。鼻の横掻いてもいい? ちょっと尻の位置動かしてもいい? やば、くしゃみでる! 何をするにもいちいち断りを入れていた。かわいい、と思ったのは内緒だ。

 琥太朗は普段からドライヤーで乾かすだけでスタイリング剤などは使わない。縁側に戻り、ブラシを使わず手櫛だけで乾かしていくと、琥太朗は姿見に映る自分の姿に目を輝かせていた。
「なんか、イメージ変わってない?」
「ちょっとかっこよくなったでしょ」
「ちょっと? ものすごく変わった気がするけど」
「琥太くんにしてみればそうかもね。長さはそんなに変えてないけど、頭軽くなったでしょ?」
 髪が乾いたところで全体をチェックして、ほんの少し手を入れる。
「なった。しかも涼しい。頭の中を風が通る。すごいな紫桜」
 喜んでもらえてほっとする。カットされた髪の量を見た琥太朗は、少し不安そうだったのだ。
「手櫛でざっくり乾かすだけで毛先に動きが出るはずから」
「これで寝癖ぐらい直してきてくださいって文句言われなくなる」
 琥太朗が小声で呟いた。そんなこと言われていたのか。紫桜の知らない琥太朗を垣間見るようで、紫桜の心はふわっと浮き立つ。
「スタイリング剤使ってみる?」
「んー、いいや。俺つけたときの感触あんま好きじゃないんだよね」
「じゃあ、これでおしまい。お疲れさまでした」
 ケープを外すと、琥太朗は姿見にかじりついた。顔の角度を変え、指で触れながら髪の様子を確かめている。目がきらきらしている。
「すごいな。ほんと、すごい」
 琥太朗の感嘆に、紫桜の口元が緩む。気を抜くとにやけそうになる。琥太朗の足元で寝そべっていたおざきくんが、にゃーう、と鳴いた。
 紫桜も初めて美容院でカットしてもらったときのことを思い出す。中学の入学式を控えた頃だった。ずっと母のざっくりカットだったせいか、同じボブスタイルでもやたらと自分が輝いて見えた。本気で魔法じゃないかと思った。頭を軽く揺らすと、髪の毛一本一本がそれまでとは全く違う動きをした。軽やかに躍っているようで、鏡の中の自分を初めてかわいいと思えた。
「気に入った?」
「うん。紫桜すごいよ。自分が自分じゃないみたいだ」
 他人から見れば髪型がほんの少し変わっただけ。
「新しい自分発見って気分でしょ」
「俺ってこんな顔だったんだなーって初めて知った気分」
 本人にしてみればこの世が入れ替わったかのような衝撃。紫桜にも覚えがあるからよくわかる。

 進路を決める際、母は自分の後悔からか手に職をつけた方がいいとしきりに勧めた。紫桜はかつての衝撃を思い出して、美容師の道へ軽い気持ちと大きな希望を持って進んだ。
 実際は想像していたよりもずっと大変だった。肌の強くない紫桜はさまざまなものにかぶれた。人見知りの激しい紫桜はお客さんとのコミュニケーションに苦戦し続けた。結局、向いていないことがわかって別の職を探そうとしていたときに、客として来ていた小関に今の職場に誘われたのだ。
 驚いたことに収入はそれまでより上がった。美容師は薄給だ。おまけに紫桜はなかなか指名が取れなかったので尚のこと安かった。基本給だけでもそれまでの給料を上回り、さらに技術手当が上乗せされ、おまけに年二回の賞与までもらえる。
 紫桜はようやく人並みの生活が送れるようになった。生活費を琥太朗と二分できる今は貯金する余裕まである。

「ねえ琥太くん、今日どこかにご飯食べに行かない?」
「珍しいね。紫桜が外食に誘うなんて」
 基本的に紫桜は家にいるのが好きだ。外食よりもお取り寄せして家で食べる方が気が楽で、その気楽さと引き換えに淋しさをぎゅっと身体の奥の方に押し込めてきた。
 琥太朗とおざきくんがそばにいるようになって、今が楽しければ楽しいほど、それまで抱えていた淋しさがどれほど大きかったのかを実感するようになった。
「たまにはね」
 かっこよくなった琥太朗を見せびらかしたい気分だ。
「おざきくんも連れてくか」
「一緒に行くかな」
「行くんじゃない? おざきくん仲間外れは絶対に許さないタイプだから」
 紫桜と琥太朗が二人で同じことをとしていると必ずおざきくんも参加してくる。二人が同じ空間にいても別々のことをしていることがわかると、おざきくんはふいっといなくなる。それでいて、たまたま同じことをし始めると、だだだだー、と猫らしからぬ足音で駆けてきて二人の間に割り込んでくる。
「猫OKのお店ってある? 犬OKはありそうだけど……」
「おざきくんはその辺で待ってるよ。よし、帰りに刺身買ってやるか」
 少し早いけど、とお互い言い合いながらいそいそと支度する。琥太朗がおざきくんに外にご飯を食べに行くことを説明すると、おざきくんは当たり前の顔をして琥太朗の肩に飛び乗った。
「おざきくん、重いです」
 おざきくんは得意気に、にゃーん、と鳴いた。



「これでよし」
 これまで猫ドアは網戸に簡易的に取り付けていた。ただ、それだと紫桜も琥太朗も出勤する平日の日中はおざきくんを家に閉じ込めることになる。家猫とは本来そういうものらしいが、元野良猫のおざきくんは定期的に庭をパトロールしたいらしい。この家に他人が侵入できるか否かはさておき、これまで平日の日中は家から閉め出されて縁側でぐだぐだしていたおざきくんも、これから冬を迎えるにあたり、さすがに縁側は辛いだろうと、サッシに取り付けるスペーサーのような猫ドアを買った。スチール製の琥太朗曰く“本気のやつ”だ。
「おざきくん、出たり入ったりする際に猫ドアの閉め忘れがないか一応確認してくださいね」
 おざきくんがドアの具合を確かめるように出たり入ったりしている。上部が固定されたスウィング式のドアの下部に磁石がついており、ぱたぱた揺れ続けることなくかちっと閉まるようになっている。
 取り付け終わると同時に風が出てきた。今日のお昼過ぎに大型台風が上陸するらしい。朝早くから猫ドアを取り付けて、雨戸を閉め切り、台風に備える。紫桜の会社は大事を取って休みとなり、琥太朗の大学も休校になっている。
「冬は隙間風が入りそうだなあ」
「おざきくん、冬も出掛けるかな?」
「どうかなあ。まあ出掛けないようなら冬は外せばいいし」
 帰ってきたときに足裏を拭くよう、ドアの前にはトレイの上に濡らしたタオルを広げている。そこでちゃんと足を拭うよう、網戸ドアを取り付けた際に琥太朗が何度も言い聞かせていた。ところが、なぜかおざきくんは、前足はしつこく拭うのに、後ろ足は拭わない。おざきくん自身も自覚があるのか、紫桜か琥太朗が後ろ足を拭ってくれるのを濡れたタオルの上でじっと待っている。
「おざきくん、寒かったら少しくらい足が汚れてても気にしなくていいんだからね」
 雨戸を閉めたせいでリビングは薄暗い。紫桜の足に顔を擦り付けていたおざきくんが、にゃー、と鳴いた。

 雨戸ががたがた震えている。時々おざきくんが何かの気配を察知したように動きを止めては耳をそばだて、鼻をうごめかしている。余程気になるのか、取り付けたばかりの猫ドアを抜けて縁側のパトロールに行ってしまった。
 この家にはテレビがない。よって、台風情報などは琥太朗のパソコンか互いのスマホで確認している。
 夏のゲリラ豪雨の際、雨戸を閉め切ると外の様子がわからず気を揉んだこともあって、琥太朗はフィールドワークで使うウェブカメラを軒下に設置して庭を映している。木々がうねるように風になぶられている様子が割と鮮明に写っている。
「このカメラで何撮ってたの?」
「んー、河童とか」
「撮れた?」
「河童だってバカじゃないんだから撮れるわけないよ。ただの言い訳。ちゃんと現地調査やってますっていう」
「河童っているの?」
「世の中で言われているような河童はいないでしょ」
「世の中で言われていないような河童はいるの?」
「そりゃいるでしょ。ミツチだって似たような存在だもん」
 ふーん、と気のない返事をすると、琥太朗がふっと笑った。
「自分は関係ないって顔してるけど、紫桜だって天埜の人間なんだよ」
「それが河童と関係あるの?」
「天埜の乙女はかつてミツチへの生け贄だったんだよ。だから滅多に女の子が生まれないだろ」
 確かにそうだ。従兄弟の中で女は紫桜一人。単に男が生まれやすい家系なのかと思っていた。
 ん? と紫桜は首を傾げた。
「それって……私って琥太くんの生け贄ってこと?」
「そういうことになるんだけど……」
「ああ、だから、この家とか石とか? ミツチから隠すって、そういうこと?」
「そういうことなんだけど……」
 言いにくそうな琥太朗があまりにも真剣で、紫桜はついつい笑ってしまう。今の時代に生け贄はナンセンスだ。
「いいよ、生け贄でも。それで琥太くんが手に入るなら」
 複雑な表情の琥太朗が、子供の頃にしていたように紫桜の頭をくしゃっと撫でた。