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08 納得 琥太朗の部屋はわずか三日にして足の踏み場もなくなった。
琥太朗は玄関脇にある六畳ほどの広めの納戸を自分の部屋にした。納戸といっても紫桜が使っている洋室と同じ造りで、相続時にもらった図面に納戸と書かれていた洋室にはクローゼットや押し入れなどの収納スペースがなく、その代わりに屋根裏に上がるための階段箪笥が据えられている。その階段箪笥を琥太朗がいたく気に入ったのだ。
時代劇に出てきそうな階段箪笥と文机は、同じ材質に同じデザイン、同じ時代に同じ職人の手によって作られたこれまた骨董品らしい。変な形の古い物入れだから納戸に押し込められていたのだとばかり思っていた紫桜は、自分の見る目のなさをしみじみ嘆いた。
この家の間取りは、玄関を入ると右手に納戸改め琥太朗の部屋、その奥に紫桜が使っている洋室、さらにその奥はリビングになっている。玄関左手には和室、その奥に洗面やお風呂などの水回り、さらに奥にはダイニングキッチンがリビングと続いている。玄関からリビングの入り口までの廊下は小さいながらもホールのようで、柱と同じ焦げ茶の腰壁にレトロな壁掛け照明が灯ると、ひと昔前にタイムスリップした気分になる。
「資料広げるにしても限度ってものがあるんじゃない?」
「あー! そこ動かさないで!」
廊下にまではみ出した本や紙の束を退かそうとした紫桜にすかさず琥太朗から注意が飛んだ。
「足の踏み場もないんですけど」
「夏休み中に論文一本書かなきゃならないんだよ。終わったら片付けるから」
文机に向かう琥太朗のお尻の下にはおざきくんのベッドでもあるビッグクッション。クッションを横取りされたおざきくんは琥太朗の邪魔をするように文机の上で寝そべっている。琥太朗がずずいとおざきくんを押しやって何かの資料を広げると、すかさずおざきくんはその上に寝転ぶ。それに顔をしかめた琥太朗が再度おざきくんを押しやり、おざきくんも負けじとにじり寄る。文机の上ではさながら陣取り合戦のような攻防が繰り広げられていた。
同居が決まった翌日から、琥太朗が少しずつ荷物を運び込んでいたのは紫桜も知るところだ。全ての荷物を合わせたところで段ボール五つ分もなかったはずなのに、それら全てを平たく床に広げた状態が今である。道理でここ二、三日はきっちり戸を閉めていたはずだ、と紫桜の口から溜め息がこぼれる。それぞれの紙束の上には文鎮代わりに庭から拾ってきたのか石が置かれている。
「琥太くんどこで寝てるの?」
「和室で寝袋。もしくはリビングのソファー」
「リビングのソファーをベッド代わりにするのはやめてね。琥太くんまだ布団買ってないの?」
「俺布団の上げ下ろししたくないもん。寝袋なら丸めて終わりだろ。フィールドワークしているうちに便利さに気付いて。あの寝袋結構いいやつなんだよ。雪山でも平気なやつ」
その寝袋は縁側に裏返しに干してある。朝早くから洗濯しているなと思ったら、寝袋を洗っていたらしい。乾かなければ今日の寝床はないわけだ。
「ベッド買えばいいのに……」
「紫桜のベッド見たあとでシングルなんか買いたくないよ。この部屋にダブル入れたらそれこそ足の踏み場もないだろ」
紫桜の呆れ顔からそっと視線を外した琥太朗は、少しずつおざきくんを押しやりながら自分の陣地を広げている。ついにおざきくんの猫パンチが飛んだ。
「紫桜はいつ誰にこの家に招き入れられたか覚えてる?」
「誰にも招かれてないよ。大叔母が亡くなって、そこで初めて遺産相続の話が来たから。この家の下見も一人だったし……身内の誰もこの家のことは知らなかったみたい」
「大叔母さんってお父さんの方の?」
「そう。お祖父ちゃんの末の妹」
「天埜は父方の姓?」
「そう。母の旧姓はよくある佐藤」
「なんでそこで寝転んでるの?」
「気持ちよさそうだったから」
日曜日の早朝。いつもより早く目覚めた紫桜は、顔を洗いながらふと琥太朗がどんな状態で寝ているのかが無性に気になった。
開け放たれている和室をこっそり覗いてみたら、琥太朗は八枚敷かれた畳のど真ん中で行き倒れていた。寝袋を敷き布団代わりにして、以前紫桜が貸したタオルケットをお腹に巻き付け、前に見たときと同じく死んだように眠っていた。
北東の位置にある和室の窓から朝の光が透け、紫桜の部屋よりもひんやりしている。足裏に触れる畳の感触も心地好く、寝袋の敷き布団からはみ出した琥太朗の片腕と片足が畳の上に剥き出されて涼しそうだった。
まだどことなくよそよそしい顔をしていた和室が、行き倒れた琥太朗を内包した途端、慣れ親しんだような笑みを浮かべる。納戸もそうだ。家の一部であっても異空間のようだった納戸が、琥太朗の部屋になって足の踏み場もないほど散らかった途端、空気が柔らかく変化した。
昨日のゲリラ豪雨が嘘のような穏やかな朝の光の中、音を立てないようそっと窓を開けて風を通し、どれどれ、と紫桜も畳の上に寝転んでみる。天井板の模様は紫桜の部屋と同じで、さらさらと水が流れている。開け放たれた窓の向こうでは風に揺れる梢が心地好い音を立て、遠くに賑やかな小鳥の声とやかましい蝉の声が響いている。
畳に寝転んですうーっと息を深く吸い込むと、い草の青い匂いが際立った。桐箪笥からは仄かに樟脳も香る。
おざきくんが音も立てずにやって来て、二人の間に寝転んだ。
紫桜がこれでもかと和室の気配を吸い込んでいると、いつの間に目覚めたのか、何かの続きを話すように琥太朗がするっと話しかけてきたのだ。
「そういえば、この桐箪笥が夢に出てきたんだよね」
紫桜はふと、いつかの白昼夢を思い出した。今になって思えば、あれが始まりだった気がする。
「夢?」
「そう。夢っていうか、白昼夢みたいだった。仕事の合間に、寝てたわけじゃないのに、気付いたら何かに追いかけられてて。何に追いかけられてるのかも、なんで逃げてるのかもわからなかったんだけど、くねくねした暗い路地を必死に走ってた」
何から逃げていたのか、何に追いかけられていたのか。紫桜の頭にふと終焉のイメージが浮かんだ。思春期特有の漠然とした死の予感がどこかに纏わり付いたまま、それを払い除けるだけの何かが紫桜にはなかったように思う。それ以来ずっと、明確な形を成さないまま澱み続けていたのかもしれない。
隣に寝転んでいる琥太朗から、先を促すように小さく「うん」と相槌が打たれた。そのさり気ない合図に幼い紫桜はいつも勇気付けられ、その先を口にすることができた。大人になった紫桜からもするっと続く言葉が引き出されていく。
「前方に仄かな明かりが見えて、そこに入れば助かるはずって縋るような気持ちで引き戸を開けようとしたら、戸に触れる前に自動ドアみたいにすーっと開いて、引き込まれるように中に入ったら、やたらと色っぽい人が家の奥にあった桐箪笥の中に逃がしてくれたって夢」
「色っぽい人って、女の人?」
「どうかな。どんな顔だったかもうはっきり覚えてないんだけど、男の人なのかもしれない。中性的なんだけど背が高くて、声は低くて、黒髪のストレートボブで、ピュアピンクの唇が色っぽくて、そうだ、指先が紫で、爪のピンクが映えてきれいだった」
そこで紫桜は身体を起こし、桐箪笥の最下段を引き出す。ふわっと樟脳の匂いが広がった。
「で、この着物をガウンみたいに羽織ってたの、その人」
寝癖のついた琥太朗の真剣な眼差しを前に、紫桜は桐箪笥からそっと取り出したたとう紙を開く。横からおざきくんが覗き込む。
「その夢見たのいつ? 家を相続するって決まった後? それとも前?」
「前。その後大叔母の訃報が届いて、葬儀が終わってしばらくたってから相続の話が来たから、二ヶ月くらい前だと思う」
金糸の織り込まれた着物に手を伸ばした琥太朗は、触れる直前で指先を止めた。そして、ちょっと待ってて、と洗面所に行き、どうやら顔や手を洗っているようだった。歯を磨いている音も聞こえる。そのあいだに、紫桜は琥太朗の寝袋を壁際に押しやり、着物を畳の上に広げた。何度見ても豪華な着物だ。地の色が見えないほどびっしりと刺繍が施されているからか、それなりの重量がある。
「これはまた……」
「古いの?」
「古いね。たぶんこの家よりも古い」
できるだけ触れないよう、琥太朗自身が覆い被さるように着物を眺めている。その背中におざきくんが飛び乗った。ぐっと耐えた琥太朗が「さすがに怒りますよ」と文句を言うと、おざきくんはふて腐れたように和室から出て行った。
「このたとうは新しいものに変えた方がいいな」
「ネットで買える?」
「いや、ちゃんとしたのを手配する」
琥太朗の目は真剣そのものだ。
「紫桜が夢で見たその人に関する色は、髪の黒と指先の紫、唇と爪のピンク、だけ? 瞳の色とか覚えてる?」
「私たちと同じだと思う。もし自分と違ってたらもっと印象に残ってるはずだから」
「その人に会ったことは?」
「ないと思う。でも、知ってる人のような気はした。また会える? って訊いたら、縁があればね、って笑ってた」
「大叔母さんと似てた?」
「んーどうかな、似てないと思う。そもそも彼女に会ったのって小学一年の時の一回だけだから、あんまりよく覚えてないんだけど、印象が結びつかない。中性的って感じの人でもなかったし」
「小学一年……七歳か。紫桜、誕生日の前か後か覚えてる?」
怖いほど真剣な琥太朗に紫桜は気圧される。
「なんで……」
「大事なことなんだ」
「誕生日に会った。誕生日に会ったから覚えてた」
琥太朗の真剣さに紫桜の心臓はやたらと騒ぎ出す。
「何かもらわなかった? 具体的には石なんだけど」
「もらった。鍵につけてるキーホルダーっていうか、根付け」
もうずっと忘れていたのに、初めてこの家の鍵を見たときに思い出した。どこに仕舞ったかも忘れていたのに、ちゃんとジュエリーケースに入っていた。
「俺がもらった鍵についてた根付けと同じ?」
「同じだけど色が違う。弁護士先生からもらったこの家の鍵は二つで、そのうちのひとつに琥太くんに渡した紫水晶の根付けがついてたの。私が大叔母にもらったのは紅水晶。そういえば昔似たような石をもらったなーって思い出して、何も付いてなかった方の鍵にお揃いになるように付けたの」
琥太朗が天を仰ぐように天井を睨み付けた。
「その大叔母さんってどんな人だった?」
「よくは知らない。一度しか会ったことないし。でも、ちゃんと名前を呼んでくれたの。ほら、うちの母、私のことゆかりって呼ぶでしょ。だから私、ずっと自分はゆかりって名前だと思い込んでたところがあって、その大叔母に紫桜って呼ばれたとき、初めてそれが自分の名前だって思えたというか、ちょっと大袈裟だけど、自分の存在がこの世に定着したような気がして……名付け親に呼ばれたから余計にそんなふうに感じたのかもしれないけど……」
そして、あの頃の“こたくん”が紫桜と呼ぶたびに自分に馴染んでいった。
「定着……その大叔母さんが名付け親だったの?」
天井を睨む琥太朗の目が一瞬見開かれたように見えた。
「そう。だからうちの母は余計に紫桜って呼びたくなかったんだと思う。母はもっと違う名前にしたかったみたいだったし」
「大叔母さんって何してた人?」
「芸ごとの先生だったって話。華道とか茶道とか、三味線とか、そういう昔ながらの芸の道に精通してた人だったって。でもまあ、親戚の中には、結婚もしないでふらふらして、何をしてたかわかったもんじゃない、って悪く言ってる人もいた。あんまり親戚付き合いしない人だったみたいで、誰も本当のところはよく知らなかったんじゃないかな。一番仲が良かったうちの父でさえこの家のことは知らなかったみたいだし」
「まあ、その時代の女性で独身だと色々言われそうだけど……紫桜の印象は?」
「おおらかな人ってイメージが残ってる。うちの母がちょっと排他的なところがある人だからか、余計にそう思えたっていうか……」
ずっと天井を睨み付けていた琥太朗が、ようやく紫桜に顔を向けた。
「ますます謎が深まってしまった」
「そうなの?」
「この着物、その大叔母さんの月命日に陰干しを兼ねて飾ってあげれば?」
「琥太くん、古い着物の扱い方わかる?」
「ざっくりとなら」
「教えて」
うん、と頷いた琥太朗の唇が紫桜の唇に軽く触れた。あまりに自然で、紫桜は驚くよりも納得してしまう。琥太朗としかこういう行為はしない。それが妙にすとんと胸に落ちてきた。まるで日常のひとコマみたいにさらっと流れていく。さらさらと流れていったその先から、ひたひたと愛おしさが込み上げてきた。こんなにも好きだったんだなあ、と全身が納得する。
すぐそこにある琥太朗の目の奥にも、同じ納得がぷかっと浮かんでいた。面白いほど同じだった。
「ご飯にする?」
何かの続きを話すように、紫桜の口からするっと言葉が滑り出た。
「さっきからおざきくんが誰かに愚痴ってるみたいになごなご唸ってるのは腹が減ったからだな」
「唸ってる?」
「聞こえるか聞こえないかくらいの声でぶつぶつ文句言うように唸ってる。紫桜が最初に高級猫缶あげたせいで、おざきくん舌が肥えちゃって普通のキャットフード食べないんだよ」
「だから琥太くんが手作りしてるの?」
「そう。おざきくん家猫になる気満々だし」
琥太朗が寝袋を丸める傍らで、紫桜はタオルケットを畳む。ふわっと琥太朗の匂いが鼻先をくすぐった。体臭の強くない琥太朗の懐かしい肌の匂い。それは紫桜の深いところまで入り込んで心の縁をさらりと撫でた。幼い頃に一緒に見た逃げ水を思い出す。
「琥太くんの匂いがする」
タオルケットを抱きしめて思い切り匂いを吸い込む。
「あー、昨日それ洗うの忘れたんだよ。嗅ぐなって」
匂いの元が奪われた。名残惜しく目で追っていると、呆れ顔の琥太朗に睨まれた。
「寝袋は洗ったのにね」
「今日も晴れそうだし、洗うか。ついでに洗うものある?」
「じゃあ私のガーゼケットも洗おうかな」
「あーおざきくんのバスタオルも洗うか。すっかり猫臭くなってるよ」
洗濯機にそれぞれの夏掛けと廊下の隅に丸められていたおざきくんのバスタオルを回収して放り込み、ダイニングに顔を出すと、おざきくんは待ちくたびれたと言わんばかりにダイニングテーブルの脚にしっぽをばしばしぶつけていた。