シェア マヨヒガ
09 天埜家「ただっ、い、まぁ」
「おかえりー、どうしたの?」
息も絶え絶えな琥太朗の声に驚いて、紫桜は小走りで玄関に向かった。珍しく紫桜よりも遅く帰ってきた琥太朗が汗だくになって玄関でへばっている。
「重かった……宅配便代とタクシー代ケチって担いできたんだけど、重すぎた」
琥太朗がリュックのファスナーを開けると、中から木の塊が顔を出した。おざきくんが胡散臭そうな顔で匂いを嗅いでいる。
「なにこれ」
「碁盤」
紫桜が軽い気持ちで琥太朗が下ろした荷物を持とうとしたら、あまりの重さにびくともしなかった。この大きさと重さの荷物を担ごうと思ったことにも驚くが、歩いて帰ってきたというのだから驚きは二倍だ。この家と琥太朗の大学は同じ区内にあるといってもその端と端ほど離れており、徒歩で通えるほど近くはない。おまけに、いつも背負っているリュックに入っていることが信じられない。よく入ったな、よく壊れなかったな、よく担げたな、と感心する。きっとこの大きなリュックも寝袋同様“いいやつ”なのだろう。
「琥太くんの大学からここまで歩いてどれくらい? 結構あるよね」
「普通に歩くと一時間半くらい。今日は二時間以上かかった」
過去にも歩いたことがあるのかと感心する。琥太朗は一見ひょろっとしているがそれなりに力持ちだし身も軽い。
「それ背負ってよく歩いたね」
「俺もそう思う。途中でバスに乗ろうと思ったんだけど、帰宅ラッシュで結構混んでて。この荷物背負って乗るのはちょっと憚られたんだよね」
ここから琥太朗の大学までは電車だとぐるっと大回りになるが、路線バスなら一本で行ける。行きは手ぶらで路線バス、帰りは荷物背負って徒歩とは、何かが間違っている。
「これ、よくわからないけど重さに比例して高そうだね」
「本榧だから高いと思う。孫に甘いせいで椅子代わりにされたらしくて、キズやシミが酷いだろ。それを言い訳にこれ幸いともっといいやつに買い替えたんだって」
脚付きの碁盤はたしかに子供が座るのにちょうどよさそうだ。横から見ると木の年輪がはっきりと見える。木は意外と重い。大叔母が残してくれたダイニングテーブルも重くて簡単には動かせない。
「もしかして、弁護士先生の知り合いの?」
「そう。息子はネットで売ればいいって言ってたらしいんだけど、うちの教授は付喪神の研究してるだけあってそういうの嫌いでさ、かといって息子は碁をしないってんで、俺に回ってきた」
「琥太くん、囲碁できるの?」
「将棋もできるよ。話のとっかかりにちょうどいいんだよ。俺あんま口うまくないし」
自嘲を口元に浮かべた琥太朗は、ふん、と気合いを入れて碁盤を持ち上げると、和室の板畳に四角く分厚い木の塊を置いた。
「おざきくん、あとで背中ふみふみしてください」
琥太朗の懇願におざきくんは仕方なさそうに、にゃー、と鳴いた。おざきくんの背中ふみふみは効く。
「本当に実家に行かなくていいの?」
「いいの」
「近いんだから行ってくればいいのに」
「琥太くんはうちの親戚知らないから。知ってたら琥太くんだって絶対に行かないと思う」
お盆の帰省を頑なに拒む紫桜に、琥太朗は仕方ないとばかりに軽く眉を上げた。
紫桜の父方の親戚はとにもかくにも保守的なのだ。選民意識が強く、ことあるごとに他者を否定する。そんな気配の全くない父がどうしてあの環境にいられたのかわからなくなるほどで、母は父方の親族を毛嫌いしている。
お祖父ちゃんもお祖母ちゃんもそんな人じゃなかったのに、と母はよくこぼしていた。父が何かの拍子に言っていたことがある。天埜の家は昔ながらに長男がとにかく別格で、下にも置かない扱いだった父は他者の感情に鈍感になってしまい、鈍感ゆえに人に優しくする以外の方法を知らずに育ってしまったのだ、と。
そんな天埜の家に嫁いだ母は、長男を亡くしたことを責めに責められ、次に生まれたのが女の紫桜だった挙げ句、それっきり子供ができなかったのだから肩身が狭いどころの話ではない。今どきと思うなかれ、そういう思想の人間は未だ滅びていない。
そんな仕打ちをされてきた母が排他的になるのは当然といえば当然で、父や祖父母が全面的に母の味方でなければ耐えられなかったと嘆いていた。
『ゆかり、本当に来ないの?』
「美織さんの新盆だし、この家でお迎えするのが筋だと思うから……」
紫桜は大叔母に何もしていないのに、この家をもらったのだ。せめてできることはしておこうと思っている。
『あの人、仏教徒じゃなかったじゃない』
そういうことではない。気持ちの問題だ。
それをいったら、本人が仏教徒でもないのに葬儀は仏式だったし、本家である実家の仏壇には彼女の位牌がおさめられている。どうなんだ、と思わなくもない。なぜそんなことになったのかといえば、親戚たちが勝手に手配したからだ。
「お母さんも嫌ならそっちで急用できたってことにして行かなきゃいいのに」
『そういう訳にもいかないでしょ。お父さん長男なんだし……』
「だから、お父さん一人で行ってもらえば?」
『そしたら、なんで嫁は来ないんだー娘は来ないんだーってお父さんが遠回しに嫌味言われちゃうじゃない』
紫桜は変わらず仲のいい両親にほっとする。
「娘は美織さんの新盆なのでって言い訳は立つよね?」
天埜の家の盆は本来は七月十五日だが、会社員が多くなるにつれ、月遅れ盆の八月十五日へと変更されたらしい。
『立たないわよ。新盆だけは昔と同じで七月十五日じゃない」
「しょうがないでしょ、その日は仕事だったんだから」
電波に母の溜め息がのせられた。
『あの人たち、ゆかりに会わせたい人がいるってうるさいのよ』
「もう何度も断ってるのに……。あっ充電なくなりそうだから切るね」
明日からお盆休みという段になってもまだ諦めない母との通話を終える。充電マークの横の68%に罪悪感が刺激される。紫桜は溜め息をつきながら、ストレスも一緒に吐き出せてしまえたらいいのに、ともう一度溜め息をついた。
紫桜はそのままベッドにぱたんと倒れた。天井を見上げながら、何度目かの溜め息を吐き出したところで、部屋の入り口がこつこつ叩かれた。
「紫桜、ちょっといい」
琥太朗に呼ばれ、紫桜はえいやっとばかりにベッドから起き上がる。廊下に顔を出すと、壁にもたれていた琥太朗が開け放たれている和室を眺めながら、実は、と思いがけないことを切り出した。
「座敷ぼっこと碁を打ってるんだけどさ」
「え? 何を打つって?」
「だから、囲碁。毎日一手ずつ打ち合ってる」
「えっ? え? どういうこと?」
「だからそういうこと。で、ちょっと考えたんだけど……」
「え? 琥太くん、座敷ぼっこと囲碁しているの?」
「だからそう言ってる。そこはいいんだよ」
「えっいいの?」
「いいの。ただ、座敷ぼっこなのかなーって思うんだよね」
「えっと、話が見えないんだけど……」
戸惑う紫桜を余所に、琥太朗はにっこりと邪気のない笑みを見せた。
「ねえ紫桜。ご両親に会えるかな。できれば紫桜のお父さんに会いたい」
だからといって、どうして琥太朗が紫桜の実家に顔を出すことになるのか。実家の玄関扉を開けて「ただいま」と声を上げてもなお紫桜にはわからなかった。
住宅地にある一軒家。ごく普通の一般住宅だと紫桜は思っている。二間続きの座敷が今どきの家にはないだろうことをあわせても、今住んでいる大叔母の家に比べれば、ごくありふれた建物だと思う。
その実家の玄関には所狭しと靴が並び、親戚中が集まっていることが窺える。口では本家の跡取り娘だと持ち上げるくせに、これだけ大勢いて誰一人として出迎えたりはしないのだから、寄りつきたくもなくなる。
電話で人を一人連れて行くと告げた瞬間から、母の面白くなさそうな顔が想像できてしまった。この忙しいときに何かの研究だなんて、日を改められないの? と言ったその母は、キッチンで人数分の食事の采配に忙しいのだろう。長男の嫁なんて、嫁という下働き集団のまとめ役みたいなものよね、と母はことあるごとにぼやいている。だとしたら、長男の娘は子供という荒くれ集団の監視役だ。
「狭知 琥太朗です」
親戚が集まる座敷にするっと入り込んだ琥太朗は、座敷の敷居をまたぐなり前置きもなくいきなり名乗った。
何気ないようでいて鋭く響いた琥太朗の声に、大きな座卓を三つも並べ、その周りをゆったり囲んでいた男たちは凍り付いたように静まり返った。
目を細めて一同を見渡している琥太朗の横で、琥太くんちょっと、とその腕を掴む紫桜だけがおろおろしている。
「さち……さちとは……まさか泉狭知の……」
上座の父の驚いた顔に、紫桜はますます居たたまれなくなる。父の隣でちょうどお茶を出していた母は丸盆を胸に抱えて、何事かと首を傾げている。紫桜は気まずさから特に意味もなく父の言葉を繰り返した。
「いずみさち?」
「泉はとある一族の名前。俺はそこの人間」
「琥太くん、親戚とかいたの?」
後になって思えば、ずいぶんと失礼なことを言ったものだ。
「細々と続いてきた一族だから、親戚はたぶんいないんじゃないかな」
「こーたくんって……もしかして、あのこーたくん?」
紫桜が何度「こたくん」だと訂正しても、母は「こーたくん」と言い続けた。おそらく母は琥太朗の名前がコウタだと思い込んでいる。
「お久しぶりです。その節はお世話になりました」
「おまえ! 狭知家の御当主と知り合いなのか!」
父の驚きに母は眉をひそめる。
「そのいずみなんとかは知りませんよ。こーたくんはゆかりのお友達で、あなたは会ったことなかったかしら……よくうちに遊びに来てくれてたじゃない。ゆかりの勉強も見てくれて……。ほら、東北の、どこだったかしら、結構な山奥の……」
母が思い出そうとする傍らで、父は背を正し、真っ直ぐに琥太朗を見据えて一礼した。
「天埜家当主、天埜 基保でございます」
当主という言い方が大げさで、紫桜は思わず苦笑いする。気恥ずかしさから取り繕うように隣に立つ琥太朗を見上げると、彼は驚くほど冷酷な笑みを浮かべていた。身震いするような気配は紫桜の知る琥太朗とは思えないほどで、座敷にいた親戚たちはまるで恐ろしいものと対峙したかのように蒼白だった。
「琥太くん」
「ん?」
紫桜は縋り付くように琥太朗の腕に自分の腕を絡めた。そうでもしないと今にも琥太朗が消えてしまいそうで、掴んだ腕の少しひんやりとした肌の感触が一層その思いを強くさせた。
「琥太くん、帰ろう」
「そうだね。ああそうだ、紫桜、お父さんから石見せてもらって。お父さんもあれと同じ石を持ってるはずだから。色は黒。ですよね」
最後の、ですよね、は父に向けられたものだ。父は険しい顔で唇を引き結んだまま、ズボンのポケットに手を入れて、取り出した鍵から根付けを外した。
紫桜の手に預けられたのは、琥太朗の言う通り、親指の先ほどの黒い小石。
「これ……」
「黒水精だよ」
「こんなに真っ黒な水晶もあるんだね」
手にしているうちに自然と磨かれていったであろう円らな黒い石は、水晶とは思えないほど光を通さない。跳ね返す光と同じだけの闇を吸い込んでいるようで、紫桜は少し怖くなってその石を琥太朗に渡した。
琥太朗の手のひらに乗る黒い石を見た父は、この世の終わりのような目をしていた。
「ゆかりもこーたくんも、ゆっくりしてってちょうだい。ここじゃなんだったら、ゆかりの部屋は二階だから」
座敷の張り詰めた空気からいち早く立ち直ったのは母で、なんとか自分のペースを掻き集めるようにぎこちない笑みを浮かべながら、紫桜と琥太朗の背をぐいぐい押して座敷から連れ出してくれた。
「それにしてもこーたくん、大きくなったわねえ。昔は小柄だったのに」
母の手に背を押され、紫桜と琥太朗はそのまま二階の紫桜の部屋に通される。
「今もそう言うほど大きくはないですよ」
「そうかしら。うちのお父さんよりは大きいんだから、やっぱり大きくなったわよ」
琥太朗の表情も声音も元に戻り、座敷をまんまと抜け出せた母もどこかほっとしたような顔で笑っている。
「なんだかよくわからないけど、ゆかりの彼氏ってことでいいのよね」
紫桜の部屋と言っても、もう何もないがらんどうの空き部屋には昔使っていたベッドだけがぽつんと残っている。スプリングが軋むマットレスに二人を座らせた母は、お茶入れてくるわね、と言いつつ入り口で粘って話し続けている。
エアコン全開で冷やされていた階下とは異なり、閉め切られていた部屋は熱がこもっている。一気に汗が噴き出てきた。涼やかな家に身を置くことにすっかり慣れてしまった紫桜は、今更ながら夏の屋内の熱量を思い出した。慌ててベッドヘッドに置かれていたエアコンのスイッチを入れるも、古すぎるエアコンから吐き出されるのは室温と変わらない熱風だった。
「そのご挨拶は後日改めてお伺いさせていただきますので」
「そのときはこーたくん、もう少し髪の毛なんとかしたほうがいいんじゃないかしら。昔からそうだったけど、今どきロン毛は流行らないわよ。そんなんで会社勤めは大丈夫なの?」
やんわりと返事を濁した琥太朗に母は昔の馴染みから言いたい放題だ。
「大学の講師なので、こんなナリでもなんとかやっていけるんです」
「あらそうなの? 大学の先生ってみんなそんな感じなの? そうね、テレビで見る限りなんだかそんな感じの人もいるわね……でももうちょっとすっきりした方がいいんじゃないかしら。ねえ、ゆかりもそう思うでしょ。ゆかりがついててその髪型は……」
「お母さん、喋りすぎ」
「あらそう? じゃあ今度こそお茶入れてくるわ。麦茶でいいわよね。こーたくん、ちょっと待っててね」
ご丁寧に母は部屋のドアをきっちり閉めていった。琥太朗から安堵の息が遠慮がちに吐き出された。
薄暗い部屋の空気はむわっと重く澱み、エアコンが吐き出す風は埃臭い。紫桜はカーテンと窓を開け、部屋の空気を入れ換えた。対面こそしていないものの、隣家の窓がすぐそこに見える。沸き立つような階下のざわめきが風にのって聞こえてきた。少し離れた位置にあるキッチンの換気扇は出汁の匂いを吐き出している。
「琥太くんって、うちの父よりも強いの?」
「なにそれ?」
「なんだかそんな感じだったから。さっきの琥太くん、ちょっと怖かった」
「紫桜は、俺が人とはちょっと違うって言ったらどうする?」
「違う度合いによる」
「頬の痣とか」
「それは前にも言ったと思うけど、今でもきれいだと思ってる」
琥太朗の顔には痣がある。右の目尻から頬の脇を通って首筋に至るその痣は、興奮したり体温が上がると色を濃くする。紫桜にはどう見ても桜吹雪にしか見えないのに、大抵の人には蛇の肌のように見えるらしい。琥太朗のもっさりとしたロン毛はこの痣を隠すためのものだ。
子供の頃、引っ越してきたばかりの町で、擦れ違う直前の男の子の髪が風に煽られてその頬が露わになった。目に飛び込んできた桜色に紫桜は思わず「きれい」と声を上げた。
ちょうど何日か前にテレビで見た、桜吹雪や花筏のように見えたのだ。当時はそんな言葉も知らず、風に舞い散る花片や水面を染め上げる薄紅を画面越しに見て、その美しさにうっとりと見惚れたのを今でも覚えている。
幼い紫桜がそのときの感動を思い浮かべていると、「嘘つくな」と怒鳴り声が耳に飛び込んできた。それまでの紫桜であれば、そんなふうに怒鳴られたら怯んで何も言えなくなっていたのに、そのときばかりは「嘘じゃないもん」とムキになって言い返した。「だったら触れるのかよ」と男の子が迫り、興奮で色を濃くしたその痣に、紫桜は大胆にも唇で触れたのだ。
強がりとは違う、子供ながらにそうしなければならないという使命感に燃えていた。その男の子の目が傷付いているように見えたからかもしれない。ただ手で触れるだけでは紫桜の感じた「きれい」という強い想いが伝わらない気がして、幼い紫桜の小さな脳みそは、大好きなぬいぐるみに頬擦りするのと同じ感覚で、深く考えることなく小さな身体を動かした。
「俺と紫桜が出会ったのって、ものすごい偶然なんだけど、信じられる?」
「ものすごい偶然の意味がわからないからなんとも。本来なら出会わなかったってこと? それとも、偶然とは思えないほどの必然って意味?」
「いや、単なる俺の心情。ものすごい偶然だなーって」
「よくわからないけど、琥太くんと出会えてよかったとは思ってる。でもそのせいでほかの男の子のことをなんとも思えなくなったんじゃないかって気もしなくはないけど」
「初恋のパワーってすごいよな」
「それを琥太くんが言うのはちょっとむかつく」
しかも、ものすごく嬉しそうに。恥ずかしげもなく。堂々と。
「あの頃俺が住んでたのって、紫桜の家のあった隣の町だったんだよ。あの日は本当にたまたまの気まぐれでどこまでも歩いてってやるってやけくそになった日だったんだ」
「えっ、じゃあ琥太くん、そんな遠くからうちに通ってたの?」
「そう。すごい偶然だろ。あの日俺がやけくそにならなければ、きっと紫桜に会うこともなかったんだよ」
小学生の行動範囲を超えている。あの頃の紫桜たちが暮らしていたのは山間の小さな町だ。スーパーやコンビニに行くにも車を使うような、電車も通っていなければバスは一日数本しか来ない、そんな鄙びた土地だ。民家も間遠く、隣の町までおいそれと歩いて行ける距離ではなかったはずだ。
「よく歩いたね」
だからいつも汗や土埃にまみれていたのか。
「初恋のパワーだろ」
「その必死さはちょっと犯罪臭い」
紫桜がふざけて笑うと、琥太朗は心外だと言わんばかりにわざとらしく唇を尖らせた。