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07 感情 しおう、しおう……。
こつんこつん。独特の発音。こつこつ。誰だっけ。こんこん。懐かしくてせつなくて、あの頃は知らなかった男の子の名前は……。ごんごん。
「紫桜。そろそろ起きなよ。しおーさーん」
どんどん。あー、壁を叩く音……?
「んー……琥太くん?」
「そう。そこにおざきくん居る?」
「んー、寝るときは居た」
ぼんやりと天井を見上げる。水の流れのような木目を見上げるたびに、ここがどこかを思い出す。生きていることを思い出す。死を意識しているわけでもないのに、生きていることを意識する瞬間がある。生きていることを当たり前だと思えない瞬間がある。特に病んでいるつもりもないのに、ふと魔が差すようにそんなふうに思う。
「紫桜、そろそろ起きて」
「んー」
耳が覚えていた。誰かに起こしてもらうと、こんなにも甘やかに目覚められることを。夏休みの昼寝から目覚めるとき、琥太朗はいつも同じセリフを口にしていた。紫桜、そろそろ起きて。
寝起きの余韻にもう少し浸っていたい。おざきくんがベッドにいるのかを確かめるために顔をほんの少し上げることすら億劫だった。
夢と現の狭間はどこまでも心地好い。
「紫桜、寝るときはちゃんと戸閉めなよ、女の子なんだから」
声が優しい。どんなに意地悪なことを言っても、琥太朗の声はいつもどこか優しかった。
「暑いし……」
納戸にあった衣桁に布を掛けて、直接廊下からベッドが見えないようにしてある。目玉だけをぐりっと動かした紫桜からも、琥太朗の声は聞こえても姿は見えない。
「俺が男ってわかってる?」
「琥太くんは琥太くんだよー」
琥太朗が男だから悩むのだ。琥太朗が女であれば悩むことなく同居を決めている。琥太朗が男だから、相手が琥太朗だから、だから決めかねるのだ。家でだらしない格好もできなくなるだろうし、みっともないところを見られたくもない。いつしか息苦しさを覚えるかもしれない。今だって、女同士であれば遠慮することなく、軽く顔をみせるくらいはするだろう。
くわーう。おざきくんのあくびが聞こえた。
「あー、おざきくん、居るみたい」
「言われなくても俺もわかったから」
ぐーっと全身を伸ばして、紫桜はようやく身体を起こした。よく寝た。
ベッドのど真ん中にはおざきくんが、なに? と言いたげな顔で仰向けにひっくり返っていた。へそ天。
「おざきくんもよく寝た?」
おざきくんがのっそりと寝返りを打って起き上がった。くわーっと野性味たっぷりな顔であくびをしながら上半身から下半身、しっぽの先まで伸びをする。
「紫桜がなかなか起きないから、裏の川の調査のついでにお昼のパン買ってきたよ」
「ありがとー。上流も下流もこの界隈以外は暗渠になってるでしょ」
「みたいだね。なんでこの一区画だけ残ったか聞いてる?」
「知らなーい。たまたまじゃないの?」
鏡で身だしなみをチェックしてから部屋を出る。部屋着はだぼっとしたゆるいワンピース。ぐっすり寝たおかげか顔がすっきりしている。
廊下には琥太朗が考える人さながらに腕を組んで顎に手を当てて壁にもたれていた。
「たまたまじゃないと思うんだけど……」
「そうなの?」
「たぶんね。ああ、ついでに冷蔵庫の残り野菜でミネストローネ作った」
道理で。ふんわりとおいしそうな匂いが漂っている。
顔を洗ってダイニングに顔を出すと、ダイニングテーブルの上にはすでにお昼の準備が調っていた。
「すごい。琥太くんって、普段からこんなにマメなの?」
「作るのは割と苦にはならない方だね」
「私、割と苦になる方。おいしそう。いただきます」
両手が胸の前で自然と合わさる。感謝と感動が手のひらの中で膨らんでいく。
「まあ、向き不向きはあるかもね。いただきます」
「あ、でも私、食器洗ったり片付けたりするのはわりと好き」
「俺片付け嫌い」
「洗濯も、干すのは嫌いだけど、アイロン掛けたりお店みたいにきれいに畳むのは好き」
「俺干すのは苦にならないけど、畳んだり、ましてやアイロン掛けとか無理」
昨日、琥太朗が取り込んだ洗濯物は畳むというよりは丸められていたのを思い出す。
「天井裏見て何かわかった?」
「わかったというよりは、ますますわからなくなった。謎が深まったというか……」
「謎?」
「屋根裏に厄除けや魔除けを置く風習があるんだけど……石が置いてあった」
「石?」
琥太朗はスプーン片手に天井を見上げ、独り言のように呟いた。
「ものすごく強そうだった」
紫桜にはさっぱりわからない。が、さっぱり味のミネストローネは朝のおかゆ同様、身体に優しそうだということはわかる。きっと最低限の味付けしかしていないからだろう、素材そのものの味が舌に柔らかい。
「おいしい」
「そう? よかった。わりと適当に作ったからどうかなーとは思ったんだけど」
「適当に作ってこの味なの?」
「適当に作ったからこの味なんだよ。もっとちゃんと材料揃えて作ればもっとちゃんとした味になるはず」
琥太朗がにこにこ笑っている。軽くトーストされたフランスパンもおいしい。少なくとも紫桜の知らないパン屋だ。パンの上に乗っているサーモンディップは朝のおかゆの残りだろう。おざきくんはベッドが気に入ったのか紫桜の部屋から出てこない。
「琥太くんって、すごいね」
「なにが?」
「料理。あるものでぱぱっと作れるのすごいなーって。それでいて彩りもきれいでおいしいし」
「必要に迫られればある程度はできるようになるよ」
「そうかなあ」
紫桜は一度たりとも、必要に迫られて作った自分の料理をおいしいと思ったことはない。どことなく味気ない。自分しか食べないから逆に色々試せて面白いと言う人もいるが、紫桜は自分のための料理を楽しめたことがない。
「私、一人暮らし向いてないのかなあ」
「そんなことないだろ。ちゃんとやってると思うけど」
「そうかなあ」
「そういうこと言うと、付け込むよ」
「だからといって、琥太くんが言うように誰かと一緒にやっていける気もしないんだよね」
「俺とでも?」
そこが問題なのだ。確かに琥太朗の言う通り、琥太朗とならやっていけそうな気がする。それこそ終わりなくやっていけそうな気がするから躊躇する。そこがまだよくわからない。そもそも、琥太朗でなければこんなにスムーズに話は進まなかったはずだ。
琥太朗のことは嫌いじゃない。むしろ子供の頃から大が付くほど好きで、だからこそ、子供の頃の純粋な感情に邪魔されて、大人になった今の損得勘定込みの感情が穢らわしく思える。そもそも同居に感情を絡めて考えること自体が間違っているのか、もうそこからしてわからない。
できればそういう問題は先送りにして、このままなんとなく一緒にいられたらいいのに、という逃げ腰な考えが浮かんでくる始末だ。
紫桜が食器を洗う傍らで琥太朗はアイスティーを作っている。
「お腹いっぱいって幸せだよね」
「子供の頃と同じこと言ってる」
「そう? そういうところって子供の頃から変わらないのかもね」
誰かが作ってくれたおいしいご飯を、のんびりお腹いっぱい食べられたら、もうそれだけで幸せだと思う。
「俺と一緒に居るの、ほんの少しでも不快に思う?」
さり気ない琥太朗の口調には、ほんの少しだけ緊張が混じっている。
琥太朗は昔から図々しいほどぐいぐい来るくせに、肝心なところではちゃんと立ち止まって紫桜のことも考えてくれる。自分から何かをすることが苦手な紫桜にとって、不快に思うどころか琥太朗の存在は頼もしい。この家の不思議なことも、琥太朗に任せておけば大丈夫だともうすっかり安心しきっている。
シェアメイトとしてはそれで十分なのかもしれない。
「琥太くんは?」
「んー、俺の場合は紫桜とはまたちょっと違うからなあ」
「どう違うの?」
「俺昔から紫桜のこと好きだから」
さらさらと水が流れるような、粘つく感情が一切感じられない涼やかな言い方だった。
「そりゃあ私だって琥太くんのこと好きだけど……」
「違うんだよ。小学女子が中学男子を好きって言うのはアリだけど、中学男子が小学女子を好きって言うのはちょっとヤバくない?」
「ああ……なんかわかるかも。どうしてかな、中学生と小学生の間には越えられない壁がある気がする。小六と小三の三歳差ならそんなこと思わないのに、中一と小四ってちょっと犯罪臭が漂う」
「だろ? 紫桜と出会った頃は俺も小六だったからそこまで思わなかったんだけど、中学に入った途端、なんか俺やばくないかって焦ったんだよね」
「だから? 琥太くん私の前で中学の制服着たことないよね? だから私、琥太くんが二つ三つ年上だって感覚はあったけど、中学生だって思ったことはなかったもん」
「紫桜にってより、おばさんにバレないようにしてたなあ。なんとなくだけど同じ小学生だと思わせてた方がいいような気がしてた」
「あーそうかも。うちの母、琥太くんが中学生だって知ったらいい顔しなかった気がする」
「だろ? 紫桜のおばさん、ちょっと潔癖っぽいとこあったからなあ」
母はきっと、紫桜より二つ上にいたはずの兄の面影を琥太朗に重ねていたのだろう。それが実は三つ違いだと知ったら途端に排除した気がする。
「私にね、二歳上の兄がいたんだって。生まれて三ヶ月くらいで突然死したって」
琥太朗が急に難しい顔で考え込んだ。
「なに?」
「んー……色々ややこしくこんがらがってるなーと思って。一度おばさんに会える?」
「なんで?」
「一緒に住むなら挨拶した方がいいだろ。俺も久しぶりに会いたいし」
「面倒なことになると思うけど……」
「おっ! 一緒に住むこと否定しなかった」
「だって、どうせ琥太くんのことだから私のこと丸め込んで住み着く気でしょ?」
「住み着く気満々」
嬉しそうに笑う琥太朗を見ていたら、お腹がいっぱいで幸せなこともあって、まあいいか、という気にもなる。少なくとも心強いのは間違いない。
「無理って思ったら遠慮なく言うけど、それでもいい? 琥太くんも無理って思ったら遠慮なく出て行っていいからね」
上機嫌で頷く琥太朗を見ているうちに、紫桜は足元から冷え上がってくるような不安に襲われた。
「でもだからって黙って居なくならないでね」
「大丈夫。どこにも行かないから。出てけーって言われても、やだーって居座るから」
「子供じゃないんだから」
「子供じゃないから、もう二度と居なくならないよ」
琥太朗との別れは突然で、予定されていた紫桜の転校よりも先に琥太朗は居なくなった。きっとあの時の欠落感や喪失感が琥太朗との思い出を記憶の底に沈めたのだろう。
「それって、同居じゃなくて同棲じゃないの?」
住宅手当の出ない紫桜と出る琥太朗。さすがに固定費を全額琥太朗に負担させるのはどうかと紫桜は言い張り、琥太朗の住宅手当をオーバーした分は折半ということになった。細かいことは都度話し合って決めていく。
「同居です」
「いやいや、同棲でしょー」
にやにや顔の小関に必死に反論しても、小関のにやにや笑いは深まるばかりだ。紫桜はひたすら困惑する。自分でもそこがよくわかっていない。
「そういう雰囲気じゃありませんから」
「今はまだ、そういう空気を出さずにいるんじゃないの? なんたって十数年ぶりの運命の再会なんだから! 運命に引き裂かれた二人! 運命に引き寄せられた二人!」
「運命って……小関さん最近それっぽい何か観ました?」
「観た! 今ハマってる! もう! この勢いにのらないでどうするのよー」
勝手に盛り上がっている小関を見ながら、言わなきゃよかった、と紫桜は臍を噛む。琥太朗作のお弁当を突っ込まれ、まんまと小関の誘導尋問に引っかかり、同居に至る顛末の一部始終を語る羽目になったのだ。
「運命の再会にしては民俗学の講師ってのが地味だけど、まあ専任ならねえ。できれば大富豪や芸能人がよかったなー」
うっとりと夢見るような小関こそ作りものみたいにかわいい。これで三十後半だというのだから、たとえ小関の言う通りメイクの為せる業であっても称賛に値する。
「だから、運命の再会じゃありませんから。そもそも小関さん、運命とか信じてないですよね」
「まーねー」と小関は一瞬で現実に戻って来た。「で? その幼馴染みくん、准教授になれそうなの?」
「そこまでは聞いてません」
「三十手前で専任講師かあ。悪くはないけど……でも民俗学かあ」
「民俗学って、そんな感じなんですか?」
「そんな感じじゃない? 少なくとも私の周りには講義とったことのある人いないと思う」
「それって小関さんが理学部だったからじゃないですか」
「まあね。文系の友達はほとんどいないけど」
小関が、へへ、と笑って誤魔化す。その仕草がまた妙にかわいいからずるい。紫桜はいつだってまんまと誤魔化されてしまう。
「そういえば、研究費がほとんどないって言ってました」
「だろうね。人に役立つわけでもなく、世界に羽ばたくこともなく、歴史が書きかわるわけでもない、地味な研究だからなあ」
紫桜がなんとなく面白くない気持ちになるのは、立ち位置が琥太朗寄りだからだろうか。
「よっぽどの信念や知りたいことでもあるんじゃないの?」
「知りたいこと、ですか?」
「私は明確な答えがないのってあんまり好きじゃないのよ。民俗学って、はっきりとこれって明確に証明できるわけじゃないでしょ。大抵はぼんやりしてたり、眉唾物だって多いだろうし。そもそも眉唾って言葉自体が眉唾だよね」
琥太朗の言っていたことが紫桜の頭をよぎる──わかりやすく証明できないものほど人は否定したがるんだよ。
「眉唾、ですか」
「そう、眉に唾をつけるとキツネに化かされないことから、眉に唾付けて欺されんなよって意味。そもそもキツネに化かされるということ自体がナンセンスでしょ。眉唾って言葉そのものが眉唾ってオチ」
「昔の人は本当にキツネに化かされたって思ってたんでしょうか?」
「思ってないでしょ。誰かに欺されたって思うより、キツネに欺されたって思う方が丸く収められたってだけじゃない? 昔は今よりずっと閉鎖的だったり身分社会だったわけだから、キツネが何かの比喩だったり、それこそキツネのせいにでもしないとやってられなかったんじゃないの?」
琥太朗ならなんと言うだろう、と考えたところで、ふとおざきくんのことを思い出した。
「そういえば、猫とも同居することになったんですけど、その猫、どこで躾けられたのか人用のトイレを使うんです」
「なにそれ! あー、そういえばそんな動画見たことあるかも」
「結構いるみたいなんですよ。うちのトイレは蓋がセンサーで開閉して水も自動で流れるので本当に楽です」
「見たい! 今度動画撮ってきて!」
「撮れるかなぁ。元々野良猫なのでだらーっとしているようで隙がないんですよ。トイレ使ってるのもその同居人が気付いたことで、私は全然気付かなくて」
「猫って人間より自分の方が上だと思ってるって言うよねー」
「そうなんですか? ああ、だからなのかなあ。同居人は昔からその猫に敬語なんですよ」
「へえ、なんか面白い人だね」
小関が通りかかった他の社員に、天埜さんちの猫、水洗トイレ使うんだって! とすかさずおざきくんの特技を社内に拡散し始めた。