シェア マヨヒガ
06 おざきくん「そうだ、おざきくんだ!」
おざきくんは紫桜と琥太朗が子供の頃、路地裏でよく撫でていた雄の三毛猫だ。生まれつきなのか尾の先が二つに裂けているからおざきくん。白黒茶の割合が均等で、全ての足先はソックスを履いたように白く、しっぽは黒い。耳は両方とも茶色ではちわれの右が黒で左は茶色。混じりけのない三色のぽってりおいしそうな模様。
「最近顔を出してくれるようになったの。どこかで見たことあるなーって思ってたんだけど、そうだ、おざきくんだ!」
「どう見てもおざきくんだろ! あんなしっぽの猫がそうそういてたまるか。うーわっ、嘘だろ、本当におざきくんだ。ここまでどうやって来たんだよ。あそこからここまで六百キロはあるのに」
琥太朗は当時、猫又は尾がもう一本生えてくるのではなく、尾が二本に裂けていくのではないか、年を取った猫が猫又になるのではなく、猫又という希少種が存在するのではないか、という仮説を立てていた。
「あー、しっぽがさらに裂けてる! あの頃は四分の一くらいだったのに、半分以上裂けてる」
「琥太くんの仮説が証明されそうだね」
おざきくん用の器に猫缶を盛り付けながら興奮気味に話す紫桜と鼻息荒く何度も大きく頷きながら窓際にじりじり近寄っていく琥太朗。そんな二人をおざきくんは交互に眺めながら、にゃあ、と猫らしい声を上げた。
「お久しぶりです。僕のこと覚えてますか?」
どういうわけか、琥太朗は昔からおざきくんに敬語だ。一人称も僕に変わった。
にゃーお、んにゃーう。
家の中に勝手に入れてはいけないと思っているのか、それとも虫を警戒してか、琥太朗が網戸越しに差し出した手を、おざきくんはふんふん嗅ぎながら返事をした。
「うわあ、覚えていてくれたんですか! またお目にかかれて光栄です」
なぜか会話が成立している。琥太朗の中のおざきくんはなんと言っているのか。もちろん覚えてるにゃー、また会えてうれしいにゃー。紫桜は頭の中で勝手におざきくんの鳴き声を変換する。語尾はやっぱりにゃーであってほしい。二つに裂けた尾がピースサインのようにゆらゆら揺れている。
「先々週からかな。毎週土曜日に顔出してくれるんだよねー」
門の前にちょこんとお座りしていたのだ。寄っていく? と声をかけたら返事をしてくれたので門を開けてどうぞと招き入れた。その日は庭をのんびり一周して、縁側から紫桜に一声かけて、するっと消えるように居なくなった。先週も同じく土曜日に来てくれたので、今週も来てくれることを期待して高級猫缶を買っておいた。
網戸を開けておざきくんの前に器を置くと、琥太朗が「なにこれうまそう」と味見しようとして猫パンチを食らっている。もうひとつの器に水を入れて、おざきくんが匂いを嗅いでいる器の隣に置くと、おざきくんは、にゃー、とひと鳴きしてはぐはぐと食べ始めた。
「野良猫のくせに警戒心ゼロだな」
「ちゃんと私たちのこと覚えてるからじゃない?」
あの頃のおざきくんは、私たちから餌をもらうようになるまで半年かかっている。父に話したら、三毛猫の雄は珍しいから悪い人に捕まらないといいな、と言っていたのを思い出す。父が猫アレルギーでうちでは飼えなかったのだ。かといって、おざきくんが飼い猫になることを望んでいるようにも見えず、野良猫の割にいつもこざっぱりしていて、誰かに手入れされているような気配もあった。
「今日も泊まっていく?」
「え、いいの?」
「琥太くんじゃなくておざきくんに言ったんだけど」
勢いよく食いついてきた琥太朗ががっくりと肩を落とした。代わりにおざきくんが、にゃーお、と機嫌よく鳴く。
「先週と同じクッションとバスタオルでいい?」
おざきくんが、にゃー、と答える。
「おざきくん用の食器におざきくん用のベッド……」
納戸から前の賃貸マンションで使っていたビッグクッションとバスタオルを取ってきた紫桜に琥太朗が恨みがましい目を向ける。少し前まで暮らしていた狭いワンルームマンションでは、このビッグクッションからの視界に生活の全てが収まっていた。
「琥太くん用のは無いからね」
縁側にバスタオルを広げてその上にクッションをおくと、おざきくんがバスタオルの上に移動してぐうっとしっぽの先まで伸びをした。ピースなしっぽが平和を振りまく。
「僕もおざきくんと一緒に縁側で寝ようかな」
「大学に仮眠室あるんでしょ?」
「仮眠室なんてあるわけないでしょ。研究室のボロいパイプ椅子集めて縮こまって寝てますよ」
「なら今日も椅子集めがんばって」
「朝ご飯作るから」
紫桜の激励に琥太朗が捨て犬っぽさ全開で訴えてきた。
そういえば、昼間に琥太朗が眠そうにあくびをしていたことを思い出す。熟睡できないだろうことが容易に想像できるせいで、紫桜の心に綻びが生じる。
「紫桜が起きる頃にはほかほかのご飯ができてますよー、ねー、おざきくんも朝からおいしいもの食べたいですよねー」
綻んだ隙間を琥太朗がおざきくんをダシにぐいぐい広げてくる。一人暮らしには淋しさがつきものだ。誰かと一緒にいる楽しさと心強さは、綻びを容易に切り裂いてしまう。
「馴れ合わない方がお互いのためじゃないの?」
「なんで?」
ずっと一緒にいられるわけじゃない──子供の頃に学ばざるを得なかった教訓がぐっと心の柔らかいところに押し付けられる。
「俺は今の大学にあと数年はいるし、その先も今の大学にいられるよう努力は惜しまない。紫桜もこの家にずっと住むんだろ? だったら、せっかく会えたんだ、馴れ合った方がお互いのためだろ」
「琥太くん、なんか必死だね」
「ようやく熟睡できそうなんだ、必死にもなるよ。睡眠って大事なんだぞ」
「それはわかるけど……」
さっきは大きなベッドをバカにしたくせに。むくれた紫桜に琥太朗が、羨ましかったんだよ、と苦笑いする。
「それに、今どきシェアハウスなんて珍しくないだろ?」
「えっ? 今晩だけの話じゃないの?」
驚く紫桜に琥太朗はやたらと真面目くさった顔で頷く。
「今晩以降の話もしてる。光熱費や税金、あと保険料に、その他諸々の固定費は家賃代わりに俺が負担する。一応年収は同い年の社会人平均よりも高いし貯金もそれなりにある。今まで誰かと一緒に暮らすって考えられなかったんだけど、紫桜とならやっていける気がする。紫桜はどう? 一考してみて」
シェアハウスは紫桜の頭にもあったことだ。一人で住むにはこの小さな家は広すぎる。背後に小川が流れていることもあって、大雨警報が出たときの心細さといったらなかった。秋の台風前にはシェアメイトを、と焦る気持ちと同じくらい、紫桜の性格上、他人と一緒に暮らせる気もしなかった。
「貯金あるのに貧乏だったの?」
「だから貧乏ではない。節約。一人で生きていくにはそれなりの蓄えがないと不安だろ。無理できるうちは無理してでも蓄えないと」
「琥太くんは、……一人なの?」
軽々しく訊いてはいけないことだとわかってはいても、訊かずにやり過ごすにはお互い年を重ねてしまった。たしか、子供の頃はお祖父さんと一緒に暮らしていたはずだ。母の質問に答えるかたちで紫桜も知ることになった琥太朗の背景の一端。
「どこかに遺伝子的に繋がってる人間はいるんだろうけど、社会的に繋がってはいないから一人なんだろうね」
サッシの際に腰をおろし、縁側に足を投げ出して座っていた琥太朗の膝の上におざきくんがのっそりと乗った。おざきくんに触れる琥太朗の手が優しい。
直前の琥太朗の冷ややかな告白は、夕暮れの名残を微かに残した夜の庭に滲んで微風となって戻ってくる。
「おざきくん、家の中に入るならシャワー浴びてっていったの覚えてる?」
食後のお手入れを終え、サッシの枠に前足をかけて家の中に入ろうとしていたおざきくんが、ぶにゃ、と不満そうに鳴いて前足を引っ込めた。どうもさっきからおざきくんは言葉を理解しているような気がして仕方がない。
「じゃあ、僕が洗わせてもらいます」
おざきくんはますます不満そうな声で仕方ないとばかりに鳴く。理解しているのかたまたまタイミングよく鳴くだけなのか。
おざきくんは琥太朗の膝の上に戻り、ざりざりな舌で丁寧に前足を舐めている。その隣にしゃがみ込んだ紫桜の足をピースなしっぽがさわさわと撫でる。
「おざきくん、前足舐めてきれいにしてもシャワーは免れないからね。自分でわかってる? 白毛が灰毛になってるよ」
動きを止めたおざきくんのしっぽが、たしたしと勢いよく紫桜の足を叩いた。
紫桜たちが食事の続きを終え、後片付けを終え、お風呂の準備を終えてもおざきくんは縁側で寛ぎながらこちらの様子を窺っていた。どうやらシャワーを浴びてでも家の中に入る気らしい。
「よし、じゃあ風呂に入りますか」
おざきくんを肩に乗せてお風呂場に向かう琥太朗を横目に、紫桜は縁側に敷いたバスタオルとクッション、二つの器を回収して網戸を閉めた。
りりーん。
軒先に吊された風鈴が慎ましく澄んだ音を立てている。
そのすぐ下の縁側の端では、白毛を際立たせたおざきくんが朝の日射しの中、くわっと大きな口を開けてあくびをしている。
そこから少し離れた場所では、足を投げ出して柱にもたれた琥太朗が膝の上のノートパソコンに向かって、いかにも難しい顔で画面を覗き込んでいる。
「おはよ」
百年も前から一人と一匹はそうしていたかのような光景だった。懐かしさすら感じた紫桜は、自分も縁側に出て、一人と一匹の間に腰をおろした。
朝の六時。朝食にはまだ早い。それでも、すでにキッチンにはちゃんと朝ご飯の下ごしらえがしてあった。
「琥太くん、眠れた?」
一段と寝癖をつけた琥太朗は「んー、おはよ……」と空返事をしたあと、たっぷり数十秒おいてから「自分でもびっくりするくらい熟睡できた」と画面から目を離さずに答えた。リビングのソファーの背には昨夜紫桜が掛けたタオルケットがきちんと畳まれている。
「おざきくんは?」
紫桜の問いかけに、おざきくんも、にゃー……、と間延びした返事をする。しっぽが大きくぱたんぱたんと揺れている。
「朝ご飯食べたら屋根裏に上がってもいい?」
「いいけど、屋根裏って上がれるものなの?」
「納戸か押し入れの天井板が外れるようになってるはず」
へえ、と感心しながら紫桜が琥太朗の膝の上にある画面を覗くと、びっしりと文字が書き込まれた何かの一覧が表示されていた。
「大学で俺が作ってるデータベース」
「民俗学の?」
そう、と言ったきり琥太朗はそのデータベースに何かを打ち込んでは表示される文章を読み込んでいる。かと思えば別のタブに表示されている古い地図を見たり、古い写真を見たりと忙しない。
言葉通り琥太朗はよく眠れたようで、早朝にもかかわらず頭はフル回転しているようだ。
逆に紫桜はよく眠れなかったせいか、まだ頭の半分が眠っているように覚束ない。一考してみて、という琥太朗の声がいつまでも紫桜の頭から離れなかったせいだ。
昨夜、湯船に浸かりながら一考し、湯上がりに冷えたミネラルウォーターを飲みながらさらに考え、ソファーに倒れ込むように居眠りをしている琥太朗とおざきくんにタオルケットを掛け、家中の電気を消しても考えは止まらず、ベッドに入ってもぐるぐると琥太朗の「一考してみて」という言葉が渦巻いていた。
寝付けないまま夜中に一度起き出してリビングの様子を見に行くと、琥太朗はいびきをかくわけでもなければ寝息すら立てず、死んだように眠っていた。おもわず琥太朗の鼻先に手を翳し息をしているか確かめたほどで、琥太朗の足元で丸くなっているおざきくんの目が暗闇の中で月明かりを反射していた。
眠る琥太朗の右の目尻から頬の脇を通って首筋までを紫桜は指先でそっとなぞった。琥太朗が琥太朗であることの証。
再びベッドに横たわった紫桜の頭の中では、琥太朗の一考してという声がしつこくこだましていた。しまいには、一考という言葉の意味がわからなくなるほどで、何をどう一考すればいいのかわからないまま浅い眠りの中で何度も寝返りを打った。ごろんごろんと左右に転がっても落ちることのないベッドの広さをしみじみ感じた一晩だった。
「この縁側、少し変わってるね」
「そうなの?」
「縁側の内側にサッシがついてるいわゆる濡れ縁なんだけど、でも雨戸はサッシ側じゃなくて縁側の外についてるだろ。広縁としても使えるようにって」
雨や風が強くなりそうなときは雨戸を閉めておくと、縁側がそんなに汚れないので屋内と同じ感覚で出入りできる。回廊のようにぐるっと家の周りを囲っている縁側は紫桜のお気に入りだ。
「珍しいの?」
「これ、改築でこうなったのかなあ。元々この家はもう一回り大きかったんじゃないかと思うんだけど……この家の詳細な建築図面なんてないよね」
「相続するときにものすごく簡単な平面図みたいなものは見たけど、家を建てるときに作られるような詳しいのは見たことない」
「どうせその図面も建築時のものじゃないだろうしなあ」
「あ、そっか。今のこの間取りだった。昔はシステムバスなんてないもんね」
「だよなあ。んー……、よし、まずは飯にしよう」
長く唸ったあとの琥太朗のセリフに、おざきくんのしっぽがぴんと立った。
朝食の席には空白の十数年がなかったかのような、しっくりした空気に満ちていた。琥太朗と向かい合って朝ご飯を食べながら、紫桜は奇妙な感覚の中にいた。空白の数十年が昨日一日にぎゅっと短縮されたような、もうずっと昔からこうしていたような、身体の芯まで馴染みきった感覚。琥太朗が作ってくれた優しい味のする朝粥が身体に染みるのと似ていないようで似ている気がした。
「この鮭ほぐしたの、うちにあった?」
「ああ、俺の秘蔵の鮭缶」
「ものすごくおいしい」
「だろ」
「魚系は缶詰なのかあ……」
「紫桜、眠そうだね」
「なんか、頭がぼーっとしてる」
「昨日は濃い一日だったからなあ」
「琥太くんも?」
「俺は逆にようやく頭がすっきりした感じ」
「よく眠れたから?」
「それもある。紫桜は飯食ったらもう一眠りしなよ。買い物は昼からでもいいんだろ?」
「いいけど……」
「勝手に家の中見せてもらうけど、見られたくないとこある?」
「特にないかな。まさか引き出しの中まで開けたりしないでしょ?」
「そのくらいの分別はある」
「でた、分別」
テーブルの上で猫缶を食べ終えたおざきくんが、にゃー、と鳴いた。プレースマットから出ないよう琥太朗が言い聞かせて同じテーブルに着いたおざきくんは、琥太朗の言ったことを理解しているのか、しっぽの先もはみ出さない。
納戸から屋根裏に上がった琥太朗を確認して、紫桜はベッドに潜り込んだ。おざきくんが足元で丸くなる。爪先に触れるおざきくんの毛の感触と体温が、すーっと眠りに引き込んでくれた。