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05 素顔「琥太くん、目が笑ってないけど……違うの? 座敷ぼっこの恩恵じゃないの?」
琥太朗は何かを考え込むように、「んー」と小さく呻りながらソファーから立ち上がった。リビングから庭を一瞥して玄関に向かう。
紫桜もあとに続いた。恩恵がどういった種類のものなのかを知らなければ、うっかり余計なことを仕出かして手のひらを返されかねない。紫桜にピンチを手玉に取れるほどの機転はない。
「ちょっと先に庭見てもいい?」
家中の戸も窓も開け放たれている。玄関の手前でちらっと和室の桐箪笥に視線を向けながら琥太朗が振り返った。
「いいけど、わざわざそのブーツ履くの?」
黒のミリタリーブーツはきちんと手入れされているようで、履き込まれた感はあってもくたびれた感はない。
「これしかないし。山歩くときはこういう靴じゃないと危険なんだよ」
「ここ住宅街だけど」
「住宅街だって危険だろ。うっかりするとアリがよじ登ってくる」
顔をしかめる琥太朗は虫が大の苦手で、子供の頃、琥太朗があまりにも怖がるから、かえって紫桜はそこそこ平気になったほどだ。
たったの二年間。されど、その二年間で紫桜の大部分は形成されている。琥太朗の存在が深く紫桜に刻み込まれている。兄というよりは他人で、友達というよりは近く、親友という言葉はどこかしっくりこない。十数年ぶりの再会でも、あの頃の続きのようにぽんぽん言葉を交わせる、こういった存在をなんと呼ぶのか。紫桜は頭の隅で考えていた。
木洩れ日が万華鏡のように形を変える中、琥太朗はまず、ICレコーダー片手にぶつぶつ言いながら数寄屋門からぐるりと庭を一周した。特に敷地の境界を確かめている。両隣とは生垣で仕切られており、生け垣の先は隣家それぞれの芝生の青が眩しい。
「お隣さんは年配の方?」
「そう」
挨拶に訪れた紫桜を両家とも穏やかな笑顔で歓迎してくれた。大叔母とも親しくしていたらしく、一人暮らしだと言ったら、何かあったときは遠慮なく頼ってくれと言われている。
「両方とも芝がきれいに手入れされてる」
「うちがもっさりしてるから余計に青々して見えるよね」
この辺りは古くから建つ家が多く、両隣もリフォームされているとはいえ歴史を感じさせる品の良さがある。父の転勤により田舎での生活が多かった紫桜にとっては狭い土地だが、都内であればそこそこ自慢できる敷地面積だと小関に訂正されたことを思い出す。
「庭の手入れは? プロ?」
「それが、あの弁護士先生の趣味が庭いじりみたいで、ぜひやらせてもらえないかって言われてる」
「ああ、高山先生マンションだからなあ。家の中にもベランダにも、山ほど鉢植えがあるんだよ。しかも観葉植物とは言い難い一位の木や柾とか笹まであってさー」
楽しそうに話す琥太朗を見ているうちに、紫桜は自分の知らない琥太朗の十数年を思った。どんな人と出会ってどんなふうに過ごしてきたのか。
琥太朗は時間をかけてレコーダーに話しかけながら庭の隅々まで調査している。敷地の境界に四角い石が飛び飛びに並んでいるのを見て「礎石か」と一段と唸ったり、裏の小川の脇に生えているやたらと太い樹を見上げて「楠か」とさらに唸ったり、屋根を見上げて「入り母屋かあ」と唸る。とにかくいちいち唸る。その度に紫桜は「なに? それが何?」と話しかけるものの空返事があるだけで、何度か繰り返すうちに紫桜は諦めの境地に達した。
答えをもらえない紫桜は早々に飽きて家の中に戻ってきた。
和室の入り口から桐箪笥をしばらく眺め、ふと目を逸らした瞬間、たん、と小さな何かが畳の上に落ちた音がした。振り返ると、畳の上にガラス玉がひとつ転がっていた。
がらら、と聞こえてきた音に、紫桜は読んでいた本に栞を挟んで玄関に向かう。
「紫桜って土日休み?」
強張った表情の琥太朗が玄関の引き戸に手をかけたまま動きを止めていた。
「そうだけど」
さっさと引き上げてきた紫桜がふと窓越しに庭を見るたびに、琥太朗は怖いくらい真剣な目をしてレコーダーに何かを吹き込んでいた。途中で洗濯物を取り込みながら、かなりの時間をかけて丹念に庭の端から端まで見て回り、軒先や軒下、雨戸やどこから見付けてきたのか竹梯子によじ登って屋根の上まで確認していた。
「明日って予定ある?」
「しいて言えばスーパーに食材買いに行くくらい?」
難しい顔で考え込んでいる琥太朗から出た言葉は、半ば紫桜が予想していたものだった。まだ家の中の調査が残っている。
「明日も来ていい?」
「いいけど……」
意識を半分思考に埋めている琥太朗は、框に腰をおろしてブーツを脱ぎかけた状態で動きを止めている。なるほど、街中でもアリによじ登られるはずだ。
窓から差し込む光はずいぶんと角度を下げていた。
「何かわかったの?」
「んー……」
空返事をしたまま琥太朗は応えない。すでに学習済みの紫桜は放っておくことにした。そういえば子供の頃もこうだったな、と紫桜は小さく笑いながら開け放しの玄関戸を静かに閉め、キッチンに向かった。きっと小一時間くらいはあのままだ。夕食になりそうなものはあっただろうかと冷蔵庫を開けた。
とりあえず、とお米を研ぎながら無い知恵を絞っていると、玄関からごとっと何かの落ちる音がした。思ったよりも早く覚醒したらしい。
「琥太くん、夕飯どうする?」
紫桜が廊下に顔を出して声をかけると、落ちたブーツに手を伸ばしている琥太朗の背中がびくっと震えた。
「食べてっていいの?」
「琥太くんさえよければ。とりあえずお米は研いだんだけど……冷食でもいい?」
今更なので正直にお取り寄せの激うま冷凍食品をいくつか提案すると、琥太朗は急いでもう片方のブーツを脱ぎ、洗面所に駆け込み手を洗い、冷蔵庫を再度チェックした。びっくりするほどの早業だった。
「このカボチャどうするつもりだった?」
野菜室にカボチャが丸ごとででんと存在している。安かったのでつい丸ごと買ってしまったのは先週の日曜日のことだ。持て余して一週間放置してある。
「適当な大きさに切ってレンジでチンしてカボチャサラダとか?」
「まさか、マヨネーズで和えるだけ?」
「え、マヨネーズ以外に何か混ぜるの?」
琥太朗の目が意地の悪い猫のようににんまりと細められていく。
「紫桜、これまで男いなかっただろ」
「なんで断言するわけ?」
いくら紛れもない事実であっても、にやつきながら言い切られると頭にくる。
「いやさ、うっかり窓からベッド見えちゃって……」
「あれいいでしょ! この家見に来たときにフレームだけ残されてるの発見して、思い切ってダブルのマットレスと布団買っちゃったの! 大きいベッドで寝るってすっごく贅沢でしょ?」
思わず声を大にして自慢した紫桜は琥太朗の呆れ顔を見て我に返る。これまで変に勘繰られそうで誰にも言えなかったのだ。
「普通、男と寝るために買うだろ、でかいベッドは」
「そんなことないよ、自分がゆっくり寝るために買う人だっているよ。実際あの広いベッドで寝るとよく眠れるしすっごく目覚めがいいもん」
むっとして言い返した紫桜は、ここぞとばかりに反撃した。
「そういう琥太くんだって彼女いないでしょ。普通職員寮追い出されたら彼女のところに行くもんじゃないの?」
「彼女が親と同居してるかもしれないだろ」
「かもとかしれないとか言ってる時点で彼女いないって言ってるようなもんでしょ」
二十五にもなって子供のように勝ち誇る紫桜に、二十八の琥太朗も子供のように唇を尖らせた。
「紫桜がかわいくなくなった」
「大人になっただけです」
「いい年した大人はでかいベッド買って喜びませーん」
クソガキだった頃の琥太朗の顔が重なる。
「喜ぶ大人もいるんです」
琥太朗相手だとどうも調子が狂う。まるで子供の頃に戻ったみたいに精神年齢がぐんと小学生まで下がってしまう。
「まったく、紫桜相手だと調子狂う……」
「それはこっちのセリフです」
紫桜が言い返すと、琥太朗は何かに気付いたようにゆっくりと目を見開いていき、紫桜の瞳を覗き込んだ。
「違う、これが本来の俺だ」
あっ、と紫桜も琥太朗の瞳の中に存在する自分の姿を見て気付いた。そうだ。これが本来の私だ。
ぽんぽん好き勝手なことを言えるのは今も昔も琥太朗だけで、他の人であればひやっとするような言葉も相手が琥太朗だとわだかまることなくさらさら流れていく。互いに悪意がないという前提がどっしりと根を張っているからこそ、普段なら取り繕うべき表情さえもすんなり顔に出せる。
「紫桜が変わらないからか?」
「そんなことないよ。さすがに小学生の頃に比べたらそれなりに変わってるはず」
「だよなあ。俺もかなり変わった自覚があるんだけど……」
「そう? 私より琥太くんの方が変わってないと思うんだけど……」
顔を見合わせて首を傾げる。
「とりあえず飯作るか」
「そういえば、琥太くんが庭を見ている間に、桐箪笥の前にガラス玉がたんって落っこちてた」
「たん?」
「そう。ほら、畳の上に物が落ちる音って独特でしょ。たんって音が聞こえて、直前まではなかったガラス玉が畳の上を転がってたの。いままでその瞬間って見たことなかったからちょっとびっくりした」
「見たの? その瞬間」
「その瞬間ってわけじゃないけど、音がして振り向いたらガラス玉が転がってたから、その瞬間の直後?」
むーっと難しい顔で考え込んでいる琥太朗が作ってくれたカボチャの煮付けのおいしいこと。煮崩れる直前の絶妙な火加減は月一ご褒美のデパ地下のお惣菜に引けを取らない。大叔母の器が輪をかけて品良く見せてくれるのもまた乙だ。
そもそも、誰かと一緒に食事をすることが滅多にない紫桜にとって、会話しながらの食事はそれだけで楽しい。
「琥太くんって料理できるんだね」
「紫桜は料理できないんだね」
「その代わり整理整頓はうまいよ」
「その代わり俺それ苦手」
父が転勤族だったせいか、母は年々ミニマムな暮らしをするようになり、荷造りの大変さが身に沁みているせいか、常に整理整頓を怠らなかった。
「紫桜んちのおばさん、きっちりしてたもんなあ」
「本当はずぼらなんだって自分では言ってたけどね。いっつも、整理整頓、余計なものは持たない、使わないものは捨てる、って私に注意しながら自分に言い聞かせるみたいだったから」
早ければ一年、平均すれば二年に一度の転勤だった。祖父が残した実家で暮らしたのは、紫桜が保育園に入る前の一年間と小学校の入学式からの一年半、中学一年の秋から二年の夏まで、専門学校に通っていた二年間だけだ。実家には天埜家代々の仏壇があるために長期の留守の間でも親戚の出入りがあり、母はうんざりしているようだった。専門学校に通っている間はほぼ紫桜の一人暮らしで、親戚が何かにつけて顔を出してはあれこれ言われるのが煩わしく、就職を機に実家を出た。
「そういえば琥太くんって、なぜかうちの母に気に入られてたよね」
「紫桜の成績上がったからだろ」
当時の紫桜は琥太朗に勉強も教えてもらっていた。初めの頃、琥太朗は借家の縁側より先には入らなかった。母が招き入れるかたちで家に入り浸るようになったのだ。
「それにしても、うちの母って他人を家に入れるの嫌がるのに、後にも先にも琥太くんだけだよ、うちに入り浸ってたの」
誰かの家でお誕生会があるというときですら、母は紫桜を他人の家にやることを渋った。当然、紫桜が家に友達を呼ぶことにもいい顔はしなかった。
「最初の頃、家に上がらないようにしてたから見かねたんじゃないの?」
何度紫桜が誘っても、琥太朗は家に上がらなかった。そうだ、と思い出した。見かねた母に言われて初めて家に入るときに、琥太朗が自主的に玄関脇にある外水栓で手足を洗ったことが母の気を良くしたのだ。他の子にはない気遣いだった。
「琥太くんって何気に空気読む子供だったよね」
「たまたま相手がそう捉えたってだけだろ。俺基本空気読めないし」
「琥太くんの場合、空気読めないんじゃなくて読む気がないんでしょ」
まあねえ、と言いながら席を立った琥太朗は、炊飯器を開けご飯をおかわりした。ここぞとばかりによく食べる。
「今おばさんたちどこにいんの?」
「新潟」
「道理で米がうまいと思った。これコシヒカリだろ」
「お取り寄せしたゆめぴりか。北海道産」
ドヤ顔だった琥太朗がぐほっと咽せた。
「琥太くんって料理は出来るのに舌は残念なんだね」
「紫桜って食べるのだけが楽しみなのに自分で料理できないって悲劇だな」
「そういう嫌味言うなら食べなくてもいいんですよ」
「先に嫌味言ったの紫桜だろ」
「得意気にコシヒカリだろとか言うからうわーって思っただけでしょ」
ぽんぽんぽんぽん、ポップコーンが弾けるような会話に、紫桜は可笑しくなった。
「楽しそうだな」
「琥太くんだって楽しそうだよ」
琥太朗は、だな、と笑いながら残りのご飯をもりもり食べる。いい食べっぷりだ。これも母が琥太朗を気に入った要素だと思う。それ以上に、兄の存在が琥太朗に重なったのだろう。
にゃーお。
猫らしい鳴き声が縁側から聞こえた。わざとらしいくらい猫っぽい声。
猫? と箸を止めて目を細めながら窓の外を見ていた琥太朗が、これぞ驚愕といった顔になった。手元から割り箸がぽろっと落ちる。
「なんでおざきくんがここにいるんだ!」