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04 証拠


「琥太くんは何が居ると思う?」
 つい試すようなことを口走った紫桜に、ソファーに腰をおろした琥太朗は嬉しそうに眦を下げた。紫桜の記憶にある面影とぴったり重なる。
「ちゃんと相手を疑うこともできるようになったんだな。偉い偉い」
 琥太朗は続けて、このソファー座り心地いいなあ、と猫のように目を細めて伸びをした。
「バカにしてる?」
「まさか。これでもバカがつくほど素直だった紫桜をずっと心配していたんだ」
 心配していたと言うわりには、大口を開けてあくびをしている。紫桜は大きなソファーの端に座っている琥太朗を呆れ半分で眺めながら、もう一方の端にそっと腰をおろした。
「そのわりにはすぐに私だって気付かなかったくせに」
「だって、あのこけし頭の紫桜だよ? それがいまや……」琥太朗がまじまじと紫桜を見た。「こけしっぽい髪型は変わらないな。ちょっと伸びた?」
 紫桜だってこれまでロングだったこともあればショートだったこともある。今はたまたまボブなだけだ。しかも、当時母がカットしていたおかっぱとプロがカットしたボブとでは雲泥の差がある。
「ボブって言ってよ。琥太くんだってダサいロン毛のままでしょ」
 琥太朗の髪型こそおかっぱだ。顎先でぱつんとカットされたワンレングス。少しクセのある毛先が好き勝手に跳ねている。本人に似合っていないのでどうしても野暮ったく見えてしまう。
「俺のは仕方なしだもん。自分で切るからこうなるだけで、プロにカットしもてらえばモデル張りにかっこいいはず」
「自分で言う?」
「紫桜が言ったんだろ、俺は世界一かっこいいって」
 さも心外だと言わんばかりに琥太朗はむっとした。
「そんなこと言った?」
「言った。何回も聞いた」
 言ったような気もする。あの頃の紫桜にとって琥太朗は唯一無二のヒーローだった。とはいえ、完全無欠のヒーローではなく、どちらかといえばポンコツヒーロー。のせておだててその気にさせるのが紫桜の役目だったように思う。
「琥太くんって、どっちかといったらダメ人間だよね」
 普段の紫桜なら言わないようなことも、相手が琥太朗だとぽろぽろ口から溢れ出る。
「本当のダメ人間は大学の講師にはなれません」
 琥太朗はまるで、紫桜が悪口を言えるようになった、と言わんばかりににんまり笑った。口には出さない、偉い偉い、が聞こえてくるようだ。
「さっき自分で人材不足って言ってたくせに」
 ぐっと言葉に詰まった琥太朗は、そういう話をしてるんじゃなくて、と話の筋をぐいっと戻した。

「座敷ぼっこ?」
 開け放たれている窓からは、水音なのか葉音なのか定かではない涼しげな音が風と一緒に通り抜けていく。木々に囲まれ、背後に小川が流れるこの家は風の通りがよく、湿気や暑さを他より感じにくい。
「たぶん。和室の桐箪笥に住んでる」
 座敷童子ではなく座敷ぼっこ。きっと大学では座敷童子と言っているだろう琥太朗が、あの頃と同じように座敷ぼっこと言う。紫桜はふわっと浮き立つような心地に目を細めた。
 紫桜はこれまでの経緯を話した。琥太朗は膝の上に肘を立てて手を組み、その上に顎をのせた前傾姿勢で話を聞いている。子供の頃も真剣に話を聞くときは腰掛けていようがあぐらをかいていようがこの姿勢だった。
 最初に気付いたのは足音。次にするはずのない場所で樟脳が香り、靴がひっくり返っていたり、閉めたはずの戸が小さく開いていたり。もしかしてという兆候がいくつかあったため、ガラス玉とブロックを買って桐箪笥の中に入れておいた。すると、時々それらが有り得ない場所から出てくるようになった。いよいよこれは、と気合いを入れておはぎや大福を買いに走り、毎日木皿にのせて置いたものの空振りに終わり、諦めかけたところで今度は頻繁にガラス玉やブロックが転がっているようになり、ついに先日、惣菜パンがなくなっていることに気付いた──。
 前屈みで話を聞いていた琥太朗がゆっくりと身体を起こした。
「自分で食べたんじゃなくて?」
「私も初めはそう思ったんだけど、それにしてはお腹の膨れ具合がおかしくて。で、近所の和菓子屋の女将さんに大叔母がいつも塩大福を買っていたことを聞いて、それで、出掛けに一粒置いていった塩飴がなくなっていたことを思い出して、もしかしたらうちの座敷ぼっこは甘いよりしょっぱいものの方が好きなのかもしれないって、さっき思い付いたところ」
「ああ、確かに。小春ばあさんの知ってる座敷ぼっこは甘い物が好きだったみたいだけど、トウモロコシやスイカや塩辛が好きな座敷ぼっこもいるらしいから」
 話のついでに葛まんじゅうと塩大福を琥太朗に勧める。琥太朗は嬉しそうに頬張った。いつもの木皿にも塩大福をのせておく。
「甘い物久しぶりだ」
「琥太くんそんなに……その、余裕ないの?」
 うっかり貧乏と言いそうになった紫桜の心を読んだかのように琥太朗がきっぱり否定した。
「貧乏ではない。持ち出しが多すぎるだけ」
 それを貧乏というのではないか。腑に落ちない紫桜に琥太朗は念を押すように「貧乏ではない」ともう一度言った。フィールドワークの交通費や宿泊代など、とにかく研究費が少ないせいで自腹を切ることが多いらしい。宿泊費はなんとか浮かせても、交通費はどうにもならない、と不満顔だ。
「自転車で行くとか?」
「専用のロードバイクやウェアじゃないと尻の皮が赤剥けるんだよ。そもそも十何万もするような自転車を買う金すら惜しい」
 たしかに、行き先にもよるだろうが十数万もあれば何往復かはできる。そのときの痛みを思い出しでもしたのか、琥太朗は眉を寄せて軽く左右に揺れながらお尻の位置を直した。
「ねえ紫桜。足音とか開いている戸とか、怖くなかった?」
「どうして?」
「これだけ古い家に一人暮らしなんだ、幽霊かもって怖がるのが普通だろ」
 紫桜は目を細め、琥太朗の顔をじっと見た。
「琥太くんがそれを言う? 幽霊はいるかいないかわからないけど、幽霊とは違う何かはいるって断言したの琥太くんだよ。それに、いい何かは懐かしい匂いがするって教えてくれたのも琥太くんでしょ。樟脳の懐かしい匂いがしてたから、これはきっといい何かだって。悪い何かだったら怖かったかもしれないけど……琥太くん?」
 紫桜に睨まれても動じなかった琥太朗がぽかんと間抜け面になった。
「信じてたの? 俺の話」
「信じるもなにも、実際に何かはいるし、懐かしい匂いもするし、琥太くんの言ってた通りだったから……」
「紫桜はいつだって俺のことを信じてくれたよね」
 琥太朗は懐かしさを噛みしめるようにほんの少し目を細めた。
「疑った方がよかった?」
 子供だから尚のことだったのかもしれない。理論的に淡々と説明されれば疑うよりも納得してしまう。大人になるにつれ綻びが出ることもなく、ベンチのおばあさんも似たようなことを言っていたのだから、あながち出任せというわけでもなかったのだろうし。
 そもそも、琥太朗はそんな嘘をついてまで人の気を引きたがるような性格ではない。むしろ、目立ちたくないと考えるタイプだった。
「わかりやすく証明できないものほど人は否定したがるんだよ」
「でも、ベンチのおばあさんは見たって言ってたでしょ。それって証明じゃないの?」
「見間違いって言われるのがオチだよ。実際に座敷童子も天狗も河童も、話ばかりで実在の証拠がない」
「そうかなあ……」
 ベンチのおばあさんの話しぶりは、実際に目で見て体験した人の実があった。
 人に聞いた話はちゃんとそう断りを入れ、自分自身も疑ってかかっていることは柔らかな言葉ながらはっきりそう言っていた。自分の体験はこれとこれ、人から聞いた話で信じるに値する話はこれとこれ、相手が出任せを言っていると感じた話はこれとこれ、半分は出任せだろうがこの部分は本当かもしれない、そんなふうに彼女の話には明確な線引きがあった。
 ふと思い立ってダイニングを振り返った紫桜は、大きく目を見張った。
「琥太くん、……証拠」
 そこから目を離さないまま琥太朗に指先で知らせる。

 木皿にのせた塩大福が、ものの見事に消え失せていた。

 ダイニングテーブルの前に立った琥太朗は、腕を組んだ難しい顔で空っぽの木皿を一心に見つめている。
 テーブルの上には餅とり粉がこぼれており、よくよく探せば床の上にも落ちていた。
「今頃桐箪笥の中で食べてるのかな」
 粉は和室に方に向かって落ちている。
「なくなってたパンは桐箪笥の中から見付かった?」
 紫桜は一瞬、何を言われているのかわからなかった。
「なんで?」
「座敷ぼっこは人と同じように食べものを消化できる躰を持っているわけじゃない」木皿を見つめたままの琥太朗が言った。「なくなったものは別の場所から出てくることが多い」
「そうなの?」
「そうらしい。だから勘違いだと思われがちなんだけど、それにしては有り得ない場所から出てくるから疑問は残る。その不快感が霊の仕業じゃないか、祟りではないかという思考へと変化する」
 琥太朗はようやく木皿から目を離し、紫桜に顔を向けた。
「実は……住み処かもって思った日から桐箪笥は開けてないんだよね。人の家を勝手に開けるのはどうかと思って」
 紫桜は琥太朗の真っ直ぐな視線から逃れるように木皿に目を向けた。いい年して人形遊びでもあるまいし桐箪笥を座敷ぼっこの家と言ってしまった自分が妙に恥ずかしかった。
「開けても大丈夫だと思うけどね。本当に住み処なら、そこでパンがカビてるだろうし」
「うそ。早く言ってよ」
 慌てて和室に向かおうとした紫桜の手を琥太朗がぱしっと掴んだ。
「待って。先に訊きたいことが幾つかある」
 紫桜は琥太朗の手に引かれ、再びソファーに腰をおろした。

「俺が、暑いのも寒いのもダメな適温の幅の狭い人間だってこと、覚えてる?」
 いきなりなんの話かと訝しみながら紫桜は肯いた。夏は暑いと言ってはへばり、冬は寒いと言っては縮こまる。何かとそれプラスアルファの言い訳をしながら琥太朗は紫桜の家でだらけていた。
「この家、快適すぎるだろ?」
「快適だけど、それが何か?」
「紫桜は相変わらず鈍いなあ」
 悪口を言う琥太朗の目が嬉しそうなのは、性格の歪みからか。紫桜は琥太朗の性格の歪みの原因をあれこれ想像しようとして、琥太朗の背景が全く見えないことに気が付いた。
 待ち合わせはいつもベンチのおばあさんのいるバス停だった。どうしてか、今日はこたくんと遊ぼう、と思いついてバス停に向かうと、そこに必ず彼はいた。ずっとそこにいたわけでもなさそうで、時々はバス停の向こうから駆けてくることもあった。
「琥太くんって勘がいいの?」
「少なくとも紫桜よりはいいと思う」
 なんとなく面白くない紫桜は、ふーん、とわざと気のない声を出す。
「いい? 今は夏。梅雨も明けたばかりの猛暑の東京。七月の終わり」琥太朗は淡々と話す。「時間は午後二時を少し回ったところ」
「それがどうしたの?」
「どうして冷房なしで居られると思う?」
 やたらと真剣に訊かれた。琥太朗の目が真っ直ぐ紫桜を射す。
「風通しがいいからじゃないの?」
「家の前で立ち話をしていたときは暑かっただろ」
「暑かったね」
「春に引っ越してきたって言ったよな。これまでにエアコンのスイッチ入れたことは?」
「んー、ないかな。そういえばないかも」
「閉めきって出掛けて、帰ってきたときに家の中がむわっとしてたことは?」
「ない。どっちかといえば少しひんやりして気持ちいい」
「梅雨の最中、湿気を感じたことは?」
「なかった。そういえば、お風呂にカビも生えたことない……」
 怖いくらい真剣な琥太朗の問いかけに答えているうちに、紫桜も、あれ? と思い始めた。木々に囲まれ、近くに水が流れているから涼しいのだとばかり思っていた。だとしても、快適すぎるのではないか。
「もしかして、変?」
「もしかしなくても変だろ」
 そういえば、外であれだけの爆音を立てている蝉の声が、ここにいると遠い。聞こえないわけではないのに、気になるほどうるさくない。
「蝉の声も……」
「俺はまずそれが気になった。この家の門をくぐった途端、蝉の声がすっと遠退いた」
 それで琥太朗はきょろきょろしていたのか。紫桜の納得を見た琥太朗が小さく頷く。
「俺の天敵が虫全般だってこと、覚えてる?」
「そうだ! 蚊がいない!」
 木々に囲まれ、草が茂り、水が流れている。それなのに、網戸に虫が留まっていたこともなければ洗濯物を干しているときに目にした覚えもない。
 ようやく紫桜にも事態が呑み込めた。
「え? もしかしてここ、呪われた土地とか?」
「やっぱそっちか」
 琥太朗が溜め息をつきながら肩を落とした。
「うそ、本当に呪われた土地なの? だから、民俗学の人が見たいって言ったの?」
「紫桜、近い」
 ソファーの端と端に座っていたはずなのに、気付けば紫桜の目の前に琥太朗の顔があった。琥太朗の指先が身を乗り出していた紫桜のおでこをぐいっと押す。子供の頃にもよくやられた。紫桜はむっとしながらも「ごめん」と元の位置に戻った。
「なんで呪われてると思った?」 
「え、虫がいないから?」
「虫はいるだろ。ほら、あのあじさいの葉の上にいま蛾が留まってる」
 よくよく目をこらしてようやく葉陰に留まっている茶色っぽい蛾を見付けた。よりによって蛾とは……こういうときは蝶やカタツムリの方が聞こえがいいのに。と考えたところで、紫桜ははっと思い出した。
「蝶が飛んでるのは見たことあるかも」
 記憶の奥にひらひらと揺らめく小さな蝶の姿が浮かぶ。そうだ、間近に見たことがなかっただけで、アマガエルが跳ねているのも見たことがある。
 なんだ、呪いじゃないのか、と紫桜は肩の力を抜いた。
「軒下に蜘蛛が巣を張ったことは?」
「ない……けど、えっ、それってやっぱり?」
「だから、なんで呪われるって方向に考えがいくんだろうなあ」
 心底情けないと言わんばかりに琥太朗が溜め息をついた。
「呪われてるんじゃなきゃなんなの?」
 紫桜の純粋な疑問に琥太朗が目を細める。子供の頃も単純に思ったことを質問すると、琥太朗は待ってましたとばかりに滔々と話し始めるのだ。
「呪いじゃなくて、祝いだとは思わないの?」
「祝いって、誕生祝いとか結婚祝いとかのお祝いのこと?」
「そう。祝福や恩恵のこと」
「恩恵……もしかして、座敷ぼっこの恩恵でこの家は快適なの?」
 琥太朗は否定するでもなければ肯定するでもない、曖昧な笑みを口元に浮かべた