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03 琥太朗 そうだ! こたくんだ!
正確な名前も知らなければ、当時何年生だったかもわからない、年上の男の子。ほんの少し下がり気味の目尻にくりっとした瞳。すっと通った鼻筋は子供心にもかっこよかった。
“こたくん”という記憶のしっぽを掴んでしまえば、あとはそれに連なるようにするすると面影が蘇る。
少しくたびれた黒いTシャツ姿は今も変わらず、ポケットがたくさんついた黒いズボンを履いているのも同じ。足元は土に汚れたスニーカーだったのが、夏にもかかわらず黒いミリタリーブーツに変わっている。ズボンのポケットに色んなものを詰め込むクセは変わらないようで、長めのもっさりとした髪は無造作というよりは雑すぎる寝癖ヘア。これで笑うとえくぼができたら間違いないのに、今は疑わしそうに目を凝らしている。声変わり前の高めの声で外国人のような発音で紫桜と優しく呼ぶ……。
「どちらさま?」
低く唸るような警戒の声に、紫桜は記憶との摺り合わせを中断した。と同時に、何かに気付いたように彼の目が見開かれていく。目の前にいるのが紫桜だということに彼も気付いた。それが紫桜にははっきりとわかった。
「紫桜?」
三つの音が、彼の口の中でころころと転がされた。昔と変わらない少し独特な発音。
「そうです。小学校の時に一緒に遊んでもらった、東北で、ベンチのおばあさんの昔語りを聞いたり……」
「親にゆかりって呼ばれてた? あの紫桜?」
あの頃と変わらない発音がずっと低い声で蘇る。
「お久しぶりです」
目を丸くしている彼に軽く会釈する。紫桜は、信じられないと顔に書いてある彼に上から下までしげしげと眺められた。
「そういう見方、ちょっとどうかと思いますけど」
「おお、紫桜が言い返した。そっか、ちゃんと言い返せるようになったんだ。偉い偉い」
彼と遊んでいた頃の紫桜は本当に口下手の引っ込み思案で、思っていることの半分も口にできない子供だった。今でもその傾向は残っており、よく小関に注意されている。そうだった、ちゃんと言い返せるよう彼に特訓されたことを紫桜は思い出した。当時、ちょっとどうかと思う、が紫桜の精一杯の反論だったことまで克明に。
ひょろりとした立ち姿に笑みを満面に浮かべた彼の頬には見覚えのある窪み。間違いない、あの男の子だ。
「ん? なんで紫桜がここにいんの?」
「ここ私の家なんですけど」
紫桜はこぢんまりとした数寄屋門を指差す。
「は? 紫桜って天埜なの?」
彼がすんなり天埜をあまのと読んだことに紫桜は少なからず驚いた。
「天埜 紫桜と申します」
紫桜はわざと丁寧に一礼した。
「あ、これはご丁寧に。狭知 琥太朗です」
彼は軽く会釈を返した。子供の頃はそんなに変わらなかった身長差がぐんと開いている。
「さち? こたろう?」
「そう。狭いを知るで狭知、琥珀の琥に太朗のろうは朗らかの方。そういえば、あんだけ一緒にいたのに名前、ちゃんと教え合ったことなかったっけ。紫桜は紫の桜。それは覚えてたんだけど……天埜だとは思わなかった」
数寄屋門にかかる表札は大叔母が掲げたままにしている。昔ながらの長方形の板に墨で書かれた表札。流れるような美しい書風を紫桜は気に入っている。
父も母も転勤が多かったせいか表札というものに頓着しなかった。特に防犯意識があったわけでもなく、仮住まいにしかならない家のためにいちいち表札を作るのが面倒だったのだろう。かといって間に合わせのいい加減なものは間違いなく母の感性からは外れる。紫桜が知る限り玄関に天埜という二文字が掲げられていたのは、祖父が残した実家にしかない。
「どうしてここに?」
紫桜が尋ねると、琥太朗は、そうだった、とでも言いたげに一度頷いた。
「うちの教授が来る予定だったんだけど……家を見せてもらえないかって話、聞いてる?」
「聞いてますけど……民俗学の研究者?」
「そうそう、一応第一人者的に偉い人なんだけど、昨日腰を痛めちゃって。孫にいいとこ見せようと座敷でシュートのまねごとしたらすっころんでグキッとやったらしい」
「それで?」どうして琥太朗がここにいるのか。
「俺も一応同じ大学で民俗学の講師してる」
「大学の講師? 琥太くんが? えっ、琥太くんっていくつ? 私より二つか三つくらい年上だと思ってたけど……」
講師というからにはもっと年上だったのかもしれない。
「んー、今二十八。あれ? 二十八だよな、俺」
彼はごそごそとポケットから取り出した財布の中から、「一応身分証明しとく」と大学の職員証を差し出した。同じ区にある私大。生年月日は紫桜より三年早い同じ春生まれ。証明写真は着られたようなスーツ姿で、髪は無理矢理なでつけたのか全く似合っていないオールバック。表情は冷めている。ひとことで言えば胡散臭い。
「二十八歳で大学の講師ってなれるものなの?」
紫桜がイメージする大学の先生はもっと年配者だ。写りの悪さを指摘する気にもならないほど最悪の証明写真付きの職員証を返す。
「なれちゃったんだよ。人材不足でさ」
照りつける日射しに汗が滲む。蝉の声に負けじと話しているせいで気付けば互いの話し声が大きくなっていた。
「立ち話もなんだし、よかったら寄っていきませんか」
「だから、寄りに来たんですよ、紫桜さん。相変わらずちょっとぼけてるね」
「えっ、と、でも約束は二時って聞いてたんですけど……」
「ちょっと早く着きすぎただけだから」
ちょっと……って、まだお昼前だ。約束は午後二時。
「一刻も早く見たくて」
そうだった。彼は好奇心の塊みたいな人だった。おまけにせっかちで、尻込みする紫桜の手を引いて色々なところに連れて行ってくれた。
「先にシャワー浴びてもらってもいいですか」
「あ、やっぱ臭い?」
気まずそうな彼は自分の脇の匂いをすんすん鼻を鳴らしながら嗅いでいる。不思議と彼は昔からあまり体臭のしない人だった。
「臭くはないけど、全体的に埃っぽいというか……」
そのまま家に入られたら家の中が埃っぽくなりそうだ。子供の頃もそうだった。いつも土埃と汗にまみれ、よくうちのシャワーを貸していた。
「大学の職員寮を改修するからって追い出されちゃって。俺今ホームレスなんだよ。大学の研究室で寝泊まりしてるから風呂に入れなくて。一応身体は拭いてるし、洗濯物と一緒に頭も洗面所で洗ってるし、ひげはちゃんと剃ってるんだけど、やっぱダメ?」
「いい大人が何やってるんですか。銭湯とかコインランドリーとか色々あるでしょ」
「紫桜銭湯行ったことある? 一回五百円近くするんだよ? それこそ毎日行ってたら結構な出費になっちゃうだろ。コインランドリーは溜めに溜めたところで乾燥まですると千円くらい軽くかかっちゃうし……」
よく動く口と同じくらい、数寄屋門をくぐったあとの彼の目も隙なく動いている。研究者の目とはこんなにも鋭いものなのか。そういえば、子供の頃もこんなふうに鋭く何かを見つめていた気がする。
玄関の軒先にぶら下がる角灯に彼が目を剥いた。
「これ……」
「アンティークっぽいですよね」
「ぽい、じゃなくて、アンティークだよ」
シンプルな黒い鉄製の角灯は、カンテラのように持ち運びができる。
「吊り灯籠っていうんだ。これ、大正、いや、もしかしたら明治?」
指先で触れた瞬間、彼は納得の顔になった。
「明治だ。今から百三十六年前に作られてる」
いつ作られたかをはっきりと言い切る琥太朗は学者そのものだった。紫桜は素直に感心した。よくよく吊り灯籠を観察している姿は、子供の頃に何度も見た“こたくん”と重なる。
「紫桜って本当にここに住んでんの?」
「そうですけど……」
「いいなあ。こんな家に住めて」
玄関をぐるりと眺めた琥太朗が心底羨ましそうに溜め息をついた。
「古い家ってさ、温かくない? 気温とかそういうことじゃなくて、温かみがあるっていうか、過ぎ去った時間に守られているというか」
玄関の鍵を開けると、背後の琥太朗は目を細めて玄関の柱を撫でていた。
「わかるような気がします。古い家に一人は怖くない? って言われるんですけど……」
「は? ここに紫桜一人で住んでんの?」
「そうですよ。大叔母から相続したのがこの春のことで……」
「いやいや紫桜さん。一人暮らしの家に知らない男上げちゃダメでしょ」
急に低い声を出した琥太朗に紫桜は思わず笑いそうになる。
「知らない男って、琥太くんなのに? 今更? お風呂入らなくていいの?」
紫桜はこれ見よがしに「ただいま」と声をかけ、玄関の引き戸を開ける。
むっとした顔でしばらく悩んでいた琥太朗は、急にへにゃりと情けなく表情を緩めた。紫桜の中に埋もれていたかつての親近感がむくむくと蘇ってくる。
「風呂お借りします。おじゃまします」
「遠慮なくどうぞ」
心なしか背を丸めて小さくなった琥太朗は、再度「おじゃまします」と敷居をまたいだ。
「いやー、久々にいい湯だった。痛み入ります」
彼の入浴中に紫桜は大叔母の弁護士に連絡を入れ、件の研究者が幼馴染みだったので立ち会いは不要だと伝えると、なんとまあ、奇遇ですねえ、と大袈裟なほど驚かれた。
弁護士は民俗学の教授とは旧知の仲らしく琥太朗のことも見知っており、狭知君にも女性の知り合いがいたんですねえ、とやたらと感慨深げに洩らしていた。
「弁護士先生に連絡入れておいたから」
「あー、立ち会い? いいの?」
「先生だってお忙しいでしょ。琥太くん、お昼そうめんでいい?」
「おっ、そうめんは好き」
「相変わらず冷麺は苦手なの?」
「苦手だねえ。蕎麦もラーメンもあんま好きじゃない。うどんは好き。讃岐より稲庭派だけど」
「白い麺しか食べないんだよね」
紫桜はくすくす笑いながら鍋を火にかける。
紫桜は琥太朗に対して遠慮のない自分に驚いていた。こんなふうに気安く接することのできる人がいるとは、自分のことながら驚きである。幼い頃の刷り込みとは恐ろしい。
リビングの掃き出し窓から庭を眺める琥太朗の背中は、あの頃よりもずいぶんと大きくなった。転んで膝を擦り剥いて、琥太朗に背負われたこともある。
「ん? 琥太くん、着替え持ち歩いているの?」
入浴前後で黒いTシャツの首元がクルーネックからVネックに変わっている。ひょろっとして見えるのに、Tシャツ一枚でも貧弱に見えない。それなりに鍛えているのかもしれない。
「ああ、あれが俺の全財産」
琥太朗が指差したのはリビングの入り口に置かれている大きな黒いリュックだ。
「さっきまで着ていた服は?」
「だから、あの中」
「埃っぽいまま?」
「そのまま」
「洗濯機使う?」
溜め息混じりの紫桜の提案に、琥太朗は待ってましたとばかりに素早くリュックの中から洗濯物を引っ張り出した。どう見ても二、三日分はありそうだ。
「パンツも洗っていい?」
「嫌だって言っても琥太くんのことだからこっそり洗うんでしょ」
「こっそり洗うだけの分別は持ってる」
「それ分別って言うの?」
紫桜は呆れながら洗剤などの在処を教えるために、洗濯物を抱えた琥太朗と一緒に洗面所に向かう。
「この家ってさ、ものすごく繊細に改修されてるんだね」
「そうなの?」
「そうなんだよ」
琥太朗が洗面台に置かれた洗面器の縁を指先でなぞる。木製の黒いカウンターの上に陶器の鉢がのった洗面台はかなりおしゃれだ。
「この大鉢、洗面器にしちゃってるけど、古伊万里だよ」
「古伊万里?」
「これもアンティーク。排水用の穴が空いてなければ美術館収蔵クラスの骨董」
紫桜は驚きながらまじまじと洗面器を眺める。蔦模様が青一色でびっしりと書き込まれた、どちらかといえば地味な大鉢だ。伊万里焼といえば錦絵のような派手なイメージがあったせいか、どうにも信じられない。
「この洗面台は黒檀だし」
「黒檀……」
「いまどきはエボニーって言った方がわかりやすいか」
「エボニー……」
黒檀もエボニーもどこかで聞いたことがあるような気がする程度で、どんなものなのかさっぱりわからない。話の筋からして木材の種類だろう。
「紫桜って家とか家具とかにあんま興味ない?」
「興味はあるけど……たぶん見かけだけ?」
デザインにばかり目が行って、材質を気にしたことはなかった。
「相変わらずころっと騙されそうだな」
口は悪いのに、心配そうな目は昔と変わらない。だからきっと、タイムスリップしたみたいにあの頃と同じように接することができるのだろう。
「ん? 鍋噴いてない?」
「あっ!」
紫桜は慌ててキッチンに戻って鍋の火を消した。噴きこぼれたお湯がそこかしこに飛び散っている。惨状を眺めながら紫桜は溜め息をつく。苦手なのだ、家事全般が。特に料理が。キッチンクロスで鍋周りを拭いていると、鍋に指先が触れて「あちっ」と飛び上がる羽目になる。とにかく苦手なのだ。
「あーほら冷やして。俺がやるから、紫桜はめんつゆ用意して」
琥太朗に手首をつかまれて指先が流水に晒される。琥太朗の目が仕方ないなと笑っていた。いいところを見せようとしてチョイスしたのがそうめんなあたり、すでに底は見えているようなものだ。
「慌てないでゆっくりやればちゃんとできるんだから」
子供の頃と同じ注意を受けて、紫桜は肩を落とす。
「紫桜は変わらないな」
「琥太くんだって変わらないよ」
琥太朗は何をやるにも器用で、紫桜は何かにつけて不器用だった。三つ子の魂百までとはよくいったものだ。
「ざる出して」
言われるがままざるを出せば、琥太朗は茹で上がったそうめんを手際よく水で締めた。
「冷蔵庫覗いていい?」
今更取り繕う気もない紫桜が許可を出せば、ざっと中を確かめた琥太朗は手早くそうめんの薬味や付け合わせのサラダを作ってくれた。紫桜は自分に呆れた。そうめんを茹でるだけで付け合わせにも薬味にも気が回っていなかった。琥太朗との再会に舞い上がって一つのことしか考えられなくなっている。浮かれ気分が一気に落ち込む。
「一応野菜はあるんだな」
「サラダくらいは作れるから……」
「おっ、素直だね」
「今更見栄を張ったところで……」
すでにぎっしり詰まった冷凍食品を見られたあとだ。
「いいもんみっけ。使っていい?」
紫桜が頷くと、琥太朗は機嫌よく取り出した冷凍の刻みオクラをめんつゆの中にざくざく落とす。
「いいなあ、マイ冷蔵庫。俺も自分の冷蔵庫あったら冷食びっしり詰め込んどきたい。あとアイスも」
琥太朗は紫桜を否定しない。なかなか思っていることを口にできなかった紫桜から、琥太朗は急かすことなく、絶妙な相槌で導くように言葉を引き出していく。だから紫桜は、安心して自分のペースで思っていることを言えるようになったのだ。ただし、琥太朗に限ったことだったが。
そうめんを食べ終えたところでタイミングよく洗濯が終わり、琥太朗は手慣れた仕草で洗濯物を物干し竿に広げていく。見事に黒一色だ。
「物干し竿がちゃんと竹ってとこがもう」
竿竹を吊り下げる金物も古いもののようで、目を細めた琥太朗は感心しきりだ。
からっと晴れた夏日。乾いた風が縁側に干した洗濯物を小一時間もしないうちに乾かしてしまうだろう。紫桜はそれを少し残念に思った。
「でさあ、」
洗濯物を干し終わった琥太朗が、縁側からリビングに戻りがてら何気なく言った。
「なんか居るだろ、この家」