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02 座敷ぼっこ


「小関さん、樟脳って知ってます?」
 何かと仕事を教わることの多い小関とのランチで、紫桜はふと訊いてみたくなった。
「ショーノー? 大脳と小脳の小脳?」
「いえ、防虫剤なんですけど、古い箪笥や衣装箱で嗅ぐような独特の匂いの……」
「ああ、クスノキのね」
 仕事以外では口の重い紫桜が珍しく話しかけたせいか、小関の声が弾んでいる。
 普段から必要最小限の受け答えしかしないことに罪悪感のようなものを感じていた紫桜は、小関の嬉しそうな顔に申し訳なくなる。本当は話したいことはたくさんあるのに、いざ話しかけようとすると頭の中にあったはずの話題がすぽんと抜け落ちてしまうのだ。
「あれ? でもうちは昔から匂いのつかない防虫剤使ってたけど」
「うちもです」
「だよね。昔は匂いありだったんだよね、いつ頃変わったんだろう」
 小関がグルテンフリーのベーグルサンド片手に軽く首を傾げる。その絶妙な角度は小関の研究の成果だ。自称平凡顔の小関は自分の見せ方をよく研究している。とはいえ、紫桜の目に映る小関は美人だ。一度そう言ったら、一回り以上も年上の小関がかわいらしいとしか言いようのない茶目っ気たっぷりな顔で、それはすっぴんを知らないから、と笑っていた。
「商品名にもなるくらいだから、画期的だったはずなんだけどなあ。今の防虫剤ってピレスロイド系だよね」
 小関はよく疑問を口にする。賢い人は些細なことにも疑問を感じるものなのだと、小関を見ていると気付く。そして、彼女は疑問を疑問のままにしておかない。今もスマホで検索していた小関が、一九八八年かぁ、と不満気に呟いた。えー私生まれてたー、絶対に生まれる前だと思ってたのにー、とも。
「で? その樟脳どこで嗅いだの? もしかして例の築百年の家?」
 紫桜は大叔母の遺した家を相続した。
 母はここぞとばかりに散々な愚痴をこぼし、父はどこかほっとしたように笑っていた。
 生涯独身を貫いた大叔母は、紫桜の他にも従兄弟たちに遺産を残していた。そのくせ、それぞれに宛てた遺言などはなく、遺産相続に関する事務的な文言しか遺されていない。中でも紫桜が最大の相続人であったことが判明した途端、降下の一途だった母の機嫌はあからさまに上昇した。
「うちにある古い桐箪笥に樟脳の匂いが染み付いていて。先日久しぶりに嗅いだんです。特にそれにまつわる思い出があるわけでもないのに、なんとなく懐かしいような気になって」
 小関に相続の相談をした際に、実際に見に行って気に入ったなら是非にでも貰っておけ、と強く勧められたことも後押しとなった。
 すでに引っ越しも終わり、通勤が今までよりもずっと楽になっている。
「あー、私は土の匂い嗅ぐと懐かしいような気になるかも。子供の頃に特に土いじりして遊んだって記憶はないんだけど、どうしてだか、あーってなる」
「特にいい匂いってわけでもないんですけどね」
「いい匂いじゃないからじゃない?」
 小関に言われるとなんだかそんな気がしてくるから不思議だ。
「で? 住み心地はどう? 古い家に一人だとなんか怖くない?」
「そうでもないです。何度かリフォームされているみたいで、特にお風呂やキッチンが比較的新しいせいかそこまで古い家って感じもしませんし」
「だったら!」
 小関は声を潜めながら強めるという器用なことをした。
「これを機に積極的に彼氏も作っちゃえば? 相続した家が古くて一人じゃ怖いんですーって家に誘ういい口実になるでしょ」
「作ろうと思って作れるなら苦労しませんよ」
 苦笑いを返す紫桜に小関ははっとしたように眉を下げた。
「あっ、ごめん。これってセクハラになるかも」
 小さく首を振ることで否定する。少なくとも紫桜はどう答えていいか困りはしても、彼女の心配が伝わってくるせいか嫌な気はしない。
「もう本当に大きなお世話だと思うけど、その大叔母さんみたいに独身を貫こうって決めてるわけでもないんでしょ?」
「そうなんですけど……」
 これまで何度かいい人だなと思うことはあった。相手からの好意を感じたこともある。ただ、その手に引かれたいと思うまでには至らない。紫桜が他人と積極的にかかわろうと思えないのは、転校の繰り返しで人生のリセットを経験しすぎたせいかもしれない。



 紫桜はおはぎを手に、今日こそは! と意気込みながら帰路を急ぐ。
「ただいま」
 家に帰ったときは、驚かせないよう玄関戸を開ける前に声をかけることも忘れない。
 幽霊はいるかいないかわからないけど、幽霊とは違う何かは間違いなくいる。そう紫桜に教えてくれた男の子がいた。その子はその“幽霊とは違う何か”についての知識が豊富で、そのうちのひとつが紫桜の住み始めた家に居る……はずなのだ。
 玄関の明かりを点けると、廊下の先にガラス玉がひとつ転がっていた。紫桜はさり気なくそれを目に入れながらすうっと鼻から息を吸い込む。微かに漂う樟脳の匂い。紫桜は心の中で快哉を叫んだ。間違いない。絶対に居る。

 紫桜は小学三年から四年にかけての二年間、父の転勤で東北に住んでいたことがある。“幽霊とは違う何か”について教えてくれた男の子とはそこで出会った。
 その男の子に手を引かれ、色々な場所を冒険した。薄暗い路地の先の空き地で野良猫を撫でたり、雑木林を抜けた先の丘でおやつを分け合ったり……思い返せば冒険とも言えないような他愛のない小さな出来事ばかりだ。それでも、自然豊かな土地柄も相まって、行く先々には純粋な驚きと感動があった。いつも少しだけひんやりしていた男の子の手。その手に導かれた先にある景色は、目に映る全てがきらきらと輝いて見えた。
 元々引っ込み思案で人見知り気味の紫桜はなかなか新しい学校に馴染めず、あの二年間はその男の子がいなければ乗り越えられなかっただろう。
 “いい何か”は知ってる匂いがするんだ。前にどこかで嗅いだ気がする匂い。でも、“よくない何か”はどんなに臭くてもどんなにいい匂いでも今まで嗅いだことのない知らない匂いなんだ。いい人と悪い人がいるように、同じ“何か”でも“いい何か”と“悪い何か”がいる。
 今となっては顔も名前もはっきりとは思い出せない男の子がぐっと声を潜めて教えてくれた、絶対に間違えてはいけないこと。

 大叔母から受け継いだ家にいる“何か”は桐箪笥を住み処にしているようだった。そのせいなのか、存在を感じるときには必ずふわりと樟脳の香りが漂う。

 座敷ぼっこ。東北に住んでいた頃に繰り返し聞いた昔語り。
 晴れた日は必ず、バス停の脇に置かれている古びたベンチにちんまりと腰掛け、ほこほこと日向ぼっこしているおばあさんがいた。いつもにこにこ微笑んで紫桜とその男の子に昔語りを聞かせてくれたものだ。日向の匂いがする彼女の言葉は方言が強く、紫桜は何を言っているのか半分も理解できなかったものの、その男の子はおばあさんから“幽霊じゃない何か”について様々なことを聞き出していた。座敷ぼっこもそのひとつだ。ほかにも、河童や天狗、マヨヒガや神隠しなど、不思議な昔語りをたくさん教わった。
 子供の頃に座敷ぼっこだけは自分の目で見たことがあるのだと、ベンチのおばあさんが懐かしそうに目を細めていたのを覚えている。

 木皿の上におはぎをひとつのせ、大叔母の遺したどっしりとしたダイニングテーブルの上に置いておく。座敷ぼっこは小豆が好きなのだと教えてくれたのもベンチのおばあさんだ。おばあさんの知る座敷ぼっこは衣装箱を寝床にしていたそうで、他にも金平糖や綿飴など甘い物を好んだらしい。ただし、綿飴はあとで家のそこかしこがべたべたになるから気を付けろ、と口をすぼめていた。
 いつしか曖昧になっていた記憶は、樟脳の香りが鼻先をくすぐるたびに少しずつ鮮明さを増していく。



 紫桜は根気よく甘い物を木皿にのせてダイニングテーブルの上に置いておいた。朝までそのままなら紫桜の朝ご飯になる。今のところ朝ご飯にならなかったことはない。
 木皿を置き始めて二週間も経つと、目一杯膨らんでいた気合いが段々に萎んでいった。三週間も経つと、勘違いだったのかな、と弱気になった。すると、紫桜が最初に用意したガラス玉やおもちゃのブロックが有り得ない場所からころんと出てくるようになったのだ。

 その日の朝も、靴の中に入っていた青いブロックを取り出し、しげしげと眺めた後、鞄の中から取りだした塩飴と一緒に上がり框の上に置いて家を出た。
 どうも試されているような気がする。ここは我慢比べだな、と紫桜は改めて気合いを入れる。
 ベンチのおばあさんは、座敷ぼっこが見えるのは子供と年寄りだけで、その家に住む者であれば見えない大人でも存在を感じることはある、と言っていた。

 門の格子戸を開けて通りに出ると、わん、と蝉の声が一気に耳に押し寄せてきた。同時に刺すような日射しに目が眩み、むわっとした熱気に出勤する気力が削がれる。大人にも長い夏休みが必要なのに、と紫桜は恨みがましく一歩を踏み出した。

 仕事帰りにあんパンを買った。わざわざ発祥のお店まで行き、せっかくだし冷凍しておけばいいやと、並んでいた全てのあんパン五種類と自分用に惣菜パンも五種類買い込んできた。
 あと少しで家に着くというところで大叔母の旧知である弁護士から連絡が入った。
 家の住み心地はどうか、今年も厳しい暑さだ、などの前置きのあとで、実は、と歯切れ悪く切り出してきた。
『大学で民俗学を研究している者が天埜さんのお宅を見学させていただきたいそうで……』
「うちですか?」
『ええ。なにやら古い民家を一軒一軒訪ねているようでして、構造などを確認したいそうです』
「耐震とかそういうことですか?」
『いえいえ。建築学的に、ということではなく、あくまでも民俗学的に、ということです』
 紫桜には建築学的と民俗学的の違いがよくわからない。建築学の方はある程度想像できても、民俗学の方は全く想像できない。しかも、当時の様子を残した古民家ならまだしも、紫桜が相続した家は細部までリフォームされている。当時のまま残っているのは主要な柱や梁などの骨組みだけだろう。
『さすがに若い女性の一人暮らしということを鑑みて最初は断ったのですが、あまりにも熱心といいますか、外観を見せていただくだけでもということでして、人物は私が保証しますし、当日は私も立ち会いますので……』
 弁護士の言葉の端々から断り切れなかったことが伝わってきた。
「先生が立ち会ってくださるなら」
 紫桜の苦笑まみれの了承に、『いやあ、助かります』と一層気まずそうな声が返ってきた。
 そもそも、なぜそんな話が転がり込んだのかといえば、その民俗学者は弁護士の知り合いらしい。何かの話のついでに、やたらと風情のある戦前の日本家屋がまだ東京にも残っているんだよ、と口を滑らせたことが発端だとか。古いだけの家ならそこら中にあるが、あれほど愛されている家はなかなかない、などとうっかり自慢してしまったのが裏目に出た、と申し訳なさそうに懺悔された。

 大叔母はこの家を慈しんでいた。それは、住んでみれば一層しみじみ感じられる。古い家なのに軋みもなければ歪みもない。だから尚のこと、戦前から建つ家だとは思えない。余程しっかり建てられたのだろう。戦火を免れた地域ではあるものの、それでも百年近く経ってもびくともしないのは誇れることだ。紫桜もきちんと慈しんであげれば、きっとその先も遺すことができるだろう。



 弁護士と約束の土曜日。紫桜はお昼前に茶菓子を買いに家を出た。近所の和菓子屋の夏季限定の葛まんじゅうは人気で、午前中のうちに売り切れると聞いて予約しておいたのだ。その際に名乗ると、女将が「あら、天埜さんって、もしかして美織さんのお身内の方かしら?」と声をかけてきた。大叔母もこの店の常連だったらしい。
 あまの、という姓はそう珍しくはないが、天埜、と書くとなると割と珍しい。今のところ紫桜は父方の親族以外で天埜姓に出会ったことはない。
 紫桜はふと気付いて歯がみした。大叔母も家にいる何かに気付いていたはずだ。どうして今まで考えつかなかったのか。
「大叔母がいつも決まって買っていたものはありますか?」
「塩大福だけは欠かさず。これじゃないと、といつも仰ってくださいまして」
 塩大福、と聞いて、紫桜は先日の塩飴を思い出した。そうだ、あの日ブロックと一緒に塩飴を置いていったのに、帰ったらブロックだけがそこに在った。すっかり忘れていた小さな事実に紫桜は目が覚める思いがした。
 どの座敷ぼっこも甘い物が好きだとは限らない。
 ということは……紫桜は先日買った惣菜パンを思い出した。一人の食事の際、紫桜は本を読みながら食べる悪癖がある。そのせいで、その日も惣菜パンをいくつ食べたかわからなくなってしまったのだ。二つしか食べていない気がしているにもかかわらず、五つあったはずの惣菜パンは二つしか残っておらず、いつの間に、と自分に呆れていたのだが……。
「では、塩大福も四ついただけますか」
 美人女将は心得たとばかりに品のいい笑顔と一緒に包んでくれた。

 和菓子屋の紙袋を下げてくねる小径を歩いていると、家の前にバックパッカーが佇んでいた。大きな黒いリュックを背負った男は、身動ぐことなく門を見据えている。
 紫桜はいつでも通報できるよう一一〇をタップしたスマホを握りしめ、ゆっくりと近付いていく。近所に人の気配があることに勇気付けられながら、黒尽くめの男の背後から声をかけた。
「何かご用ですか?」
 ゆっくりと振り返ったその人を目にした途端、紫桜は目を見開いた。息をのむ。どくん、と心臓が力一杯脈打った。
「こた、くん?」
 輪郭の曖昧だった記憶が一気にくっきりとした線を描き出す。
 幽霊とは違う何かは間違いなくいる。そう紫桜に教えてくれた男の子がそこに居た。