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01 白昼夢


 気付いたときには走っていた。
 喘鳴と動悸が耳を冒す。息が切れる。胸が苦しい。
 繰り出す足が鉛のように重い。とてつもない疲労感が全身をよろめかす。
 それでもどうしてか、走り続けずにはいられない。

 気が付いたときには追い立てられていた。
 わけもわからず逃げていた。

 饐えた匂いが鼻につく。
 生ぬるい風が頬を打つ。
 霧のような雨が全身に纏わる。

 何に追い立てられているのか。
 何から逃げているのか。
 何一つわからないまま、しつこくくねる仄暗い路地を息も絶え絶えにひた走る。

 苦しい。
 苦しくて苦しくて、頭の中にはそれしかなくて。もういっそ足を止めてしまおうか。気が付けばそんな誘惑に取り憑かれていた。

 薄闇の中、ふと目に飛び込んできた仄かな灯り。淡く揺れる琥珀色の光があまりにも柔らかで、心の奥底から何かが溢れ出しそうになる。
 淡い光に包まれた格子戸に駆けてきた勢いのまま縋り付こうと腕を伸ばした途端、格子戸の向こうにゆらっと影が浮かび、すっと滑るように戸が開いた。
 殺しきれなかった勢いのまま腕を掴まれ格子戸の中に引き込まれる。
 掴まれた腕にぴりっと静電気のようなかすかな痛みが走った。どこか懐かしい匂いが鼻先をかすめる。背後で戸が素早く閉まった。
 擦りガラスの入った格子戸。雨の気配がきれいさっぱり断ち切られた。

 引き入れてくれたのは奇妙な格好の背の高い人だった。
 金襴豪華な着物をガウンのように羽織り、その中にはタイトな黒のカットソーと同じく黒の細身のパンツ。腕を掴んでいる指先は紫に変色し、その爪は桜の花びらような淡いピンク。顎で切り揃えられた艶めくボブは黒のストレートで、爪同様桃色の唇は妖艶に弧を描いている。
 仄明かりの中にあっても鮮やかだった。

 急いで。こっち。
 その音は中性的な見た目を裏切り、あまりに低く、耳の奥を鈍く揺らした。
 息つく間もなく手を捕られて連れて行かれたのは、いくつものふすまを通り過ぎた最奥の座敷。土足で畳の上を駆けることに罪悪感を覚えながら、そこで初めて自分がやたらとごつい黒の編み上げブーツを履いていることに気付いた。だから足が重かったのか。

 この向こうに隠れて。
 開かれたのはひと棹の桐箪笥の扉。下に二段の抽斗。その上には両開きの扉。扉の中には、着物を収める独特な形状の盆が並んでいた。
 その最上段にきれいな菫色と淡い桃色の指先が触れる。ふと、指先に花が咲いているようだと思った。
 次の瞬間には、滑るように引き出しが奥に引っ込んでいき、桐箪笥の中に狭くゆるやかな階段が出現した。

 急いで。
 わけもわからず急き立てられる。
 追いかけてきた何かに捕まったらお終い。なぜかそれだけはわかっている。何がお終いなのかはわからないまま。

 桐箪笥に足をかけ、階段を上ろうとした瞬間に湧き上がった衝動。
「また会える?」
 振り向きざまにどうしてそんな言葉が口を衝いたのか、我ながら不思議だった。
 花咲く指先を持つその人は驚いたように軽く口を開き、それから、はっとするほど清廉に笑った。
 縁があれば。
 そこで強烈な既視感に見舞われた。私はこの人を知っている。根拠もないのに、妙な確信があった。
 その人は面白いものを見付けたかのように少しだけ眉を上げた。
 またね。
 耳元に寄せられた桜色の唇が息を吹きかけるように囁くと、ぴりっとした静電気のようなかすかな痛みが耳朶に残った。

 不祥の気配が近付いた。はっと顔を上げる。不穏が霧のようにどんどん広がっていく。口元を引き結んでひとつ頷いたその人に、同じように頷きで応える。
 急いで身をかがめながら桐箪笥の中に飛び込み、ゆるく狭い階段を這うように進んでいく。聞こえるのは自分が立てる荒い息遣いと衣擦れの音だけ。切迫感に押し潰されそうになりながら必死に手足を動かしていると、背後で桐箪笥の扉が閉まる気配がした。



 ❖



 ぱちん、とシャボン玉が弾けるように紫桜は我に返った。
 そこは自分のデスクで、目の前には取りかかろうとしていた仕事がそのままの状態で静止している。
 眩暈のような、酩酊のような、頭の芯が細く震えているような……。一瞬、現実がどこにあるのかわからなくなった。混乱を落ち着かせようと、ゆっくり瞬きながら辺りを見渡す。そう、現実はここにある。見慣れた光景に違和感はない。
 ふと壁に掛かったアナログ時計が目に入った。午前十時十五分。ファイルを開いたときに確認した時刻と同じ。
 どれほど走っていたのだろう。とにかく苦しかった。もう吸うことも吐くこともできないほど息は上がり、口の中は砂を詰められたように乾ききっていた。脇腹は何本もの太い針が刺さったように痛み、足は何十キロもの負荷がかかったように重かった。全力疾走したあとの倦怠感。余韻が口内にも脇腹にもふくらはぎにも残っている。
 寂れた薄暗い路地を思い出す。白昼夢にしてはあの空気感はやけにリアルだった。そう、あの匂い。少し鼻の奥がつんとする懐かしい匂い。戸が開いたときに香ったあの匂いは、どこで嗅いだものだったか……。

「あ、ねえ、それって締めいつだっけ?」
 右斜め前のデスクからかけられた声にはっと意識が引き戻される。小関の訝しそうな視線から逃れるように、紫桜はモニターに映し出されたデータに目を落とす。
「来週です」
「じゃあ、先にこっちお願いしてもいい? 明後日までなのにうっかり忘れてた」
 急ぎの仕事を受け取ると、周りに気付かれないよう深呼吸して気持ちを切り替え手を動かし始めた。

 今のは一体なんだったのだろう。
 疑問はいつまでも頭の片隅にこびりついて離れなかった。



 とはいえ、一日二日、三日経ち四日経ち、一週間も過ぎてしまえば、繰り返される単調な日常の中であの白昼夢のような何かは端からぽろぽろと剥がれ落ち、いつしか記憶の中に埋もれていった。二週間も過ぎれば、そういえばそんなこともあったな、という薄さで記憶の中に沈み、三週間も過ぎれば思い出すこともなくなった。

 ちょうどその頃、父方の祖父の末の妹が急逝した。祖父の弟妹は五人。長男であった祖父と末の長女であった大叔母とは二十も年が離れており、父は葬儀の席で、姉弟のように育ったことを淋しさを滲ませぽつぽつ語っていた。
 その大叔母が紫桜の名付け親らしい。紫の桜なんて、と母は大叔母のことを好く言わない。

 紫桜は今でもはっきりと覚えている。七歳の誕生日に大叔母に遇ったのだ。
 平日の下校時にいきなり着物姿の女性に真っ直ぐ見つめられ、全身で警戒する紫桜にその人はゆったりと近付いて来た。
「あら、あなただったのね、紫桜」
 その声は今でも折に触れ耳に蘇る。大叔母に「紫桜(しおう)」と呼ばれた瞬間、大袈裟なことをいえば自分の存在がこの世に定着したような気がしたのだ。
 家への帰り道、紫桜の傍らを歩く大叔母は、あなたのおじいちゃんの妹なのよ、と自分の存在を鷹揚に説明した。ほんのわずかな距離を並んで歩いただけ。母が一方的に決めた焦げ茶色のランドセルを、地味ねえ、と大叔母は平然とこきおろし、紫桜には澄んだ水の色が似合うのに、と続けた。驚くばかりの紫桜に隣を歩く大叔母はたおやかに微笑みかけた。紫桜はパステルブルーのランドセルが欲しかった。それなのに、母は顔をしかめて却下し、彼女が選んだ焦げ茶色のランドセルをさっさと注文してしまったのだ。

『ゆかり? 聞いてるの?』
 母は紫桜のことを「ゆかり」と呼ぶ。幼い頃など自分の名前をゆかりだと思い込んでいたほどだ。現実には存在しない紫の桜。しかも桜は儚く散るということで母は紫桜の名前から桜という字を抹消した。父が幾度となく母に注意しても、母は未だに紫桜のことをゆかりと呼び続けている。そのせいで紫桜が小学校の一時期いじめに遭っていたことを母は知らない。
『ゆかり?』
 ふと何かを思い出しそうになったとき、母の訝しげな声に意識が引き戻された。
「聞いてる。その家、どこにあるの?」
 親戚の集まりにも滅多に顔を出さなかった大叔母が昭和元年に建てられた古い家を紫桜に遺したらしい。
 母から聞いた住所は山手線の外側、商業地よりも住宅地の方が断然多い、路線は変われど通勤も楽になりそうな好立地だった。
『納税分の土地の売却とか手続きはあの人が雇った弁護士が全部やってくれるって言ってるんだけど……ゆかり、いらないわよね』
 言葉尻を強めた母の直情的な性格にいまさら異を唱えたところで仕方がない。一瞬耳に毒が流れ込んだ気がして、紫桜は咄嗟にスマホを遠ざける。ディスプレイに表示された「母」という文字をまじまじと眺めてから、再びスマホを耳に当てた。
「お父さんはなんて?」
 父も知らなかった大叔母の隠れ家。
『そりゃあお父さんはあの人の味方だもの』
 敵も味方もないだろう、と思ったところで口には出さない。少なくとも紫桜には大叔母に対する悪い印象はない。ほんの一時の出会いだったとはいえ、全てを丸ごと包み込むかのような大叔母のおおらかな気配は、人を拒絶することで自分を守っている母とは真逆だった。子供じみた母への反発心からか直感的に好意を抱いた。おそらくそれが、母は自分とは別の人間だという気付きの端緒だったように思う。



 細く何度もくねりながら続く、再開発から取り残されたような、歴史を感じさせる路地の先にその家はあった。
 春風の心地好さに目を細めながらゆるくカーブした小径を歩いていると方向感覚がおかしくなり、角ともいえないカーブを二度ほど過ぎた時点で自分が思っている方角と太陽の位置がおかしいことに気付く。
 スマホ上の地図を見る限り行き先に間違いはない。にもかかわらず、どこかに迷い込んだような気持ちになる。
 心細さに何度も地図アプリを確認する。これで空模様が悪く、人の姿がなければさらに不安を煽られただろう。幸いにもよく晴れた休日の昼下がり。車一台がなんとか通り抜けられる裏通りは、狭い道ながらも会釈と一緒に擦れ違う人もいれば、家の外で作業している人たちの姿も見える。風に乗って子供のはしゃぐ声も聞こえてくる。

 路地の突き当たり、こんもりと緑に覆われた一画が大叔母の隠れ家だった。
 表札を確かめ、モダンにアレンジされた数寄屋門の格子戸を開ける。からら、と鳴った小気味よい音と滑らかな動きに頬が緩む。飛び石に導かれながら苔むした坪庭を通り過ぎると、こぢんまりとした玄関に到着した。
 古い和洋折衷の家屋。弁護士から聞いていた通り、それほど大きな家ではない。見た感じ古民家というよりはレトロモダンといった感がある。軒先に吊された角灯がなんとも好い雰囲気を醸し出している。
 一度見に行きたいと申し出た紫桜に、大叔母の友人だったという初老の弁護士は、「本当に風情のある家屋で……万が一手放すか貸し出すようなら是非お声がけください」と真顔で言っていた。

 小さな庭を吹き抜けていく風が清々しかった。
 バッグから弁護士に渡された鍵を取り出し、防犯上たいして役に立ちそうもない鍵を開け、一度深呼吸し、思い切って玄関の引き戸を開ける。がらら、と思ったよりも大きな音が響いた。
 家の中はしんと深かった。
 吸い込まれそうな静けさと暗さはどうしてか紫桜に胎内を想像させた。ここから始まる。そんな気がしてならなかった。
 家に上がる前に家の周りを一周し、木製の雨戸を開けていく。ぐるりと縁側に囲まれた小さな家ながら、隣との境界である垣根からはどの方向も三メートルほど離れており、緑に覆われた庭は歩を進めるごとに少しずつ趣を変えていく。
 小さな土地ながら木々や草花に囲われ、さながら森の中の一軒家を想像するほど緑が濃い。
 木々の陰になってよくは見えないものの、地図上では左右を隣家に挟まれ、背後にはずいぶん低い位置に小川が流れている。草木を分け入って覗き込めば、コンクリートで固められていない昔ながらの石積みの下に犬走りが設けられ、そのさらに下を澄んだ水がさわさわと流れていた。くねる小径はこの小川に沿っているせいかもしれない。

 光の入った家の中はリフォームされていた。キッチンやお風呂、トイレや洗面は最新式とまではいかなくともそれなりに新しく、使用感はあれど不快感はない。蛇口のクロムメッキもきれいに磨かれており、薄らと埃を被っているだけで小傷もない。
 小振りなアイランド型のダイニングキッチンが八畳ほど、モダン障子で仕切られた十二畳ほどのリビングの床はフローリングというよりは板張りといいたくなるほど幅広の無垢板が敷きつめられている。廊下を挟んだ八畳の個室が和洋それぞれ一部屋ずつある平屋は、住み心地がよさそうだった。
 家財を全て遺してくれた大叔母の趣味もまた好かった。
 水屋箪笥に収められた陶器はどれもシンプルかつ品のいい物ばかりで、リビングにはゆったり寝転べるほど大きなソファーが主役顔で置かれている。テレビはなく、古めかしく大きなスピーカーがソファーに向けられている。洋室には大きめのベッドフレームが残されており、その傍らにはステンドグラスの傘がついた電気スタンドがサイドテーブルの上で俯いていた。和室には青が香る真新しい畳が敷かれ、板畳の上には桐箪笥が一棹、アイアンでできたモダンな行燈とともに置かれていた。

「これ……」
 ふと、いつかの白昼夢が蘇る。
 これまであまり縁がなかったせいか、桐箪笥はどれも同じに見える。それでも、紫桜の心はあの桐箪笥だと強く訴えている。恐る恐る手を伸ばし、その指先が桐の質感を捉えると、ますますその思いは強くなった。
 下に二段の抽斗。その上に両開きの扉。黒い金具や引き手。あの時見た桐箪笥と同じに見える。
 前飾りは家紋のような透かし彫りが施されている。ハート型の花びらが五つ。桜だろうか。
 紫桜は思い切って扉を開けた。
 ふわっと香る懐かしいような独特の匂い。ずらっと並ぶ抽斗のような盆。中はどれも空だ。盆の隙間から背板が見える。
 紫桜は逸る心を静めるように大きく息を吸い、息を止めて最上段の盆を押してみた。あの日のようにスライドすることもない。落胆と安堵の入り混じった溜め息が紫桜の口からこぼれ出た。
「そうだよね」
 自分に言い聞かせるかのような独り言に、つい苦笑いが浮かぶ。
 念のため、と下二段の引き出しを開けてみると、下段に薄茶けた和紙が見えた。そっと腕全体を使って慎重に引き出す。ずいぶんと古いたとう紙は今にも崩れてしまいそうだった。
 ゆっくりと丁寧にたとう紙を開いていく。見えたのは金糸が織り込まれた豪華な布。
「うそ……」
 それは、あの人がガウンのように羽織っていた着物だった。目の奥に蘇る鮮やかな色彩。桃色の唇、紫色の指先に桜色の爪。
 樟脳の匂いが鼻を衝く。あの白昼夢の中で嗅いだ匂い。そこから広がるもう一つの景色。そう、あの日の大叔母からもこの匂いがしていた。七歳の誕生日に一度遇ったきりの大叔母。
 子供の頃の記憶を蘇らせたせいか、たたたた、と駆けていく小さな足音が聞こえた気がした。


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