閒宵人の涙
閒宵人の涙 06


「ミュー、日本人は風呂が好きだろう? 温泉の風呂を見付けたんだが、入るか? ちょっとぬるいが」
 勢いよく頷いたのは言うまでもない。

 私たち閒宵人は、汚れない。どれほど薄汚いソファーに座っても、決して汚れることはない。ケイだけがいつも汚れるので、その度に「理不尽だ」と嘆いている。
 そんなわけで、ケイはケビンに比べるとほんのり汗臭い。とはいっても、涙を糧にしているからか、お風呂には入れない割にそれほど強烈に臭いというわけではないのが不思議だ。
 きれいめな水が出る場所を見付けては、身体を擦り洗いしているものの、水で擦り流すだけではそこまできれいにならない。シャンプーやボディソープは空のボトルらしき残骸しか見付からない。
 ここは湧き水を引いているようで、今まで見た中で一番きれいな、それこそ見慣れた透明で臭みのない水だった。

「私より先にケイだよ」
「そうだな。ケイ、風呂入ってこい」
「待って! やっぱり先に入る。ケイは最後に入って!」
 思わず声を上げたら、ケイがなんとも情けない顔をした。

「大丈夫だ。石鹸を見付けた。からっからに乾いているが、使えるだろう?」
 ものすごく肌に悪そうだ。ケイを見て、小さく首を振れば、心得たように頷いていた。ケビンはちょっと大雑把なところがある。

 ケビンが見付けたお風呂は、建物の一番奥に隠されるように存在していた。いわゆる源泉掛け流しなのか、こんこんとお湯が流れている。少しぬるめだけれど、十分温かい。特に匂いもない。
 これならケイに先に入ってもらって、身体がふやけたところで擦ってあげればきれいになるんじゃないかと思う。垢がぼろぼろ出そうだ。

 ずっとお湯が流れ続けていたせいか、そこはほかと比べてずいぶんときれいだった。洗い場はそれなりに汚れているものの、湯船の中はぬめりすら感じられない。
 ざっと洗い場の汚れをお湯で流す。転がっていた木の桶は、かなり質のいいものだったのか、少し漏れるものの十分にその役目を果たしてくれた。

 というわけで、先にケイに入ってもらい、ふやけただろうと思うところで、ケビンと一緒にケイをこれでもかと擦った。擦るのは私のタオルハンカチと、ケビンのハンカチだ。どうせ明日の朝にはきれいな状態に戻っている。

「なんか、労働したぁ」
 そう言いながらお湯に沈めば、隣でケビンがくつくつと笑う。

 ぴっかぴかになったケイは、すっかり垢が落ちてきれいになった。くんくん匂いを嗅いでも汗臭くない。擦りすぎて至る所がひりひりすると言いながら、ケイは先に上がった。

「ケビンもお風呂って入ってたの? 日本人以外はシャワーだけってイメージがある」
「こういう風呂には入らないな。日本で付き合い程度に入ったことがあるくらいだ」
 ふーん、と言いながら、手足を伸ばす。

 半分露天風呂のような造りのそこは、三人で入っても余裕がある。さぞやお金持ちの別荘だったのだろう。まるで旅館のお風呂みたいだ。目に映る景色が、月明かりさえない荒野でなければ。

「ミュー。確認しておくべきことがある」
「ケイの卵のこと?」
「ああ。できたらどうする?」
「できると思う?」
「いずれはな」
 誤魔化すことなく答えられた。

「一度卵を産んだら、もう私の存在は隠せなくなるんでしょ?」
「おそらく。二度三度と産卵するケースを俺たちが知らないだけかもしれない。どのみち常にケイと一緒にいることになるだろう」
「でも、どうして排卵するんだろう。私たちの身体は変わらないはずなのに」
「だからこそ、数時間のうちに大量の精を入れるんだろう。そこで身体を変化させるんじゃないか? 人が産卵するなんて、身体のつくりが変わらない限り、ありえないだろう?」
「私の身体も変わるのかな」
「それはわからない。俺たちも受精した女性がどのような変化をするのかまでは知らないんだ」
 申し訳なさそうに言われた。

 人ではなくなるのかもしれない。そう思ったら、突然溢れるように涙が零れた。

 お湯の中でケビンに引き寄せられ、慰めるかのように抱きしめられる。
 全てをさらけ出している関係なのに、二人には他と比べようもないほど親しみを感じているのに、きっとそこに愛情はない。仲間意識はあっても、恋愛感情はおそらくない。
 だからこそ、ケイの卵を産むことも、それによって身体が変化するかもしれないことも、受け入れられない。覚悟できない。

 快楽に逃げていたツケが、ここにきて現実を突き付けてきた。

「その時になったら考えよう。起こってもいないことを悩んでも仕方がない」
「でも、いずれは起こることでしょう?」
「起こるかもしれない。起こらないかもしれない。いずれにしても、俺たちはミューの側にいる。少なくとも俺は、ケイが死んでも一緒にいる」
 そうだ。私たちは姿が変わらない。年をとらない。けれどケイは……。

「ケイは自分の子供を欲しがるかな」
「それは、ミューとケイが決めることだ」
 だが、とケビンは言葉を続けた。

「俺は、子供は愛情のもとに生まれてくるものだと思っている」
 その通りだと思う。私とケイの間に、互いの子供を望むほどの強い愛情があるとは思えない。

「だいたいな、おむつがないから死ぬほど大変だぞ。気が付くとションベンまみれか、クソまみれだ。クソまみれのガキを抱えたまま逃げなきゃならん」
 ケビンが心底うんざりした顔をする。涙だけを糧にしているのにクソは出るんだと、聞いてもいないことまで教えてくれた。

「あの頃は、本気でよく泣いた。ガキを育てるのがあれほど大変だとは思わなかったよ。おかげで俺の涙をたらふく舐めたケイは、無駄にでかく育った」
 肩をすくめながら、ケビンは笑う。言葉とは裏腹に、穏やかで楽しそうな笑顔だった。

「ケビンは、結婚してなかったの?」
 今まで、なるべく迷い込む前のことは聞かないできた。思い出したら気が狂いそうになるから。

「ああ。仕事が忙しくて、それどころじゃなかった」
「恋人も?」
「決まった相手はいなかったな」
 つまり、遊び相手はいたということか。

「ミューは? 恋人はいなかったのか?」
 頷けば、そうか、と言ったままケビンは黙り込んだ。

 本来は愛する人との行為、あの時ケイはそう言った。それはケビンから教わったことなのだろう。種付けだった行為は、いつしかセックスに変わった。それはきっと快楽しか生み出さない。
 いつか、そこから愛が生まれるのか。それとも……。



 その日の夜、気を利かせたのか、ケビンが先に見張りをかってでた。
 セーフルームの大きなベッドに二人で寝転がる。二人とも、種付けをしない日は、私を守るかのように、もしくは抱き枕のように、その腕に抱きしめて眠る。
 もしかしたら、単に人の温もりが恋しいだけかもしれない。それはきっと、お互いに。

 いつものようにケイの腕の中で、少し窮屈な思いをしながらもその体温に身体の力を抜き、閉じそうになる瞼を必死に開け、ケイに子供が欲しいかと尋ねてみた。
 ケイはしばらく考え込んだ後、静かに口を開いた。

「閒宵人たちの時空では、俺の子供は美羽が最後まで腹で育てて産むんだろう?」
 頷けば、暗がりの中、すぐそばにあるケイの顔がわずかにしかめられた。

「俺は、美羽が産んでくれるなら、と思う。閒宵人を食らう女の腹に、自分の子を託そうとは思えない」
「ケイの卵を、私のお腹に戻せば、私が産めるんじゃないの?」
「どうかな。たとえ一粒しか産まない王の組織の子でさえ、こっちの女の腹に託すんだ、産めないんじゃないか?」
「それって、食料にするために、ってことなんじゃないの? こっちの女の人のお腹でも育つなら、食料にしてしまえばいいってことなんじゃないの?」
「そうかもな。だが、もしそうじゃなかったら、そのせいで美羽がおかしくなるなら、俺はいらない」
 そう言いながらケイは、今度ははっきりと顔を歪めた。

「ただ、この先俺が死んだら……俺の代わりが必要になる。そのために俺の子供をつくる必要がある」
 思わずケイを凝視する。せつなそうに眉を寄せるケイは、泣いているかのように見えた。

 そのとき初めて、本当に初めて、ケイの子供を産んであげたいと思った。同情じゃない。それは断言できる。
 それはきっと母性のような、よくわからない本能のようなものだと思う。

「もし、卵ができたら、私がケイの子供を産む」
 ぐっと引き寄せられ、ぎゅっと力一杯抱きしめられた。

「俺は、おっさんを、美羽をおいて先に死ぬんだ。それが、どうしようもなく……」
 言葉をつまらせたケイにぎゅっとしがみつく。

 ずっと、自分のことしか考えていなかった。ケイの気持ちなんて考えたこともなかった。
 ケイがどんな気持ちで私に種付けしているかなんて、ケイが私たちのことをどう考えているかなんて……。

「ごめんね。愛する人との行為を、私にさせてしまって」

 ずっと、奪われたと思っていた。犯されたと思っていた。私は、すごく自分勝手だ。
 ケイだって奪われたのに。ケイだって望まない行為だったのに。

「それは美羽だろう? 俺はあの時、こんな気持ちになるとは思わなかったんだ」

 人は変わる。気持ちも変わる。この先、どう変わっていくのか。
 こんな荒廃した不条理な場所で、私たちは何を想えばいいのか。