閒宵人の涙
閒宵人の涙 05ケイは、その五感が今まで以上に鋭敏になっただけではなく、比較的広範囲のことがわかるようになっていた。索敵というコマンドを得たのではないかと、二人は話している。
ケイはケビンから戦うことに関するあらゆる事を叩き込まれている。それは実際に存在するものから、想像上のものまで、あらゆる事をだ。だからこそ、得られているコマンドもあるのではないか、そう二人は考えているらしい。
今まで得てきた情報の中に、ケイほど精密なコマンドを持つものは王と呼ばれるの組織の中にも存在しない。
カメレオンが行うような擬態や、目の前のほんの一部を遮る盾のような遮蔽を使うものはいても、ケイの使うような光学迷彩や、その全てを遮断するバリアやシールドのような完全に全てを覆い隠すような遮蔽を使うものはいない。
それは、ケイの本来持つ素質にケビンの知識を得ているからこその進化ではないか、と。
そもそもケイは、生まれた瞬間からその存在を隠してきたのではないか、ケビンはそうも考えている。置き去りにされたり、捨てられたのではなく、ケイ自らが逃げ出した可能性。
生まれたばかりの子供にそんなことはできないだろうと思う一方で、ケイの能力を見る限り、その可能性はゼロではない。
「ケイのような存在があの組織の中にいれば、俺たちはすでに見付かっていたはずだ」
「今までケイのような人はいなかったの?」
ああ、と頷くケビンに、ケイはさっきから難しい顔をしている。
コマンドを得る。それがどういう感覚なのか、どういうことなのかがよくわからない。まるでゲームのようなイメージしかわかない。経験して覚えることの延長にあるのか、ある日いきなり使えるようになるのか。
元々、常に警戒して過ごしてきた二人だ。寝るときだって交代で寝る。敵を察知する感覚を磨いてきたのは間違いない。それが輪をかけてレベルアップしたということなのだろう。
「ねえ、唾液でそれほどまでなら、血液──」
「やめろ!」
ケイの険しい声に遮られた。
「美羽は俺に食われたいのか? そうじゃないなら二度と言うな」
睨み付けるように言われ、自分の不用意な言葉がどれほどケイを傷付けたのかがわかった。
ケイは自分の存在を嫌悪している。ケビンに育てられ、ケビンの感覚で育ったケイは、自分の存在を忌み嫌っている。
そんな、少し考えればわかることを、彼を傷付けないと知ることができなかった自分が嫌になる。
自分の愚かさ、怒り、羞恥、傲慢さ、たくさんの最低な自分に全身がかっと熱を持つ。握る手に力が入り、自分の浅はかさに唇を噛みしめた。
謝って許されることじゃない。
「ごめん、きつく言い過ぎた」
それなのに、どうしてケイが謝るのか。どうしてそんな風に優しく抱きしめ、背中を撫でるのか。
結局、ケイにその場で謝ることはできなかった。
私をセーフルームに隠し、二人は周囲の偵察に出掛けた。
ずっとケイの存在について考えている。
ケイは、本当に王という組織、クロマニョン人の子供なのか。ケイも未来からの閒宵人ではないかと考え、それは違うと即座に否定する。ケイは成長している。閒宵人はケビンを見る限り成長しない。私も同じだ。爪が伸びていないことに気付いてしまった。
突然変異や、特異体質。そういうものだとしても、クロマニョン人から私の知るよりずっと先の人類のような、そんなものに一足飛びに進化するものだろうか。
ケビンが考えてもわからなかったことを、私が考えたところでわかるはずもない。
前にケビンが言っていた、「夢のようなもの」とは、言い得て妙だった。
ここはどこかおかしい。
人以外の生き物がいない。いつも薄曇りのような空、月のない夜、変わらない天候。
そして、どこにも文字がない。家電に表示されているはずのメーカーのロゴも、お店の看板も、何もかもから文字だけが消えている。散らばる本や雑誌は絵や写真はそのままで、文字だけが抜け落ちている。
目にしている物が本当にそこに存在しているのか、それすら疑わしい。全てがあやふやで、自分の存在すらわからなくなる。
並行世界と呼ばれるパラレルワールドなのか、電脳世界と呼ばれるサイバースペースなのか、物語に出てくる別の世界なのか。
ここに迷い込んでから、夢を見ることが一切なくなった。それは、これが夢だからなのか。
私とケビンの声は、ケイの頭の中に響く。ケイの声は普通に耳から聞こえるのに。
私が話しているのは日本語。ケビンが話しているのは英語。ケイが話しているのはケビンに教わった英語。それが私には日本語に聞こえ、私の言葉は彼らには英語に聞こえる。そして、ケイはケビンと私の言語の違いがわかる。
本当に私が話しているのは日本語なのか。ケビンが話しているのは英語なのか。ケイが感じている言語の違いはどんなものなのか。
全てがはっきりとわからない。
涙がケイの糧となるのは、ケイだからなのか。ここに棲むものでもそうなのか。
唾液でケイにあれほどの変化が現れるなら、閒宵人を食らったものは、それ以上の変化が現れるはず。それなのに、ただ生きるための力にしか使われていない。それは、彼らが糧にしかできないだけなのか。ケイのように知識があれば、糧以上の何かに付加できるのか。
どう考えても、ケイは特別な存在だ。ケビンが生き延びていることも、私が生き延びていることも、ケイの存在にかかっている。
どこか間延びしたような鐘の音が、脱力しそうなほどマヌケなリズムで鳴った。
彼らが戻った合図。
扉の外にある細い三つのワイヤーを引くと、その先に繋がれた三つの鐘が鳴るようになっている。その鳴らし方によって相手がわかる仕組みらしい。ただ、ケビンの考えたメロディーがなんともいえずマヌケな音に聞こえて困る。
内側からひとつひとつ鍵を開けていき、三つもの分厚い扉を開けると、そこにいたのはケイだけだった。
「ケビンは?」
「上で使える物がないかの確認中」
いつも通りの彼に、小さく「ごめんなさい」と呟けば、ケイは目を細め、ただ静かな笑みを浮かべた。
「美羽は、俺が怖くないのか?」
「ケイは、私を食べたい?」
それはお互いに、絶対と言っていいほどの否定がこもった言葉。見つめ合い、互いにそれを無言で否定したあと、バカなことを聞いたと互いに呆れた。
見上げるケイの目には、私のそれまで知る「人」としての知性がある。ケビンの言う、ネアンデルタール人やクロマニョン人ではない、私たちと同じ現代人だと思う。
それは、ケビンに育てられたからか、ケイそのものが持つ性質か。
ケイは決して嘘をつかない。何かを誤魔化すことすらない。
それは、ケビンと二人で助け合って生きてきた中で必要がなかったからだろう。そんな風に考えることすら思いつかないようだ。
彼の言葉も目も、常に真っ直ぐに届く。その裏には何もない。
おまけに私をこのうえなく大切に扱ってくれる。
この別荘に向かう途中、一度脆くなっていた屋根を踏み抜いて、そのまま建物の倒壊に巻き込まれたことがある。彼は咄嗟にケビンの手を離し、私をその腕の中に閉じ込め、倒壊する建物から全身で守ってくれた。私は死なないのに。
「美羽に怪我がなくてよかった」
そう言って、ただ純真に笑うケイはあまりにも傷だらけで、心配のあまり泣き出してしまった私の涙を、どこか嬉しそうに舐め取っていた。
その後ケビンに、私を守ることに集中しすぎて倒壊に巻き込まれるとはどういうことだと、地を這うような低い声で叱られ、状況判断が的確にできていれば、倒壊に巻き込まれることはなかったはずだと、あの一瞬の出来事を分析しつつ、まるでアクションシーンのような指南に、かなりびっくりして涙が引っ込んだものだ。
目の前に立つ、日本人にしては大きな身体にゆっくりと抱きつく。筋肉質なその胸板は分厚くかたい。そっと耳を寄せれば、伝わってくるのは力強い鼓動だ。
同じだけゆっくりと、その逞しい腕に抱きしめ返される。
今まで生きてきて、ケイやケビンほど逞しい人を知らない。身近にそんな人はいなかった。それまで逞しいと思っていた人の身体は、二人を知ってしまえばどこか作りもののようにも思える。二人は逞しくもしなやかだ。
ここで生きていくということが、その逞しさに直接結びついている。ケビンがそれまでどんな風に生きてきたのかが想像できる。
「私も身体鍛えようかな」
「やめてくれ。美羽がおっさんみたいになったら……」
どれほど鍛えても、あそこまでにはならない。ちょっと呆れながら顔を上げると、ケイは本当に嫌そうな顔をしていた。
思わず吹き出すように笑ってしまう。嫌そうな顔をしていたケイの目が、その途端、柔らかに細まった。
「美羽、キスしてもいい?」
「いいよ」
唾液の摂取かと思い頷けば、頬に大きな手が添えられ、身をかがめて顔を寄せてきたケイの唇は、ただ触れただけで離れていった。
「キスは、親しい人との挨拶なんだろう?」
「それ、口にじゃないと思う。頬とかだよ、確か」
目を丸くするケイが面白い。どうせまたケビンにからかわれたのだろう。昨日も散々、感覚が敏感になったケイをからかって遊んでいた。
「ねえ、ケビンともキスすれば唾液がもらえると思うんだけど……」
そう言った瞬間のものすごく嫌そうな顔。
「美羽とするのはいいけど、おっさんとするのはナシだ。考えただけで寒気がする」
ケイは私を拾った直後に、種付け、つまり性に関する知識をケビンから急いで教わったらしい。それまで必要のない知識だったからか、詳しく教えてこなかったとケビンが微妙な顔をしていた。
男のケビンより、女の私を求めるのはケイの本能だろうか。ケビンとも平然とキスされたとしたら、それはそれで微妙だ。
ガタイのいい男が二人、舌を絡めてのキス……うっかり想像したら色々微妙すぎた。
「美羽、想像するなよ?」
ものすごく嫌そうな声が頭の上から落ちてきた。