閒宵人の涙
閒宵人の血 11


「ひとつになった気配はあるか?」
「いや、存在はふたつある」

 ケイが子供の自我を確認してすでに五日が経っている。もういつ産卵してもおかしくない。
 産卵は夕暮れ時になる。ケビンとケイがこれまで得てきた情報では、閒宵人の女性の産卵は、全て日暮れ時だったらしい。

 この世界の、この不条理さを変えることはできない。
 あの焔がこの世界の全てを飲み込んだとき、何かが変わるのだろうか。

 あれから、ケイが一度確認に行っている。すでに焔は超高層ビルの足下まで下がっているらしい。
 ただ、ここに棲むものには焔は見えていないようだと、ケイが首をかしげていた。ケイには見えているのに。

 ここに棲むものは、第三世界から迷い込んだ私たちにとっては、不条理な存在だ。
 けれど、第九世界に棲むものとすれば、私たちの方が不条理な存在だ。彼らはただ、生きるために迷い込んだものを食らっているだけ。
 もし、この世界の進化が、第三世界の退化と同義であれば、いずれクロマニョン人たちもネアンデルタール人のようになり、産卵することを考えれば、やがて人の姿を失うのだろう。

 焔は、閒宵人がこの場所で余計なことをしないためのコマンドではないか。
 そう考えてしまう私は、この世界に馴染んでしまったのかもしれない。いまなら、ケビンがきりがないと言っていた、その言葉の裏に隠された意味もわかる。
 ここは、第三世界の道理を押しつけていい場所ではない。異端は私たちの方だ。

「頼むから、ひとつになれ」
 ぼんやりと考えている傍らで、マッド佐伯が懇願の声を上げる。

 マッド佐伯は、ふたつの自我がひとつに統合された方の卵を持ち帰り、自我のない方の卵をここに残そうとしている。
 その逆になってしまうことはないのかと聞けば、それはないと断言した。ゼノが「ひとり」を連れ帰ることを望んだからだ。ひとつではなく、ひとり。

 どうすればいいのかがわからなかった。
 引き戻されるのは間違いない。ここに残ることはできない。ケイのかわりに卵を置いていかなければならない。ケイと卵、どちらも望めない。

 ひとりになってほしい。
 いくら考えても、そうは思えなかった。

 何度も考えたことがある。
 ケイかケビン、どちらかを選ぶべきなのかと。パートナーは、一人であるべきなのかと。
 どちらかなんて選べない。二人が一人になればいいなんて思えない。二人は二人であって、二人は二人だからこそ、私は二人を望む。
 だから、ひとつになってほしいなんて、そんなこと、願えなかった。

 ふたつの存在のまま、一緒に第三世界に戻ることはできないのか。
 そればかりを考えていた。
 どちらか一方なんて選べない。ひとつになってほしいだなんて思えない。ましてや、ケイと離れるなんて考えられない。
 私は、欲張りで、自分勝手で、わがままだ。



 それなのに。
 まだ、どうすればいいかがわからないのに。

 その日、目が覚めた瞬間、私は産卵した。

「あっ」
 気付いた時には、すでに卵がおりてきていた。
 産卵は夕暮れ時ではないのかと、夜が明けきる直前の薄闇の中、慌ててケイとケビンにそれを伝える。

 焦るあまり指先が震える私に代わり、同じように焦りながらもケビンがダブルファスナーを開け、ケイが部屋の扉を開け、大声でマッド佐伯を呼ぶ。
 彼が駆けつけた時には、小さな真珠のような卵が、ケビンの手のひらにのっていた。

 その数はふたつ。
 焔を纏った小さな粒が、二粒。

「ケイ! 気配は!」
「ふたつだ。ひとつじゃない」
 マッド佐伯の焦ったような声に、ケイが静かに答えたそのとき、無情にも引き戻され始めた。

 呆然とする私と、小さな命を護るかのように、ぎゅっと両手で包み込んだケビンを、ケイがしっかりと捕まえた。
 無意識に、ケイとケビンにしがみつく。二人とは何があっても離れたくない。



 戻ってきた私たちは、スピーカーから聞こえてくるざわめきと動揺の声の中、響き渡ったマッド佐伯の一喝に、我に返るかのように、揃って何度か瞬いた。

 ケビンはふたつの卵を逃さないよう、しっかりと両手を握りしめていた。
 私たちをしっかりと捕まえたままのケイの存在にほっとする。
 自分の両手が、それぞれの腕をつかんでいることに安堵する。
 二人の存在に、強ばっていた身体から力が抜ける。

 それなのに。
 ケビンがそっと開いたその手の中には、たった一粒しか残されていなかった。
 膝の力が抜けそうになり、ケイに身体を支えられる。

「大丈夫だ。気配はふたつある」
「本当? 卵ひとつしかないのに?」
「ああ。間違いない。気配は変わらずふたつある」

 こぼれ落ちる涙をそのままに、そっとケビンの手のひらに指先を伸ばす。
 恐る恐る触れた小さな存在。その瞬間、焔が指先に吸い込まれるかのように消え、しっかりとふたつの存在を感じた。

「よかった」
 その一言しかなかった。ケビンも、ケイも、同じ言葉を繰り返す。
 ケイティが、ふかふかの真綿のようなものを持ってきて、ケビンから卵を受け取った。

「おあずかりします」
 そう言って、ケイティは大切そうに両手で胸の前に抱え、センサーの部屋から出て行った。扉を開けて待っているマッド佐伯のサムズアップが見えた。



 そのまま、三人揃って検査を受ける。
 私の身体は何も変わっていなかった。卵を産んだはずなのに、何も変わっていなかった。

 ふたつの存在を感じるたった一粒の卵は、人工子宮の中で育てられている。

「正直、みんな手探りなのだ」
 そう、マッド佐伯が苦り切った顔で漏らしていた。

 どうすれば正しく育てられるのか、それは誰にもわからない。
 緊急招集がかかり、全ての研究者たちが日本に集められた。
 あらゆる事態を想定して、二十四時間体制で卵は育てられている。

 別の世界の子供が、初めて第三世界で生まれる。
 ただ、ゼノが無事に生まれることを望んだらしい。
 それは、無事に生まれる確証だと、研究者たちは歓喜した。



 それなのに。
 いい知れない不安が胸に渦巻く。
 何かを忘れているような、そんな気がしてならない。

 ずっと、「それなのに」と、その言葉が頭にこびりついて、その次に浮かぶ言葉で直前の思いが否定される。
 私は、何かとても大切なことを忘れている。
 どれほど思いを巡らせたところで、その答えにたどり着けない。

 戻ってきた私たちは、それまでと同じ日常に、またしても当たり前に馴染んでいる。
 ただ、あの日暮れの日課がなくなった。
 研究者たちは、第九世界との扉は閉ざされた、そう結論付けている。

 どうしてそんなふうに簡単に結論付けられるのか。
 私たちは何も変わっていないのに。ケイはコマンドを使えるまま、私たちは全ての言葉が第一言語に聞こえるまま、以前と変わらぬ状態なのに。

「ミュー、思い詰めるな。子供は無事なんだ。佐伯たちに任せておけば大丈夫だ」
 そうケビンが慰めてくれるのに、こびりついたかのように一抹の不安がぬぐえない。

「なあ、卵の中には一体しか確認されてないのに、どうして存在をふたつ感じるんだと思う?」
 そのケイの言葉は、核心を突いていた。

 卵の中には一体しかいない。
 卵は日に日に大きくなり、その殻は日に日に薄くなっている。
 けれど、何度確かめても、それが変わることはなかった。

 卵の中には一体しかいない。
 だからこそ、マッド佐伯の表情は険しいままだ。

 私が望んだからだろうか。
 ふたつの存在のままと。
 ふたつの存在は、ひとつの存在になるべきだったのだろうか。

 ゼノが望んだ「ひとり」とは、どういうことなのか。
 ひとつの存在なのか、ひとつの身体なのか。

「佐伯は、ふたつの性質を持ったまま生まれるだろうと言っている。それが、多重人格という意味なのか、それとも別の意味なのか……」

 ゼノは、ずっと日本に留まっている。
 それこそもう数ヶ月にもなる。前例のないことだと、漏れ聞こえてくる。
 それが、不安に一層の拍車をかける。

 ゼノが望む、私たちの子供の存在。
 どうして望まれたのかがわからない。

 れん、りん、ふたつの存在を思うと、その音が浮かぶ。
 そして、その音を聞いて思い浮かぶ文字が、煉と凜だった。別の文字を思い浮かべても、どうしてもそのふたつの文字に打ち消される。そしてそのふたつの存在を思うと浮かぶのは、真っ赤な熾火。
 間違ってはいない。二人は第九世界に連なるものだ。間違ってはいないのに、間違いであってほしいと心のどこかが悲鳴を上げる。

 私は、何を忘れているのか。

「俺たちの子供は、人ではないのかもな」
 そう、ぽつりと呟いたケビンの声に、心のどこかがそれを認め、別のどこかがそれを必死に否定する。

「ゼノが日本に留まっているのは、間違いなく俺たちの子供の存在があるからだ。その意味を佐伯に聞いても答えてはくれない。ただ、全ては俺たちから始まっている、そう言われたよ」
「私たちが始めてしまったってこと?」
 ケビンを見れば、わからない、と呟きながら、静かに首を振っている。
 ケイを見れば、どうしてかその顔を歪めていた。

「俺たちが、望んだんだ。美羽もおっさんも、最初にここに戻る時、何を願った?」
 その悲しみに満ちたケイの声に、身体が震えだした。

 そうだ、願った。
 二人以外いらないと。二人がいればそれでいいと。それ以外はいらないと……。
 どうして忘れていたのだろう。

 驚いたように目を見開いていたケビンが、その顔を悲しみに歪めた。
 私たちは、願った。
 あの場所で、あの荒廃した不条理な世界で、心の底から願ってしまった。

「俺たちは、俺たちだけを望んだんだ」
 ケイが初めて、涙を流した。