閒宵人の涙
閒宵人の血 09


 マッド佐伯の「非常階段はひとつじゃないぞ」の声に、ケイとケビンが一気に階段を駆け上がる。
 たとえ逃げたところで、この二人から逃れられるとは思えなかった。それほど彼らは、さらなる訓練を重ねてきた。
 ケイの腕から降りるべきなのだろうけれど、きっとケイは離さない。ならば邪魔にならないよう、身じろぎせずに息を詰めるだけだ。

 あっという間に、先に駆け上がっていった彼らに追いつきそうになり、二人の速度ががくんと落ちた。

「朝霧さん!」
 必死に足を動かすうちの一人が息をあげながら叫んだことに、ケビンとケイが瞬時に互いの手首を握り合い、光学迷彩で抱えている私ごと姿を隠す。マッド佐伯はまだずいぶんと下にいて姿が見えないから大丈夫だろう。

 ここで彼らが、一言でも「逃げろ」と発していたら、ほんの少しくらいは状況が変わったかもしれない。けれど彼らは、ただその名前を繰り返し叫ぶだけだった。
 こういうとき、訓練しているものとの違いがわかる。

 最上階のドアが、駆け上がってきた彼らの手によって開け放たれる。すかさず私たちも身体を滑る込ませた。私たちが滑り込んだ直後、扉は閉められ、数人の男がその背で扉を押さえつけた。

 展望フロアかと思っていたそこは、むき出しのパイプに大きな何かの機械のようなものが並んでいる、第九要塞にもあった機械室のような場所だった。
 非常階段の最後の一層は、それまでとは違い、隠された階段のようだったのは、元は管理者しか入らない場所だからだろう。

 本当の最上階。
 彼らが意図せず案内してくれなければ、きっと最上階だと思い込んでいた、展望フロアを探していただろう。

「どうかした? そんなに必死になって」 
──死なないんだろう? 閒宵人は。

 不意に耳によみがえるおぞましい声。
 同じ声が聞こえた瞬間、身体が震え出す。ぎゅっとケイにしがみつけば、耳元で「大丈夫だ。俺たちがいる」と、静かに囁かれた。

 どうしてなのか、今、どうしてもケイとキスがしたかった。
 光学迷彩で隠された中、ケイに自分からキスをすれば、そのキスはあっという間に深みを増し、互いの唾液が交換される。
 ケイとのキスに満足すれば、今度はケビンがほしくなる。ケビンに手を伸ばせば、当たり前のようにキスが落とされる。絡まる舌が気持ちいい。

 そう。そんなときなのに。
 どうしようもなく気持ちよかった。どうしようもなく幸せを感じた。
 いつの間にか、震えは止まっていた。

 彼らは、一気に階段を上ったことで息をあげ、喘ぎながら、それでも口々に何かを叫んでいる。おそらく私たちのことを彼に報告しているのだろう。
 がつんと大きな音が鳴り、背で扉を押さえていた男たちが吹っ飛び、鉄の扉が大きく開かれた。そこには、扉を蹴り飛ばしたであろう片足を上げたまま、ぜはぜはと息を上げたマッド佐伯の姿があった。
 渾身の一撃。ぼそっとケビンが呟いている。

 一瞬にして彼らに緊張が走る。
 マッド佐伯ひとりの姿に、彼らの表情が強ばった。

「ひとりじゃなかった! あの男の他に、大男二人と女がいた!」

 ケイの腕から降り、朝霧さんの正面にゆっくりと移動し、彼を取り囲む男たちのすぐ後ろに三人で立ち並ぶと、ケイがコマンドを解除した。
 その瞬間上がった、引きつった悲鳴のような耳障りないくつもの声。

「もしかして、美羽ちゃん?」
 この人に名前を呼ばれたくない。

「へえ。面白い格好してるね。何かのアニメみたいだ」
 この人の声は聞きたくない。

「どうしたの? もしかして、俺が忘れられなかった?」
 傍らに在る二人から怒りが伝わってくる。

 不意に笑いがこみ上げた。

「声、震えてますよ?」
 虚勢を張り、卑屈な笑みを浮かべていた彼の顔が、一瞬にして紅潮する。

「生意気!」
 あの時と同じ言葉を呻るように叫び、私に襲いかかろうと足を踏み出し、左右に立つケイとケビンの存在を目に入れ、たたらを踏んだ。

 どうして私は、こんな男の存在に怯えていたのだろう。
 記憶を封印してまで恐れる存在だと思い込んでいたのだろう。

 朝霧さん以外の男たちが、じりじりと後退り、次の瞬間には今し方駆け上がってきたばかりの非常階段へと殺到した。

「残念。封印済み」
 マッド佐伯の、ここぞとばかりの楽しげな声が耳に届く。
 がつんがつんといくつもの拳が鉄の扉を叩く音が反響している。

「あなたは逃げないんですか?」
「逃げられないんだろう?」
 質問に疑問を返したその声は、さっきまでとは違って震えてはいなかった。

「殺してくれるんだろう?」
 どこか恍惚とした響きを含んだ声。

 そんな価値すらない。

「まさか。お別れを言いにきただけです」
 目の前に立つ男が目を丸くする。

「許してくれるのか」
 どうして許されると思えるのだろう。あんなことをされて許す女性はいない。少なくとも私は許さない。
 私の中の脆くも尊い場所に土足で入り込み、柔らかくも儚いきらめきを踏みにじったくせに。
 なにより、私が傷つくよりもずっと、私の大切な二人が深く傷ついた。自分が傷ついたことより、二人を傷つけたことが許せない。
 きっと人は、自分のためより、大切なもののためなら、どこまでだって強くなる。

「まさか」
 ひどく落胆したような顔をされた。それはつまり、許されると思っていた証だ。

「私だけじゃなく、彼女たちもあんなふうにしたのに?」
「仕方ないだろう! そうじゃなきゃ食われていたんだ!」
 その声には焦りと怯え、それ以上に、この不条理な世界への怒りが込められていた。
 怒っていいのは、何もかもを奪われた彼女たちだけだ。

「知ってました? 私の肉を口にしただけであれば、永遠に彼らに食われることはなかったかもしれないんですって」
 彼の目が大きく見開かれる。

「何より。ケイを傷つけたことは絶対に許さない」
 自分の声が低く響いた。

「そんな化け物のどこがいいんだ!」
 思わず首をかしげる。

 どうしてだろう。身体が熱い。

「それってまさか、ケイのこと?」

 どうしようもなく、身体が熱い。

「そうだろう! そいつは! この世界の生き物だろうが!」

 まるで血が燃えているかのようだ。

 思い出した。

 これが──。



 焔。



 その瞬間、自分の中から透明な炎が噴き出した。
 ゆっくりと朝霧さんに近づく。

 目の前の男は、その顔を驚愕と恐怖に歪め、じりじりと後退る。

 その左右から、焔を纏うケイとケビンに腕をつかまれた男は、その瞬間、つかまれたところから透明な炎を噴き上げた。

 絶叫。

 身動きできない男に、ゆっくりと腕を伸ばす。
 畏怖にその顔を醜く強ばらせ、血の気のひいた蝋のような色で、かちかちとその歯が音を立てている。
 その胸の真ん中に、美しくも冷たい焔をゆっくりと渡した。

 叫喚。

「閒宵人は、死なないんでしょう?」

 のたうち回る彼を目にしても、何も感じなかった。
 本当に、驚くほど何も感じなかった。
 自分の中が、すごく静かだった。

 助けてくれ。背後からそんな音が聞こえたような気がした。

「きっと彼女たちも叫んだでしょう? 助けてって。あなたたちは、助けたの?」

 仕方なかったんだ。そんな音が聞こえた気がした。

「だったら、あなたたちも仕方ないよね」

 もうこれ以上、第三世界には戻さない。
 もう何も傷つけさせない。
 大切なものを傷つけない。

 ふわっと、自分の中から焔が噴き上がり、すぐ近くで同じように噴き上がったふたつの焔と絡み合い、ひとつになって舞い躍る。
 それは、すごくきれいだった。壮絶に美しかった。

 あたりが一瞬にして、ゆらめく透明な炎に包まれた。まるで透明な水の中にいるような艶めいたゆらめき。
 冷たくも美しい焔が、全ての穢れを覆い尽くす。



「ミウは、怒るとケイティ以上に怖いな」
 離れた場所から仰ぎ見たその超高層ビルは、その天辺から透明な炎を噴き上げていた。

「なんだかオリンピックの聖火みたい」
「きれいだよな」
「ああ。美羽の炎だ」
「違うよ。三人の焔だよ」
 透明な炎を纏うケイもケビンも、すごくきれいだった。どうしようもなく美しくて、心が震えて涙が零れた。それをケイが、焔を纏ったまま舐め取っていた。

 天辺で燃えさかる透明な焔が、ゆっくりとその位置を下げている。

「煉獄の始まりだ」
 正しくは凜獄だ。そう、マッド佐伯の重々しくも静かな声が続いた。

「佐伯博士、でもこれ、コマンドですよね?」
 なんだかマッド佐伯の言い方だと、すごく壮大で幻想的に聞こえる。

「コマンドだな」
 二人とも頷いている。

「君たちは、以前にも一度、私に焔を見せている。子供について怒りをぶつけた時だ」
 驚いて二人を見れば、ケイもケビンも驚いた顔をしている。

「火はないのに焔はあるって、そういう意味だったのか」
「そうだ。あのとき、君たちの血肉を摂取していてよかったと、あとで肝が冷えたものだ」
 ケイの納得した声に、マッド佐伯が薄く笑った。

 いずれ彼らは、穢れが浄化され、その心も身体も昇華するだろう。
 それがどれほどの時間を要するのか、それはわからない。

 私に断罪できる何かがあるとは思わない。
 きっと私も、いずれあの炎に包まれ、のたうち回るのだろう。
 それとも、ここではなく闇に堕とされるのか。
 どちらにしても罰を受けるのだろう。

 人が人を裁く、それはただの傲りだ。