閒宵人の涙
閒宵人の血 08「まだ自我を感じないのか?」
お腹に手を当て、子供の気配を感じているケイに、マッド佐伯がどこか焦りを滲ませた声を上げた。
朝霧さんたちは、姿をくらました閒宵人の女性を血眼になって探しているらしい。最上階から降りないといわれていた彼が、地上に姿を現すほど焦っていると、マッド佐伯が意地の悪い笑みを浮かべながら教えてくれた。
「まだ今は焦りしかないな。これから怯えが加わり、疑心暗鬼になり、仲間割れが起きるまで、さて、どれくらいか」
その声はやけに楽しそうだ。
あの人が地上に姿を現した瞬間、空気銃を構えたケイを、マッド佐伯が「もう少し待て」と阻止し、その日の偵察を切り上げて戻ってきた。
様子を見ること三日目に、彼らの焦りが怯えに変わり、翌日には疑心暗鬼になって罵り合いが始まり、わずか五日で仲間割れが起きたらしい。
ケイは早く仕留めたくて苛々し始め、それを阻んでいるマッド佐伯は妙にご機嫌だ。
「明日には数が減りだしているだろう。確か七日ほどだろう、肉の効果は」
その言葉通り、互いに肉を食われることを嫌がり、牽制し合った結果、そのうちの数名があっさりここに棲むものに食われたらしい。
数日間、彼らを狩ることもなく彼女たちを探し続けていた結果、その姿を周りに晒し、肉の効果の薄れていたものがここに棲むものたちをおびき寄せていたらしい。
「自業自得だ」
そう言って高らかに笑うマッド佐伯は、かなり怖かった。
ただ、自業自得、その言葉を否定するつもりはない。
翌日には、彼らが拠点としていたビルの一階部分に、彼らを食らおうと、ここに棲むものたちが群がっていたらしい。
そこで、ケイが彼女たちの遮蔽を、解いた。
それは、解放などというきれい事では済まされない、陰惨な結末。
それまでとは一転した、マッド佐伯の静かな怒りを滲ませた報告に、私もケビンも言葉をなくした。
その日、私はケイにいつまでも抱きしめられていた。ずっとケイを抱きしめていた。
この荒廃した不条理な場所で、何が正しくて、何が間違っているのかはわからない。
ケイがどんな思いでコマンドを解除したのか。
ケイをこんな気持ちにさせた彼らが、ケイにそんなことをさせた彼らが、心の底から許せなかった。
「だから、こんな状態で感じるわけないだろう。まだ卵だぞ」
そのケイの返しに、マッド佐伯の顔がわずかに歪む。
「佐伯、この状態で自我が芽生えるはずなのか?」
「いや、わからない。だが、芽生えなければ……」
「芽生えなければ?」
「ひとりを置いていくことになる」
その一言に驚いた。
「芽生えれば、置いていかなくていいの?」
「ひとつは確実に置いていくことになる」
その一言にがっかりした。
けれどケビンは、驚いたように目を見開いた。思わずケイを見れば、訝しげに眉を寄せている。
「そんなこと、できるのか?」
「そんな事例もある。特に君たちの子供の場合、その可能性は高いだろう」
「どういうこと?」
「自我が芽生えなければ、無理なのか?」
「どういうことだ?」
「わからない。だが、芽生えれば、確実だろう」
私の声を無視し、ケイの声を無視し、二人は最後には黙り込んだ。疎外感を覚える。きっとケイもだろう。
「ミウ、まだ確実ではない。だが、私を信じろ」
その目は、かつてないほど真っ直ぐで真摯だった。
「佐伯博士は、私たちの味方ですか?」
「少なくとも叔父としては。私も君たちの家族なのだよ」
揺らぎのないその目に、覚悟を決める。
「博士、この子たちを、助けて」
「全力で」
そう言って、ケイティに向けるのと同じような柔らかな目で、笑った。
だから、私も決めた。
「あの人を、朝霧さんを、仕留めに行く」
「決めたのか?」
「決めました」
マッド佐伯が、今度は面白そうな笑みを浮かべた。背後からケイが抱きつき、ケビンは子供にするように頭をくしゃりと撫でる。
「私なんでしょう? 彼を仕留められるのは」
「おそらく。あんなもの、放っておいてもいいが、ミウはもう決めたのだろう?」
決めた。彼女たちを最後まで苦しめ続けた彼らを、ケイにあんな思いをさせた人たちを、許さない。放っておかない。簡単に食われて死ぬなんて許さない。
私たちは、丸一日かけて彼らが住処としているビルにたどり着いた。
「お前は、なんで出鼻をくじくんだ? 俺たちだけで行くって言ってるのに」
「なぜわざわざ第九世界までついてきたと思っているのだ。全てをこの目で見るためだろう!」
「うるさい、マッド」
私を腕に抱くケイが、呆れたように呟く。
どうしても一緒に行くと言い張ったマッド佐伯を含め、四人でてくてく歩いてきた。
息切れひとつしないケイやケビンとは違い、マッド佐伯は日常的に鍛えているとはいえ、二人のように専門的に鍛えているわけではないので、ぜはぜはと息を上げている。
途中私は何度もケイやケビンに抱えられ、ずいぶんと楽をさせてもらった。今も抱えられている。おかげで息切れすることはない。
ケイの遮蔽のおかげで、まるで人波が割れるかのように、ここに棲むものたちが群がるロビーを通り抜ける。
遮蔽を使う前、彼らは私たちに一切注意を向けなかった。以前にはないそれにかなり驚く。
「ミウの肉だ。ミウの肉だけが、おそらく永遠だ」
「どういうことだ?」
割れる人波の中を、悠々と歩きながらケビンが声を上げる。
「試してみたのだよ、色々。ミウの肉だけを取り込んだ状態だと、効果が切れることはない。他の閒宵人の女性の肉にはない現象だ」
何をどう試していたのか。思わずケイを見れば顔をしかめていたので、聞くのをやめた。
そういえば、自分の肉を切り取って色々試しているとほくそ笑んでいる日があった。マッド佐伯のやっていることは理解できない。自分の肉だから好きにすればいいけれど。
「もしかして、ケイの体液の影響?」
「おそらく」
建物の奥にある非常階段にたどり着く。
「そんな状態で、最上階まで上れるのか?」
そのケビンの呆れたような心配通り、「ちょっと待て」のマッド佐伯の声に、途中何度も足が止まった。私は、ケイに抱えてもらっている。マッド佐伯の羨みの目が怖い。
ここに棲むものたちは、三階まで進入していた。荒廃した広いフロアは、地上からの高さをあまり感じないせいかもしれない。窓のそばに近寄っていないのを見れば、その憶測を裏付けているような気がする。
どれほど上ったのだろうか。光のあまり入り込まない非常階段には、階を表示する数字がない。時々壊れた扉から光が入り込み、そこから見る景色がどんどん鉛色の空に近づいていることだけはわかる。
「どうして鍵って開いているんだろう」
このビルの場合は、電子錠だからなのかもしれないけれど、どの建物のどの扉も、鍵がかかっていた記憶はない。
「必要ない、からだろう。この世界は、意外と合理的だ」
息をあげながら答えたマッド佐伯に、何がどう合理的なのかと首をかしげた。彼もそれ以上は言葉が続かないのか、ぜはぜはと息をあげながら必死に階段を上っている。
「俺たち先に行ってもいいか?」
ケイのその一言に、マッド佐伯が情けないほど縋るような目を見せた。
そのとき、階段を駆け下りてくる足音が聞こえてきた。
どうやら気付かれたらしい。声を抑えず話しているのだから当たり前といえば当たり前だ。けれど、誰ひとり動揺することなく、変わらず同じ速度で階段を上っていく。
聞こえるのは、迫り来る足音と、マッド佐伯の息遣いだけ。私たちは足音を立てることなく上っていく。
直前でぴたりと足音が止まり、こちらの様子を窺っているのがわかる。まさか、隠れているつもりなのだろうか。あれほど足音を立てて降りてきておいて、今更だと思う。
助けか? あの格好、そうだろう? どこの部隊? 特殊部隊か?
そんな囁き声が聞こえる。こそこそしているつもりだろうけれど、狭い階段室に反響してよく聞こえる。
彼らにはこの特殊なボディースーツが、どこかの特殊部隊のように見えるらしい。
「あの……」
意を決したように駆けられた小さな声。
「なんだ」
ケビンが低い音で返した途端、言葉が通じたことに一気に彼らの気が緩んだのか、わらわらと姿を現し始めた。もう少し危機感を持った方がいいと呆れてしまう。
ひとしきり助けが来たことを歓び、よく助けにきてくれたと労っていたはずの言葉に、次第に助けが遅かったことへの不満が混じり始め、最後には仲間が死んだのは私たちの助けが遅かったせいだと罵った。
よかった、助けに来たわけではなくて。危険を冒してまで助けに来てこれでは、割に合わない。
「朝霧は?」
そのケイの声に、一瞬にして彼らは口を噤んだ。
「朝霧さんは上にいるけど……えっ? なに? 知り合い?」
「あいつの抱えてる女、あれ、朝霧さんの言ってた女子高生?」
「女子高生じゃないだろう? セーラー服じゃないし」
「でも、大男二人って……、三人に増えてる?」
彼らが混乱する様子は、端から見ていると間抜けに見えた。
かまわず先に進もうと、ケビンが動き出した途端、彼らは微かな悲鳴を上げながらその場から逃げ出した。
「ねえ、ケビンやケイって、やっぱり怖い顔なのかな」
「ミウ、今それを言うのはどうなのかと、私でもわかるぞ」
精悍なのに……そう思いながら二人を代わる代わる眺めていたら、ケイにキスされた。
これから人を殺すほどの目に遭わせるというのに、私は、なんの気負いも、なんの恐怖も、一欠片の憂いも、一欠片の罪悪感も、持ち合わせていなかった。