閒宵人の涙
閒宵人の血 05ケビンの言う通りだったのか、ケイがむすっとした顔で戻ってきた。
あたりが完全に闇に沈むほんの少し前に戻ってきたケイは、「長期戦になる」とため息をついた。
「ミウを囮に使うのが手っ取り早いだろうな」
そのマッド佐伯の声に、今度はケイが彼の座る一人掛けのソファーを蹴り飛ばした。ひっくり返ったソファーの下敷きになったマッド佐伯は、「事実だろう」と言いながら、ソファーをそれまでとぴったり同じ位置に戻している。マッド佐伯は何気に几帳面だ。
私たちは、蓄光塗料の塗られたリビングに集まり、ケイの報告を聞いている。
「おそらく、ヤツの配下にいる閒宵人の男は十二人。それに女が三人」
「五十年で十五人、いや、帰還者を合わせると十七人か。多いな」
「いや、もっといたらしい。そりが合わなくて出て行ったものもあれば、女を食うことに嫌気がさして、自ら毒を食らったヤツもいたらしい」
「どうやって閒宵人を見つけてるんだ? そう簡単なことじゃないだろう?」
簡単であればこの二人も見つけられていたはずだ。いつも手遅れだったと悔やむこともなかったはずだ。
「あいつらは、あの辺り一帯のここに棲むものたちを殺し回っている。だからか、その周辺に現れた閒宵人は、比較的簡単に保護できる」
「確かにあそこは夕暮れ時には人が集中する。確率的にそのくらいだろう」
マッド佐伯の声に頷けば、ケイもケビンも「そうか」と納得した。
あのあたりは日本でも最大のオフィス街であり、タワーマンションや複合施設がある観光地だ。特に夕暮れ時など人が溢れている。
「ミウを囮にするにも、今はミウをあまり動かさない方がいい」
そう口にするマッド佐伯に、もはやケイもケビンもむすっとするだけで何も言わない。
「万が一を考え、あと十日はおとなしくしていろ。わかったな、ミウ」
念を押すように言われ、肩をすくめる。すっかりこの仕草が身についてしまった。
「お前、囮になる気か?」
ケビンの声に呆れが混じる。ケイからは怒ったような気配がしている。
「美羽。やめてくれ。俺がなんとかする」
「ひとりで囮になんてならないよ」
そう言った途端、ケイがあからさまにほっと息をついた。
「三人で行く。きっと三人ならなんとかなる。それでダメなら、あの人のことは放っておこう? あの人を気にするのはもう嫌。存在自体を忘れたい」
絶句するケイに、ケビンが声をかけた。
「その方がいい。ケイも自分の腕の中にミューがいる方が安心だろう? 俺もお前が直接ミューを護っている方が安心する」
どんな場所であろうと、この二人のそばより安心できる場所はない。心も。体も。
そこからの十日間は、何事もなく過ぎていった。
ケビンはケイからコマンドの使い方を教わり、私はそれを眺めながら自分の中にあるケイ存在を感じようと瞑想のようなことをしている。
けれど、やはりなんとなく子供の存在を感じるだけで、ケイの存在もケビンの存在もわからない。
マッド佐伯は何を思ったのか、世界中から集めた絵本を読みあさっている。
文字がない第九世界でも、絵や写真であれば存在する。それを受けてか、絵本や、図鑑、写真集などをこれでもかと集め、第九要塞の娯楽室の書棚に詰め込んでいた。
二人の訓練は基本的に午前中に集中して行われる。これは島にいる時も第九要塞にいる時もそうだった。屋上でケイが索敵しながらケビンにコマンドの使い方を教え、午後からは割とゆっくりしている。
ケイのコマンドの質が上がっているおかげで、屋上から索敵するだけで済む。二人といる時間が増えて、私は単純に嬉しかった。
ケイは以前より汗をかかなくなっていた。排泄の頻度も減っているらしい。
私とケビンに大きな変化はない。相変わらずお腹はすかず、排泄もしない。少しだけ体液が排出されるようになっただけだ。
「なあ、君たちは清めの儀式と聞いて、何を用いてそれを行うと思う?」
「聖水じゃないか?」
「禊ぎなら水? お酒とか?」
「あとは……なんだっけ、なんか忘れてるな」
「火だろう?」
ぼそっとしたケイの声に、まるで雷に打たれたかのような衝撃が走った。
「やはり私はケイに頼んでいたか」
「清めの儀式と聞かれたら、火と答えろとしつこく言っていただろう?」
マッド佐伯が見せてくれた絵本には、どこか宗教めいた儀式が描かれていた。そこに貼り付けられたメモには、ケイらしき人物に向かって、マッド佐伯らしき人物が何かを問いかけているような吹き出しが描かれている。妙に特徴を捉えた絵に思わず笑ってしまう。
「火だ。忘れるな。ケイ、一日一回私たちに火の存在を思い出させろ」
マッド佐伯の真剣な声に、メモから視線を移す。
一度思い出してしまえば、その存在を思い出す。
それなのに、一瞬の衝撃のあとは当たり前のこととして、再び頭の中に埋もれていく。
「意識していないと忘れそうになるな。そう仕向けられているのか?」
「そうだとしたら、そこになんらかの意思が存在することになる」
「だとすれば、第九世界はやはり平行世界じゃないな」
「そうなるだろう」
二人の会話にケイと一緒に首をかしげる。
平行世界は、そこになんらかの意思は存在しない。
そのほかの世界は、そこになんらかの意思が存在する。
「それが神?」
「わかりやすくたとえるとそうなるな」
それ以上は聞かない方がいいとのケビンの無言の視線に、話したそうにしているマッド佐伯が視界の端に映った。素直に口を閉じる。
マッド佐伯は、何を意図してなのか、時々ぽろっと極秘事項を漏らす。うっかり聞き続けていると、ずぶずぶと組織の深部に引きずり込まれる。少なくとも私は、第九世界以外のことについては耳に入れないようにしている。
あの組織では五十歳が定年だ。五十歳を過ぎると祖国に戻り余生を過ごす。とはいえ組織を抜けるわけではないので、何かあった時には手を貸す。大抵は組織の二十五歳以下の育成に力を貸している。
ケビンが定年した時、私たちはケビンの祖国で余生を送ることになっている。一応私もケイも組織の一員となってはいるが、あくまでもケビンのパートナーとしてだ。
けれど、深部に入り込むと、この余生が送れない。死ぬまであの島から出られない。それは絶対に避けたい。絶対に嫌だ。ただでさえケイの存在とレアな私の存在で危ぶまれている余生を、これ以上危険にさらしたくない。
それもあって、子供のことがなくとも、第九世界での余生の方がマシな気がしてしまう。
「おそらく閒宵人の涙には第三世界でいうところの浄化作用がある。ここでいう浄化とは、第九世界との剥離だ」
ふと聞こえたマッド佐伯の声。その言い方だと、第九世界は穢れているということになる。
思い浮かんだのは煉獄だ。もしここが平行世界ではないとすれば、煉獄である可能性が高まる。煉獄はその字が宛てられているように火の世界だ。
清めの火。マッド佐伯の「清めと言えば」は、これに繋がる。
灰色の景色。乾いた空気。火の対極にある水だけが存在する世界。
もし、水が火の代わりに存在しているとすれば、どうして誰も禊ぎをしないのだろう。水に入っている人を見たことはない。
ここに棲むもので水の中に入っていたのは、お風呂に入っていたケイくらいじゃないかと思う。そういえば、朝霧さんもお風呂には入らなかった。汚れないのであれば入る必要はないと言って。
閒宵人は第三世界の人間だから、第九世界との剥離は必要ないだろうけれど、もしかしたら、そこに何か意味があるのかもしれない。
この要塞にもお風呂が用意されている。たまたまケイの現れた場所の近くに天然温泉があった。そこからお湯を引いているらしい。
かなり温度の高いお湯らしく、冬は要塞中を循環させて暖房代わりにしている。
「佐伯博士、お風呂に入ってます?」
「いや、汚れないだろう?」
やはりそうだ。思いがけず零れたかのようなマッド佐伯の声に、彼自身が目を見開いて驚いている。ケビンも驚いたかのように目を丸くしている。
マッド佐伯はお風呂好きだ。この要塞にわざわざ天然温泉を引いたのもマッド佐伯だ。朝昼晩と、暇さえあれば短時間でもお風呂に入っている。考察はお風呂でするのが一番効率がいいと言い切るほどだ。
その彼がいくら汚れないとはいえ、お風呂に入らないなんて考えられない。
火と同じで、なんらかの意思が働いているのかもしれない。
あの時、たまたまケビンがお風呂を見つけたから、私たちはお湯に浸かった。お風呂に入るのは当たり前だったから、それがそのまま習慣化した。だからこそ、私たちは忘れなかった。
再び迷い込んでも当たり前のようにお風呂に入る。
日常生活で火を使うことは少ない。
あの組織ではたばこを吸う人がいないので、ライターは使わない。料理は専属のコックさんたちが作ってくれる。ウォーターサーバーがあるのでお湯すら沸かさない。
だから、火の存在を忘れてしまう。
マッド佐伯は実験で日常的に火を使う。私たちよりもその存在は当たり前にあった。だからこそ違和感を感じて、自分が残した手がかりを見つけたのだろう。
「確かにおかしいな。私が風呂に入らないとは……自分が信じられない。何が、汚れない、だ」
腹立たしげにそう呟いたマッド佐伯は、思い出したなら早速とばかりにお風呂に向かった。