閒宵人の涙
閒宵人の血 04「マッドは、俺たちを救おうとしている。それは間違いない。だから俺たちと一緒に来たんだ。ケイティもそれを承知している」
ケイの静かな声。
先ほどマッド佐伯の記憶が流れ込んできた時にそれも紛れていたらしい。
後ろめたいことがあれば、ケイに記憶を読ませることはしないだろう。とは思うものの、相手はマッド佐伯なのでわからない。
サードルームでいつものように川の字に並ぶ。
ケイが屋上から全方向を索敵し、夜明けまでにここに到達できる距離に何もいないことを確認している。
「それこそ表層心理じゃなくてか?」
「表層か深層かはわからない。だが、実際にヤツはここにいる。相当の覚悟だと思う。ケイティに、戻らなかったら別のパートナーを見つけろとまで言っている」
その一言で、マッド佐伯の覚悟が本物だとわかった。
マッド佐伯は、ケイティをこのうえなく大切にしている。それはもう執着を超え、完全に犯罪ではないかと思うほど、徹底してケイティだけを求めている。
そのマッド佐伯が、ケイティに別のパートナーのことを言い出すなんて余程のことだ。ケイティが男の人と仕事の話をすることすら嫌がるのに。
おまけに、必ず戻れると確信していたはずなのに、戻れなかったことを口にするのはマッド佐伯らしくない。もしかしたら、私たちが戻らないことを予見していたのかもしれない。
「俺たちの子も、おっさんの妹であるケイティとも繋がりがあるからこそ、ヤツの中に葛藤がある」
「それって、ケビンの卵だけが大事ってこと?」
「いや違う。俺たちの子は、二卵性じゃない。一卵性だ。俺もそうなるとしかわからない」
マッド佐伯に記憶は、ケイには不可解なことばかりで、意味がわからないらしい。
「二人の精子がひとつの卵子に受精してるってこと? 普通、ふたつの卵子にそれぞれ受精するものじゃないの?」
「なんだったか、聞いたことがあるな。確か、キメラだろう?」
「ああ、そんな言葉も出てくるな」
そのあたりは専門知識ばかりでケイもよくわからないらしい。
「どっちにしても、早めにあいつを仕留める」
その言い方は、人に対するものではなかった。ケイは、もう彼を人だとは思っていない。
それでも、ケイに人を殺させる。
あの人を殺す。それに対する罪悪感は、今の私の中には一欠片もない。
ケイに人を殺させてしまうことの方が嫌だ。
「もういいよ。あの人のことは放っておこうよ」
「ごめんな、美羽。俺が許せないんだ。美羽の肉をあんな方法で取り込んだヤツを生かしておきたくない」
「ごめんな、ミュー。俺もだ。あの時俺は、そのうち食われて死ぬだろうと思ってたんだ。だから、俺たちが殺すまでもないと思っていた」
「謝らないで。あの時私も無意識にそう思っていたと思う。だから、あれ以上聞かなかったし、聞きたくもなかった」
顔を見合わせた途端、揃って笑い出した。
これから人を殺そうというのに、私たちは笑う。
きっと私たちも狂っている。そう自覚できるだけまだマシなのだろう。自覚できなくなった途端、何の迷いもなく殺せた瞬間、きっと私はもう人ではなくなる。
「私も朝霧を始末するのに罪悪感はない」
突然聞こえてきた声に、揃ってため息をつく。
ちゃんとブランケットを胸元まで引き上げていてよかった。それでもケビンとケイが瞬時に二人で私の上に重なり、見えないよう隠してくれる。
「お前な、さすがに寝室はやめろよ」
「一応ノックはした」
「だから、お前のノックはノックじゃないんだよ」
「言い忘れていたのだ。セックスしても大丈夫だ。あまり激しいのは控えてほしいが」
わざわざそれだけを言って、マッド佐伯は扉を閉めた。
「どうして訓練しているケビンやケイより気配が消せるの?」
「あいつは昔からそうなんだよ。ケイティのつきまといで身についたんだろう」
子供の頃から護衛となるべく、様々なことを身に付けていたケイティのストーカーをするには、それ以上に気配を消す必要があったらしい。
翌朝、夜明け前に起き出し、ケイはマッド佐伯から渡された空気銃を持って、あの人を仕留めに行く。
これでもかと唾液を摂取して、念のためにとマッド佐伯に言われ、お互いの肉と血を取り込み合った。
互いに唇を噛み、口づけを交わす。ケイとケビンは、互いに微妙な顔をしながら互いの口に指を入れ、指に付着した血の混じった唾液を口に入れた。唾液がわずかながらも排出できてよかったと、ケビンがため息をついていた。
口の中に滲んだ血を唾液と一緒に互いに取り込み合う。指先を傷つけても血は出ない。
あの時、咄嗟に唇を噛んでケイに口づけた。その行動が間違っていなかったことに、今更ながら安堵する。
太い針の注射器は、痛みこそ感じても、針が抜けると同時に小さな穴がきれいになくなる。痛みだけが余韻のように残る。
カプセルが使い物にならないうえに、おそらく飲み込めないだろうと、直接口に入れたそれは、どうしてか妙な甘さを感じた。
「これは……」
同じように私たちの血肉を取り込んだマッド佐伯が、直後に目を見開いた。
「ミウの肉だけ妙に甘いな」
「そうか? 俺にはケイのもミューのも同じように甘く感じるが」
思わず頷けば、隣でケイも同じように頷いている。
「試しに私のを舐めてみろ」
そう言って、注射器で採取した自分の血肉を私たちの指先に順にのせた。肉であれば体外に排出されるのかと、妙なところで感心する。だからこそ、閒宵人同士で肉を食らい合える。
なんとなく微妙な気持ちになりながら、指先にあるほんのわずかなそれを口に入れる。かなりの抵抗を感じながら舌先で舐め取ると、それはなんの味もしなかった。思わず口から吐き出してしまう。どうしても飲み込む気にならない。どうしても飲み込めない。
「なんの味もしない」
同じように吐き出したケビンの声に、やはり吐き出しているケイが頷いている。
「君たちは……ずいぶんと失礼だな」
「違う。身体が拒絶している」
そのケビンの声に、驚くと同時に納得した。そんな感じだ。
「興味深いな。やはり君たちは三人で完成されているようだな。他を寄せ付けない」
マッド佐伯の研究チームは、誰もが一度は私たちの血肉を口にしているらしい。しかもカプセルに入れるわけではなく直接だ。聞いた瞬間吐き気を覚えた。
「お前たちは……本当に馬鹿なんじゃないのか? 普通試すか?」
「試さなければわからないだろう。そのときは三人とも同じ味だったはずなのだ。ミウの肉だけ甘いなどということはなかった」
「閒宵人の女、だからだろうな」
そのケイの一言に、マッド佐伯も、「そうだろうな。一種の中毒だ。事前に摂取していてよかった」と、顔をしかめながら頷いていた。
第三世界では私もケビンも迷い込んだものではない。ケイが迷い込んだものだ。そのケイを形成しているのは第三世界で形成されたケビンの涙と私の涙。ケイは厳密には迷い込んだものとはいえない。
けれど第九世界では、私もケビンも、マッド佐伯も迷い込んだものだ。ケイの肉を摂取しているとはいえ、私たちを形成しているのは第三世界だ。
ケイは第九世界のものでも、第三世界のものでもなくなっている。存在自体は第九世界にあるのだろうけれど、第三世界のものでもある。
だから、第三世界で生きて行くには、第九世界と切り離さなければならない。
ケイが出掛けた。
様々な思いを巡らせながら、私は屋上にいる。
ケイには危険だから中にいろと言われたものの、ここでケイを待ちたいと返せば、ぎゅっと抱きしめた後、キスが落とされた。
それは唾液の採取が目的ではないキス。気持ちを届けるキス。それがいつになく嬉しくて涙が零れた。舐め取るケイもどこか嬉しそうな笑みを浮かべている。
「気をつけて」
つま先立ち、しがみつくようにもう一度抱きつけば、ケイの背中に装着された空気銃に指先が触れた。
ひらりと屋上から飛び降りるケイは、本当にしなやかで美しい。人はこれほどまで美しい生きものだったのかと、改めて知らされたかのように、どうしようもなく心が震える。
「ケイはもう行ったか?」
振り向けばケビンが屋上への入り口に姿を見せた。
「うん。つい今さっき」
それなのに、もう豆粒ほどになっている。そう思っているうちに、視界には映らなくなった。
ずっと感じているのは、ケイ一人に頼んでしまう申し訳なさ。
できることなら、自分の手で決着をつけたい。自分で撒いてしまった種だ。
「ミュー、おそらく一度で片はつかないだろう。あの男が最上階から降りることは滅多にないらしい」
「だったら、もう少し近くに移動する?」
「いや。お前は佐伯とここに残れ。俺とケイでなんとかする」
「ケビン、私も行く。足手まといだろうけど、私も行く。きっとその方がいい。三人一緒の方がいい」
ケビンの目を真っ直ぐ見上げ、はっきりと言った。
きっと、私たちは離れない方がいい。どんな結果になろうとも、三人一緒の方がいい。
ふっと息をつくようにケビンが笑った。
「そうだな。いざとなったらそうしよう。それには、だ。ミュー、俺たちもコマンドを覚えるぞ」
「使えるの?」
「ほら」
まさかと思って聞き返したのに、ケビンの胸のあたりには、透明な盾のような何かがある。そっと手を伸ばせば、その透明な何かに指先が阻まれ、ケビンに手が届かない。
堅いような、けれどなんの感触もないような、不思議な何かが阻んでいる。
「すごい。遮蔽?」
「ああ。ミューもやってみろ。自分の中にあるケイの力を感じろ」
そう言われたところで、まるでわからなかった。
私の中のケイの力。
悲しいほど何もわからなかった。私の中にある力と言われて感じるのは、子供の存在だけだ。
思わずおなかに手のひらを当てる。
「ああ、そうか。もしかしたら今のミューには無理かもな。ミューの中に存在がありすぎる」
その言い方もどうかと思うけれど、確かにそんな気がする。
ケイの存在、ケビンの存在、子供の存在。なんとなく感じるのは子供の存在だけだ。むしろ子供の存在が強すぎて二人の存在を感じないような気がする。それでも、その子供の存在すら、なんとなくしか感じることはできない。
「常に意識だけはしておけ。いざというときに使えるかもしれない」
わかったと頷けば、ケビンが遮蔽のコマンドを消した。