閒宵人の涙
閒宵人の血 06


 三日に一度、ケイは念のためにと朝霧さんの動向を確認しに行っている。
 彼は超高層ビルの最上階から降りることは滅多にないらしい。周りにいる閒宵人の会話からも、閒宵人が現れた時以外、姿を見ることはないとわかった。

 すぐそばの同じ超高層ビルの屋上から光学迷彩のうえ、自分に遮蔽のコマンドを使って偵察している。私の肉を取り込んだ彼が、同じく私の肉を取り込んでいる我々に気付くかもしれないと、同行しているマッド佐伯が助言したらしい。

「朝霧との繋がりが私より弱いのは、ミウの肉だけを取り込んだからだろう。私は君たち三人の肉を満遍なく取り込んでいる」
 胸を張ってそう言い放った。

 一体いつから私たちの肉を取り込んでいたのかと聞けば、「最初から」と、当然だろうと言いたげに返してきた。
 人の肉を口にすることに抵抗はないのかと聞けば、「その程度で抵抗していては研究者などやっていられない」と、これまた当然とばかりに返ってきて、微妙な気持ちになった。
 マッド佐伯と話していると時々妙な疲れを覚える。

 そのマッド佐伯は、ケイと行動を共にし、ここに棲むものや閒宵人たちのサンプルの採取に余念がない。ケイの光学迷彩と遮蔽のコマンドでこっそり近づいては、手早くサンプルを採取しているらしく、その手際のよさにケイが感心していた。

「私なら、君たちが囮となって朝霧の気を引きつけてくれてさえいれば、こっそり近付きミウの肉を打つことも可能だろう」
 得意げな顔でそう言いながら、注射器を指先でくるくると回す始末だ。ケイもケビンも、最悪マッド佐伯に任せようと言い出した。



 夕暮れ時になると、なんとなくセーフルームのリビングに集まる。誰が言い出したわけでもないのに、おそらくそれまでの習慣からか、センサーの部屋に向かうのと同じ感覚で集まっているような気がする。

「どうだ? 安定しているか?」
 マッド佐伯に声をかけられたケイは、私のお腹に手のひらを当ててじっと目を閉じている。

 子供の存在を一番強く感じることができるのはケイだ。全ての神経を子供に集中すると、その存在がはっきりとわかるらしい。

「どうだって、どうなんだ? こんなに急速に存在が変化するのものなのか?」
「今はそんな時期だな」
 眉間にしわを寄せているケイに、マッド佐伯が「順調だな」と続けた。

 私を後ろから抱え込んでソファーに座っているケビンは、すごく嬉しそうだ。
 第三世界では私たちには子供ができない。だからなのか、子供がほしいなんて一言も言わなかった。
 そのケビンがすごく嬉しそうに頬を緩めている。まだ産卵したわけでも、ましてやお腹が膨らんでいるわけでもないのに。
 お腹に手を置き、必死に子供の気配を探っているケイも、その真剣な表情の中に喜びがある。それが、すごく幸せなことだと思える。

「ミウ、嬉しそうだな」
「私たちの子供ですから」
 そうだな、と呟くマッド佐伯すら、どことなく嬉しそうだ。甥か姪の誕生を楽しみにしているというのは本当なのだろう。

「ケイ、自我は感じないか?」
「感じない。こんな状態で自我なんて芽生えるのか?」
「芽生えてもらわねば困るのだよ」
 自我は生まれてから芽生えるものではないのか。困るとはどういうことなのか。頭に浮かんだ疑問は、間違いなく表情に表れていたのだろう、マッド佐伯が珍しく言葉を濁した。

「まだ私も仮説の前段階なのだ。一切の確証がない」
 今までも仮説だの、予想だの、勝手な憶測だのを好き勝手に言ってきたくせに、ここに来て口を噤むのはどういうことなのか。

「なんなんだ? はっきりしないな」
「憶測では口にできない。ただ、あらゆる覚悟はしておけ。おそらく全ては君たちから始まっている」
 はっきりと顔をしかめたケビンに、マッド佐伯は「できるだけのことはする」と返している。

 それはまるで悪いことの前触れのようで、胃の中に重石が置かれたような、重苦しく嫌な感覚が残る。
 やはり引き戻されるのは間違いないのだろうか。私たちの意思とは関係なく、引き戻されてしまうのだろうか。ゼノの意思によって──。
 マッド佐伯が口にしないこと。それは直接ゼノに繋がる深部だ。

「第二世界がどんな場所か聞いたことがあるか?」
 いきなり第二世界についてを聞いてきたマッド佐伯に、三人揃って首をかしげる。けれど、何か意味のあることなのだろう。

「地獄のような場所?」
「それは宗教上のたとえだ。第二世界は闇。その存在そのものが闇だ」
 それを地獄というのではないか。そんなふうに思ってしまう。地獄とはそのような場所のことを指すような気がする。
 ……違う。逆だ。そのような場所だから、地獄のイメージが生まれた。

 マッド佐伯は、そのまま口を噤み、ファーストルームに消えた。



「もしかして、第一世界は光?」
「そう聞いている。だからこそゼノの存在は光そのものだと」
 三人でお風呂に入りながら考える。

 第九要塞の大浴場は三つある。温室を兼ねて植物に囲まれている光溢れるお風呂、日本の銭湯のようなどこか懐かしい壁画のあるお風呂、そして地下に作られているのは洞窟風呂だ。全てマッド佐伯監修。日替わりで男湯と女湯がローテーションで入れ替わっていた。
 今私たちが入っているのは洞窟風呂だ。地上のお湯は二つとも濁っていた。地下のこのお湯だけが、それまでと変わらないきれいなお湯だった。

「なあ、マッドの言っていた、全ての始まりは俺たちって、どういう意味だ?」
 そのケイの言葉に黙り込んでしまう。

 マッド佐伯は時々適当なことを言う。自分の興味のないことは、本当に適当なことを最もらしく返してくるので、うっかり信じて痛い目に遭うこともある。
 彼に言わせるとユーモアだそうだ。間違いなくユーモアの意味を取り違えている。

 けれど、その言葉を発した時の彼は、焦りすら滲ませたような真剣さがあった。

「それと、博士がケイに聞いていた自我の芽生えが関係していると思う?」
 その発言の前に言っていた自我。それもわからないままだ。

「そうかもな。どっちにしてもこの子は、普通の人間とは違うんだろう。俺たちがすでに普通の人間じゃない。俺たちがいくら普通の人間だと言い張ったところで、周りはそうは思わないだろう」
「やっぱり第三世界に戻されるのかな」
「戻されるだろうな」
 ケビンの声は低く静かだった。この声で言われてしまうと認めざるを得なくなる。

「もし、子供を残していかなければならないなら、二人とも残そう。一人より二人の方がいい。遮蔽と光学迷彩で護り、俺たちの肉、涙、唾液、与えられるものは全て与えよう」
 ケイのその言葉に、思わず頷く。

 一人より二人。
 ケイは生き延びた。そのケイの子供だ。きっと二人とも生き延びる。

「子供はひとりしか残せない。ゼノがそう望んだのであれば、それはすでに決まっていることだ」
 ケビンの静かな声に、目が見開かれる。ケビンまでもがそんなことを口にするとは思わなかった。

「だから佐伯は、なんとかしようとしているんだろう」
 そう言ったケビンの声はすごく静かで落ち着いていた。
 それは覆せない事実なのだと、マッド佐伯に言われた以上に、はっきりと突きつけられた気がした。

「覆せないことなの?」
「俺の知る限り覆ったことはない」
 だとしたら、その上でどうすればいいかを考える必要がある。だから……マッド佐伯はその先を考えているのか。

「佐伯博士は、私たちの味方?」
「ある意味味方だ。だが、佐伯は組織の人間でもある」
「おっさんだって組織の人間だろう?」
「俺はもう、ここに残ると決めた瞬間から、組織の人間じゃないよ」
 それでも、きっと私たちはあの組織からは逃れられない。

「私の産卵がタイムリミットなんだよね」
「おそらくな。戻った瞬間から卵を培養する手筈になっている。人工子宮が用意されている」
「やっぱり、私のお腹では育てられないの?」
「育つ確率は低いらしい。ケイの遺伝子を基に作られた人工子宮の方が安全だと判断されている。母体への影響も懸念された」

 まるでモルモットだ。
 人工子宮なんて、そんな映画の中でしか知らないような技術がすでに存在している。
 あの第三世界は、本当に私が生まれた第三世界と同じなのだろうか。
 このあと引き戻される第三世界は、それまでと同じ世界なのだろうか。

 私が知るこの私は、本当に私なのだろうか──。
 私にとって、この二人だけが現実だ。この二人以外に確かだと思えるものが何一つない。