閒宵人の涙
閒宵人の血 03


 朝霧さんの記憶では、私たちと別れてから五十年近く経っているらしい。
 以前、私には曖昧に思えたここでの時の感覚も、ケイは明確に感じることができる。ケイの肉を摂取し続けてきた今の私も、第三世界と同じようにはっきりと感じることができる。
 昨日と今日が明確にわかる。以前は、それがなんとなくはっきりしなかった。

「だが、俺が見た限りそこまで経っているとは思えない。せいぜい数年だ。以前と比べてたいした変化はない」
「やはり、見るものによって変容している可能性が高いな。ケイ、朝霧の記憶から、どんなものを目にしているかわかるか?」
「いや、そこまではわからない。あまり強く繋がると気付かれそうだった上に、できれば二度と繋ぎたくない」
 もうあいつは人ではない。そう呟いたケイの肩に、ケビンが労るかのように手を置いた。

「ケイ、一番大事なことだ」
「わかってる。ヤツが美羽を探している理由は、美羽がヤツに死を与えることができるからだ」
 どういうことかと、三人の視線がケイに集まる。隣に座って抱きしめられていた私は、ついにケイの膝の上に乗せられた。

「最初に口にした閒宵人の女の血肉、その後、一度でも別の女の肉を口にすると、最初に口にした閒宵人の女の血肉は一転して毒になる。男の肉ではその効果はない」
 だから、不要になると捨て、ここに棲むものに食わせるらしい。自分たちが間違って口にしないように。
 それは人としての扱いじゃない。だからケイは、飼うと言ったのか……。

「私を、殺したいの?」
 飼われている女性たちと同じようになるのかと思うと、その恐怖から身体が震える。ケイが慰めるかのようにぎゅっとその腕に抱き込みながら、背中をぽんぽんと叩いてくれる。

「違う。ヤツは、死を与えられたいんだ」
「そのためにもう一度ミューの肉を食わせろってか? ふざけるな!」
 初めて、ケビンが怒りを放った。今までケビンが怒ったところなんて見たことがない。怒りを滲ませることはあっても、それを放ったことはない。

「ケビン落ち着け。ケイ、おそらくそれは表層心理だ。深層心理ではミウを殺したいはずだ」
 なぜなら、と続いたマッド佐伯の声は、ひどく落ち着いて聞こえた。

「彼は己以外の何かをよりどころとしない、いわゆる無神論者だ」
 強ばった身体と心が、無意識に首をかしげる。思考がなかなか追いつかない。

「彼の場合は、中でも過激なサタニズムに通じる」
 マッド佐伯の声が聞こえる。

 天国や楽園のような場所にたとえられる第一世界や、地獄のような場所にたとえられる第二世界、そこからの帰還者は確認されていない。その二つの世界を証明するものは、第一世界から第二世界を経由して第三世界に迷い込んだゼノだけだ。
 第一世界に神や天使がいないのと同じように、第二世界に悪魔がいるわけではない。天国や楽園、地獄などのそれは、あくまでも宗教上の表現であり、実際にその言葉通りの存在や場所が在るわけではない。
 サタニズムとは悪魔崇拝とも言われるが、別段悪の組織というわけでも、悪魔そのものを崇拝しているわけでもない。むしろそのような宗教的思想を否定した、究極の利己主義だ。
 彼は、その中でも過激な組織の一員だった。

「そんな組織にとって、神とも天使とも悪魔ともたとえられるゼノの存在は、在ってはならないものらしい」
 落ち着いたマッド佐伯の声に、ゆっくりと身体も心も思考も落ち着きを取り戻す。

 だから、執拗に宗教観を聞いたのか。どんな神であれ、自分以外の何かをよりどころとするような、神という存在をどこかで信じているような人は、ゼノの存在をどれだけ疑ったとしても、疑いきれずにどこかで受け入れる。

「在ってはならないといっても、ゼノは実際に存在していますよね」
「だから、消そうとするのだよ、その存在自体を」
 究極の利己主義。納得してしまった。そして、確かにあの人はそんな人だった。

 死を願う一方で、私の存在を消し、その死から免れることを望む。

「私を殺すには……」
「捕獲して、ケイとケビンの肉の効果がなくなったあと、ここに棲むものに食わせる」
 その瞬間、ケビンがマッド佐伯の座る椅子を思いっきり蹴り飛ばした。キャスターが滑って壁に激突し、その衝撃で椅子から落ちそうになったマッド佐伯は、「事実だろう」と少しだけ焦った声を出して、椅子に座り直し、再びキャスターを滑らせながら元いた場所まで戻ってきた。

 確かに、それが事実だろう。

「美羽は俺が護る」
「いや、ケイはあいつを殺しに行け。おそらくあいつを殺せるのはお前だけだ」
 驚いてケビンを見れば、ケビンはただまっすぐにケイだけを見つめていた。

「すまない。あの時、ケイがあいつを殺そうとした時、それを止めたのは俺の間違いだ」
「違うだろう、おっさん。おっさんは俺に人を殺させたくなかったんだろう?」
 ケイを見るケビンは、父の顔をしていた。ケビンを見るケイも、父を見る目をしていた。時々忘れそうになるけれど、この二人は親子だ。

「そんなこともあろうかと、空気銃を用意している。弾の中にミウの肉を仕込めばいい」
「空気銃ごときで高層階の窓ガラスが割れるか?」
「それは……、ヤツがビルから出る時を狙えばいいだろう?」
「ミューが卵を産むまでひと月しかないぞ」
 マッド佐伯が目を丸くした。思わずケビンを見れば、目を少しだけ細めて口元に微かな笑みを浮かべている。背後のケイに視線を移すと、穏やかな笑みを浮かべていた。

「本当に一度で受精したのか……」
「佐伯は感じないのか?」
「君たちは感じるのか?」
 私の中に芽生えた命。私だけが感じているのかと思っていた。

「二人とも感じるの?」
 返事の代わりに、触れるだけのキスが二人から落とされる。

「俺たちは、卵と一緒にここに残る。佐伯、気が済んだらお前だけ帰れ」
 そのケビンの声に、マッド佐伯が眉を寄せた。

「おそらく無理だろう。君たちは確実に引き戻される」
 ゼノがそれを望んでいる。そう続いた、腹立たしいほど静かな声。

 その意味がわからない。どうしてゼノが望むと私たちは引き戻されるのか。
 訝しんでいるのは私とケイだけだ。ケビンは顔をしかめ、マッド佐伯を睨んでいる。それにマッド佐伯は動じることなく静かな頷きを返した。

「ミュー、知らない方がいい。ただ、確実に引き戻されることを覚悟しろ」
「それは、子供をあきらめろってこと?」
 ケビンが、どうなんだ? とマッド佐伯に詰め寄る。

「いや。子供ごと連れ帰る。それがゼノの望みだ」
 マッド佐伯のやけに落ち着いた声に怒りを覚える。

「それじゃあ、ケイは? ケイも一緒じゃなきゃ私は帰らない」
「ミウ、落ち着け。ケイも一緒だ」
 どういうことかがわからない。どういうことかとケビンに聞けば、ケビンもよくはわからないらしい。

「佐伯博士、どういうことですか」
 自分の声がいまだかつてないほど低く響いた。

「ミウ、覚悟をもって聞いているのか?」
 いつになく真剣なマッド佐伯に、本当に腹が立つ。

「私の子供です。あなたたちの好きにはさせない」
 モルモットになるのは私たちだけで十分だ。

「まったく。母になった途端強くなったな。いいか、ミウの中に芽生えた命はふたつあるはずだ」
 驚きよりも、納得の気持ちの方が強い。二人の精子を取り込んだのであれば、その可能性は高い。

「そのうちのひとつを残し、ひとりを連れ帰る」
「嫌です!」
「無理だ。ゼノの望みは必ず叶えられる」
「どうして!」
「ゼノとはそういう存在なのだ。だからこそ、誰もが跪く」
「私は跪かない。この子たちは、私の子です」
 怒りで全身が熱い。怒りで身体が震える。どうしようもないほど血が滾る。

 その私を膝に乗せ、背後から護るように抱き込んでいるのはケイだ。盾になるようケビンが身を乗り出している。

 マッド佐伯の目がひどく驚いたかのように見開かれた。

「それは……」
 そのあとの言葉を飲み込んだかのように黙り込んだ。

「佐伯、悪いが俺もこればっかりは無理だ。俺たちはここに残る」
 ゆっくりとケビンに目を向け、マッド佐伯は詰めていた息を同じくらいゆっくりと吐き出した。

「無理だろう。君たちの気持ちはわかる。私もその立場なら同じことを思う。だが、おそらく無理だ」
 そこで初めて、マッド佐伯の声に悲痛さが滲んだ。私にとっても甥か姪だ。何も感じないわけではない。そう言って、静かに目を伏せた。