閒宵人の涙
閒宵人の血 02


 翌日、ケイは夜明けとともに、本当に一人で偵察に出掛けた。

 第九要塞から朝霧さんが拠点としているらしきビルまで、およそ百三十キロほど離れている。ケイ単独であれば、二時間もかからずにたどり着けるはずだ。

「以前よりコマンドの精度が上がっている。おそらく一時間もあれば到着するだろう」
 そのケビンの言葉に、目が見開かれる。それは一体どんなスピードなのか。出発する前にこれでもかと何度もキスをされたのはそのせいか。

 マッド佐伯は早速研究室にこもって何かをやっている。きっと興味が赴くままに様々なことを試しているのだろう。



 第九要塞の屋上から、ケビンと一緒にケイの帰りを待ちながら外を眺める。
 ミイラのような乾いた木々。乾いた大地。崩れかけた建物。遠くを流れる川。灰色の景色。

「あんなに大変だったのに、なんだか懐かしい気持ちになる」
「そうだな。あの頃は、もうずっとこの景色の中で生きていくもんだと思っていた」
「第三世界って色鮮やかだよね」
「空が青いってだけで、特別なことのように思えるな」

 つい昨日までは、色鮮やかだったはずの景色。眩しかった光景。
 吸い込む空気が軽い。前はこんなに軽かっただろうか。

「なんだか、空気が軽い?」
「違うな。乾いているんだよ。日本は島に比べても空気が湿っていただろう?」
 そうだった。ちょうど梅雨明け前だったからか、とにかく湿度が高かった。

「だが、以前より乾いているような気がするな」
「そうなの?」
「ああ、そんな気がする」

 見上げる空は相変わらずどんよりとしている。厚い雲の向こうにある淡い光は、太陽なのだろうか。それとも、別の何かなのだろうか。それこそ第一世界なのだろうか。

「第一世界って、地球上なの?」 
「さあ。俺は行ったことがないからな。楽園が何かなんてわからない」

 第九世界は地球上なのだろうか。地球上だとすれば、それはきっと平行世界だ。目に映るこの景色が、閒宵人たちによって創られているとしたら、きっとここは地球上ではない。

「神様っているのかな」
「さあな。俺が会ったことがあるのはゼノだけだ。ゼノは人とは違う存在だろうが、神かどうかはわからない。神だと言う人もいるだろうし、そうじゃないと言う人もいる」
「ゼノは何をさがしているの?」
「なくしたもの、だそうだ。俺も具体的なことは知らない。俺はまだただの護衛だからな」
「でも、ケイのことを頼んだんでしょ? 声かけちゃいけない人なのに」
「ああ、そうか、ミューは知らなかったか。ゼノには声に出す必要がないんだ。頭の中で強く念じると意思が伝わる」
「テレパシーみたいな?」
 びっくりして潜めていた声が少しだけ大きく聞こえた。慌てて周りを見渡す。遙かまで見渡せる荒野に動くものはない。

「大丈夫だろう。ミューの声が響くのはもうケイくらいだ」
 私たちの声は、もうほとんど響かなくなっているらしい。ただ、ケイは意識すれば頭に響かせることができる。きっとまた新しいコマンドを覚えたのだろうと、ケビンが笑っていた。
 それこそがきっとテレパシーだ。

「なんだか、ケイとゼノって同じような存在だね」
「そうか? ゼノよりは人に近いだろう?」
 それはきっと私たちだからだ。私たちにとってケイはケイでしかない。私たちと同じだとしか思えない。けれど、他の人は違う。ケイに向けられる目は、いつも好奇と畏怖に満ちていた。

「ミュー。他人のことなんか気にするな。俺たちは、俺たちだ」
 子供のように頭をくしゃっと撫でられた。

 ふと感じた気配。ケイが戻ってくる。

「単独だと早いな」
 見えなかった姿が豆粒ほどに見えたかと思えば、あっという間に近づいてくる。まるで宙を駆けているかのようだ。

 見惚れてしまうほど、その姿は躍動感に溢れ、しなやかに疾走する。それは、感動的に美しかった。
 一瞬たりとも目が離せない。

「ケイって、すごく、すごく、美しい」
「そうだな。俺もこんな風に見るのは初めてだ」

 一足飛びに屋上まで跳躍したケイに、感動のあまり飛びつくように抱きついた。そのまま抱え上げられ、口づけられる。息すら切れていない。しなやかな体躯も絡まる舌も、いつもよりほんの少しだけその温度が高い。

「疲れた?」
「少しな」
 そう言ってもう一度キスをせがまれる。ケイの疲労回復には糧である涙の方が効果は高いものの、今は涙が出そうにもない。

「どうだった? いたか?」
「ああ。間違いなくここは俺たちがいた場所だ。ただ、時の流れが違うような気がする」
 マッド佐伯も交えて話そうと、地下に戻ろうとしたそのとき──。

 呼ばれたような気がした。

 まさかと思いながら、ケイの腕に抱えられたままあたりを見渡す。二人も感じたのか、同じように警戒しながらあたりを眺めている。

「おそらくあいつじゃない。あいつとの繋がりは、マッドより弱かった」
「じゃあ、何に呼ばれてるんだろう……」
 互いに顔を見合わせ、眉を寄せる。
 もう一度あたりを見渡し、何もないことを確認してから、地下に戻った。



「腹も減らず喉も渇かないとは便利だな。これで眠くならなければ完璧だ」
 黄色の研究室で顔を合わせた途端のマッド佐伯の言葉に、先ほどまでの緊迫感が飛散する。

「佐伯、さっき呼ばれたような気がしなかったか?」
「いいや。したのか?」
 そういえば、今までよりも弱かったかもしれない。

 応接用のソファーまでクリーム色だ。妙にころんとしてかわいらしい感じなのは、きっとケイティが選んだからだろう。三人掛けにいつも通り揃って腰を下ろせば、マッド佐伯はデスクの椅子に座ったまま、キャスターを滑らせるように移動してきた。
 立ち上がるのが面倒だからと、椅子に座ったまま移動するのは彼の悪い癖だと、いつもケイティが顔をしかめていた。

「確かに、今までよりも弱かったな」
 同じことを思ったのか、そう声を上げたケビンにケイも頷いている。

「となると、呼んでいるのは第九世界に関するものじゃないのか? そもそも、誰を呼んでいるわけでもない感じだっただろう?」
 思わず頷けば、マッド佐伯もそれに応えるかのように頷き返す。

 呼ばれているような気がするものの、確かに、私自身を呼んでいる感じではなかった。遠くから、誰に向かってというわけではなく「おーい」と声をかけられているような、そんな感じだ。
 だからこそ、嫌な感じではなく不思議な感じがしたのかもしれない。

「始めは私もミウを呼んでいるのかと思っていたが、あの感じはミウだけを呼んでいるわけではないだろう。単純にミウは傍受しただけかもしれない。おそらく女性帰還者だからだろう」
 聞くところによると、帰還者の八割は男の人で、現存する帰還者の女性は、確認されている限り私だけらしい。
 だからこそ、マッド佐伯は第九世界専属になった。私がレア帰還者だから……。

「それで、どうだったのだ?」
「ここは間違いなく俺たちがいた場所だ。だが、時の流れが違う」
「まあ、そうだろうな。そもそも時の流れは一定ではない」
 マッド佐伯が当たり前のように答える。

「俺たちが戻ってから、おそらくここでは数十年経っている」
 そう言ったケイの眉間にしわが寄る。

「美羽、聞けるか?」
 それは、これから話すことは、私にとって耳にしたいことではないとケイは思っているのだろう。大丈夫だと胸を張って答えられるわけではない。けれど、二人がいる。だからきっと大丈夫。
 覚悟して頷く。ケイの目が少しだけ細められた。

「万が一向こうに俺の気配が悟られないよう、離れた場所から響いてきた声だけで判断している」
 そう言って話し出したケイの言葉に、悲鳴を飲み込んだ。

 数人の閒宵人の女性が、食料と、欲のはけ口として飼われている。

「だって、閒宵人は食べる必要はないでしょう? どうして……」
「一度食らうと、定期的に食らう必要があると、あの二人の帰還者は言っていた。そのうち食べるという行為を思い出すのだろう」
 マッド佐伯の声はいつも以上に落ち着いて聞こえた。

「これは、あくまでも俺が感じた、ただの感想のようなものなんだが……、ここに棲むものは、元は閒宵人なんじゃないか?」
「その可能性は高いな。だからこそ、ケイは我々第三世界の人間に近いのだろう」
 驚いて声が出なかった。納得するように頷くマッド佐伯。ケビンは目をつぶったまま考え込むように腕を組んでいる。

 ケイが感じたそれは、根拠のないことではなかった。肉を食らった閒宵人の存在が、ここに棲むものに近いような気がするらしい。特に朝霧さんの存在は、クロマニョン人に近いような気がしたらしい。

「退化しているってこと?」
「ミウ、我々第三世界の人間を基準に考えるから退化だと思えるのだ。ここ、第九世界ではむしろ進化だろう」
 何がどうなっているのかがわからない。

 自分の中の常識がひっくり返る。ここは、どこまで不条理なのだろう。……そうか、それこそ第三世界から見たら不条理なだけで、ここではそれが道理。

「飼われている閒宵人の女は、三人とも、もう人ではなくなっている」
「どういうことだ?」
 そこで初めてケビンが声を上げた。
 ケイに身体を引き寄せられる。ぎゅっと抱え込まれたまま淡々と紡がれた言葉。

「ヤツらは、女たちの手足を切り落とし、それを食らっている。切り落としても、丸二日で元に戻るらしい。三人のそれを代わる代わる……」
 ぎゅっと抱きしめられた腕に力がこもる。

「それにだ。閒宵人同士だと滑りがよくないからと、ここに棲むものの血を潤滑剤として使っている」
 あまりのおぞましさに吐き気を覚える。口の中に気持ち悪いほど唾液がこみ上げる。

「女たちは、もう人としては生きていない」

 それでも、定期的に互いの肉を食わされて、生かされる。そして、新しい閒宵人の女性が捕まると、古くからいるものは外に放り出され、肉の効果が切れた途端、ここに棲むものに食われる。
 もう産卵できないほど、身体が壊れている。修復されないほど、壊される。

「ケイ、どうしてそれがわかった? 短時間でわかることじゃないだろう?」
 ケビンの静かな声に、ケイが小さく息をついた。

「あの男の、記憶が流れ込んできた」
「新たなコマンドか?」
「たぶんな。情報が欲しいと強く思った途端、頭に流れ込んできた。他の閒宵人ではできない。ヤツとは繋がりがあるからできたんだろう」
 その繋がりは私の肉だ。私の肉が、あの男の身体に留まっている。それが、何よりもおぞましい。

「ケイ、私の記憶を引き出せるか? そうだな、ケイティと出逢った瞬間、私が何を感じたかわかるか?」
 マッド佐伯をじっと見つめたケイが、嫌そうにその顔を歪めた。

「私の天使。地上に舞い降りた、私だけの天使」
「おお、正解だ。間違いないな」
 ケイのものすごく嫌そうな声と、ケビンのものすごく嫌そうな顔とは違い、マッド佐伯はなぜか嬉しそうだ。

「ミウ、気が紛れたか?」
 どうやら気遣われていたらしい。確かに、さっきまであったおぞましさが、ほんの少しだけ薄れた。