閒宵人の涙
閒宵人の声 05ケビンの名前は、通称では「Kevin」、正しくは「Caoimhín」と書く。どれほど正しい発音を教えられても、私にはケビンとしか聞こえない。
ケビンの妹のケイティは「Katherine」が通称で、本当は「Caitlín」と書く。私にはキャサリンに聞こえる。
ケビンが名付けたケイは「Kay」と書く。先に文字を見ていたら、ケイではなくカイと呼んでいたかもしれない。
「カタカナで書くと、兄は……そうですね、クィヴィンでしょうか。私はケイトリンです」
ケイティが「Caoimhín」の横に「=クィヴィン」と書き、「Caitlín」の横には「=ケイトリン」と紙に書いて教えてくれた。
文字にされるとわかる。わかった途端、そう聞こえる。逆に書かれないとわからない。
ケビンの家名は「O'Brien」と書き、オブライエンと聞こえる。通称では「O'」がとれて「Brien」だけになる。
二人の両親は、すでに引退して祖国で余生を送っているらしい。ご挨拶に行けるのは、ケビンが引退した後になるそうで、それはまだずっと先の話になる。
ここでは家名はあまり意味のないものらしい。私も名字を聞かれることなく、美羽という、私そのものを表す名前だけを初対面の人に聞かれる。
「あれ? でも、佐伯博士は名字で呼ばれてますよね?」
「ああ、彼は佐伯が通称のようなものです。名前は薫といって、本人はあまり好きではないようで……」
「かおる? 確かに、博士は薫って感じじゃないかも……」
思わず失礼なことを口走れば、きれいな字で「薫」という一字を書いたケイティに「本人には言わないように」とくすくす笑いながら注意された。
「佐伯博士は普段日本語なんですか?」
「彼は、ああ、ミューにはわかりにくいかもしれませんね。色々な言語が入り交じっています。ひとつの言語だけを使っていることは……少ない、かな?」
日本語で話し始めたかと思ったら、次に英語になり、フランス語になり、再び日本語に戻ったと思ったら、ラテン語が登場したりするらしい。何を考えて話しているとそんなことになるのか。
「よく理解できますね」
「慣れです」
そもそもが、何を言っているのか理解に苦しむような内容ばかりなので、聞いているふりをして聞いていないことの方が多いとか。どうやらニュアンスの違いで言語を使い分けているらしい。
彼も理解を求めているわけではないらしい。なんとなく想像できてしまえるところが、マッド佐伯だと思う。
ケイティが日本語のニュアンスまで理解できるのは、マッド佐伯の奥さんだからかと妙に納得した。表面的な言葉だけじゃなく、感覚的なことまできちんと理解してくれるのは、マッド佐伯のそれに慣れているからだろう。
私たち三人の関係はすでに認められているものの、婚姻届のようなものは書いていない。ケイティもマッド佐伯とは事実婚だそうだ。
国に帰属しないために届け出る必要がない。ケビンたちが「彼の方」や「御方」と呼ぶ、要人に認められればそれでいいらしい。それこそが重要らしい。
そんなケイティとの話を、マッド佐伯と一緒に閒宵人の検査の立ち会いから戻ってきた二人に話すと、ケイがうらやましがった。彼は家名も名字もない、ただのケイだ。国に属さない上に彼の存在は極秘なので、戸籍なんて存在しない。
「ケイは……そうだな、ミューの立花を橘に戻して、うちのO'Brienをつけて、Kay・橘・O'Brienでいいんじゃないか? 俺もミューも同じでいいだろう?」
「立花を橘に戻すって何?」
「知らないのか? ミューの家名は元々こっちの橘だぞ。立花はいわゆる通称だ」
知らなかった。何代も前に橘から立花に変えたらしい。
ケイはケビンが書いた、Kay 橘 O'Brien、美羽 橘 O'Brien、Caoimhín 橘 O'Brien、という三つ並んだ名前をじっと見つめている。どことなく嬉しそうだ。
ケビンが漢字を書けることに驚くと、少し得意そうな顔をしていた。ずっと年上の男の人なのに、なんだか可愛いと思ってしまう。
その三つ並んだ名前には、どこに届け出るわけではなくとも、私たちがお互いにそう認識しているだけであっても、なんだかくすぐったいような、じんわりと心があたたかくなるような、そんな嬉しさがあった。
ここでは、名字は聞かれないのに信仰は聞かれる。
改めて自分がどんな神を信じているのかを考えると、クリスマスを祝い、大晦日に除夜の鐘を聞き、元日には初詣に行く。どう考えても無宗教だ。
ただひとつの具体的な神という存在を信じているわけではなく、神とはなんだと聞かれれば、神という言葉そのものが浮かぶ。
それを説明したら、あっさりそれは日本古来の神に対する考え方だと言われた。
「神話を信じているわけじゃないのにですか?」
ケビンとケイについていくと決めた時に、ケイティにそう疑問を投げかけたら、「八百万の神や、祟りという概念は信じているでしょう?」と返された。
信じているのかと聞かれると、はっきりそうだとは答えられない。けれど、神頼みはするし、漠然とした神という存在については、信じているというよりも認めているという感じだと思う。そういうものだと思っている。
今までそんなことを突き詰めて考えたことなどない。だからか、改めて聞かれるとすごく戸惑った。
どうしてそんなことを聞かれるのかと思えば、組織には、何かしらの神のような存在を信じている人しか加わることができないらしい。
改めて私は、その根底に昔ながらの神道があることがわかった。
ケビンとケイティも、どの神を特別信じているというわけではないけれど、その根本にあるのはカトリックだ。
ケイはケビンが根本にあり、ひいてはカトリックに繋がると分析されていて、ケイの神はケビンかと思うと、どうしてか妙に納得できてしまった。
彼らは信仰にこだわる。それと同じくらい、その血統にもこだわる。
彼らの組織に新たに加わることができるのは、その土地に代々根付いた血筋のものだけらしい。その先祖に一人でも異国の血が入ると加われない。
いまどき? と思うものの、そういう規則らしい。
「ミューの先祖に一人でも日本人以外の血が入っていたら、俺たちに自由はなかっただろうな」
そうケビンが話していたくらい、血統にこだわる。だからこそ、私はモルモットであり、組織の一員にもなれたらしい。
身分証やパスポートの代わりに、勲章のようなのもが渡された。パスケースのようなものを開くと現れる紋章のようなそれは、まるで警察手帳のようだ。それを見せるだけで、世界に通用する身分証になるらしい。
彼らが属している組織は、いわゆる超常現象やオカルトみたいなものを研究しているらしい。なんとなく胡散臭い。詳しくは聞いていないので、漏れ聞こえてくることを自分なりにまとめると、そんな感じだ。
間違ってはいないと思うけれど、たぶん合ってもいない。
そして、私とケビンが第九世界と繋がったままだということがはっきりした。
戻ってきた閒宵人は、二人ともいつしか迷い込む前と同じ言葉しかわからなくなった。私たちのように全ての言語が第一言語に聞こえる、あの状態ではなくなっていった。
戻ってきて数日経つと、いつの間にか元に戻っているらしい。ケイの頭にも声が響かなくなる。
最初の一人はたまたまなのかがわからなかった。けれど、二人目もほぼ同じ状態だったため、おそらくそういうことだろうと結論付けられた。
私たち二人だけが、ずっと戻らずそのままを維持している。
それが何を意味しているのか。
「ケイとの繋がりだろう」
マッド佐伯はそう結論付けている。
少なくとも私はケイに種付けされ、その体液を取り込んでいる。けれど、ケビンは違う。
「ケビンは、ケイからの強い繋がりだ。ケイを形作っているのはケビンだ」
ケイの遺伝子の一部にはケビンとの繋がりがはっきりと現れているらしい。遺伝子が変化するほどの繋がり。
ケイがこの第三世界に来ることができたのも、この繋がりがあってこそだと考えられている。
ケイは生きながらに進化している。
「それに、わずかながらミウとの繋がりもある」
「私とも、ですか?」
私の体液と、直前で私の血を取り込んだせいらしい。
私はあの場所に二年近くもいた。その間、欠かさず私の体液を摂取し続けた影響らしい。
「おそらく君たちも、ケイが使うコマンドがそのうち使えるようになるのではないかと、私は考えている。ちなみに私はまだ使えない。第三世界では使えないのかもしれない」
こっそり私たちの肉や体液を取り込んでいるマッド佐伯が、隠すことなくしれっと言った。こっそりコマンドが使えるかどうか試しているマッド佐伯。想像したら面白い。
「私とケビンも進化しているんですか?」
「いいや。進化しているのはケイだけだ。だが、君たちは確実にケイの影響を受けている。それがどういう繋がりでどう影響を受けているのまでは、まだわかっていない」
ケビンやケイとではなく、ケイティと一緒にマッド佐伯の研究所に顔を出すのは、月に一度、生理の時だ。
その間も関係なく二人の精子を身体に入れ、中に留めておくために、経血と一緒に流れてしまわないよう、直前にできるだけそれを排出しておく必要がある。
その処理はケイティがしてくれる。どう言い繕っても、気分のいいことではない。この時ばかりは、本当にモルモットになったような気持ちになる。
ただ、この処理のおかげで生理は毎回三日ほどで終わる。その点だけはありがたい。そう思わないと滅入ってしまう。
「おそらくミウが単独で向こうに戻されるとすれば月経後、排卵日前と考えられるが、主として引き戻されるのはケイだろうから、ミウの都合まで考慮されるかはわからない」
閒宵人の女性は、産卵のために呼ばれているのではないか、そんな仮説もある。あくまでもそれは仮説でしかないものの、実際に私も生理が終わった数日後に向こうに迷い込んでいる。
身体が成熟していなかったから産卵できなかったのか、ほかに何かしらの理由があったのか、それはわかっていない。産卵に適した女性以外はその場で食われていたと、ケビンたちが話していた。
そしてもうひとつ、この頃からときどき、幻聴のようなものを感じるようになった。