閒宵人の涙
閒宵人の声 04


 それから、特に何事もなく毎日がゆっくりと過ぎていった。

 時々要人に随行するケビンとケイに同行し、世界中を行き来している。
 それ以外はケイティに勉強を教わりながら宿舎で過ごす。高校卒業程度の復習が終わり、今はこの組織で必要な専門知識へと変わってきている。
 そして、定期的にマッド佐伯の研究室に顔を出し、互いの血液や肉を取り込み合う。
 どこであろうと常に二人と行動をともにし、二人に抱かれ、ささやかなことを語り合い、揃って眠りにつく。

 それは、倫理観が少しずつ狂っていくような、どこかいい知れない不安が常につきまとうような、そんな仄暗さを孕んだ、けれど穏やかで幸福な日々だった。



 そんな中、再び日本に閒宵人が現れ、凄惨な事件を引き起こした。
 無差別殺人。白昼の商店街、たまたま店頭で包丁の実演販売をしていた、それを奪っての凶行。
 どうして向こうに棲むものとの違いがわからないのだろう。一目瞭然なのに。

「正気ではないから、だ」
 それは、当たり前のように呟かれた。

 世界中を回っているときに、似たような事件の加害者にケイとケビンは面会している。けれど、その誰もが閒宵人ではなかった。

 再び日本に派遣された私たちは、軍事施設に降り立ったその足で、閒宵人と思われる男が収容されている警察署に向かった。今回も当たり前のようにマッド佐伯も同行している。
 その彼が当たり前のように呟いたあとで、「果たして正気とは何を指して言うのだろうな」と、珍しく眉を寄せていた。

 ここでは異常な行動であっても、第九世界では正気の行動。
 あそこでは、何もかもが不条理だった。

 前回の男と同じく、どうして戻ってきたんだ、そう嘆いているらしい。
 あの不条理な場所で、向こうに棲むものを狩ることが楽しくて仕方なかった。まるでリアルなゲームのように、実際に人を殺せる。これ以上ないほど興奮した。そう目を輝かせて話している。
 たとえ怪我をしても、どこか欠損しても、いつしか元に戻る身体は、言われてみればゲームの主人公のようだ。
 彼も、前回の彼も、元は真面目で悪目立ちしない、普通と形容されるような人だったらしい。

 食われないとわかったなら、向こうに棲むものを殺す必要なんてないはずだ。それなのに、その命を弄ぶかのように奪っていくのは、たとえあの場所であったとしても、もはや正気だとは思えない。

 ケビンは戦ってもキリがないと言っていた。だから逃げ隠れると。
 食われるかもしれない状況下ですら、それでなんとか凌げていたのに、食われないのであれば、わざわざ殺す必要はない。見た目が同じ「人」ならば、なおさら殺そうとは思えない。

「普通と言われる者ほど、キレやすい。真面目と言われる者ほど、豹変しやすい。ミウも聞いたことがあるだろう?」
 マッド佐伯の声が、耳を通り過ぎていった。なぜなら──。

──あさぎり。
 その一言が、耳に飛び込んできた。

 かたかたと震えだした身体を、ケイにぎゅっと抱きしめられる。
 ケビンは前回同様、尋問するために取調室に入っている。
 モニタ越しに見る閒宵人と、スピーカーから聞こえてくる声。そこに紛れていた言葉。

「美羽、外に出ていよう」
 ケイに促され、その部屋をあとにした。マッド佐伯の視線を背中に強く感じたけれど、それにかまっている余裕はなかった。

 前回同様、車の後部座席にケイと並んで座り、ケビンたちが戻るのを待つ。所内の応接室を勧められたものの、狭い車の中の方が落ち着いた。

「美羽、聞けるか?」
 ケイにはケビンや閒宵人の声が頭に響いているのだろう。前回の閒宵人とは違い、今回の閒宵人はまるで誇らしげに自分の経験を声高に話していた。

 ぎゅっとケイの腕にしがみつきながら、顔を上げることもできない。
 知る必要があるから、知らせようとしているのだろう。ケイもケビンも、知る必要のないことは知らせない。必要があることは、どれほど耳に入れたくないことでも知らせてくる。
 覚悟を決めて頷くと、ケイが静かな声を上げた。

「あの男が、閒宵人を救っているらしい」
 救う? 別の閒宵人の肉を食らわせることが? けれど、どこかで納得もする。あそこで生き延びるには、そうするしかないのだろう。

 ただ、どうしてもそれが善意によるものだとは思えなかった。私をあんな目に遭わせた人が、善人のはずがない。それとも、たとえ善人だろうと、あの場所にいると変わってしまうのだろうか。

「食らうのは、閒宵人の女に限るらしい。男では効果が薄いそうだ」
 思わず顔を上げる。

「だから、最初の閒宵人は女性の腕を食いちぎったんだろう。あの男は閒宵人の女だと思い込んで、女性を襲った。この男は、向こうに棲むものだと思い込んで、人を殺そうとした」
 その顔を痛ましげに歪めたケイの目が、突然、かっと見開かれた。

「なに? どうしたの?」
 戸惑うようにケイの目が彷徨う。

「あの男が……」
「あの男? 朝霧さん?」
 しがみついていたケイの腕が肩に回り、ぐっと引き寄せられる。反対の手に頭を抱えられ、ぎゅっと抱き込まれた。

──美羽を探しているらしい。
 聞こえてきたのは、ケイの低く呻くような声だった。



「それで? 何を隠している?」
 ケビンが運転席に、助手席にマッド佐伯が乗り込み、ドアが閉まった途端、彼がそう声を上げた。

「これは軍から借りた車だ。盗聴器はない。私にだけは包み隠さず話せ。でなければ助けられるものも助けられない」
 ケビンが小さくひとつ息をついて、ゆっくりと車を発進させた。そして、ゆっくりと彼のことを話し始める。

「まあ、予想通りだな」
 全て聞き終わった直後のマッド佐伯の声は、少し呆れを含んでいるように聞こえた。

 元々朝霧さんのことは話してあったらしい。ただ、私が襲われたことだけは伏せていた。仲違いしたと伝えていたらしい。

「ミウの経歴に、男性恐怖症になるような要因はなかった。ケビンにもケイにもなついている。だとすれば、必然的に答えは出ている」
 今度ははっきりと呆れを隠そうともしないマッド佐伯の声に、ケビンが「それでも俺たちの口からは言いたくなかったんだ」と返していた。

「それも、予想通りだな。それで? その朝霧がミウを探している理由は?」
「わからない。さっきの男も理由は知らないと言っていただろう?」
「惚れたとか、そんな理由か?」
「惚れた女襲うかよ」
「そういう男もいる」

 ぎゅっと耳をふさぐかのようにケイに頭を抱きかかえられているのに、二人の会話は耳に届く。
 惚れたというのはない。あのときの彼の目には、蔑みとただの欲しかなかった。

「ケビン、彼に関する資料をよこせ。どうせ隠し持っているのだろう? そこに性的嗜好についてなにかあったか?」
「いや、ない。経歴も表が調べたもの同様きれいなものだった」
「では、追加で調査する。裏で調べさせよう」
「いいのか?」
「知られたくないのだろう? 私だって自分の妻のそんな話は、誰にも話したくない」
 思わず顔を上げる。ケイを見れば彼も驚いた顔をしていた。

「佐伯博士、奥さんいるんですか?」
「ああ、ケイティだ」
「えっ? うそ!」
 思わず声を上げ、バックミラー越しにケビンと目が合うと、そこに映る目が嫌そうに細められた。

「ケイ知ってた?」
 知らない、と首を振るケイも目を見開いてマッド佐伯を凝視している。

「俺と佐伯は学生時代からの知り合いなんだ。佐伯がケイティを口説きに口説いて、最後は泣き落としてまで結婚を迫った」
「どんな手を使ってでも了承させればいい」
 信じられない。あのケイティの旦那さんがマッド佐伯……。

 だから、ケイティも毎回日本に同行しているのか。日本にいるときは常にケビンとケイが一緒にいるため、ケイティの護衛は必要なく、いつも宿舎で待っているだけだった。
 私の護衛というより、マッド佐伯に同行していると考えれば、なるほどと頷ける。

「お前まさか、ケイティにまで俺たちの肉食わしてないだろうな」
「まさか。私だけだ」
 びっくりしてケビンを見れば、バックミラーに胡散臭そうに細められた目が映っていた。

 わざとらしく大きくため息をつくケビン。
 マッド佐伯がこれまたわざとらしく肩をすくめた。

「やっぱりな。俺たちに巻き込まれて向こうに行ったあと、ケイティはどうするんだよ」
「ケイティがいるからこそ、戻ってこようと思える。一緒に連れて行けば、それこそ戻ってくる気が失せる」
 マッド佐伯の思考がわからない。戻れるなら戻りたいとは思わないのだろうか。

「まあな。俺たちも三人でなら、あのままあそこで朽ちてもいいと思っていたからなあ。だったらなおさら、ケイティを連れて行った方がいい。あの場所で幸福を感じることができなければ、戻って来られないだろう」
 あの時は、戻れると思っていなかったからこそ、それでいいと思っていた。戻って来られるとわかっていたなら、戻りたいと思う……だろうか。思わないかもしれない。三人一緒であればどちらでもいい。どこでもいい。

「おそらくそれだけではない。今でこそ道ができたゆえにそれだけでも可能だろうが、君たちの場合、おそらく直後に強く呼びかけられたことも鍵だ。ゼノの呼び声、それが肝要だと私は考えている。だからこそ、君たちには万が一、想定しない時間に向こうに行く可能性を考慮して、センサーと盗聴器がつけられているのだよ」
「堂々と言うなよ。せめて言葉を濁せ」
「問題は、向こうに迷い込んだ瞬間、あまりの僥倖に喜びが爆発して一瞬で戻って来てしまうことだ。何があっても冷静さを失わないようにしなければ……」
 誰も何も言えず、宿舎まで沈黙が続いた。マッド佐伯は、本当にマッドだと思った。

 ふと、マッド佐伯の言葉に混じっていた、「ゼノの呼び声」とは何か。それが頭の隅に引っかかった。