閒宵人の涙
閒宵人の涙 13


 ここは、ケビンたちが来日したときに滞在する、宿舎のような場所らしい。
 全てが自分の知るものより大きく高い造りになっている。天井も高ければ、洗面台の位置も高い。背の高いケビンたちにはちょうどいい高さなのだろう。

 ケイは今、日常生活をスムーズに行う訓練中らしく、汚れたシーツを取り替えるようケビンに言い付けられていた。嫌そうな顔をしながらも渋々従う大きな身体に、思わず声を上げて笑ってしまう。
 ひとしきり笑ってから、戻って以来、初めて笑っていることに気が付いた。この二人がいないと笑うこともできない。その事実に、たくさんの感情が一度に渦巻いて、訳もわからず泣きたくなった。



 ケビンに抱えられながら汗と体液に濡れた身体をシャワーで流し、大きめのお風呂に浸かっている。
 ちょっと気持ちよくなりすぎて身体がだるい。

「あんなに汚れるとは思わなかった」
 お湯の温かさとケビンの体温に身体の力が抜け、思わずそう呟けば、彼は声を上げて笑った。

「本当のセックスは、きれいなだけじゃないんだよ」
「精子があんな匂いだとも思わなかったし、あんなに……濡れるって思わなかった」
 ケイは常に中に出していた上、それが外に零れ出ることもなく、ケビンは精子が出なかった。自分の中から二人の精子が零れ出たときは、いろいろな意味で衝撃だった。
 苦笑いしたケビンを見ていて、ふと思い浮かんだ言葉……。ぎゅっと身体が縮こまる。

「淫乱、だから……あんなに濡れるの?」
「お前、それ──」
 言葉を詰まらせたケビンにぎゅっと抱きしめられた。

「もしお前が淫乱なら、お前をそうしたのは俺だ。だったら、俺は淫乱なミューが好きなんだよ」
「嫌じゃない?」
「いいや。むしろ好きだ。気持ちよさそうに感じて、ぐちゃぐちゃに濡れてるミューがたまらない。俺はもっと淫らに、もっと乱れるミューが見たい」
 ケビンの腕の中、そっと顔を上げると、愛おしそうに目を細められた。

「そんなミューが、俺はこのうえなく愛おしいよ」
 落ちてきた触れるだけのキスは、その言葉通り優しかった。

 心の中にあったくすんだ何かが澄み渡ったような気がした。
 ふうっと小さく息を吐き出しながら、縮こまった身体の力を抜けば、頭の上にふっと笑うケビンの息がかかる。
 彼の首元に鼻先を押しつけ、その匂いを吸い込む。安心するのは、この二人の匂いだけだ。首に触れられて平気なのも、触れてほしいと願うのも。

「ミューはひとりでしたことないのか?」
「だって、二人じゃなきゃ嫌だったから……」
 二人に会うまでは、知識としてしか知らなかった。それほど興味もなかった。そんな気持ちになったこともなかった。

 ケビンのキスは巧みだ。キスだけで気持ちまで伝わってくる。
 あの時も、初めてキスされたときも、そこに愛おしさが込められているかのようで、それを嬉しいと思った途端、自分の気持ちを自覚した。

「もしかして、ケビンってキス好き?」
「ああ。本気のキスしかしない。あの頃、キスしたら終わりだと思ってたよ。十七歳の女の子に本気になるって」
「本気になった?」
「とっくにな。そんなこと考えてしまう時点で本気だったよ。だから、卒業を待てずに十八になった途端会いに来たんだ。せめて十八まで待てとうるさかったんだよ、周りが」
「会いに来てくれてありがとう」
 今度は自分からキスをした。ケビンの目が嬉しそうに細まっていく。

 もっと早く会いに来てほしかった。そう小さくわがままを言えば、抱きしめる腕に力がこもった。

「ケイに内緒でもう一回するか?」
「全部響いているんだが」
 閒宵人だった私とケビンの声は、ここでもケイの頭に直接響いて聞こえるらしい。

「わかってて言ってるんだよ」
 むすっとした顔でお風呂に顔を出したケイに、湯船の中から抱き上げられる。湯船に残ったケビンがにやにやと笑っていて、からかわれたケイは嫌そうに顔を歪めた。
 抱き上げられたケイの首に腕を回し、自分からキスをすれば、それに啄むようなキスが返ってきた。

「俺は美羽とするキスだけが好きだから」
「お前、誤解を与えるような言い方するなよ」
「親子ゲンカだ」
 思わず呟くと、大きな体躯の二人が同じ表情でむっとした。



 ケイは、ケイのままだった。

 あの日。
 私が戻ったあの日、ケビンも同じように戻っていた。
 彼は正しくは護衛官、要人のボディーガードみたいなものらしい。軍人というよりは警察官ではないかと思ってしまう。

「似たようなもんだろ?」
 護衛官という職が、軍に所属するのか警察に所属するのかがわからない。もしかしたら、軍の一部なのかもしれない。きっと国によって違うのだろう。

 お風呂から出て、制服に着替えると、その姿に二人ともしみじみとした目を向ける。さっきは会った途端、あっという間に脱がされて、眺めるどころではなかったのだろう。

 戻ったケビンは、すぐさま私たちの消息を調べた。私の消息はあっさりと判明し、問題のケイの消息も馬鹿馬鹿しいほどあっさりわかったらしい。私はあれほど調べてもわらなかったのに。

 まるで豪華なホテルのような広々とした部屋に置かれた、すごく大きく座り心地のいいソファーに座らされ、見せられたタブレットに表示されていたのは、地方紙の小さな小さな記事。
 そこには、「裸の大男逮捕、記憶喪失か?」そんな見出しの一文があった。たった数行しかないこれだけの記事で、よくケイだとわかったものだ。

「裸だったの?」
「そうらしい。のどかな田舎町は大騒ぎだ」
 ケビンのからかうような声に、ケイがそのときのことを思い出したのか、うんざりした顔をする。

 あの日、ケビンは要人の視察で地方都市を訪れていた。私のいた場所とケビンのいた場所を直線で結んだ、そのちょうど真ん中にケイは素っ裸で現れたらしい。
 すぐさまケイの身柄を引き取り、コマンドが使えることを知ると、ケビンは随行していた要人に耳打ちした。鉄壁の護衛が手に入る、と。

「ケイって、ここでもコマンド使えるの?」
「使えるんだ。美羽も言葉がおかしいだろう?」
 どうして知っているのかと目を丸くし、もしかしてとその目をケビンに向けると、黙ってひとつ頷かれた。

「だったら、光学迷彩で隠れればよかったのに」
「あの時は俺も動転していて、それどころじゃなかったんだよ」
 それはそうか。いきなり素っ裸で訳もわからない場所に放り出されたのだから。「まだまだだな」とのケビンの呟きに、ケイが深い溜息をついた。それにケビンが肩をすくめている。
 そのおかげでケビンが見付けられたのだから、結果的にはよかったのだろう。

「ただ、ケイは生まれたときから俺の涙だけを糧にしてきたせいか、胃が退化していて食べ物を受け付けない」
 びっくりしてケイに視線を戻すと、嫌そうな顔で「今更おっさんの涙を舐めることになるとは……」とぼやいていた。ご飯が食べられないことをぼやいてほしい。

 涙は、血液とほぼ同じ成分でできているらしい。だからこそ、糧になったのだろう。
 ケビンの涙と私の涙だけを糧にして生きてきたケイは、もしかしたら、だからこそ、ここにいられるのかもしれない。

「ミュー以外の涙も唾液もいらないってバカでかい図体でごねるし、俺の涙を渋々もらってやるって態度がどうにも気に食わん」
「おっさんが俺を国に売るからだろう!」
「売られたの?」
「売られたんだ」
 思わず聞けば、ケイがぎろっとケビンを睨んだ。

「人聞きが悪いこと言うなよ。色々検査されただけだろうが」
「俺は! 種までとられたんだぞ! ケツの穴まで調べられたんだ!」
 それが、ケイを保護する条件だったらしい。

 身体中を隈無く調べられたケイは、人と同じだった。ただ、脳の一部が異常に発達しているらしい。おそらくそれがコマンドと関係があるのではないかと、専門家たちが興味を示しているそうで、ケビンの説明にケイがものすごく嫌な顔をしている。ちなみに当然極秘事項だ。ケイの存在自体が最高機密らしい。

「というわけでだ。ミューは高校を卒業したらケイの糧になる」
「人聞きの悪い言い方するなよ、おっさん」
 私は、ケビンたちと同じ組織の一員となることが極秘に決まっているそうだ。

 ケイの存在を知る私にも、極秘に護衛が付いているらしい。きっと護衛というより監視だろう。まるで気付かなかった。
 その護衛から、私が限界だと聞かされた彼らは、本来卒業まで待つはずだったのを急遽繰り上げて会いに来てくれた。私は自分が思っている以上に危うかったらしい。

 ケビンの国がどこか、それは知らされなかった。今はまだ知らない方がいいらしい。
 全ての言葉が日本語に聞こえるせいで、どこの国の言葉を話しているのかすら、私にはわからない。実際にケビンが話していたのが英語だったのか、それすら定かではない。
 おそらく私は一生監視下に置かれるのだろう。

 ただもう、色んなことがどうでもよかった。
 二人と一緒に生きていける。ただそれだけで、後はどうでもいいと思えた。
 あの日も思った。
 この二人以外はいらない。この二人がいてくれればそれでいい。

「それと同時に、ミューは俺たちの花嫁になる」
 驚いてケビンを見れば、目を細めて笑っていた。ケイを見れば同じような顔をして頷いている。

「ケビンの国では二人と結婚できるの?」
「いや。できない」
 妙にきっぱり答えるケビンは、本当に大雑把だ。

 私たちの関係は、日本の法律上は認められない。けれど、要人のひとりがそれを保証してくれるそうだ。それは法で認められたも同じこと、そうケビンが話す。
 その要人がどんな人なのか、聞かない方がよさそうだ。法と同等の力を持つ人なんて、そうはいない。
 ケビンの家は、代々その要人に仕えている家系らしい。迎えに来てくれたケビンとよく似た女性は、ケビンの妹さんだ。

 おまけにケビンは通称のようなものらしい。正しい呼び方も今はまだ知らない方がいいらしい。
 最初につい通称の方を教えてしまい、「まあいいかと、そのままになっていた」と、大雑把な笑顔で誤魔化された。
 初対面の人にはつい通称で名乗ってしまうと言い訳されたものの、きっと名乗られたあの時点では、私は信用されていなかったのだろう。そして言葉通り、まあいいかと、そのままになっていたような気がする。



 そして、私たちには子供ができない。
 ケビンもケイ同様、身体中を隈無く調べられている。その際わかったことらしい。ケイ同様、脳の一部が発達し、血液の一部にも多少の変化があるらしい。特にケビンは、それまでも定期的に健康診断してきたので、比較データがある。私も卒業後、検査されるそうだ。
 おそらく私も、子供ができなくなっているはずだと、ケビンの低く静かな声で知らされた。
 それが、あの場所から抜け出す代償なのかもしれない。

 あの荒廃した不条理な場所がなんだったのか、それはケビンにもわからない。
 地獄というよりも煉獄に近い。それとも全く別の世界なのか。あらゆる宗教や伝承を調べてみても、結局はよくわからなかったらしい。

「ただ、あらゆる宗教には、共通する概念がある」
 ケビンはまるで声を潜めるかのように、いつも以上に低く呟いた。
 あの場所についても極秘事項であり、現在も調査中らしい。

 ケイという存在があるからこそ、言葉がおかしく聞こえるからこそ、あれは現実だと思える。けれど、それがなければ白昼夢だと言われてもおかしくない。実際に二人の存在以外はすでに記憶も朧だ。
 けれど、間違いなく存在する場所。

「あの時、ミューは幸せを感じなかったか? それこそ、あそこに迷い込む前より、生きてきて一番の幸せを」
 思わず目を見開くと、「俺もだ」とケビンが続けた。ケイも微かな笑みを浮かべながら頷いている。

「あそこがどんな場所だったのか、明確にはわからない。だが、決して天国や楽園ではなかったはずだ。そこでかつてないほどの幸せを感じた俺たちは、あの場所では異物になったんだろう」
「だから戻れた?」
「そうじゃないかと思う。俺とミューの迷い込んだ日がたまたま同じだったというのも、ひとつの条件なのかもしれない」
 結局はわからないことばかりだと、ケビンは薄く笑った。

「この戻った世界すら迷い込む前と同じかどうかなんて、俺たちにはわからない。……だろう?」
 ケビンの静かで落ち着いた声が、染み込むかのように響いた。

 ぽろぽろとこぼれ落ちる涙を、ケイが愛おしげに舐め取っていく。
 三人が三人とも、あの瞬間、かつてないほどの幸せを感じた。
 その刹那の奇跡。

 私もケビンも、そしてケイも、ちゃんと年をとっている。
 今、確かに、ここにいる。
 それだけで、もう充分だった。