夜も昼も
降っても晴れても
09 戀、差し出す降っても晴れても
さらっと言われた「かわいい」に、言った彼の方が照れに照れた。それにつられるように戀の全身がじわじわと熱っていく。どこにも痛みがないのに全身が熱い。
充と幸太も口癖のように「かわいい」を連発する。ただし、どう考えても親バカ発言なので信用ならない。今日もしつこいくらい「かわいい」を連発されて逆に不安になった。ハーフアップにした髪を「かわいい」と褒められ、やっぱり、とおろしてみても「かわいい」と褒める。悩んだ末にもう一度ハーフアップにするとそれまでと同じように「かわいい」と言われた。説得力の欠片もない「かわいい」だ。
戀は彼に気取られないようそっと深呼吸した。苦しいくらいにドキドキしている。
こんなことなら恥ずかしがらずにワンピースのまま来ればよかった。今更脱ぐのもどうかと思うし、それこそ誘うつもりもないのだから躊躇する。
戀が後悔と躊躇を行ったり来たりしていると、天井を見上げていた絢斗がふと何かを思い付いたように戀を見た。
「俺のこと話してもいい?」
すっと彼の雰囲気が変わった。大事なことを話そうとしていることが伝わってきて、戀の姿勢も自然と正される。
立ち上がった彼がテレビの置かれた床の間の横にある違い棚から何かを手に取った。
「これ。たぶんこれが始まりなんだと思う」
そう言って座布団に座り直した彼が座卓の上にことんと置いたのは握り拳ほどの木の塊だった。
「俺が通ってた幼稚園の積み木なんだけど、俺、これにすごく執着して他の子に絶対に渡さなかったらしい。あまりに執着がひどくてどれだけ先生が注意しても宥めても離さなくて、ふざけて取り上げた子供に掴みかかって奪い返したらしい」
「自分では覚えてないの?」
「あんま覚えてない。結局親が同じ積み木セットを保育園に寄付して、古い積み木セットを譲ってもらったんだけど、俺は他の積み木には見向きもしなくて、この一つだけを常に握っていたらしい」
積み木を手のひらで転がしながら彼は苦笑する。
「今でも握ることがあるんだ。たぶん手触りなんだと思う。この積み木の手触りだけが他のと違って、手に馴染んだんだと思う。握ってるとなんか落ち着くんだよ」
手渡された小さな塊は戀の指にも滑らかだった。
「俺はさ、この積み木みたいに執着して独占するような、そういうところがある」
戀の手から積み木が取り上げられた。
「うちの爺さんは、自分と一緒じゃない限り婆ちゃんを絶対に家から出さなかった。伯父さんは相手がどうしても受け入れられなかったらしくて、自分を抑えられなくなる前に日本を出た。逆にうちの親父はいつまでも見付けられなくて妥協で結婚して失敗した。親父が言うには妥協したからもう二度と見付けられないだろうって」
彼の手の中に小さな積み木が握り込まれる。
「こうやって手の中に入れて誰にも触られないように握りしめて感触を確かめて、そういうの、ちょっと異常だろ」
「異常だと思ってるの?」
「思ってる。俺の中には何事においても0か100しかなくて、すごく極端な性格なんだと思う」
自分を厭うかのように彼は薄く笑った。
「だから、このまま表面上の付き合いを続けるなら平気なんだけど、一歩踏み出したらもうダメなんだ」
「わたしに執着して独占する?」
「間違いなく。鬱陶しいほど。たぶん結城がほかの男と喋ることすら許せなくなる」
「嫉妬?」
「嫉妬……嫉妬なのかな。それ以前の問題というか、取り込みたくなるというか、なんか、頭おかしいんだと思う」
彼は、ふーっ、と大きく息を吐いて、手の中にあった積み木を座卓の中央に置いた。
「もしかして、あの雪の結晶も?」
戀の表情をじっと見ていた彼が、諦めたように頷いた。
「あれ、弟にやるつもりで作り始めたんだけど我ながらいい出来で……組子ってわかる?」
「わかる。この部屋の欄間とか障子とか麻の葉でしょ」
二間の間の欄間も丸窓の障子も、組子細工の麻の葉でできている。着物にも使われる文様だから戀にもわかった。
「爺さんが建具職人でさ、組子細工もよくやってたんだよ。小さな木片を組み立てていくとどんどん模様になっていくのが面白くて、子供の頃から色々教わってたんだ。婆ちゃんが死んで、爺さんが後に続くように死んで、それ以来組子はやってなかったんだけど、弟が雪の結晶に夢中で、組子で雪の結晶作ってやろうかなって思って」
様々な思いを込めて作っていたのだろう。それをあんなふうに茶化されたら誰だって腹が立つ。
「庇ってくれた結城には悪いけど、あそこで刺してたとしても俺はきっと刺したこと自体は後悔しなかったと思う。そういう、人としてどうかと思うところが俺にはある」
きっぱりと言い切って彼は黙り込んだ。
戀は特に何を考えるでもなく彼の顔をぼんやり見ていた。見ているうちに、彼の視線が揺れ始めた。
「怖い?」
「ん? 何が?」
「俺のこと」
「んー、特には」
「今何考えてた?」
どこか不思議そうに首をかたむける彼を、戀も不思議な気持ちで眺めていた。
「なにも。強いて言えば、だからどうしたって感じ? 人としてどうかってのはわたしもだから、むしろわたしの方がどうしようもないかもしれない」
「なんで?」
眉を寄せる彼に、恋も告白する。
「たとえば、ビンタされた理由ね。あの時のわたしにだけは気付かれたくなかっただろうなってことを指摘したの。自分でも性格悪いなって思ってたから、ビンタされても仕方なかったんだけど、なんかむかついた勢いでつい言っちゃって」
そのとき、ボーン、とくぐもった鈍い音が響いた。
「柱時計?」
「そう。親父の部屋にある。もう古くて、気まぐれにしか鳴らないんだけど……」
ポケットからスマホを取り出した彼が目を見張った。
「うわ、もう一時だよ。なんか、いきなり腹減った」
ケーキはベリータルトを選んだ。ブッシュドノエルや苺がたっぷりのったケーキはなんだかわざとらしすぎて選べなかった。
「タルトにしたんだけど……カスタードクリーム平気?」
箱から取り出した小振りのタルトには、イチゴやブルーベリー、ラズベリーなどベリーと名のつくものが隙間なく盛られている。
「あー正直助かった。俺生クリームあんま得意じゃなくて。カスタードクリームってシュークリームのヤツだろ? それは好き」
「よかった。勝手に選んじゃったから、苦手だったらどうしようかと思ってた」
タルトは彼がカットしてくれるというので任せて、お重を広げていく。ローストビーフに角煮に唐揚げ。各段ごとに洋中和の料理が詰められている。
「重箱に入ってるとおせちみたいだな」
きれいに四等分にしたタルトをお皿に移した彼はローストビーフを一枚抓んだ。
「うまっ」
「充くんの実家がいつも頼む仕出し屋さんで、すごくおいしいよ」
「すげー楽しみ。男二人だとちゃんと飯作んなくてレトルトばっか。作ったとしても肉野菜炒めとか炒め物ばっかでさ」
「うちは充くんの趣味が料理だから。うちに来ては作り置きしてくれる」
「結城は作んないの?」
「作らないことないんだけど、なんか違うんだよね。すっごく悔しいんだけど、同じように作っても充くんの方がおいしいの」
「幸太さんは?」
「幸ちゃんは食べる専門。その代わり文句も言わずに全部食べる。しれっと人の分まで食べちゃってる」
「あー、そんな感じ」
次々と料理を運び、座卓の上はそれらしく賑わった。
「これ」
一頻り料理を堪能したあとに差し出されたのは、玉かんざしだった。木彫りの玉には菊の花が彫り込まれている。
驚いて言葉もない戀に、絢斗は照れたように笑った。
「あんま凝ったもんじゃないんだけど、こないだ割り箸で髪をこうくるくるっと留めてただろ? それで思い付いて」
「見てたの?」
確か、期末テストの最終日だったはずだ。戀はこの時期、登下校では防寒目的で髪を下ろしているが、教室では髪を後ろで一つにまとめている。その日はいつも使っている黒ゴムを忘れて、何かでもらってそのまま鞄の底に入れっぱなしだった割り箸をかんざし代わりにしたのだ。
「なんか、棒一本で手品みたいに髪が纏まっててびっくりした」
戀は何も用意していない。驚きと嬉しさと申し訳なさで頭の中がごちゃごちゃになる。
「一応ツゲでできてるから」
「わたし、何も用意してなくて……」
「見返りが欲しくて作ったわけじゃないから。ビンタのお礼? 結局あれは捨てたけど、取り返してくれたのは嬉しかったから」
ハーフアップの髪を解いて、貰ったばかりのかんざしで纏め上げる。
「自分で言うのもなんだけど、似合ってるよ」
どうしよう──それしか戀の頭にはなかった。こんなに呆気ないものだとは思わなかった。予感はあった。そういう人を選んだ。それでも、こんなに早く自覚するとは思わなかった。
「気に入らなかった?」
「そんなことない。すごく嬉しい。嬉しくて、なんか、感動して、ちょっと、よくわからなくなってる」
もう一度よく見ようと、かんざしを髪から抜く。ほどけた髪が肩を滑る。
彫り込まれた菊の花を指でなぞった。小さな凹凸が指先に気持ちいい。少しだけ、彼が言う「感触」の意味がわかるような気がした。
「髪、触ってもいい?」
え? と顔を上げたときには、すぐ隣に膝立ちの彼がいて、真剣な顔で髪に指を通していた。何度も何度も髪が梳かれる。指通りを確かめるように指に巻いたり、解いたりしながら、いつものように口の中で何かを呟いている。
「なあ結城」
やけに低い声だった。
「俺、結城の全部に触りたいし、全部の形が知りたい」
あまりに真剣な声に、戀は息を詰めた。
「俺たぶん、今ならまだ踏み留まれるから」
じっと髪を見つめる絢斗の瞳は怖いくらいに鋭かった。
「三井くんは、わたしの肌や髪や形がほしいの?」
虚を衝かれたような顔で彼はまじまじと戀を見た。指先から髪を放し、その場で胡座をかいて腕を組み、「んー……」と長く唸った。
「そこは、君そのものがほしいんだって即答するところじゃない?」
あまりに長く唸るものだから、戀がむっとして言い返すと、彼は納得したような顔でまじまじと見返してきた。
「ああ、今のでわかった。結城だからだな。結城のその気の強いところっていうか、強がりなところっていうか、結構いい性格してるところとか、そういうのがあって結城の形ができてる。たぶん、結城がその性格じゃなかったら気にも留めなかっただろうし、気に留めたとしても肌がきれいな子だなとか、髪がきれいな子だなとか、姿勢のいい子だなとか、そういう一歩引いた客観的な感想しか出なかったと思う」
いまいちよくわからなくて、戀は軽く首をかたむける。
なぜかむっとされた。
「だから、結城じゃなかったら触りたいって思わないし、ましてや唇で触れたいとは思わないし、かわいいとも思わないだろうし、ほかの男に見せたくないとも思わないだろうし、守りたいとも抱きしめたいとも思わない」
なぜか少しキレられた。
「思ってたの?」
「思ってたよ。彼氏だもん。そのくらいは思ってもいいはずだろ」
なぜか開き直られた。
「ごめん、彼氏と、その先の執着とか独占とかの線引きがわからない」
「最悪殺して俺だけのものにしてもいいかなってこと」
「三井くん、もうちょっと言葉選んで。それ犯罪だからね」
「今更取り繕っても遅いだろ。俺にはそういうところがあるんだよ」
なぜか威張られた。
「ごめん、ちょっと洗面所借りてもいい?」
彼は虚を衝かれたような顔で、ああ、と少し間の抜けた声を出して、洗面所の場所を教えてくれた。
ソックスも脱ぐべきか悩んだ。しばらく悩んで、結局脱いだ。デオドラントシートで足全体を丁寧に拭く。
「臭くないよね」
思わず声に出してしまう。緊張しすぎて吐きそうだ。無香料ではなくフローラルの香りにでもしておけばよかった。でも……彼は人工的な香りを嫌いそうな気がする。
どうなるかわからない。でも、きっと後悔しない。
ふーっと深呼吸して、戀は洗面所のドアを開けた。
彼の部屋に戻ると、彼の姿はなかった。座卓の上がきれいに片付けられている。微かに水音が聞こえてくる。荷物を部屋の隅に置いて戀は台所に向かった。
「ごめん、片付け手伝うよ」
「ああ、取り皿洗うだけだから。今お湯沸かしてるからレモネード……」
振り向いた彼が目を剥いた。
「ちょっ……と、なんで今? 俺の話聞いてただろ?」
「三井くんなら上手にわたしのこと殺してくれそうだなって」
「なに、マゾなの?」
「どっちかといえばサドだと思う」
「だよな」
溜め息をつきながら手を拭いた彼が大股で近付いてきた。
ぐっと肩を掴まれて痛いくらいに抱きしめられる。ふわっと彼の匂いに包まれた。
「俺のもの」
戀もそっと彼の背に手を回した。ゆっくりと体温が沁みてくる。
「わたしのもの」