夜も昼も
降っても晴れても
10 絢斗、衝動に駆られる降っても晴れても
「おはよ」
「おはよ。なんか久しぶりだから照れる」
三学期の始業日。迎えに行った絢斗に、戀はほんのり恥ずかしそうに笑いながら自ら手を差し出してきた。
クリスマスイブのあの日。
互いの所有権を確認し合ったあの日。
彼女の形を全身に感じたあの日。
「けんにーちゃーん!」
甲高い声に何もかもがぶち壊されたあの日。
兄と弟のサプライズ襲撃があったあの日。
「お兄さんと弟さん、元気?」
隣を歩く彼女の髪に絢斗のかんざしが挿してある。髪を半分だけ上げた彼女の耳が寒さにか赤く染まっている。
「あんなことになるならうちに誘わないで結城んちにいればよかった」
「でも楽しかったよ?」
「なんで兄貴や快人まで結城の生足見るんだよ」
せっかく戀が勇気を出して生足を披露してくれたというのに、じっくり見ることも触ることもできないまま、兄弟とそつなく挨拶を交わした彼女は、再び洗面所でデニムを穿いた。
無邪気な振りして「けんにーちゃんのカノジョー」と戀に抱きつく弟を何度引き離したことか。抱きついた彼女の胸にさりげなく顔を埋め、思わずといったふうに尻に手を回し、これ見よがしに絢斗に笑って見せた弟は、どこであんなに歪んでしまったのか。兄と真面目に話し合った。
「でも、雑賀くんのお父さんが賢人で三井くんの弟が快人ってちょっと面白いよね」
「それが切っ掛けで仲良くなったって言っただろ」
「もう、なんで久しぶりに会ったのにふて腐れてるの?」
「久しぶりって言葉が出るほど会えなかったからふて腐れてるんだよ」
むっとした彼女の顔がほどけるように笑顔に変わる。
「面白いほど予定が合わなかったよね」
父が出張から帰ってくるまで兄弟は絢斗の家に居座るし、父が帰ってくると同時に伯父がビザの関係だかで急に帰国するし、戀は戀で充の実家に幸太共々毎年二十九日から四日まで招待されるとかで帰ってこないし、絢斗は絢斗で四日から伯父に連れられて伯父の知り合いの工房に昨日まで連れ回されていたし。お互いに家族と充実した年末年始を過ごしていたとはいえ、互いのものになった直後から今まで触れるどころか顔も見られなかったストレスが絢斗の全身に溜まりに溜まっていた。
「とりあえず今すぐ抱きつきたいくらい今の俺はストレスフル」
「公道ではやめてよね」
無駄に晴れ渡った冬空まで恨めしい。澄み切った冬の空気の清々しさが余計に苛立ちを募らせる。
「ホームルームだけの始業日に出席する意味あんのかって俺今日初めて疑問に思ったわ」
絢斗の愚痴をあっさり無視した彼女は少し心配そうな顔で言った。
「で、弟さんの歪んだ理由は判明したの?」
戀を家に送るときに、少し前まではあんなセクハラ小僧ではなかったと、絢斗が言い訳がましく釈明したのだ。
「誰かが母親の離婚理由や失踪理由を快人に話したらしい。お前のせいで離婚した挙げ句捨てられたかわいそうな子だってさ」
「ああ、よく知りもしないくせに余計なことだけはこれ見よがしに言う人っているよね」
彼女が憤然と唇をとがらす。
「結城もなんか言われたの?」
「散々。二人とも変態扱いされて何度も児相や警察に通報されてる。最後には児相や警察の人に同情されてたくらい」
「めんどくせー」
「でしょ。ついには二人はゲイだから子供の教育によくないとまで言われて、本当余計なお世話」
「ゲイ? あの二人が?」
「そう。わたしも言われて初めて、人ってそういうふうに見るんだってびっくりした」
単純にあの二人は仲がいい。それは絢斗と海音にも通じるもので、他人から見たら自分たちもそう見られるのかと思うと唖然とする。
「ゲイねえ……」
ふと、絢斗の頭に父性という言葉が浮かんだ。
「結城はさ、あの二人と恋愛関係になろうとは思わなかったの?」
「思わないよ。さすがにそれはない」
「年が離れてるから?」
「二人ともわたしにとっては家族だもん。それ以上でもそれ以下でもない。二人だってそうだよ」
さっぱりと言い切る彼女の声に嘘や誤魔化しはない。
「よかった。最悪俺、あの二人から結城を引っこ抜かなきゃならないかと思ってた」
「それって嫉妬じゃないんだよね?」
軽く首をかたむる彼女は、絢斗のこの感覚を掴みきれないらしい。
「たぶん嫉妬とは違う。まあ、嫉妬と言えば嫉妬なのかもしれないけど、なんか違うんだよ」
絢斗自身も上手く言葉にできないのだから、彼女が理解できるはずもない。
いつものように絢斗のダウンのポケットの中、どう説明すればいいのかを考えながら戀の手の甲の感触を確かめていると、隣から、ふふっ、と小さく笑う声が聞こえた。
「引っこ抜くって言い方、なんかちょっと面白い」
「だって結城はあの二人に接ぎ木されて生えてるんだろ」
ああ、と彼女が感心したような声を上げた。
「そうかも。そんなふうに考えたことなかったけど、すごい、言い得てる」
「たしかに、自分たちから生えてる子とは結実できないよなあ」
「ケツジツ?」
「ほら、たとえばイチョウには雄株と雌株ってあるだろ、雌雄異株っていうんだけど」
「ああ、なるほど。すごくわかりやすい。今度通報されたらそう言おう」
「いまだに通報されてんの?」
「んー、高等部になってからはないかな」
「まあ、今は俺いるし」
「そっか、そうだね。彼氏の存在は大きい」
彼女にぎゅっと手を握られて、絢斗もぎゅっと握り返す。抱きしめたい衝動が一気に膨れ上がる。
「今日はあんま俺を刺激しないで」
「暴走する?」
面白がっている彼女の声に、思わず舌打ちが出た。
「あの二人からなんか言われた?」
「高校生くらいの男の子は暴走しやすいし、女の子は思い詰めやすいって」
隣から覗き込んだ彼女がからかうように笑う。それがまたかわいいのなんのって、絢斗のストレスゲージが振り切れそうだ。
「俺さー、自分がこんなにも単純だとは思わなかったんだよ」
「わたしだって。誰かを好きになるって色々おかしくなるんだね。なんだかちょっと大変」
他人事みたいに分析する彼女の頬がほのかに赤い。
「おはよー」
合流してきた太田の声に、戀の手がするっと絢斗の手の中から逃げていく。思わず追いかけそうになって、絢斗はぐっと指先を握り込んだ。
最寄り駅の北口に絢斗と戀の家はある。太田の家も北口だが、絢斗たちの家がほぼ真北を目指すのに対し、太田の家は東北東にあるらしく北口あたりで合流する。
駅ビルを通り抜けて南口に出ると、電車通学の木村が合流する。すると一気に賑やかになる。
絢斗たちが通う学校はJRの二つの路線に挟まれたちょうど中央付近に存在し、駅同士はほぼ真っ直ぐ延びる桜並木で有名な大通りで繋がっている。別路線で通っている黒田と今井は校門付近で合流してくる。なんとなく自然と時間を合わせるようになり、いつのまにかそうなった。海音はファン対策もあって事務所の車で送り迎えされており、絢斗たちの姿が見えてから車を降りてくる。
「ねね、今日帰りにみんなでご飯行かない?」
木村の提案に今井も太田も「いいね」と乗った。黒田は仕方なさそうに笑っている。どうやら彼らの主導権は今井にあるようだ。
「あー、俺今日ランチミーティング入ってる」
海音が、せめて前日に言ってよ、この予定入ったのついさっきなのに、とさり気なく注文を付けている。
「ココロは?」
んー、と考える仕草を見せた彼女をつい絢斗が遮る。
「今日は無理」
「てか、三井にはまだ聞いてない」
「家族がお昼用意してくれることになってるから、今日はちょっと無理かな」
「えー、今のうちに連絡すれば……って、そういえばココロってスマホ持ってなかったっけ」
「ごめんね。また今度でもいい?」
申し訳なさそうに謝る戀に、木村も「えー」と言いながらもそれ以上の無理強いはしなかった。
戀自身はスマホを持っていない。これまで何度も個人情報が流出したらしい。教えた本人が流出させたのではなく、第三者の盗み見で流出したらしく、防ぎようがないから、と彼女はスマホそのものを持たないことにした。それでは不便だからと、幸太のプライベート用のスマホを戀はこっそり持ち歩いている。幸太は仕事用のスマホで事足りるらしい。
絢斗も戀から番号は教わったがアドレスに登録することなく番号そのものを覚え、履歴を利用している。彼女も同じように絢斗の番号を覚えて登録はしていない。
「絢斗、進路調査票どうした?」
内履きに履き替えていると黒田が小声で訊いてきた。
「まだ書いてない」
「海音は? やっぱ芸能組?」
「大学行ってる暇なさそうだからね」
この学校は芸能活動を禁止していない。高校の三年時は進学クラスとは別に、留学クラスと芸能クラスが新たに設けられる。
「俺、留学組かなあ」
「そうなん?」
絢斗の呟きに海音と黒田が驚いたように動きを止めた。
「進学しないで伯父さんの工房に行くことになりそう」
「なんで急に? その伯父さんが進学しろって言ってたんじゃなかったっけ?」
珍しく海音が慌てている。
「そうなんだけど、手に入ったなら必要ないって言われたんだよね」
「手に入ったって何が?」
絢斗の視線を辿ったのか、黒田が「結城?」と小声で訊いてきた。
「俺さあ、結城が手に入るならもう他は要らないんだよね」
「あー、お前そういうとこあるよなあ」
急に海音が納得した。
「こいつ昔っから何か一つのものに執着するんだよ。ほら、もうずっと同じペンケースとか使い続けてるだろ」
「あのボロいやつ?」
「使い込んだって言え」
「実際あれは買い替えた方がいいレベルだろ。一度気に入った物は頑なにそれしか使わないし、気に入ってない物は失くしても気付かないし」
「たしかに!」
黒田の声に前を歩いていた戀たちが振り返った。
「なんの話?」と木村が声を上げると、「絢斗のボロいペンケースの話」と海音がさり気なく話を逸らした。
えー、三井のペンケースボロいの? ボロいんだよ。今度見てみ。と続く会話の途中で教室に到着し、教室前の各自のロッカーに散らばった。
「三井くん、今日ロッカー一緒に使わせてもらってもいい?」
絢斗が荷物をロッカーに押し込んでいると、戀に小声で訊かれた。
「どうした?」
「結城さんのロッカーの鍵、壊されてるの」
戀の代わりに今井が答える。今井の声には怒りが滲んでいた。無表情の戀は、鍵穴に接着剤入れられたみたい、と他人事のような素っ気なさだ。
「私たちのロッカーでもいいんだけど、もうここはあえて三井くんのロッカーの方がいいんじゃないかって思って」
今井は完全に犯人を想定している。絢斗自身もそうだろうとしか思えない。
「実は、二人は付き合ってるのかいないのかって話が冬休み中散々回ってきてて」
「なんか悪いな」
「私たちはいいんだけど、一緒にあることないこと色々回ってきてたからちょっと警戒していたっていうか……それもあって、今日一緒にご飯行かないかって愛が言い出したんだと思う」
「あー、じゃあ、俺から結城んちに連絡入れるわ」
「いい? 結城さんもいい?」
「ごめんね、巻き込んで」
「全然平気。むしろ巻き込まれる気満々」
普段冷静な今井が怒りを顕わにしている。
「私ね、二度と泣き寝入りしないって決めてるの。だからちょっと鬱陶しいくらい口出しするかもしれない。嫌だったら遠慮なく言って。別の方法考えるから」
「やめたりはしないんだ」
戀までが好戦的な顔をしている。
「やめるわけない。ああいうのは一回痛い目に合えばいい」
「とりあえず俺もランチミーティング断っといた」
絢斗の隣で聞いていた海音の素早さに今井が一瞬きょとんとしたあと、にやっと意地悪く笑った。
「やる気だね」
「こんな面白そうなこと逃す手はないだろ。うちのマネージャーが面白そうだから俺も参加させろってさ」
「いいね。大人の意見も聞きたいし」
今井と海音が盛り上がる後ろで、黒田がまたしても仕方なさそうに笑っている。
絢斗はその場で充に連絡を入れた。
〈みんなで昼飯食って帰ります〉
〈うちのこころさん、用がない限り小銭しか持ち歩かないし電子決済もできないから悪いけど立て替えといて。今どき小学生でももう少し持ち歩くって何度も言ってるんだけど〉
絢斗は声を殺して笑いながら、ふと、彼女は過去に金を盗まれたことがあるのではないかと頭に浮かんだ。ついさっき見た彼女の無表情が鮮烈に蘇る。
戀は、絢斗のダウンを一旦ロッカーから出して、空気を抜きながらコンパクトにたたみ直し、なんとか自分のコートと荷物を狭いロッカーの中に詰め込んでいる。
絢斗は咄嗟に戀の肩に手をかけ振り向かせると、衝動のままぎゅっと彼女を抱きしめた。