夜も昼も
降っても晴れても
08 絢斗、動揺する降っても晴れても
クリスマスイブ。
薄曇りの空の下、絢斗は彼女を迎えに家を出た。地図アプリを見ながら一人で来るという彼女を直前で止めて迎えに行くことにしたのは、充から送られてきた一枚の画像だった。
彼女の家で試験勉強しているときに連絡先を交換した際、幸太と充が作った「こころをみまもる会」という怪しい宗教団体のようなクソダサいグループ名のついたメッセージアプリに強制加入させられたのだ。
先日の彼女の検査日には、大きなお世話だと思いながらも彼女が眠った隙に二人に「今日はこころをみまもる日にしてください」とメッセージを送っておいた。
本日のこころ。そんなタイトルが付けられた画像には、白っぽいワンピースを着てどこかふて腐れたように睨んでいる彼女がいた。普段ブラックデニムと白シャツを制服のように着回している彼女の初スカート姿だ。すっと伸びた生足がやけにエロい。髪型もいつもと違う。今まで第二ボタンに阻まれていた鎖骨がチラ見えしている。
〈かわいいだろ〉
送られてきた自慢気なメッセージを睨み付ける。誰が見てもかわいいのは一目瞭然だ。一人歩きが危険すぎるレベルでかわいい。どう返信しようかと悩んでいるうちに次のメッセージが来た。
〈荷物もあるから迎えに来てやって〉
〈了解〉
インターホンを鳴らすと、出迎えてくれたのは幸太だった。
「おはようございます」
「いらっしゃい。こないだありがとね」
まったりとした話し方をする幸太は製薬会社で新薬の研究開発をしている。幸太に続いて二階へと続く階段を上っていく。
「いえ。彼女大丈夫でした?」
「あの子は僕たちの前だと強がるから。また何かあったら知らせて」
「今日は二人とも休みなんですか?」
「いや、僕は午後から。充はもう出なきゃならないんじゃないかな」
最後の一段に足をかけた幸太が振り返った。
「僕ら二人とも今日はここに帰ってこないから。だから、今晩ここに泊まってもいいよ」
「は?」
「戀の部屋は三階だけど、僕らの部屋は下だから。玄関側が充、奥が僕。どの部屋に泊まってもいいからね」
にやりと笑う幸太は柔らかな物腰に反してなかなか腹黒い。
「そうやって牽制するのやめてもらえます?」
「童貞は暴走しやすいからね」
ぐっと言葉に詰まった絢斗を幸太は鼻で笑いながら口元に弧を描く。だが目は笑っていない。
「そんなに大事なら自分たちで彼女のこと女の子として扱ってやればいいじゃないですか。幸太さんはともかく充さんは可能ですよね」
二人とも四十近いというのに独身のせいなのかやたらと若見えして同性の絢斗から見てもかっこいい。
「僕らだって戀から女の子として大事にされたいって話を聞いたとき、色々考えたんだよ」
幸太にぐっと顔を近づけられて絢斗は思わず仰け反った。その拍子に階段から足を踏み外しそうになる。慌てた絢斗を支えたのは冷笑を浮かべる幸太で、絢斗は足を踏み外しそうになる以上にぞっとした。
「父性って厄介だよね」
「女としては見られないってことですか?」
「あの子がどれだけ成長しようと僕らの中ではいつまでも幼い女の子のままなんだよ。幼い女の子に欲情できるほど僕らは壊れていない」
いっそ壊れてしまえばいいのにねえ、と呟く幸太は、何事もなかったかのように「ココ、お迎えが来たよ」とリビングのドアを開け、絢斗に耳打ちした。
「僕たちはあの子のためだったら何だってする。たとえ君をズタズタに傷付けようともね」
「だから、そうやって牽制するのやめてもらえます?」
ふふ、と柔らかく笑う幸太の目はやっぱり笑っていない。ふと絢斗の胸に不安が過ぎった。
「何かあるんですか?」
「なにも。それだけ大事な女の子だってこと」
大きな荷物を持った戀はすでに膝丈のダッフルコートを着ていた。コートの下に見えるのは見慣れた黒のデニム。生足を期待していた絢斗は内心がっかりした。画像を送りつけてきた充のしたり顔が腹立たしい。
「ごめんね、迎えに来てもらって。一人で行けるって言ったのに」
「ココは方向音痴だからね。すぐ迷子になる」
「いつの話よ」
子供っぽくむっとする戀はこれまで絢斗が見たどの表情よりも幼い。
「ほんの十年くらい前だよ」
「七歳の子供と一緒にしないで」
「こないだ迷子になりかけたのは誰ですか?」
トレンチコートに袖を通しながら充がにやにやと戀をからかう。
「再開発中の街で迷子にならない人はいません」
ムキになって言い返している戀を幸太が「行かなくていいの?」と促した。
「クリスマスプレゼントはお互いなしにしたって聞いたから、ケーキとお昼は僕たちからのプレゼント。少し重いけどがんばって持ってって」
渡された紙袋はそれなりの大きさと重量で、二人分にしては多すぎる。
「ご家族によろしくね」
幸太に言われて絢斗は自分の失態に気付いた。が、あえてここで訂正する気にはならなかった。
「うわあ」
絢斗の暮らす家は古い。曾爺さんが建てた日本家屋だ。
「すごい、数寄屋門」
こぢんまりとした門を開けると、苔と玉砂利に埋まる飛び石がいざなうように点々と奥に続く。たいして広い家ではないが、そこかしこに歴代の主が手を加えた跡があり、独特の雰囲気を醸し出している。
解錠して玄関の引き戸を開ける。玄関から真っ直ぐ伸びた艶光りする廊下。突き当たりの地窓に小さな坪庭の緑が映える。
戀の目が輝いていた。
「すごい、ステキ」
「俺もいい家だと思うんだ。初めて来たとき感動した」
彼女の目に疑問が宿る。それをそのままにして、絢斗は「上がって」と率先してスニーカーを脱いだ。
自室のドアを開け放ってファンヒーターを付けたまま出掛けたので、家の中がほんわか暖かい。暖かな空気に絢斗の緊張が解れ、解れたことでそれなりに緊張していたことに気付いた。
絢斗が家に女の子を連れてくるのは初めてだ。
絢斗が使っているのは六畳の和室と同じく六畳の板の間の二間続きの部屋だ。和室にはテレビと座卓。板の間にはベッドだけ。物はほとんどない。襖を取り払っているせいで丸見えのベッドが気まずい。
「すごい、おしゃれな旅館みたい」
「ああ、座布団がない」
「あ、平気。気にしないで」
「いや、ケツ痛くなるから。ちょっと待ってて」
慌てて客間に座布団を取りに行く。一昨日ハウスクリーニングが入ったおかげで家の中はきれいだ。今日まで極力汚さないようにしてきた。
座布団を三枚抱えて戻ると、彼女は半分障子が開いた丸窓から外を眺めていた。
「平屋って贅沢だよね」
「あんま広くないけどね。二人で住むには十分」
「二人? えっ? 弟さんと?」
二枚重ねた座布団を勧めると、彼女は「一枚で大丈夫」と屈託なく笑う。玄関でコートを脱いだ彼女は、送られてきた画像の膝丈ワンピースの下にいつもの黒いデニムを穿いていた。
「うちの事情を話してなかったことにさっき気付いたんだけど……」
事情、と彼女が小さく呟いた。
「あ、先にケーキとか冷蔵庫に入れた方がいいかも。冷蔵庫借りてもいい?」
彼女を台所に連れて行くと、ここでも彼女は感嘆の声を上げた。
「あっ、水屋箪笥。これって欅?」
「よく知ってるな、水屋箪笥とか数寄屋門とか」
「充くんの実家が呉服屋さんで、やっぱり日本家屋なの。そこで色々教わった」
だからか、と絢斗は感心した。畳の縁や敷居を踏まないのはたまたまなのかと思っていた。
「うちに畳の部屋がないからちょっと和室に憧れがあって」
「畳の上に大の字で寝るとか?」
「そう! お行儀悪いって怒られるんだけど、でも夏は気持ちいいよね」
彼女は紙袋からケーキの箱や重箱を取り出してダイニングテーブルに並べていく。はちみつレモンの大瓶まで入っており、道理で重かったわけだと納得した。
「なんか、すごい量だな」
「充くんが馴染みの仕出し屋さんに注文したら、こんな大事になって……」
「しばらく俺一人暮らしだから助かる」
申し訳なさそうな顔をしていた彼女が、ん? と軽く首をかたむけた。
「一人暮らしなの?」
「いや、親父と二人暮らし。親父は年末まで地方出張中」
「弟さんは?」
「ここには住んでない」
冷蔵庫を開けると、ケーキの箱を皮切りに、次々彼女から手渡される。無理矢理冷蔵庫に押し込むと、紙袋に入っていたはちみつレモンでホットレモネードを作って自室に戻った。
「俺は、親父にとっては一人っ子の長男で、母親にとっては三人兄弟の次男なんだ」
「お兄さんかお姉さんがいるの?」
「兄貴がいる。三人とも父親が違う」
彼女は感情の読めない顔で耳をかたむけている。
「母親が、依存体質というか恋愛体質というか、まあ言うなれば母親の浮気が原因で離婚してる」
兄の父親が突然死したことが尾を引いているんだろうな、と絢斗の父が後になって洩らしていた。兄を連れて絢斗の父と再婚し、絢斗が生まれ、父は三人を養うためにそれまで以上に仕事に励んだ。絢斗が母親の手よりもいつも一緒に遊んでくれる兄の手を求めるようになると、忙しい中にあっても子供の相手を優先していた父に母親は淋しさを覚えたのか、外に男を作って弟を身籠もった。
離婚の際、父は兄も引き取ろうとしたのだが、兄が「それでもあの人は僕のたった一人の肉親だから」と言ったらしい。そして母親は、父の時と同じようにまた外に別の男を作り、再々婚した夫とその子供である弟と兄を残して失踪した。弟は彼の父親に引き取られ、兄は二人の義父の手を借りながら大学を卒業して昨年社会人になった。
「兄貴が三人の橋渡しをしてくれてて、父親同士はできるだけ関わらないようにしてるみたいだけど、俺たち兄弟はそれなりに仲がいい」
「じゃあ、この家に来たのは……」
「中等部に入ると同時かな。それまではごたごたしてて、そんな中で受験勉強しなきゃならなくて、あの時はまだ子供だったってこともあったけど、本当先が見えなくて不安しかなかった」
「公立に行こうとは思わなかったの?」
「なんか、環境変えたいって思ったんだよね。兄貴も応援してくれたし」
家庭の事情が周囲に洩れるにつれ、どんどん居場所がなくなっていった。
「三人とも似てなくてさ」
絢斗が兄と弟と一緒に撮った画像を見せる。スマホを受け取った戀の表情がふわっと綻んだ。
「うわあ、お兄さん優しそう。三井くんとはまた違った雰囲気だね。弟さんはしゃいだ顔してる。かわいい」
スライドさせて何枚か見せていると、ふと真顔になった戀がぼそっと言った。
「三人とも、笑い方がそっくり。見た目はあんまり似てないのに、やっぱり家族ってわかる」
目を細めて画面に見入っている彼女は、どうしてか絢斗には泣きそうに見えた。
すっかり冷めてしまったレモネードを口にした絢斗は小さな違和感に気付いた。
「これ、こないだまで飲んでたレモネードと違う?」
「すごいね、やっぱりわかるんだ。ハチミツの種類が違うの」
「へー。種類ってあるんだ」
「花の蜜が違うんだって。こないだまで飲んでいたのはブラックフォレストで、今日のはアカシア。わたしは今日持ってきた方が好きなんだけど」
「あ、俺も。クセがない」
「だよね」どこかほっとしたように彼女が笑った。「本当はこないだまで飲んでた方が高級なんだって。でもわたしはこっちの方がさらっとしてて好きなんだよね」
「こういうのは値段より好みだからなあ。こないだのはコクがあるぶん酸味もあった気がする」
「すごいね。指先が繊細だと舌も繊細なのかな」
「あんま関連ないと思うけど」
ここで堪らず絢斗は口にした。
「ねえ、なんで下にデニム穿いてんの?」
ぎょっとした彼女が次の瞬間には顔を赤くした。
「だって……最初はデートだからって思ってたんだけど、本当は下に穿くつもりなかったんだけど……」言いながら彼女はどんどん顔を赤くして、次第にその赤い顔を隠すように俯けていく。「スカートなんて滅多に穿かないから、なんだか恥ずかしいっていうか……」
「嫌じゃなかったら脱いでよ。せっかくだから見たい」
ばっと顔を上げた彼女の真っ赤な顔が、今まで見たどの表情よりもかわいかった。ヤバいくらいかわいかった。
「あー、やっぱいい。よくないけど、見たいけど、やっぱいい」
途端に傷付いたような顔をした彼女に絢斗は慌てて続ける。
「いや、いま家に誰もいないし。なんか色々ダメな気がする。たぶんちょっと、いやかなり、見たら絶対に触りたくなる」
再び顔を赤くした彼女が今度は俯きながら笑いを堪えていた。
「違うから。エロい意味じゃないけど、でもこの状況は色々ダメだろ。万が一ってこともあるからまずい」
「足触ったらまずいの?」
「たぶんまずい。今日めちゃくちゃかわいいんだよ、結城」
慌てるあまり、思考より先に言葉が口を衝いた。熱った顔を上向けて、あー、と唸って誤魔化すしかない。天井板の杢目は今日も美しい。