夜も昼も
降っても晴れても
05 戀、億劫がる


 三井 絢斗の隣を歩く戀の周辺はそれまでとは一転して賑やかになった。
 黒田の彼女である今井 夢、彼女と仲のいい太田 希と木村 愛の三人が、どういうわけか戀と行動を共にするようになったのだ。
「こんな場所があったとは」
 今井が感嘆の声を上げながら、殺風景な室内をぐるっと見渡す。
「てか、なんでココロはここ使えるの?」
「ちゃんと掃除されてるんだね」
 知りたがりの木村ときれい好きの太田も物珍しそうに目を輝かせている。
「誰でも使えるよ。わざわざID通して特別棟に来るのが面倒じゃなければ。時々一人でのんびりしたい先生も来るし」
 中高共用の特別教室が集まる特別棟は化学薬品などの危険物や貴重な資料が保管されているために、入り口は学生証を通さないと開かない。おまけに、一人好きの教師から聞いたところによると、実験的に顔認証システムが導入されており、他人のIDでは通過できないようになっているらしい。
 電子キーで厳重にロックされている資料室とは違い、その前室である予備室は特に施錠されていない。古びた長机が二列、座面の端からちょこっとスポンジがはみ出ているパイプ椅子が八脚、段ボール箱が積まれたスチール棚が二つ、隅に小さな手洗い用の洗面器が一つあるだけの、六畳ほどの閲覧スペースだ。戀はここでお昼休みを過ごしている。
 どうしてこんな場所知ってたの? とでも言いたげな三対の視線が戀に向けられる。
「前に、保管資料を見せてもらったことがあるから」
「へえ、なんの資料?」
「昔の卒業アルバム。卒アルは個人情報だからここに保管されてるみたい。うちの両親ここの卒業生なんだけど、家になかったから見せてもらおうと思って。で、ここ使えるなって」
 この学校の卒業アルバムは希望者のみの販売で、両親は購入しなかったのか、処分したのか、家にはなかった。
「いつから知ってたの?」
「中等部に入って割とすぐ」
 えー、そんな前から? と木村が大袈裟なほど驚く。
「私たちに教えてよかったの?」
 今井と木村の尋問を遮るように、太田が細い声を上げた。
「別に隠してるわけじゃないから」
「隠した方がいいよ。特にしばらくは。最悪卒業までは」
「あの人、ちょっと三井に関する執着が異常」
 今井と木村に同意するかのように太田も小さく頷きを重ねている。
「てかさー、中等部の時は雑賀だったんだよ。それがまるっきり相手にされないから、じゃあって仲のいい三井にいったんだから見え見え。雑賀の友達なら誰でもいいんじゃないの? 雑賀はまだモデルだから、事務所に反対されちゃってーって勝手な言い訳もできたけど、そうじゃない三井にまで相手にされなかったから逆ギレしちゃって。てか、あんだけ完無視されてるのに事務所の反対もクソもないって誰だってわかるのに、本人だけがわかってないってある意味すごくない?」
「よく知ってるね」
 同じクラスになるまで細川のことを知らなかった戀は素直に感心した。
「ココロは知らなすぎ。もう少し周りに感心持って!」
 テンションの高い木村にしっかり者の今井、おっとりした太田は何かにつけて戀を気遣ってくれる。ペアを組むとき、グループになるときは必ず声をかけてくれるし、特に太田は親切に嫌味がなく自然だ。

「それでね、」と今井が空になった弁当箱を包み直しながら緊張混じりの硬い声を上げた。「結城さんって三井くんと付き合ってるんだよね」
 訊かれた戀はまじまじと今井の顔を見た。木村ならともかく、これまで戀が知る今井らしくない。彼女は他人に深入りしない。
「ごめん、答えたくなかったら答えなくていいんだけど、単なる興味で訊いてるわけじゃなくて、どう立ち回っていいか私自身もわからないから確かめたいだけなの」
「立ち回る?」
 目を伏せていた今井が意を決したように顔を上げた。
「細川さん、たぶんこのままじゃ終わらないから」
「ガラシャはいつもぎりぎりのところで逃げ切るから」
 ガラシャとは細川 珠希のことだ。どうやら彼女の名前の由来が細川ガラシャから来ているらしく、彼女自身もそれをよく口にしている。
 ぎりぎりのところで逃げ切る──あの騒動も元凶の彼女は口頭注意だけで終わっている。
「もしかして、最近一緒にいてくれてるのってそれ?」
「もう! 今更気付いたの? ココロはもう少し周りを意識して。ガラシャのあの睨みに気付いてないとかもう」
 ふくれっ面の木村に戀は苦笑いする。
 戀も気付いていないわけではない。気付いていない振りをしているだけだ。
「一応ね、三井くんには黒田くんから言ってもらってるんだけど、どうしても男子では守り切れない場所ってあるから」
 今井が言うのは更衣室やトイレ、男女別に行われる体育の授業のことだろう。
「結城さんが基本的に一人が好きなのはわかる。でも、しばらくはできるだけ私たちと一緒にいて」
「どうしてそこまで?」
 戀は純粋に疑問だった。三人は顔を見合わせたあと、揃って泣き出しそうに顔を歪めた。
「私たち、本当は四人だったの。愛に希に夢に華っていつもふざけてた」絞り出すような太田の声は震えていた。「華があの人に影でいじめられていることに気付かなかった」
「不登校になって、結局学校を辞めることになったのがいじめられる側っておかしいでしょ」
 木村の悲痛な叫びが予備室にわんと響いた。
「結局、父親の実家に引っ越したみたい。それすら私たちは後で知らされて。その時になってようやく、華はこの学校に関わる全てが嫌になっていたんだって気付かされた」
 気丈な今井の声も震えていた。きっとこの三人は気付かなかった自分たちを責め、今も責め続けているのだろう。
「わたし、ああいう人には関わりたくないんだよね」
 三人が揃って戀を見た。三人ともどう受け取ればいいのかわからないような複雑な表情をしている。
「ああいう人にかける時間が勿体ない。はっきり言って考えるのも脳の無駄遣い」
 虚を衝かれたように三人は目を見開いた。
「前から思ってたけど、ココロって結構辛辣だよね」
 むっとする木村に戀ははっきり言う。
「わたしは一人で悩まない。自分の手に負えなければ家族に言うし、必要なら家族が学校や警察に届けると思う」
「家族にも知られたくないことでも? 華は最後まで誰にもイジメの内容は話さなかったって……」
「うちは一般的な家庭とは違うから。知られたくないって思うより、一緒に解決策を考えてって思う」
 彼女たちが戀を心配して守ろうとしてくれることはすごく嬉しい反面、彼女たちの後悔を戀はどうしてやることもできない。彼女たちが戀の背後に彼女たちの友人を見ていることがわかるから余計に。
「そう、だね。結城さんは華じゃない」
 今井が何かを考えるようにぼそっと呟くと、ふと顔を上げて挑むように戀を見た。
「だったら、私たちの自己満足にしばらく付き合って」
 潔いほどの切り返しに、戀は思わず笑ってしまった。



「ねえねえ、ココロは三井のどこがいいの? やっぱ雑賀の友達だから? でも三井って顔はいいけど雑賀と違ってあんま笑わないから怖くない? ってか、なんか侍っぽい。武士って感じ?  そう思わない? ってかさー、三井って笑うの? クロケンに訊くと笑うに決まってるだろってバカにするんだけど、見たことないんだよねー、三井の笑ったとこ」
 木村の好奇心を満たす答えを戀はすぐには用意できず、考えているうちに次の質問が続き、またその答えを考えているうちにまたまた次の質問がぶつけられる。要するに木村は自分が喋りたいだけなのだとわかると、戀は頷くだけでよくなった。
 木村は一事が万事この調子で、戀と同じようにただ頷くだけで聞き流している今井と一生懸命耳を傾けて必要なところだけはちゃんと答えている太田は、三人が持つそれぞれの空気感を互いに自然と上手く丸めているようなところがあった。
 ちなみに、まだどこがいいと言えるほど深くは知らないし、海音と友達かどうかはあまり関係がないし、怖くはないし、武士というのは甚だ疑問だし、笑うよ、とは結局言えなかった。
 三井 絢斗は人見知りなだけだ。話しかければそこそこよく喋る。学校での物静かな彼の雰囲気は木村の言う通り昔気質と言えなくもない。
「ねえねえ、三井って、告白した子の顔を一瞬じっと見てから振るらしいんだけど、ココロは何か知ってる? あっそっか、ココロを見ればわかるのか、あー……てか、ココロにあって他の人にないものが多すぎていまいちわかんないわ。ってかさー、ココロの肌ってなんでそんなにきれいなの? ニキビとかできたことある? うっそ、ないの? なんで? ってか! こないだ三井がココロのほっぺた気持ちよさそうに触ってたよね! もしかして、そーゆーこと? ねえねえ、そーゆーこと?」



「なんか最近疲れてる?」
 帰り道で彼に指摘された。実際にそう見えるわけでもないのに気配がげっそりしているらしい。
 戀は今まで一人で気ままに過ごしてきたせいか、常に他人と行動することに慣れない。特にトイレは絶対に一人で行くなと念を押され、そのたびに彼女たちを誘わなければならないのが面倒で仕方ない。できるだけ学校ではトイレに行かないようにしている。
「疲れてるわけじゃないけど、てかてかの残響が……」
「あー……あいつよく喋るよな」
「そういえば、黒田くんってクロケンって呼ばれてるの?」
「いや、俺らは呼ばない。あいつ最初俺のことはミツケン、海音のことはサイカイって呼ぼうとしてたんだよ。海音がやめさせたけど」
 クロケンとは黒田 健次郎の略で、その彼女である今井は、人前では「黒田くん」、本人に対しては「けんちゃん」と使い分けている。
 そういえば、と戀は隣を歩く彼を見上げる。彼も教師たちには「僕」で、仲間内では「俺」だ。
 付き合うにあたり、彼からの注文は特になかった。じっと戀を見て「人前でこれ見よがしにイチャつきたいタイプじゃないだろ」のひと言で終わった。強いて言えば「触りたい」というエロい意味ではない発言くらいか。どうも彼は質感や感触に強いこだわりがあるらしく、エロい意味ではないのでフェチではないと言い張っている。
 それでいて、隙あらば手を触りたがるのだから意味がわからない。しかも握った手の質感や感触をしきりに確かめ、時々ぶつぶつ何かを呟いているあたり少し異様だ。
「ちょっと唇で感触確かめていい?」
「三井くんさぁ、そろそろ自分が変態発言していることに気付いた方がいいよ」
「ちがっ、だからエロい意味じゃなくて! 唇が一番繊細なんだよ! だからっ!」
 ここは彼女として喜ぶところなのか、幻滅するところなのか。彼女として、と前置かれると、戀はよくわからなくなる。
 よくよく説明はされている。戀の肌触りが彼が追い求める質感そものもなのだとか。だとしても、戀としては戸惑いしかない。
 手を繋ぐというよりは、手の感触を確かめられている状態で、ときめきも胸きゅんもあったもんじゃない。それでも、幸太や充と繋ぐのとは違った、安心だけじゃない少しの緊張と恥ずかしさのようなものが湧き起こるのだから不思議だ。
「あのね、理由はともかく、こういう公共の場でそういう発言するのはどうかってこと」
「だったら、人がいなければいいわけ?」
 そして、職人を自称するだけあって善くも悪くも貪欲である。
「公道よりはマシって程度」
「いつか全身に唇這わせたい」
 おまけにバカである。
「だから! そういう発言は慎んでって言ってるの!」
「絶対俺より結城の方がエロいこと考えてるだろ。耳真っ赤」
 声を抑えつつ厳しめに注意すると、彼は意地の悪い目で笑う。からかわれたことを悟った戀は思いっきり彼の手を振り払った。
「三井くんって結構いい性格してるね」
「お互い様」
 付き合い始めて二週間。お互いの性格が徐々に見えてきた。恋愛に浮かれていないうえ、暫定的な付き合いだとどこかで割り切っているせいか、お互い遠慮もなければ容赦もない。
 頭にきた戀が精一杯足を速めるのに、背が高いぶん足も長い彼は悠々とついてくる。それがまた癪に障る。
「付き合うって、思ってたのと違った」
「どんなふうに思ってたわけ?」
「そう言われると具体的なイメージはないんだけど、女の子として大事にされる感じ?」
「大事にしてるだろ」
 そう、確かに大事にはされている。彼の通学路上に戀の家があり、黒田から助言を受けた彼は送り迎えをきっちりしてくれる。
 行き帰りの徒歩三十分は二人ともバスや自転車ではなく徒歩を好んだ。さすがに土砂降りの日はバスに乗るが、小雨程度なら歩いてしまう。そのために戀は学校のシューズロッカーにも入るパッカブルレインブーツまで持っているくらいだ。これに彼が反応し、「何それいいな」とすぐさま同じメーカーの色違いを購入している。
「で? クリスマスはどうしたい?」
「えっ? クリスマス?」
 思わず聞き返した戀に、彼の方が驚いている。
「女子ってクリスマスは重要なんじゃないの?」
「あ、そっか。カップルイベントか」
 うっかり面倒くさいと思った戀は、ダメ彼女の烙印を自分で押した。
「三井くんはどうしたい?」
 何も思い浮かばない戀は彼の意見を聞く振りで丸投げする。
「家でなんかしないの?」
「特別なことはしないなあ。充くんの気が向いたらローストビーフとかやたらと凝ったもの作ってくれたりはするけど、幸ちゃんはそういうことに疎いからそれらしいことって子供の頃にケーキ食べたくらい? だから子供の頃はクリスマスってクリスマスケーキを食べる日だと思ってた。お正月におせち、節分に豆まきするみたいに」
「正月や節分はちゃんとやるんだな」
「充くんが日本の風習には割とうるさいんだよね、実家が呉服屋さんだから」
「まあ、日本ではクリスマスってただのイベントだしな」
「だから、サンタクロースがプレゼント持ってくるって聞いて、こわって思ったんだよね。赤い服着た知らない人が家に来るって怖くない? あの時期そういうコスプレの人がそこら中にいるから、子供心に、この人が来るのか、あの人が来るのか、って余計にこわって思ったの覚えてる」
「俺なんか、うちはクリスマス協会に加盟してないからサンタクロースは来ませんって毎年言われてた」
 夢のなかった子供と夢に破れた子供だった二人は、しばらく無言で歩いた。
 戀は沈黙が気にならない方だ。どうやら彼も同じようで、時々二人の間を天使が通るばかりかしばらく滞在することも珍しくない。
「とりあえず、その日は一緒にいればいいんじゃない? どうせ冬休みだし」
「何する?」
「んー、デートっぽいことってなんだろう?」
「映画とか?」
「映画館で?」
「嫌そうだな」
「映画館だと人の気配が気になって。うちに幸ちゃんの唯一の趣味でプロジェクターがあるから映画館で観ることってそんなにないんだよね」
「いいなー。それ借りれるか訊いてみてよ」
「幸ちゃんや充くんも一緒に観るって言い出すよ」
 あー、と彼が顔をしかめた。
 試験期間の一週間、充が連日彼の分も昼食を用意し、彼もどうせ帰ってもカップ麺だと言うから誘っていたのだが、初日こそ二人で時間を持て余し、充の言う通りに試験勉強をしたものの、翌日からは充や仕事人間の幸太までもがなぜか平日の昼間から家にいたのだから、彼としては堪らなかっただろう。
「じゃあ、うち来る?」
 彼が軽く首を傾げて戀の顔を覗き込んだ。
「いいの?」
「いいよ。ただ、古い家だからびっくりするかも」
 彼は学校では見ることのないふわっと綻ぶような笑みを浮かべた。