夜も昼も
降っても晴れても
06 絢斗、激昂する降っても晴れても
「おはよ。ごめん言い忘れてた。今日一緒に帰れない」
二学期の終業日の朝、絢斗が「おはよ」と言いながらポケットから片手を出して上げるのと、彼女の家の玄関ドアが閉まるのと、彼女の声は同時だった。
「ん、なんかあんの?」
彼女の手を取り、自分のダウンのポケットに突っ込む。ここ数日冬晴れが続き、朝晩の冷え込みがきつい。繋がれた手に引かれ、彼女が寒さから逃れように寄り添ってくる。
ここ最近の絢斗の朝は戀の手の感触で始まる。滑らかでしっとりとして、柔らかいのにしっかりとした弾力がある。つまり心地好い。赤ん坊の頃の弟の肌と似ているようで根本的な何かが違う。絢斗史上最高の感触。
「病院。検査の日」
ああ、と絢斗の口から気の抜けた声が溢れ出た。彼女に告げられた難病というものが一体どういうものなのかを絢斗は正確に理解していない。彼女はいわゆる自然治癒の力が飛び抜けて高い。絢斗の中に朧にあった病気に対する負のイメージとは違い、彼女の場合はどちらかといえば陽のイメージだ。
「どんな検査?」
「血液と細胞と、今回は皮膚かな」
今回は、ということは、血液と細胞の検査は毎回行われているのだろう。どんなふうに検査するのか興味が湧いた。絢斗は今のところ大きな病気や怪我もなく、病院そのものに行く機会がほとんどない。しかも彼女の言う病院とは絢斗でも聞いたことのある大病院だ。
「俺もついてっていい?」
何気なく訊いた絢斗の顔を、彼女はまじまじと見上げてきた。
「ただ待ってるだけだよ?」
「でかい病院に行ったことないから行ってみたいだけ」
こんな機会でもなければ滅多に行かない場所だ。ただ待つつもりはない。
「もしかして、待合室の椅子とかそういうのが気になるの?」
「あと全体的な空間とか」
「そんな特別なものじゃないと思うけど……結構古い建物だし」
「無理にとは言わないよ」
ただの興味本位でついて行くにはデリケートな場所でもある。彼女の表情を覗うように絢斗は軽く首をかたむけた。
「無理じゃないけど、本当に暇だよ? 時間の無駄じゃない?」
「そんなに時間かかる?」
「たぶん三十分とか、長くても一時間くらい?」
単純に絢斗を待たせてしまうことを慮っていることが、彼女の表情や口振りからも窺える。彼女は否定を期待するような面倒なやりとりをしない。否定的なことをわざと言って、そんなことない、と相手にさらに否定させるような、自分の存在を否定で肯定させるような、そういう回りくどいやりとりをどちらかといえば嫌っている。
「俺が行ってみたいってだけ」
「ん、じゃあ、ついてきてもらおうかな」
ふっと気を抜くように彼女は笑った。普段気を張っているように見える彼女がこんなふうに力を抜く瞬間がある。
暫定的とはいえ付き合うようになって半月以上が過ぎた。とはいえ、学校までの行き帰りの時間を共有する以外、これといってそれらしいことはない。学校では特に用がない限り話しかけることがないのはそれまでと変わらず、休日に会うこともない。
付き合うと自分の時間がなくなるものだと思い込んでいた絢斗は、それまでとほとんど変わらない日常に気が抜けると同時に、これでいいのか、という薄らぼんやりとした疑問も感じていた。
冬期講習一覧を見ながらモニタに映し出される校長の挨拶を聞き流す。
この学校では全校生徒を一堂に集めない。集合するための移動やその準備にかかる時間の無駄、この時期はインフルエンザの予防、暑い時期は熱中症対策などから、入学式と卒業式以外の全校集会はほぼない。
「絢斗講習どうする?」
黒田がこそこそと話しかけてくる。
「んー、今回はいいや」
彼女と一緒に勉強しただけで、期末の結果がぐっと上がったのだ。しかも、充と幸太の特別講師がこれまた的確な教え方でこれまで曖昧に理解していた部分がクリアになった。彼女の成績の良さは二人の講師によるところが大きいらしい。冬休みも時間が合えば教えてやるとの確約をもらっている。
「やっぱ頭いい彼女と付き合うと成績上がるんだなあ」
黒田のぼやきに「お前の彼女も成績いいだろ」と返してやる。そもそも黒田は絢斗よりも成績がいい。その黒田よりも彼女である今井の成績はさらにいい。
「頭いい奴って勉強するポイントが違うんだよなあ」
「あー、だな」
戀はまさにそうだ。ここさえ抑えておけば、と言われた箇所がほとんど的中していた。彼女曰く、教師それぞれの性格を見極め、この教師ならこの問題が出る、と予想するらしい。模試とは違って学校のテスト勉強は教師の攻略だと言っていた。
「俺にはない発想だった」
「結城の勉強法ってどんな?」
「本人に訊け」
「なんだよケチ」
「で? そっちはどうすんの?」
黒田がさっきからひらひらさせているのは進路調査書だ。
「もしかして、まだ悩んでんの?」
黒田は警察官を目指している。警察官の大半は法学部を受けるらしいが、黒田は理学部に進みたいらしい。科学的見地から捜査するとかなんとか。単に化学が好きなだけとも言える。
「そう言う絢斗は決めたわけ?」
絢斗が苦笑いすると黒田が呆れたように溜め息をついた。
絢斗自身も悩んでいる。大学に行くか、専門学校に行くか、職業訓練校に行くか、伯父に弟子入りするか。どう転んでも伯父のところに修行に行く気ではいるが、その伯父が、見識を広めてから来い、と進学を勧めている。しかも彼が今いるのはノルウェーなので言語的な問題もある。
「卒業したらどうすんの?」
病院に向かう電車は平日の昼前ということもあって空いていた。
「んー、実は何も考えてない。フリーターしながら世界を見て回るとか、そういう割とバカっぽいこと考えてる」
「バカっぽくはないでしょ」
「自分探しの旅的なバカっぽさだよ?」
「あー、現実逃避的なのは確かにバカっぽいな。まずはどこに行きたいの?」
「北欧。オーロラが見たい」
「俺の伯父さんがノルウェーにいるよ」
彼女の目がまん丸に見開かれる。
「何してる人?」
「家具職人。うちの爺さんは建具職人で、曾爺さんは大工。俺の父親は死ぬほど不器用で、普通のサラリーマンだけど」
「職人一家」
電車が減速し始め、横に立つ彼女の体勢が崩れる。絢斗は咄嗟に彼女の肩を引き寄せた。
「三井くんって割とスキンシップ過多だよね」
どこか困惑した彼女の声が胸元に響く。下を向いたままの彼女の耳が赤い。
「そうかな。そうかもな。なんか、常に触ってたい」
「割とべたべたする方だったんだね」
「あーそれはたぶん結城だからだよ」
言葉が思考を伴わないままつるっと滑り出ると同時に、反対側のドアが開いた。乗り込んできた乗客に押されて、無意識に抱きしめかけていた手がポールを掴んだ。
坂の上にあるバカでかい病院は混んでいた。
予約は十一時。五分前に到着し、再来受付機に診察券を挿し込む彼女の横で、絢斗は三層吹き抜けのロビーを見上げていた。
そこから複雑に入り組んだ廊下を歩く。ひたすら歩く。近所の開業医にしかかかったことのない絢斗はその広大さに眉を顰めた。
「具合悪くて来たのにこんだけ歩かされるとか、どう考えても拷問だよな」
「こっちは検査の人以外あんまり来ないから」
「でも腹痛くてレントゲン撮りますってなったらうねうね歩かなきゃならないんだろ?」
「歩けないほど痛いならあんなふうに車椅子とかに乗せてもらえるんじゃない?」
車椅子に座ったサラリーマンふうの男性が看護師に押されて前方の角を曲がっていった。膝のうえにバッグを抱えて背を丸めたスーツ姿は、彼女の言う通り歩けないほど具合の悪い人なのだろう。
彼女が小さな窓口に診察券を提示すると、すぐに中に入るよう指示が出た。
廊下に設けられた背のないベンチのような椅子に座り、絢斗はぼんやりしていた。病院という特異な空間に圧倒される。巨大な何かにのみ込まれたような感覚がいつまで経っても抜けない。学校と似たような施設なのに、内包する空気はまるで違う。
しばらくすると硬い表情の彼女が出てきた。
「このあと皮膚の採取なんだけど、」
絢斗の隣に浅く腰掛けた彼女が瞳を揺らす。
「ついてよっか?」
「いい?」
「いいよ」
「ごめん、今まで一人でも平気だったんだけど……」
彼女自身も困惑しているような口振りだった。
「頼られて悪い気はしないから」
はっとしたように絢斗をまじまじと見た彼女がふっと表情を緩めて目の奥で笑った。
「ありがと」
絢斗は猛烈な怒りを必死に抑え込んでいた。
麻酔が効かない──いつかの彼女の声が蘇る。剥き出しの白い足、腰にかけられたバスタオル、煌々と照らされた手術台に横臥する彼女。その太ももの内側にメスが入る。タオルを噛みしめる彼女の手を絢斗はただ握っていることしかできなかった。
真っ赤な傷口があっという間にピンク色の盛り上がった皮膚へと変化し、色が褪めるように周りの皮膚と同化していく。その様子が看護師によって撮影されていた。菱形に切り撮られた彼女の皮膚は保存液に入れられてどこかに持ち去られた。
医師も看護師も平然としていた。呻きを噛み殺す彼女は必死に平然を装っていた。
こんなことを検査の度にされているのかと思うと、絢斗は気が狂いそうだった。
「結城さん、熱が収まるまでこのまま休んでいいからね。今日はこのまま帰って大丈夫だから」
休んでいいから──。大丈夫だから──。
何が? 絢斗は叫び出しそうになるのを必死に堪えた。診察券を枕元に置いた看護師に「はい」と殊勝に答える戀がいじらしかった。こんなところに一秒だって居させたくなかった。
「触るよ」
断ってから、すっかり元に戻った彼女の太ももに絢斗は手のひらを当てた。触れた瞬間、彼女が大袈裟なほどびくっと全身を震わせる。とんでもなく熱かった。手のひらから伝わる熱がどれほどの痛みだったかを訴えているようで、絢斗はぐっと歯を食い縛った。
「冷たくて気持ちいい」
照明が落とされた仄暗い空間に吐息のような彼女の声だけが小さく響いた。
「ごめんね」
「謝るな。こんなこと、あの人たちは知ってるのか?」
小さく頷く蒼白の彼女が口の端を少し上げた。
「笑おうとしなくていいから」
「だって、怒ってる」
「怒るだろ。俺よりも結城が怒れよ。俺のことだってもっと怒れ」
「でも、調べて解明してもらわないと治らないから。それに、三井くんのことは自分でわかっててやったことだから」
「そうだけど! そうかもしれないけど!」
低く抑えた声が喉の奥から呻くように出た。
「次もついてくるから」
「もうついてこないって言われるかと思った」
そう言ってほしかったのだろう。熱に潤んだ目の中に少しの落胆が滲んでいた。こんな姿を誰にも見られたくないのかもしれない。あの過保護な男たちがこの場にいないことがその証明のようで、絢斗は不覚にも泣き出してしまいそうだった。
「三井くんは、グロいのも痛いのもダメでしょ」
「なんで知ってんの?」
「雑賀くんが読んでるマンガ、いつも物凄く嫌そうな顔で目を逸らしてるから」
見られていたのかと思うと情けない気もする。
絢斗はとにかく血が苦手だ。たとえマンガであっても、それが血であるという前提で描かれた黒いインクの染みが目について離れなくなる。特に何かトラウマがあるわけでもないから単にそういう性質なのだろう。
「だから、好きになれそうって思ったの」
どんな理由だ。そこは平然と読んでいる海音を好きになるところじゃないのか。腑に落ちない思いで絢斗は訊いた。
「好きになれた?」
「頼りたいって思うくらいには」
ゆっくりと時間をかけて気を緩めるように彼女は笑った。すとん、と絢斗の胸に何かが落ちてきた。
「俺も、頼られたいと思うくらいには」
守りたいと思うくらいには。