夜も昼も
降っても晴れても
04 絢斗、焦れる降っても晴れても
絢斗はじりじりしながら月曜を待った。
結城 戀と連絡先の交換をし忘れた自分の迂闊さに苛立ち、いくら近所だったことが判明したとはいえ試験直前の週末にいきなり押しかけるわけにもいかず、海音に彼女の連絡先を訊けば、件のヘアメイクの連絡先なら知ってるけど、と返されたことで苛立ちが増しただけだった。
いつもより早く目覚めた月曜の朝。その勢いのまま早めに登校するのもなんとなく癪で、わけもなく苛々しながら不倫騒動に沸く情報番組を横目にのろのろとトーストとゆで卵の簡素な朝食をとり、普段悩まない服装を悶々と悩み、こういうときに制服がある学校はいいなと愚痴をこぼしながら結局いつものカーゴパンツとパーカーを引っ掴んだ。
試験を控えた学校は張り詰めた空気に満ちている。普段は開けっぴろげのざわめきがこのときばかりはひそめいている。
絢斗が教室に入るなり試験直前の緊張とは別の不穏な空気に動きが止まった。クラス中の視線が一斉に絢斗に集注する。何事かと室内を見渡し、窓際から二列目の最後列に座るどう見ても発熱中の結城 戀に視線が釘付けられた。
彼女の家でのやりとりから察するに、彼女が発熱するのは何かしら躰に傷を負ったときだ。
「なにがあった?」
急ぎ彼女のそばに行くと、熱で微かに目元を潤ませた彼女が差し出してきたのは、あの女に奪われたオーナメントだった。
彼女は表情を動かすことなく目にしてやったりの笑みを含ませている。絢斗はそんな彼女に少し呆れながら彼女のおでこに手を当てると、やはり熱の気配が残っていた。
「保健室いく?」
熱を確かめるために触れた彼女のおでこは、絢斗の想像通り心地好い感触を手のひらに伝えてきた。
「このくらいは平気。それより、ちょっと恥ずかしい」
無意識におでこから頬へと手のひらを滑らせ、親指の腹で目元の感触を確認していたようで、恥ずかしいと言いつつ恥ずかしがっているようには見えない彼女からの抗議に、絢斗は「あ、悪い」と手を離した。
目を伏せた彼女の形を確かめたくなる耳だけが赤く染まっていた。
「間に合った!」
駆け込んできた海音の声と、担任の「ほらみんな席に着けー」という間延びした声が重なり、何があったかわからないまま、絢斗は渡されたオーナメントを握り潰してゴミ箱に放り込み、自席に着いた。
終了まで二十分以上残して、結城は早々に解答用紙を提出して途中退出した。どこに行ったのかもわからないまま、次の試験開始まで彼女が戻ってくることはなかった。
次の教科でもやはり早々に途中退出する。そして、教室に戻ってくるのは開始直前。これまでもそうだったのか、今回に限ってなのかがこれまで彼女に注目してこなかった絢斗にはわからない。
休み時間に何があったか聞き出したかった絢斗は、結局その日の試験終了まで焦らされた。
それでも、黒田が一方的に語ったところによると、彼女があの女にオーナメントを返すよう迫り、あの女が突っぱね、難癖を付けられても引かなかった彼女があの女に何かを囁いた直後、激昂したあの女から思いっきりビンタを食らい、オーナメントを顔面に投げ付けられたらしい。
黒田曰く、結城を怒らすとヤバイ、だそうだ。怒鳴られようがビンタされようがオーナメントを投げ付けられようが、動じることなく淡々と自分の要求を押し通した彼女は、あまりに静かすぎて逆に怖かったらしい。
「でも、怒りの炎に包まれた彼女は壮絶にきれいだった」
お前はどこの詩人だ、とツッコミたくなるフレーズを臆面もなく言い放った黒田は、ああいうのを美人って言うんだな、と宙を見つめて嘆息していた。
試験期間中の午後は放課となる。
本日最後の試験終了のチャイムと共に、結城が教室に戻ってきた。絢斗が慌てて鞄に荷物を詰め込んでいると、彼女の方から絢斗の席にやって来た。
「うち来る?」
潜められた声につられるように絢斗も声を潜める。
「行く」
「充くんが三井くんの分もお昼用意してくれてるって」
「いいの?」
「よくわかんないけど、高校生の恋愛は一緒に勉強することこそが醍醐味だって言い張ってた」
「なんだそれ」
「さあ。充くんはそうだったんじゃない?」
件のやたらと渋いヘアメイクの高校時代を想像できず、まじまじと結城の顔を見ていると、帰り支度を済ませた海音が会話に加わる。
「結城、ミツさんなんか言ってた?」
「むかついたーって高級和牛買ってきた。おかげで久しぶりにすき焼き食べた」
「あー……金曜のは急に入った仕事でさ、無理言ってスケジュール空けてもらったんだよ」
絢斗は教室中の視線を感じながらも気付かない振りをして、興味本位の視線から彼女を庇うように海音ともに教室を出た。何故かそのあとに黒田が続き、さらにそのあとに比較的結城とよく話す女子三人が続いた。
他愛ない話をしながらぞろぞろと校門を出て、今にも降り出しそうな曇天の中、じゃ、と三方向に分かれる。絢斗たちとしばらく一緒だった女子のうちの一人が、別れ際に「気を付けてね」とやけに真剣な目で手を振った。
「気を付けるって?」
「ああ、細川さん、わたしは同じクラスになったことがなかったから知らなかったんだけど、中等部の時に割とえげつないイジメをしてたみたいで、太田さんも一時その対象にされてたみたい。高等部に来てからはそういうことも少なくなったというか、その対象が三井くんになったというか……」
下からちろっと見上げられて、絢斗は溜め息をつく。
「あれってイジメだったのか」
「なんだと思ってたの?」
「嫌がらせ」
「似たようなもんじゃない?」
「黒田は好きな子をいじめる小学生よりタチが悪いって言ってたな」
「いい年して好きな人が嫌がるようなことはしないでしょ」
「精神レベルが小学生なんだろ」
「好かれてるんだ?」
「何度か言われた」
うわー、と顔をしかめた結城が「ご愁傷様」と心底哀れんだ目をした。
自意識過剰だと言われても仕方がないが、見てくれに恵まれたおかげで絢斗は昔から女子にモテた。好かれて悪い気はしない、と言いたいところだが、女子に好かれることで発生する弊害の方が大きくて今のところ見てくれの良さで得をしたことはない。おそらく彼女も似たようなものだろう。同性の嫉妬はイジメに直結する。
「結城は? なんで俺だった?」
「ああ、雑賀くんに言われたからっていうのもあるんだけど、ちゃんと自分を持ってるドライな人だったから」
ドライな人、確かに絢斗はそういうところがある。他人にあまり興味がなく、おまけに共感しづらいとでも言えばいいのか、自分のスタンスが崩れることをとにかく嫌う。海音も同じタイプなので一緒にいて苦にならない。
「あとはやっぱり見た目。全体の雰囲気とか、言葉遣いや立ち振る舞いに不快感がなかったから」
見た目かあ、と絢斗は呟いた。
「見た目よりも内面って言う人もいるけど、内面って表情とか言動に滲み出ると思わない?」
「まあな」
思い浮かべたのは黒田だった。うるさいくらいの黒田が絢斗は最初苦手だった。噂好きで情報通を豪語する黒田が、実は根拠のない噂は信じなかったり、でたらめな噂はきっちり否定していることを知り、見方が変わった。それほど背は高くないが骨太の躰は柔道で鍛えているらしく、礼節を重んじ不用意に内面に踏み込んでくることもない。海音の次に仲がいい人は? と訊かれたら、絢斗は黒田の名前を上げるだろう。
「三井くんは? どうしてわたしの企みに付き合う気になったの?」
企み、と口にする彼女はどことなく楽しそうだ。
「ああ、結城が熱で倒れたとき、俺の手首掴んでただろう」
「あっ、あれ痛かったよね、ごめんね」
「あ、いや、そうじゃなくて──」
あの日、みんながパニックになる切っ掛けを作ったのはあの女の悲鳴と、教室を飛び出していった黒田だったらしい。黒田は真っ先に保健室に向かった。廊下を走りながら海音にメッセージを送り、養護の森を連れてきた。二人が人混みを掻き分けて教室に到着する直前に彼女の躰から力が抜け、咄嗟に支えた絢斗からその躰を引き受けてくれたのが森だった。森が絢斗に事情を聞き出し、教師たちの糾弾を一喝し、彼女を抱え上げて手首を掴まれた絢斗ごと保健室に連れて行った。
「言われてみればそうだったかも。三井くんがすぐそばにいたことはちゃんと覚えてたんだけど、誰に運ばれたかまでは覚えてなかった」
「で、結城の手が離れなかったおかげで俺も一緒に保健室に行くことになって、あの場から脱出できたんだよ」
あとで聞いたところによると、黒田が絢斗のカッターを拾い、刃も出てなければ血痕もないことをでかい声で叫び、パニックは沈静化したらしい。にもかかわらず、黒田は海音に訂正のメッセージを送り忘れていたのだから、それなりに取り乱していたのだろう。
「あのとき、結城の手の甲の感触がやたらとよくて、もっと触ってみたいって思ったんだよ」
思い出したら触れたくなった。そこでようやく絢斗は自分が今朝まで何に苛々していたのかを悟った。一刻も早く確かめたかったのだ。興奮した状態ではなく、冷静に、あの触り心地を。今朝触れた彼女のおでこと頬の感触が指先に蘇る。
ふと視線を感じてすぐ隣を見下ろすと、結城の引いた顔があった。
「三井くんって、そういういやらしいこと真顔で言うんだね」
「ちがっ! エロい意味じゃなくて! 俺が求める質感っていうか、」
言い繕う絢斗に、うわあ、と結城が目を細めた。
「違う、だからエロい意味じゃない! 木の手触りってあるだろ、その感触のことで、だから! エロい意味じゃない!」
「三井くん、そんなに大きな声で何度もエロいって叫ばなくても……」
絢斗は慌てて周囲を見渡した。幸い会話の内容が聞こえるほど近くに人はいない。ただし、少し離れた位置にいるおそらく同じ高校の生徒たちと目が合った。興味と鬱陶しさを綯い交ぜにした不躾な視線が突き刺さり、いつになく騒ぎ立てた自分を呪う。
「結城といると調子狂う」
「新しい自分が発見できてよかったね」
「本当いい性格してんな」
「ありがとう」
悪戯な目をした彼女の飾り気のない唇が弧を描いた。自然の唇の色はこんなにも鮮やかだったかと一瞬絢斗は目を奪われた。
「褒めてない。まあでも、結城の腹見たときに触りたいと思ったのはエロい意味じゃなかったとは言わない」
惘れたように笑う結城は、教室にいたときよりも明らかに肩の力が抜けていた。
「で?」
「ん? でって?」
結城が小首を傾げる。絢斗は初めて彼女の左右非対称を見た。そのわずかな首の角度はあっという間に修正されてしまう。横を向いて話しかけられていたのだから、その瞬間も左右非対称だったはずなのに、どういうわけか面と向かって話している気になる。今の小首を傾げる仕草だけがやけに絢斗の脳裡に焼き付いた。
「三井くん?」
「ああ、そういえば、何言ってビンタされた?」
「あーうん、たいしたことじゃないんだけど、ついね、気付いちゃって」
彼女はそのまま言葉を濁して、何を言ったかを教えてくれることはなく、吹き抜けた冷たい風に「さむっ」とピーコートの上に巻いた柔らかそうなマフラーを鼻まで引き上げた。
結城家の玄関に足を踏み入れた途端、暖かな空気に包まれた。
「おじゃまします!」
二階に向かって声を張り上げた絢斗に、彼女は「誰もいないよ」と何でもなさそうに言った。
「また? あの充さんって人、何も言わなかった?」
「何を言うの? このダウンおしゃれだね」
玄関でダウンジャケットを脱ぐと、当たり前のように彼女の手が伸びて丁寧にハンガーに掛けられると、玄関に備え付けられている来客用のクローゼットにしまわれた。
「ああ、海音から回ってきた。プライベートでも去年と同じ服は着るなって言われてるらしくて。体格が似てるから割と回ってくる」
感心しているのかどうでもいいのか判断のつかない、へーえ、を発した彼女に、絢斗は「そんなことどうでもよくて、」と話を戻す。
「誰もいない家に男と二人って、こないだも言ってただろう」
「でも、三井くん彼氏でしょ」
「結城、彼氏って言葉に抑止力はない。むしろ助長する」
「三井くんもそういうこと考えるんだね」
やたらと感心した言い方に、絢斗は眉を寄せる。
「結城って、今まで男と付き合ったことある?」
「ない。好きになったこともないから、好きになりたいって思って」
それであの提案なのか。絢斗は嘆息しながらもう一度「おじゃまします」と今度は目の前に彼女に向かって言った。
彼女に選ばれたことを喜べばいいのか、すでに振り回されていることを嘆けばいいのかわからないまま、彼女が用意するまでもなく、すでに玄関に並べられていた先日と同じ来客用のスリッパに、これは間違いなくあの充というヘアメイクの牽制だということだけはわかった。