夜も昼も
降っても晴れても
20 絢斗、奇跡を抱きしめる


 夏休みに絢斗の運転で海に行こうという計画は、戀が参加しないことであっさりボツになった。
「ごめん。わたしは平気なんだけど、車での遠出は保護者二人が嫌がると思うから」
 一瞬、昼休みの秘密基地に静寂が過ぎる。戀が、あ、天使が通った、と小さく呟いた。
「結城が行かないなら当然絢斗も行かないよな」
「だよね。結城さんのいない場所に三井くんが行くわけないもん」
 黒田と今井の勝手なやりとりに、太田が作ったような神妙さで頷いている。間違ってはいないので絢斗も否定しない。
「電車で行く?」
 とは、太田の提案だ。
「あ、それなら行こうかな」
 戀の承諾に絢斗は眉を寄せる。
「却下。黒田お前、今井の半裸を人目にさらしていいのか?」
「半裸……」
 女子三人の声がかぶった。
 真顔で考え込んだ黒田が口を開きかけるより先に、戀がぼそっと言った。
「三井くんの半裸も人目にさらされるのか……」
「それは嫌かも」
 今井が頷いている。隣で黒田が唖然とした顔で今井を見た。
「俺、男だけど」
 黒田の呻くような声に太田が答える。
「男子の着替えを盗撮する女子もいるの。こないだの体育の授業の前に注意されたくらいだから、男子更衣室の盗撮」
「嘘だろ?」
 驚く黒田に今度は今井が答える。
「本当。男子には注意行ってないの? 珍しいね、黒田くんが後れを取るって」
「あー、それで使用時に窓とドアを開けっ放しにするなって言われたのか」
 絢斗も思わず戀を見た。戀が無言で頷いている。
「あっ、海音か」
 何かが結びついた黒田は、途端に顔をしかめた。
「そういうこと」と太田が溜め息混じりに言った。「最近彼のファンえげつないから、在校生に接触して盗撮依頼してくるみたい」
「さすがに海音の耳に入れたくないなあ」
「もう知ってると思うよ。学校だけじゃないだろうし」
「俺なら人間不信になりそう」
 黒田のぼやきに全員が顔を見合わせる。
「人目につかない場所って、うちの工房くらいか」
「私、一度行ってみたいと思ってたんだよね」
「うちにキャンプ道具一式あるよ。宅配便で送るか」
「バーベキューの材料は用意できるから。なんならバリスタも派遣する」
「雑賀くんの予定は充くんに聞けばわかると思う」
「いたわってやるか」
 一致団結した。



「涼しー」
 からっと晴れた夏日。
「俺本物のカッコウの声初めて聞いた」
 木洩れ日の中にまず顔をみせたのは、カッコーの鳴き声に感動しつつもむすっとした黒田と苦笑いの今井だ。朝一番の電車に乗ったらしい。前日には黒田からキャンプ道具一式が宅配便で届いている。中に着替えも入っているのか、二人はほぼ手ぶらでやって来た。ただし、その背後にやたらとテンションの高い黒田の兄を連れて。
 確か黒田の兄も警察官だったはずだ。きびきびした仕草で挨拶したあと、早速とばかりにテントを張り始めた。黒田家のキャンプセットの管理をしているのがこの兄だそうで、貸して、と言ったら、私も行きます、と至極当然のように返されたのだとか。キャンプバカの兄とデートを邪魔された弟の仲は、文句を言いつつも一緒に来るくらいなので悪くはないのだろう。

「本当涼しい」
 昼前に到着したのは今野の運転でやって来た太田だ。太田の彼氏の今野は「お世話になります」と丁寧に頭を下げた。スポーティーなコンパクトカーから次々取り出されるクーラーボックスの中には、バーベキュー用の肉や野菜の他に今日のランチにとサンドイッチがぎっしり詰まっていた。

 二日前には絢斗の兄が、前日には絢斗の父もやって来た。
 絢斗の兄はこの夏以降、家賃の節約を兼ねて絢斗の家に住むことになる。父は兄が頼ってくれたことが嬉しいのか、ここ最近はとにかく機嫌がいい。

「戀は絢斗のどこがいいんだろうなあ」
 遅れて到着した充は海音とそのマネージャー、青い顔をした幸太を連れてタクシーで来た。駅で一悶着あったらしく、レンタサイクルで行くと言い張る幸太を無理矢理タクシーに押し込んだのは海音だったらしい。絢斗は到着直後の幸太の大人気ない八つ当たりを甘受した。
「なんですか、その言い方」
 しみじみ絢斗の顔を眺める充は、ビール片手に少し酔っているようだ。絢斗は戀から幸太も充も家ではほとんど飲まないと聞いている。
 昼過ぎにバリスタ今野が足りない物を買い出しに行くついでに、同乗した絢斗の父がビールを一ケース買ってきたのだ。発泡酒ではないことを喜ぶ絢斗の兄と黒田の兄に、父は満更でもない顔をしていた。親のドヤ顔は見るに堪えない。
「いやだってさ、戀は吟味に吟味を重ねて絢斗を選んだんだよ」
「そうなんですか?」
「そうだと思うよ。あの子、そういう打算的なところがあるから」
「まあ、他人を煙に巻くのは巧いと思いますけど……」
 庭というよりはただの空き地に、かなり大きなテントが張られ、パラソルやバーベキューセット、ガーデンテーブルなど様々なものが広げられている。なぜか子供用のビニールプールまであり、海音が足を突っ込んで涼を取っている。あちこちで焚かれている業務用の虫除け線香の臭いにも勝る今野特製ダレの香ばしさが食欲をそそる。
 普段は草木の緑と土の茶色、空の青くらいしか色のない場所のせいか、視界に色が溢れて目映い。
「でも、心底好きなんだろうなあ、絢斗のこと。あんなふうに笑う戀、僕見たことないもん」
「僕のものですからね」
 戀は用があって家の中に戻るときに必ず絢斗に声をかけていく。そのたびに、ふと安心しきった笑顔を見せるのだ。充はそれを目にしたらしい。
「あーあ、子供の頃は充くんのお嫁さんになるーって言ってたのに」
「いい大人が子供の戯言真に受けないでくださいよ」
「あーあ、僕ってばお兄さんポジのはずだったのに、いつの間にかお父さんポジになっちゃってるし」
 不満そうな口振りとは裏腹に、充の目に溢れているのは幸福感だ。
「僕ではお父さんにはなれませんから。そこは譲りますよ」
「本当に、お前のどこがよかったんだろうなあ」
「こういうことじゃないですか?」
 新しいボックスティッシュを手に戻って来た戀が、充くん、飲み過ぎないでよ、と釘を刺してバーベキューの輪に加わった。隣の幸太がティッシュに手を伸ばす。珍しく海音が積極的に人の輪に加わっている。
「幸太も、吹っ切れた顔するようになった」
「そうなんですか?」
「墓参りに行ったあとかな、戀から預かってた婚姻届の証人欄にサインしたんだよ」
 絢斗の誕生日に戀から預かった婚姻届に、絢斗の父は早々に署名している。証人は二名。戀は幸太か充のどちらに頼むかでしばらく悶々と悩んでいた。
 婚姻届はまだ出さない。戀の数値に変化が出たら、と二人で決めた。戀はこの先も変わらず、今のままの生活を望んでいる。
「充さんは行かなかったんですか? 墓参り」
「あれは家族だけの儀式だから」
「戀が、充さんにも来てほしいって言ってましたよ。充くんも家族なのにって」
 うっ、と言葉に詰まった充の目にみるみる涙が溜まっていく。
「充さんが行かないと、僕が行きづらいじゃないですか」
 充の目からすっと涙が引いた。
「本当に、お前のどこがいいんだよ」
「だから、こういうことですよ、きっと」
「二人とも、お肉食べないとなくなっちゃうよ」
 戀の手には肉と野菜がほどよく盛られた皿が二つ。その後ろに同じようにふた皿持った幸太が珍しく素の表情で笑っている。
「高原野菜って美味いんだね」
「ああ、太田たち道の駅に寄ってきたみたいですね。あそこにはその日採れた野菜が並ぶんですよ。今野さんが仕入れたいって言ってたくらいですから」
「ここは静かでいいな。水も空気もうまいし、ココはかわいい」
 暮れゆく空を見上げた幸太は、だいぶ古くなったガーデンテーブルに皿を置くとしっかりとした足取りでビールを取りに行った。
「もしかして幸太さん、酔ってるように見えないけど酔ってます?」
「酔ってるね。意味もなくココかわいいが出るときは大抵酔ってるよ」
 充が楽しそうに笑う。幸太の背中に「僕もビールおかわりー」とオーダーを投げ付けた。
「充くんって、一度座ると本当に動かないよね」
「その分幸太が動くだろ」
 割り箸を取ってきた戀の文句に充はむっと言い返しながらもどこか嬉しそうだ。
「やべー! 俺すげー楽しい!」
 海音が開けっぴろげに笑いながら思いっきり叫んでいる。
「海音、ここ最近心配なほどストレスため込んでたんだよ」
「発散できてるようですね」
「前に二人でここに来たとき、別の意味で心配になるほどぼんやりしてたからさ」
「ああ、それが通常の海音ですよ。あいつ、本当に気を抜いてるときほどぼけーっとしてますから」
「ってことは、僕らは海音の気を張ったとこしか見てなかったのか」
「ぼーっとさせてやってください。海音の場合はぼんやりするのが一番のストレス解消ですから」
「絢斗って、海音の友達なんだな」
「今更なに言ってんすか」
「海音の友達で満足しとけよ」
「しつこいですね。戀は僕のものだって言ってるじゃないですか」
「充くんって絡み酒なんだね。ちょっとやだ」
 うわーっとばかりに目を細める戀のひと言にショックを受けた充は、今度は海音のマネージャーに絡みに行った。
 絢斗の兄と黒田の兄が兄同士仲良くなっている。絢斗の父は今野からコーヒーの淹れ方についてレクチャーされている。きっともうすぐみんなにコーヒーが振る舞われるだろう。黒田と今井、太田と海音は手持ち花火の支度を始めた。
 明日の夜は近くで打ち上げ花火が上がる。女子たちは浴衣を着るつもりらしく、三人でこそこそ相談し合っていた。充に教わった着付けのあと、今井は充の実家で浴衣を仕立てている。それまでのバイト代の全てを注ぎ込んだらしく、絢斗にまで自慢していた。
「快人くんも来られたらよかったのに」
「サマーキャンプと重なったからなあ。快人は俺たちよりも新しい生活を優先する方がいいんだよ」
 絢斗が海音や黒田と出会ったように、快人にも快人自身を理解してくれる仲間に出会えるといい。
「また来年もこうしてみんなで笑えたらいいね」
「俺は戀と二人で笑い合えてたらそれでいいよ」
「でも、絢斗のお父さんもお兄さんも楽しそうだよ?」
 真剣な表情でドリップケトルをかたむけている父を兄が笑顔でからかっている。
「あの二人仲いいんだよ。時々待ち合わせて飲みに行ってるっぽいし」
「お父さんとられて淋しい?」
「戀がいるから淋しくない」
「お兄さんも一緒に住むんでしょ?」
「俺の部屋半分とられちゃうんだよ。俺戀の家に引っ越そうかな」
「ダメ。泊まりに来てもいいけど、卒業まではお互い親孝行しないとね」
「卒業したらいいの?」
「幸ちゃんと充くんがいいって言ったら」
「あの二人がいいって言うわけないだろ」
「そこはほら、ドラマみたいに何度もお願いしないと」
「お嬢さんを僕にくださいって?」
「充くん喜びそう」
 戀がけらけらと笑う。軽やかに、楽しそうに。
「戀、好きだよ」
 笑顔を引っ込めた戀が大きく目を見張った。
「絢斗って、そういうこと言わない人なのかと思ってた」
「言ったことなかったっけ?」
「ないよ。一度もない」
「言われてみれば、戀からも言われたことないよね」
「だって、言ってくれないから、わたしも言いたくなかったんだもん」
 戀は甘やかに拗ねた顔をみせる。
「なんだよそれ。意地っ張りめ」
「それに、それ以上の言葉をたくさんもらってたから」
「最初は引いてたくせに」
「今だって、わたしよりわたしのサイズ把握してるのはかなり引くけど、でもね」
 ふふっ、と大切なものを隠すように戀は笑った。

 夜が更け、みんなが思い思いの場所で微睡み始めた頃、戀と二人で散歩に出た。虫除けを焚き、熊除けの鈴を鳴らしながらのんびり歩く。
「本当に星がすごい。どれほど見ても見慣れないくらい、星がすごい」
「今日は月がないからいつもよりすごいなあ。落ちてきそうだ」
「雪みたいに?」
「そう。まだうちが一般的な家族だった頃に一度来たことがあるんだ」
 ここは夜の気配が濃い。人工の灯りの一切ない闇を、星明かりを頼りに影を歩く。夜露に濡れる大地が足音をしっとり隠す。
「一般的?」
「一般的な家族の形態。俺、今の方が自然な感じがしてるから」
「そっか」
「戀のとこは幸太さんが兄貴だよな。充さんが父親」
「一般的には幸ちゃんが父親になるはずなのにね。なんか充くんの方がお父さんって感じ」
 充くん嫌がりそう、と戀は笑う。嫌がるどころか泣いて喜ぶよ、と絢斗も笑う。
「子供の頃、兄貴と二人で天体観測しながら、なんで星が落ちてこないのか不思議だった」
「本当に、落ちてきそう」
 目を細めて満天の空に手を伸ばす戀にキスをする。
「ご褒美みたい」
「キスが?」
「星が」
 悪戯な目で見上げてくる戀は、星明かりに照らされてきれいだった。彼女を背後から抱きしめ、絢斗も満天を仰ぐ。本当に、手が届けばいいのに。
「好きだよ」
 戀にしか言わない言葉。
「わたしも。大好き」
 絢斗は、夜空を見上げる戀の瞳の輝きを目に焼き付けた。
「奇跡みたい」
「星が?」
「絢斗が」
 戀は、長く生きられない。絢斗は戀の病気のことをもっとずっと簡単に考えていた。本音を言えば、楽観視さえしていた。
「わたし、一年くらい色んな人を観察してたの」
「吟味に吟味を重ねた?」
「なにそれ。なんか充くんぽい言い方」
「充さんが言ったんだよ。なんで戀はお前だったんだろうなって」
「絢斗を見ているときだけ、なんとなく何かが違うような気がして。だから」
「自分の勘を信じてみようと思った?」
「わたしの勘というよりも、絢斗のすべてを信じてみようと思った。信じられるような気がしたから……」
 奇跡は長く続かない。だから、奇跡なのだ。
「幸せになったのは俺の方だよ。一生の幸せを手に入れた」
「短い一生だけどね」
 どこかでフクロウが鳴いている。
「長さは関係ない。俺は、生涯戀のすべてを覚えてるから」
 振り向いた戀の不意打ちのキス。精一杯背伸びして、軽く飛び跳ねるように、すべてを絢斗に委ねてくる。
 耐えきれないほどの幸福感。
「わたしも幸せ。きっと最後まで幸せ」
 笑顔で抱きついてくる戀を、絢斗はきつく、つよく、抱きしめた。